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黎明の風に告ぐ ~刑事ハル&レイ~  作者: 早川みつき
【chapter3】猫とトカゲのゲーム
15/37

(1)

「ハル、遅~いっ! もう少しでGPSで追跡しちゃうとこだったよ」

 エイミーは勝手知ったる他人の家といったふうに、ためらいもなくキッチンの冷蔵庫を開けてコーラのボトルを出した。ディックはすでにリビングのソファにひっくり返っていびきをかいている。

「GPS使うのは反則だろ。ストーカーかよ」

 ハルがビールの十二本パックをエイミーに差し出し、代わりにコーラを受け取る。

「先輩は飲まないんですか? ぼくの歓迎会ですよ」

 レイはエイミーの手のパックから缶を一本抜きとり、その場でプルタブを引いた。揺られてきたせいか盛大に中身が飛び出してきて、あわてて飲み口に唇を寄せる。

「俺は飲めないんだ」

 弁解するように、ハルが言う。

「へえ? 底なしにイケそうに見えますけど。人は見かけによらないな」

 嫌味っぽく返し、レイはふたりに背を向けて歩きだした。

 ディックが寝ているソファをよけた拍子に、桜材の飾り棚にぶつかりそうになる。あやういところでよけたが、置かれていた鉱物標本に肘が触れていくつか倒してしまった。どうやらディックは鉱物コレクターらしい。レイは、ディックが目を覚まさなかったのを確かめてから、そっと標本を元に戻した。幸い壊れてはいないようだ。

 棚には、ごつごつした岩に美しい真紅の結晶が花のようについているものや、水晶と思われる透明な石柱のなかに鮮やかなミントグリーンの山が浮き出して見えるもの、全体がモスグリーンで波状の突起で全体が覆われたものなど、さまざまな標本が置いてある。

 なかなかきれいだな、とビール缶を片手に眺めつつ、ディックが寝てしまっていることに密かに感謝する。起きていれば、すべての標本について丁寧かつ長ったらしい講釈が始まるのは予想できた。

 ふと、その脇に置かれたフォトフレームに目がとまった。ディックと、野球のユニフォームを着た少年の写真だ。レイは、大柄な体でソファを占領している先輩捜査官を見下ろした。訊かなくても、ディックが離婚し、親権が元妻のほうにあることは察せられた。

 人にはそれぞれ、歩んできた道がある。

 レイはリビングを横切り、網戸を開けてテラスに出た。夏の夜は虫がとくに多くていやなのだが、酔っているときはあまり気にならない。

 ディックの家は郊外のこぢんまりとした一軒家で、周囲は閑静な住宅街だ。ジャスミンの生け垣に囲まれた庭は芝生が張られ、木製のデッキチェアが二脚とガーデンテーブルが置かれている。

 煉瓦敷きのテラスを突っ切り、芝生に入る。デッキチェアにどかりと腰を下ろし、傾斜のゆるい背もたれに体を預ける。ハルが買ってきたビールはよく冷えていた。この近所のコンビニかどこかで仕入れたのだろう。さっきまで飲んでいたものと違って香料がきつく、渋い苦みがある。缶をよく見ると、東南アジアの製品だった。

 こんなところもハルとは合わないと、レイは顔をしかめる。ビールは北米産に限る。

 背後のリビングから、ハルとエイミーの会話が聞こえてくる。

「ピザは残ってないのか」

「当ったり前でしょ~。何時だと思ってんの? いや、とっといてあげるつもりではいたんだけどさ。遅れてきた主任が津波のようにさらって帰ってった」

「マジか。主任、ダイエット中のはずだけどな」

「ストレスたまってんのよきっと。ほら、バージェス社の社長が死んじゃったじゃない? 社長の家とか調べたらもう真っ黒けっけでさ、主任のお父さんのスキャンダルも、じつは土地欲しさに社長がでっちあげたらしいって」

「……そりゃあ――」

「んで、軌道エレベーターの件もおじゃんになりそうなんだって。市庁の都市計画部は天地ひっくり返したような騒ぎになってるって話。誘致にむちゃくちゃお金かけたからね~。あたしたちの納めた血税、どーしてくれんのよって感じ?」

「誘致話がだめになったら、ハミルトン島はどうなるんだ? もう整地は始まってるんだろ?」

「どーなるんだろ。全面にヒマワリ植えてさ、ヒマワリ畑にするのはどう?」

「誰得だよ。行く物好きはおまえぐらいだぜ」

 軌道エレベーターの建設計画には父親も無関係ではないと、レイはビール缶を傾けながら考えた。グループ傘下の銀行のひとつが、工事を請け負う建設会社のひとつの大株主のはずだ。まあ、銀行がひとつつぶれたところで、父親は痛くもかゆくもないだろうが。

 本当なら、いまごろは父親と顔を突き合わせてまずい夕食をとっているはずだった。話があると言われ、実家に呼び出されていたのだ。重要な会議が入ったから行けないと電話で断りを入れるのには、ひとかけらの罪悪感もなかった。

 軌道エレベーター計画は、連邦主導の大プロジェクトだ。十万キロメートルに及ぶケーブルを宇宙空間に伸ばし、地上約三万六千キロメートルの静止軌道上にステーションを建設する。地表側のステーションは海上を移動可能な巨大フロートにして赤道付近に置く計画で、そのフロートの建設基地としてセントレア湾の沖合に浮かぶハミルトン島が選ばれたのだ。本土とは長い橋で結ばれており、人員や物資の輸送にも不都合はない。

 現在、地球の大気圏を脱出するには、推進力を化学燃料に頼るシャトルやロケットを使うしかない。しかし、軌道エレベーターなら電動のリフトをケーブルに伝わせて軌道域に運ぶことができ、宇宙への輸送コストは格段に下がる。連邦政府にとっては、人類のさらなる発展のために、この計画の成功が重要だった。

 それはともかく、巨額の金が動く大プロジェクトであれば、影でいろいろあるのは当然のこと。自然に恵まれたハミルトン島を守れと島民や環境保護団体が反対に回り、島の大地主で市議会議員でもあったアーケイディア・バロウズの父親も強く反対を主張していた。ところが秘書との浮気、さらには汚職をマスコミにすっぱ抜かれてあることないこと書き立てられ、苦悩の果てに一年ほど前に自殺したのだった。

 以来、誘致反対の活動は鳴りをひそめた。バージェス社はバロウズ議員の遺言によって市に寄贈されたハミルトン島の土地を巧みに手に入れ、軌道エレベーターのフロート建設基地誘致に成功した。

 いまのエイミーの話によると、そのバロウズ議員の死の原因となった浮気と汚職は根も葉もないでっちあげで、どうやらエドガー・バージェスによる罠だったらしいというのだ。娘のアーケイディアとしてはやりきれないだろう。ピザをやけ食いしたくなる気持ちもわかる。

 缶がからになり、レイは立ち上がって家のなかに戻った。リビングで立ち話をしているふたりの先輩の脇を通りすぎ、キッチンに行って冷蔵庫を開ける。変な味のビールしかないが、仕方ない。一本とって、中身が飛び出るから外で開けようと、またリビングを横切る途中でハルに腕をつかまれた。

「なんですか」

 かっとして手を振り払うと、一瞬、ハルはたじろいだように目を見開いた。

「……いや、なんでもない」

 ハルを黙らせてやった。レイは意地の悪い満足感をおぼえながらテラスへ足を向ける。後ろでひそひそとふたりが話すのが聞こえる。

「どーやら怒り上戸っぽいよね、レイって」

「人は見かけによらんな……」

「彼もいろいろたまってんでしょ、誰かさんのせいで」

「俺か?」

「ほかに誰がいるのよ。だいたいあんたは無神経すぎんのよ。新人くんなんだから、もう少し気をつかってあげなきゃ」

「んな必要ねーだろ。奴はエリートだし分署研修も済んでる。コーヒーおごってやっただけで十分だ」

 まあたしかに、変に気をつかわれたくはない。ヒヨコ扱いはいやだと言っておきながら、新人だから手加減してほしいと思うのは矛盾している。

 レイは芝生に出てデッキチェアに座り、缶のプルタブを慎重に引いて、噴き出してきた泡を口で受け止めた。デッキチェアにゆったりと身をあずけ、空を見上げる。

 ハリケーンが近づいているという予報だが、まだ空は晴れている。セントレアの中心街がある南の方角は薄明るく、今夜は満月でもあり、星はぽつぽつとしか見えない。軌道ステーションの光跡が見えるものなら探したいが、この明るさでは無駄だろう。

 まずいビールをちびちび飲みながら、事件をひとつまかされたのは信頼されているということなのかと、レイはぼんやりと考えた。いや、ハルに限ってそれはないだろう。とすれば、実力を見極めるための試験のようなものか。まだ現場の経験が足りないのは明らかなので、正直に言えば不安だ。けれども、それを認めたら負けのような気がした。

 猫か。猫は好きだが、事件で扱うのは別だ。しかもそれがクローン猫となればなおさらだ。おまけに署長が知人から受けたという案件で、資料がじつにいい加減なのが困る。

 クローン動物を作る研究所の所長が、作成したクローン体をめぐってクライアントから脅されているというのだが、脅迫の内容がそもそもわからない。脅迫の容疑者であるクライアントについての詳細もわからない。

 今日できたのは、クローン動物関係の法律の確認と、研究所の所長にアポイントメントをとることだけだった。電話で脅迫の内容を訊いたのだが、それは明日会ったときに話すと言われた。

 まったく、いやな予感しかしない。

 人の気配に気づき、レイは横を見た。

「飲みすぎじゃないのか、新人。明日はまだ水曜だぞ」

 コーラのボトルを手にして立つハルは、黒い服のせいで闇に溶けこんで見える。

「よけいなお世話ですよ。平気です、ぼくは酒に強いから」

「そうは見えないが」

「だいたいこのビールは味が変だ」

「話が繋がってないぞ」

「酔っぱらってない人に言われたくないな」

「酔っぱらいの自覚があるなら、そのへんでやめとけよ」

「うるさいな! あなたはぼくのことが嫌いなんでしょう? だから今日もお開きなる時間にしか来ないで、いやがらせみたいにまずいビールを持ってくる。もうほっといてください」

 理不尽なことを言っていると、自分でもわかっていた。それでもコントロールできないのが、ひどく酔っているという証拠だ。自己嫌悪にさいなまれながらも、謝ることはできず、ぷいと顔をそむける。

 ハルは無言で、ただ短くため息をついた。空を見上げてしばらく月を眺めてから、芝生の上に腰を下ろす。あぐらをかいて座り、コーラのボトルを口に運ぶ。

「……いい月だ」と、独り言のようにつぶやいた。

「月に行きたいって言ってましたよね」

 ふと気づくと、レイはそう尋ねていた。

「ああ……。十歳の頃かな、本気で月旅行の資金を貯金してたんだ。当時はルナホープの建設が佳境に入っていて、ニュースといえばそのことばかりだった。無重力の宇宙遊泳や、ムーンウォークを体験してみたくて」

「十五年以上前か。当時はまだビザも取りにくかったし、なにより運賃が高かったですよね」

「おまえなら問題なく行けただろう」

 ハルに金持ちだとほのめかされるのは二度目だ。だが今回は嫌味は感じられなかった。長年富豪一族の一員として暮らしていると、相手の金への考え方は態度でわかるようになる。ねたみや媚びをあからさまに示してくる者もいるが、ハルはただ、事実として裕福なことを指摘しているだけだった。

 よけいな感情が入っていないのは心地よかった。それは昨日から感じていて、だからこそ、おごってやると言われても素直に受け入れられた。そうでなければ、裏がありそうだと勘ぐって断っていただろう。

「まだクラークの家に引き取られる前で。自分が金持ちだなんて知らなかったんです。ルナホープのニュースを見ると、母はいつも、いつかふたりで行こうねって……」

『月ではみんな、ウサギみたいにぴょんぴょん跳べるのよ。楽しそうじゃない?』と言って、母親はにっこりする。『いまはまだ、ふつうの人はなかなか行けないけれど、レイが大きくなる頃には小学生だって遠足に行くくらい身近な場所になるわ。たぶんね』

 だったら母親とももうじき行けるのだと、まだ幼かったレイは単純に信じた。ロケットや軌道往還機の絵を描いては母親に見せ、月に行ったらなにをするか相談した。

「ウサギみたいに跳んで月を一周する。クレーターの底を探検して、宇宙人の船を見つける。ルナホープの公園を覆う高いガラスドームのてっぺんにのぼって、地球を眺めながら連邦賛歌を歌う……」

 自分は本当にひどく酔っているらしいと、レイは月を見ながら他人事のように考えた。ふだんなら絶対に口にしないプライベートなことを、なぜ昨日会ったばかりの男に話しているのか。

「どれひとつ、もう実現はしない。実家が裕福だともっと早く知ってたら、母が死ぬ前に一緒に月に行ってたのにって、いまでも悔しいですよ」

 そうか、とハルは言ったきり、慰めもせず、さらに深く訊くこともなかった。この人は根が優しいのかもしれないなとレイは考え、即座に否定した。ハルはただ、好きでもない人間のことを突っこんで知りたいとは思わないだけだ。

 ややあってハルの口から出てきたのは、意外な言葉だった。

「……俺たちは似てるんだな」

「どこがですか」

「母親と月に行けなかったところ。まあ、俺は弟と三人で行くつもりでいたんだが」

「弟さんがいるんですか」

 そう訊いてから、『俺は天涯孤独だ』とハルが言っていたのを思い出した。ということは、彼は父親もなんらかの事情でいないのだろう。

 レイがしまったという顔をすると、ハルは気にするなとでも言いたげに軽く肩をすくめた。

「どっちにしても、俺の稼ぎじゃ三人で月旅行なんてとうてい無理だ」

「……ひとりならなんとかなるでしょう」

「せっかく遠くに行くのにひとりじゃつまんないだろ? 旅ってのは誰かと一緒に……」

 気恥ずかしくなったらしく、ハルは勢いよくコーラをあおり、むせた。

 レイは苦笑を隠し、自分もビールを口に運んだ。

「今年、ルナホープに〝バードマン・ケージ〟ってアクティビティができたの、知ってます?」

「ああ、ガラスドームのなかを人工翼をつけて飛ぶやつだろう? ニュースで見たよ。あれは楽しそうだな」

 慣れないうちは飛ぶというより滑空になるのだが、薄い特殊アクリルの翼を背に装着し、自らの一部として羽ばたく感覚は、パラグライダーなどとは一線を画す。重力が地球の八分の一という月面ならではの遊びだ。

「はまるらしいですよ。上級者になると本当に鳥みたいに飛べるって。まあ、ただ旅行で行くだけだとそのレベルになるのは無理でしょうけど」

「軌道エレベーターができれば、もっと気軽に行けるのにな」

「建設計画によると完成は二十年後ですから、待ってられませんって。それにあの計画、スペースデブリの影響を甘く見過ぎてると思うし。営業開始まで三十年はかかるんじゃないかな」

 三十四万五千キロは遠いなと言って、ハルはまた月を見上げた。

「ですよね。こうしてみると近く見えるのに。満月のときはとくに大きいから、手を伸ばせば届きそうに思える」

 レイは缶を持っていないほうの手を月のほうにかざした。

「大きい、か」

 ハルがベルトから市警の身分証をはずし、裏ポケットに指を入れた。芝生にぽとりと銀色のものが落ちたのを、彼はさりげなく拾いあげてシャツの胸ポケットに落としこみ、もう一度ポケットに指を入れてなにかを取り出した。

「手を出せ」

 言われてレイが差し出したてのひらに、ハルは薄い円盤状のものを載せた。

「……なんですか、これ。なにかの部品?」

 くすんだ黄銅色の、直径二センチほどの金属板だった。中央には穴があり、表面に文字らしきものと絵が浮き出している。

「コインだよ。連邦共通通貨になる前に、日本で使われていた古い硬貨だ」

「日本って、極東の? なんでそんなものを持ってるんですか?」

「俺のばあさんが日本人のハーフだったんだ。お守りだと言って俺にくれた」

「お守り?」

「持ってるといいことがあるらしい。人によっては、だがね」

 レイはビールの缶を芝生に置いた。コインを指でつまみ、リビングからの明かりに照らしてしげしげと眺める。絵は稲科の植物のようだ。ひっくり返してみると、裏にも文字が書かれていた。これは日本語なのだろう。

「ふうん。昔は穴あきのコインなんてあったんですね。知らなかったな」

 ハルがレイの手からコインを取り上げて親指と人さし指ではさみ、穴から向こうが見えるように軽く掲げた。

「おまえ、月は大きいと言っただろう? このコインを持った手を伸ばして穴から月を見ると、ほぼ同じ大きさだって言ったら信じるか?」

 レイは笑った。

「ぼくがどれだけ酔っぱらってるか試そうっていうんですか? そんな小さな穴とあの月が同じ大きさなわけないじゃないですか」

 にやりとして、ハルはコインをレイに渡した。

「確かめてみろよ」

 本当に、月はコインの穴と同じ大きさだった。レイは信じられずに何度もコインをずらしては月に重ねてみたが、結果は変わらなかった。

「だまされてるみたいだ」

 コインをまたずらして、穴と月を見比べる。

 ハルがにやにやしながらレイの手からコインを取り上げ、身分証の裏ポケットに戻した。

「だまされてるのさ、おまえの目が。周囲の風景に惑わされて、真実を見極められなくなってるんだ」

「周囲の風景……」

 思いこみや偏見も、それに含まれるのだろうか。つまらない見栄やプライドも。レイは、立ち上がって身分証をベルトに戻すハルを見上げた。

 リビングのほうからディックの声がした。

「うお、すっかり眠っちまった! 主任は?」

「とっくに帰ったよ」とエイミーが答える。

「ハルは来たのか?」

「外でレイと話してる」

 ハルは家のなかへ手を振って、いま行くと声をかけた。デッキチェアのレイを見下ろし、くいと親指で家のほうを指す。

「先に戻ってるぞ。ビールは口に合わなくて悪かった。俺は飲まないから銘柄がよくわからないんだ。次は気をつける」

 遠ざかるハルの背中を見つめながら、レイは激しい自己嫌悪に駆られていた。自分はいったい、さっきハルになんと言ったのか。酔っぱらいなのにはっきり覚えているのが無性に腹立たしい。いっそもっと飲んで酔いつぶれ、記憶をなくしてしまおうかとさえ思う。そんな自分の卑怯な性根が情けなくて、また落ちこんだ。

 おまえは最低だ、レイ・クラーク。

「なにさまのつもりだ」

 てのひらで顔を覆ったまま、彼はしばらく動けずにいた。ようやく気を取り直し、ハルに謝る決意をして立ち上がる。そこで芝生の上の、さっきハルが座っていた場所になにかが落ちているのに気づいた。

 拾ってみると、折りたたまれた封筒だった。薄いブルーで、少し欠けた月をデザインしたシンボルマークと、〝ルナ・アスール〟のロゴが印刷されている。

 クリスチャン・キングのカジノの封筒だ。

 レイはリビングのほうに顔を向けた。ハルはディックやエイミーとなにか話しながら、部屋を片づけている。

 急激に酔いがさめ、胸の底に冷たいものが落ちた。ハルはここに来る前に、カジノで遊んでいたのか? カジノ通いには否定的なことをつぶやいていたが、あれはポーズだったのか。

 とっさにそう考えて、レイははっとした。要するに、これが偏見というものなのだ。相手から疎まれていると思うと、こちらも相手を肯定的には見られなくなる。

 ハルはクリスチャン・キングをひどく嫌っているようだった。医療拘置所で会ったときも、挨拶さえろくにしていなかった。カジノで遊ぶなら、わざわざルナ・アスールを選びはしないだろう。カジノに勤める誰かに会ったのかもしれない。友人か、あるいは捜査の一環という可能性もある。

 本人に訊けばいいのだ。

 レイは家のなかに戻り、ビールの空き缶をリサイクル用の袋に集めているハルに呼びかけた。

「これ、落としたみたいですけど」

 ハルはちらりと封筒に目をやった。

「ゴミだ、捨ててくれ」

「ここへ行ってたんですか?」

 ハルの黒い瞳が、探るようにレイの顔をなめた。薄い唇の端が上がり、皮肉っぽい笑みをかたどる。

「遊んでたわけじゃない」

「……じゃあ、なにをしに?」

 思考を見透かされてしまったのが気まずく、レイはとがった声で訊いた。

「継続捜査中の事件について、店の者に訊きたいことがあったんだ。なにか問題があるか?」

 問題はない。けれども、どこか釈然としなかった。

 ハルがすっと腕を伸ばし、レイの手から封筒をとった。片手でくしゃっと丸めて部屋の隅のゴミ箱めがけて放るが、縁に当たって跳ね返り、むなしく床に転がった。ハルは舌打ちして、おまえのせいだとでも言いたげにレイの顔をにらんだ。

「庭に空き缶を置きっぱなしだろう、新人。集めてこい」

 押しつけられたリサイクル袋を手に、レイは庭へ向かった。テラスの網戸に張りついている大きな蛾を刺激しないように、静かに開けて外に出る。

 月光がまぶしい。

 やはり、あの月がコインの小さな穴と同じ大きさとは思えなかった。


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