(5)
医療拘置所は、市警察の本署から二十キロほど南西に下った内陸にある。モノレールはそこまで伸びておらず、車を使うしかない。
ハルは地下駐車場へと階段をリズミカルに下りながら、機嫌よく言った。
「早いところ済ませて昼飯にしよう。ビーチの近くにうまい店があるんだ」
「トラットリア・ニコラ?」と、後ろからレイが訊く。今日はすかしたスーツ姿ではなく、コットンの無地のTシャツにジャケット、チノパンというラフな格好だ。
「知ってるのか」
「当然でしょ、知らないセントレアっ子なんてもぐりだ。先輩のおごりならニコラ・スペシャルがいいな」
「贅沢な奴。まあいい、今日の俺は太っ腹だ」
店でいちばん高いメニューだ。今日という日にぴったりじゃないかとハルは考える。アーサー・ケントは釈放されるだろうが、十連敗を逃れたマーリンズがリーグ最下位を脱出した事実は変わらない。怒濤のアウェイ連勝が始まる予感がしていた。週末にはホームグラウンドのセントレア市民球場に戻ってきて六連戦だ。
「……ぼくらは休戦が続いてると思っていいんですか?」
そう問うレイの声にはかすかな緊張がうかがえる。ハルは振り向かずに返す。
「仕事中だからな。アルジャーノンも問題なく回復しそうだし。俺も少しだけ反省はしてるのさ」
レイは答えなかったが、階段を下りる足音が軽くなったのがわかった。
相手が新人だということを考慮してやるべきだったと、ハルは昨夜、豪快にホームランを決めてダイヤモンドを一周する四番打者、ホーガンを見ながら思ったのだった。新人が富豪のイケメンで警察学校をトップで卒業した男と聞き、ろくなやつじゃないだろうと先入観を抱いていたのは否定できない。配属が評判のよろしくない特捜班――オメガだなんて、さぞ期待はずれでがっかりしているに違いない、とも。
やさしくしてやるつもりは毛頭なかったが、さすがに扱いがぞんざいすぎた。……かもしれない。
駐車場に出たところで、レイがすっと前に出て手招きした。
「こっちです」
「こっちって?」
「ぼくのバイク」
待て、ゆうべのあの派手くさいガス単車か? そう訊くまでもなかった。レイの青い目がきらめいて、雄弁に答えを語っている。
「捕り物はないし、バイクのほうが小回りがききます。乗ろうとしたら動かないなんてこともない。整備は完璧ですから!」
「自車だろ。勤務時間中に使うのは許可が――」
「とってあります」
ハルは観念した。これはもう、一度乗って褒めちぎり、フェチ心を満足させてやるしかないだろう。今日の自分には自慢話を聞く心の余裕もある。
「勤務中に自車で事故ると労災下りないぞ」と、ハルはいちおう警告した。
「そんなヘマしませんよ。ぼくを誰だと思ってるんですか」
怒ったように返されて、ハルはむっとするよりあきれた。あーそうでした、レイ・クラークさまでしたよね、と胸のなかで返す。
署員が通勤に使う車を止めるスペースで、レイのマッハ・ダイナスティは異様な存在感を放っていた。そもそも、通勤に自車を使う署員は少ない。セントレアはモノレールをはじめとした公共交通機関が充実しているし、署内の自車を置くスペースは有料だからだ。
「ヘルヴァ」
一メートルほどに近づいたところでレイが声をかけると、バイクのテールランプが光った。
《はい、マスター》
答えたAIの声はアルトで、落ち着いていて艶のある、なかなかの美声だった。車に限らず、電子機器には制御用のAIを人格化して搭載している製品がよくある。
「……女だったのか」と、ハルはバイクを間近から眺めてつぶやいた。
「どう見ても女じゃないだろう、こいつは。女はもっとこうやわらかくてむちっとだな――」
「あなたの趣味は訊いてませんよ」
「だって無骨すぎるだろ」
「乗るなら女でしょ。男に乗りたいですか?」
露骨な発言に、ハルは思わず目をむく。
「富豪の御曹司が口にする言葉か?」
「父が聞いてるわけじゃないし。聞いてたとしたってどうでもいいです。で、乗るんですか? それとも歩いて行く?」
署のパトロールカーを使うという常識的な選択肢は、レイの頭にはないようだった。
「……乗るよ。よろしくな、ヘルヴァ、だったか?」
ハルはとりあえず礼儀正しく挨拶し、人工皮革張りの座席を軽くたたいた。
AIがよどみなく返してくる。
《こちらこそよろしく、ミスター・ハル・デイジー》
聞き違いか? いやがらせか? 喧嘩売ってるのか? ハルは思わず顔を引きつらせた。
「……スクラップにされたいようだな」
次の瞬間、脇腹に鋭い痛みを感じ、悲鳴をあげた。よろめいて後ずさり、尻もちをつく。
「な、なんだ?」
痛む脇腹に目を落とすが、外からは変わった様子は認められない。
《身の危険を感じました。警備会社に通報しました》
「はぁ?」
レイのほうを見ると、バイクの持ち主はすいませんと謝ったが、笑いをこらえているのは明らかだった。
「ただの軽いショックパルスです。ぼくらが使う銃で言えばゲージ十程度」
レイは座席の下部を指で示した。小指の先ほどの丸い穴があいているだけに見える。
「自己防衛機能ですよ。ヘルヴァは脅迫されたと感じたんです」
「あれは本気じゃない、言葉のあやだ!」
「そこがまだ、ヘルヴァは理解できないんですよね。ヘルヴァ、通報は取り消して、警備会社に間違いだったと言いなさい。先輩は冗談を言っただけだ」
《はい、マスター。いまの冗談は学習しました》
レイが差し出した手を払って、ハルは自分で立ち上がった。尻をたたいて埃を落としながら、えんじ色の車体をにらむ。
「過剰防衛だろう。まったく、主人に似て憎たらしいAIだな」
《マスター、侮辱されました。ミスター・ハル・デイジーを乗せるのはいやです》
「新人、こいつを黙らせろ! いや、俺が黙らせていいか?」
《身の危険を感じました》
今度はみぞおちにショックパルスをくらい、一瞬視界が暗くなった。倒れるまいと、ハルは意地で足を踏ん張った。頭を振って毒づく。
「このくそったれのAI野郎――じゃない、女! 急所狙うなんて卑怯だぞ!」
《これ以上侮辱を続けるおつもりなら、もっと下のほうの大事なところを狙います》
「……なんつープログラムだ、男の敵だな」
《ひ弱な女子が狙うには、もっとも効果的な場所と心得ます》
「誰がひ弱だって?」
そこでハルは、バイクの向こう側にいるレイが腹をかかえて笑っているのに気づいた。
「なに笑ってやがる、殺すぞ新人!」
《マスターが危険!》
「ヘルヴァ、やめろ――って、間に合わなかったか」
レイの言葉が終わる前に、ハルは下腹部に強烈な一撃をくらっていた。かろうじて逃げる体勢に入ったため直撃は免れたが、気絶寸前だ。不本意ながらレイの手を借りなければ立っていられず、ひとしきり汚い言葉を吐く。
新人は口でこそ大丈夫ですかと言いながら、顔は笑っていた。
「先輩、とりあえず医療拘置所に向かいましょう。遅刻しそうです」
「こいつに乗っていけと? いやだね!」
《わたしもミスター・ハル・デイジーを乗せるのはいやです》
「黙れこの野郎――じゃない、女!」
「もう、なにAI相手にむきになってるんですか。恥ずかしいですよ? ヘルヴァ、先輩をその名で呼ぶのはやめろ」
《ではなんとお呼びすれば?》
「ミスター・デイビスと。ぼくらは急いでる。医療拘置所へ十一時十分前に着かないとならない」
AIは瞬時に経路を計算し、《余裕はあと二分です》と告げた。
レイはハルの腕を引っぱってバイクに乗るよう促した。
「先輩、ほかの車を選んでる余裕はありません。乗って」
「こいつは俺を乗せたくないって言ってるぞ?」
「気にしないで。言ってるだけですから。遅刻したら記録に残るし、キングにつけこまれる隙ができますよ?」
《余裕はあと一分三十秒です》
仕方なく、ハルはかわいげのないバイクの座席の後ろにまたがった。ぶつぶつ文句を言いながら、レイから差し出されたヘルメットをかぶり、顎の下でベルトを締める。
ハルの前に腰を落ち着けたレイが、ヘルメットをかぶりながらAIに指示する。
「自動走行、発進して」
《了解しました、マスター》
マッハ・ダイナスティはなめらかな加速で動きだし、駐車場を出てスピードを上げた。まぶしい太陽の光が照りつけるなかを、潮風を受けながら海沿いの道路を南下する。ツーリング目的の大型バイクは安定感があり、制限速度で走っているはずだが体感スピードは低かった。
風をはらんだレイのジャケットが肌をたたき、ばたばたとうるさい。カーブを曲がるときに重心が傾き、四輪車にはないGを感じるのが心地よい。
「すみませんでした、先輩。ヘルヴァにはよく注意しておきます。あなたに関しては脅迫的な言葉を無視するようにと」
ヘルメットには同乗者との通信機能が備わっており、レイの声は耳元から聞こえてくる。
「試作品の自律学習型AIなんですが、教育係はぼくだけだから、認識が偏ってしまってるんでしょうね」
「過剰防衛はなんとかしたほうがいい。下手すると訴えられるぞ」
「こいつ、三か月前にメーカーから納車されたばかりで。ゲストを乗せるのは先輩が初めてなんですよ」
「三か月もあればいくらだって人を乗せられるだろう。彼女とか」
バイクがカーブに差しかかり、車体が傾く。ハルは座席の脇を膝で押さえ、重心をゆるやかに移した。レイの腰に軽く添えたてのひらから、鍛えられた筋肉の感触が伝わってくる。ちゃんとトレーニングはしてるようだなとハルは考え、自分のほうは最近さぼりぎみだと反省した。
「いまはフリーです」
「なんだ、寂しい者同士かよ。シケてんな」
「なかなか思うようにはいかないものですよね」
「色恋沙汰の相談なら占い師にしろ」
「いや、もう終わったんで。次を考えます」
レイほど高スペックの男がフリーだとすれば、女がほうっておくわけはない。署内の女どものあいだで争奪戦が起きそうだ。ハルはそっとため息をつく。
《おふたりとも寂しいのですか? 歌でも歌いましょうか?》
AIが割りこんできて、ハルは苦笑した。
「変なところがサービス過剰だな。こいつ、翼が出て空を飛べたりはしないのか?」
「それなんてSFですか。充電用の太陽電池パネルは内蔵してるけど、翼代わりにはなりそうもないな。こいつは普通のバイクです」
「どこが普通なんだよ。だいたいAIが生意気すぎる。声の質はたしかに女だが、女を感じねーし」
《女らしいほうがお好みですか、ミスター・デイビス?》
「そりゃまあ、女はやわらかくてむちっと……って、なに言わせんだよ」
《わたしも学習型AIのはしくれ。ボディはどうにもなりませんが、言葉使いや雰囲気を女っぽくすることはできます。サンプルがありますので、タイプをお選びください。メイドさん、猫耳娘、魔法少女、看護師さん、SMの女王さま、どれがよろしいですか?》
ハルは唖然とし、しばし考えた。
「どれって言われても。選択肢が怪しい方面に偏りすぎじゃないか?」
《では猫耳娘タイプで》
「選んでねーよ!」
《はにゃ~ん、デイビスのおにいちゃま、ナデナデしてにゃのです~(はーと)》
高い甘えた声で、AIは言った。コメントのしようがなく、ハルはただ心のなかで、なにかが間違ってると叫んでいた。
レイはヘルメットのマイクを切って笑いをこらえているらしく、肩と背中が震えている。
ややあって、AIがもとのヘルヴァの声で訊いてきた。
《もしもし、ミスター・デイビス? 沈黙が痛いのですが》
「……なんだ、その(はーと)ってのは」
《データにハートの記号が書いてありましたので、読み上げてみました》
いや、それ絶対に間違ってるから! そんなハルの胸中の絶叫は、残念ながらAIには届かない。
《気に入られませんか? では魔法少女タイプで》
「もういい、時間の無駄だ」
《せっかくサンプルにありますので、さわりだけでもぜひ》
「くそめんどくせーなもう、勝手にしろ」
では、と前置きをしてから、AIは裏返った甲高い声でしゃべりはじめた。
《ぷるりんぱっ! デイビスさま、はじめましてなのですッ! きょうはアタシがお仕事におともするのです。さあ悪者をタイホしにゴォ~(ほし)なのですよッ(おんぷ)》
たっぷり三十秒ほど黙りこんでから、ハルはようやく口を開いた。
「……ぷるりんぱ、ってのはなに」
《変身の呪文です》と、ヘルヴァの声が答える。
「変身すんのか」
《魔法少女〝ぷりん〟という設定ですから。相棒は〝ぷるん〟という猫です。ぷりんの住む国はカスタード国と言いまして――》
「設定訊いてねーし!」
レイは腹を押さえてハンドル中央のコントロールパネルに突っ伏し、周囲をはばからず爆笑している。ただでさえ目立つガソリン車だ。近くをほぼ同じ速度で走行する何台もの車からの視線が痛い。ハルはレイの背中をどついた。
「ったい、こいつプログラムしたの誰だよ。絶対ふざけてるだろ?」
「知り合いですけどね。遊び心のある人だったから」
笑いをおさめて、レイは答えた。過去形のその言葉の端には寂しげな響きが漂っていた。相手は死んだのか、と直感的にハルは思う。
「仕事半ばで遠くに行ってしまって。だから、ぼくが代わりにプログラムの仕上げを手伝っているんです。といっても、実際に使ってデータを集めてるだけですが」
《わたしはまだ未熟です。もっと学習します。マスターのお役に立てるように》
ヘルヴァの声は澄んでいて意志にあふれ、ハルはそこに、プログラムのものとは思えない〝心〟のようなものを感じた。
ふたりとAIは、黙ったまま走行を続けた。やがて道路の両側から建物が消え、茶色の土がむきだしの荒れた風景が広がる。しばらく行くと、前方に医療拘置所のゲートが見えてきた。ここには精神疾患も含めて、専門医による長期的な観察と治療が必要な受刑者や被疑者が収容されている。ソルブライト郡全域から該当者が集まり、常時百人以上が暮らす。
バイクはゲートで警備員のチェックを受け、高圧電流の流れる高い塀に囲まれた敷地に入った。芝生の張られた前庭を貫く私道を走ると、灰色のコンクリートのいかめしい建物が近づいてくる。
来客用の駐車場で赤いコンバーチブルの隣にバイクを止め、警備員が守る玄関のガラスドアを抜けて建物に入ったとき、時刻は十一時五分前になっていた。
「時間どおりだな。聖王に文句を言われずに済みそうだ。おまえは奴に会ったことがあるのか?」
ハルの問いに、レイはうなずいた。
「二年以上前になりますが、パーティで一度。社交辞令だけで、突っこんだ話はしてません」
「突っこんだ話をしたい相手じゃないよな」
しかめっ面で言い、ハルは受付で所属と名前を告げる。そして、携帯している銃とサバイバルナイフを警備員に預け、指示された処置室へ向かった。