(4)
「先輩」
呼びかけられたのは、モノレールの駅に通じるエレベーターの前だった。声のした車道のほうへ顔を向ける。一台の大型バイクが路肩に止まっていた。ハルが思わず目を丸くしたのは、それが排気量千五百CCはある、いまや絶滅寸前のガソリン車だったからだ。ボディは渋いえんじ色がベースで、銀色のメタルのマフラーが得意げに輝いている。
シルバーグレーのライダースーツに身を包んだ男が、ジェットタイプのヘルメットを脱いで頭を振った。金色のしっぽがうなじで揺れる。
「……新人、なんでこんなところにいるんだ?」
「先輩こそ、なんでこんなところに? って、訊くのも野暮かな」
「どういう意味だ」
「現場を見に来たんでしょう? アーサー・ケントのオフィス。まだ規制テープは張ってありましたね」
レイは腰の前に置いたヘルメットに片肘をつき、黒い革手袋をはめた手に顎をのせて考える顔をした。
仕事熱心だな、とハルは内心で苦笑した。あきらめ切れない気持ちはわかる。
「なかは見られたか?」
周囲の通行人の注意を引かないよう、低い声で訊く。
「いえ、警備の警官に阻止されました。先輩は?」
「俺は行ってない。行くと藪から蛇が出てきそうだからな」
「ああ、隣のビルで事件があったからですか」
レイはハルとベスターとのやりとりを見ていたので、確執があるのを察したようだ。
「まだ野次馬がたくさんいましたよ。警察学校の同期の奴に訊いたら、死体はエドガー・バージェスで間違いなかったそうです。やはり自殺らしいと」
「そうか」
ハルは顎を撫でた。
エドガー・バージェスは、ソルブライト郡だけでなく北米一帯で手広く土地や建物を扱っている不動産会社、バージェス・デベロップメントのオーナー社長だ。先日も、軌道エレベーター計画にまつわる関連施設の建設をセントレア沖合の島に誘致したと、派手なニュースになっていた。
路地に飛び出してきた男から、人が死んでいると通報を受けたのは午後一時ごろだった。ハルはレイとともに現場に駆けつけ、床に仰向けで倒れているメイド服姿の男を確認した。こめかみを金属弾で打ち抜かれ、すでに絶命していた。目をむき、口を大きく開けた表情はグロテスクで、死体を見慣れているハルでさえ目をそむけたくなった。IDカードなど身元を示すものはなかったので、指紋をデータベースで照合し、市の名士だとわかった。
室内に争ったあとはなく、死体の右手は拳銃をしっかりと握っていて、状況からは自殺の線が濃厚だった。だが外聞をなにより慮る上流階級の人間が、人生最後のときにわざわざメイド服を着て、違法な金属弾の拳銃で自殺するだろうか? 疑問に思い、ハルはアルファ班に連絡したのだった。
レイが眉をひそめて息を吐いた。
「知人があの服装でモルグに運ばれたのかと思うと、複雑な気持ちです。人の趣味ってわからないな」
彼は不審げにあたりを見まわした。
「じゃあ先輩はここでなにを? 車は? 歩いてきたんですか?」
他人の私生活を詮索するなとハルは言おうとして、思いとどまった。詮索されると困るようなことをしていると、勘ぐられるのも面倒だ。
「これから行くところがあるんだ。車は少し前にぶつけちまって」
「修理中ですか?」
「いや、廃車」
レイの顔に浮かんだのは、ハルへの同情というよりは見も知らぬ事故車への哀悼だった。
こいつ、乗り物フェチだったのか。となれば、レイの次の言葉は容易に想像がついた。
「送りますよ、後ろに乗ってください」
愛車を自慢したいと、青い目の異様な輝きが語っている。
「遠慮しておく。歩いて行ける距離だ」
早くアパートメントに帰ってマーリンズ十連敗の瞬間を見届け、傷ついたファン心をぬるくなったコーラで慰めたかった。だがレイは当然ながら、そんなハルの心中が読めるような特殊能力を持ってはいない。
「ガス車には乗らない主義ですか? でもこいつはハイブリッドですから。ふだんは電気走行なんですよ。いまもあなたのすぐそばで止まったのに、エンジン音がしなかったでしょう? セントレア市内は去年の法改正でガス走行が大幅に規制されてしまって。まったく走りにくい世の中になったものです。ガソリンも市内じゃ一件しか売ってくれる店がないんですよ。あれは家に気軽に置いてはおけませんからね、買いだめもできなくて……」
放っておけば、朝までしゃべり続けそうな勢いだ。マシンガントークはエイミーで慣れてはいるが、ハルはつい後ずさりしそうになった。
「ああ、すいません、こいつのことになるとついしゃべりすぎてしまって」
そう言いながらも、レイの表情には少しも反省が見られない。
頭上にある駅にモノレールの車両がすべりこみ、やがてエレベーターから人が降りてきて、物珍しそうにレイのバイクを眺めていく。
歓楽街が目を覚ます時刻だ。人通りも増えている。ネオ・エルドラドではこれから明け方まで、人と金と酒の饗宴が続く。
すごいバイクだね、とサラリーマン風の初老の男に話しかけられ、レイはうれしそうに「ありがとうございます」と答えた。
男はしげしげとバイクを眺め、メーカーの流星をかたどったエンブレムに目をとめる。
「マッハ・ダイナスティか。まだガス車をつくってたんだな。きみはレーサーかなにかかい?」
「いえ、ただのガス車好きです。エンジン音がたまらなくて」
「ああ、昔デイトナのレースを見たことがあるが、ガス車が二十台も走っているとエンジン音で耳がおかしくなりそうだったな……」
貴重な化石燃料を浪費し放題だった、背徳的な時代。否定はしないが、話が終わるまで待ってはいられない。
「じゃあな、新人」
ハルは片手をあげ、返事も聞かずに歩きだした。エレベーターのドアから離れる方向へ。ひと駅分歩き、次の駅で乗ればいい。冷めたピザ、ぬるいコーラ、覇気のない野球中継。そんなものがいまの自分にはお似合いだ。マーリンズは自分が応援しなくてもきっと負ける。どうしようもないやるせなさを百万人のファンと共有できると思うと、薄暗い期待が胸に満ちてくる。
無理をすることはないのだ。明日がある。たぶん。きっと。自分が夜明けを告げなくても、朝はまた訪れる。
「先輩」
「そのデカブツを歩道に乗り入れるのは道交法違反だろう。ポイント引かれるぞ」
ハルは追いかけてきた新人のほうを見もしない。
「俺にかまうな。言ったはずだ、おまえとなれあう気はないと」
「あーそうですか。ぼくのことが嫌いなのはわかりましたけどね、ハル・デイジー」
ぴたりと、ハルは足を止めた。きびすを返してレイと向き合う。大型バイクを従えた金髪の男はふてぶてしい笑みを浮かべ、バイクの座席に置いてあったヘルメットをとった。
「文句があるなら言ってください。直せるところは直すし、足りないところは努力して補います。自分がまだヒヨッ子なのは認めますよ。だがいつまでも雛でいるつもりはないんだ。すぐにあなたに追いついてみせます」
「……宣戦布告ととっていいのか、新人?」
「なんなら古式にのっとって手袋を投げましょうか?」
黒の革手袋に包まれた手をヘルメットから離し、ハルのほうに掲げてみせる。
「決闘を申しこむなら手袋は白だろう」
ハルがそう指摘すると、レイはあわてたように自分の手を見た。
「あれ、そうでしたっけ?」
ハルはわざとらしく大きなため息をついてみせる。
「……まあいい。俺さまにたてつく度胸だけは褒めてやる。だが決闘なぞ十年早い、でかい口をたたくのは結果を見せてからにしろ。とりあえずFバイザーは使えるようにしとけ」
「わかりました。ほかに言いたいことは?」
「山ほどあるがね。挙げはじめると夜が明ける。俺はもう家に帰って野球を観るんだ」
「これからどこかへ行くんじゃなかったんですか」
しまった。ハルは思わず片手で顔を覆った。
「嘘だったんだ。……ぼくは信用されてないんだな」
レイは悔しそうに言い、手のなかのヘルメットに目を落とした。
「信用してるとかしてないとかじゃない。詮索されたくなかっただけだ」
言ってから、なにを弁解してるんだとハルは自分に突っこんだ。べつに釈明する必要などないだろう。いけすかない奴に自分がどう思われようと関係ない。
レイは少しのあいだヘルメットをもてあそんでから、口を開いた。
「そうですね。今日会ったばかりなのに信用しろってほうが無理だな。ぼくもあなたに言いたいことがあります」
「……なんだ。早く言え、俺は忙しい」
ハルは腰に両手を当てて胸をそらしたものの、レイの顔を直視できずに目をそむけていた。
「ありがとうございました」
怒ったような口調だったので、感謝の言葉だとすぐにはわからなかった。聞き間違いか、と思わずレイのほうを見る。一瞬だけ視線が絡んだが、レイはすぐに目をそらした。
「ぼくだってあなたにお礼なんか言いたくないけど、けじめはつけておかないと。今日はあなたに助けてもらった。スーツに金属弾を防ぐ効果はありませんからね」
「……感謝されるようなことじゃない。新人のおまえを前に出した、俺のミスだ」
「そう言われるとよけいに惨めになるな」
「新人は恥をかいてなんぼだ。早くヒヨッ子を卒業したいなら、まず最低最悪な自分を肯定しろ。下には下があるんだ。いちいち惨めだなんて言ってたら、すぐに道を見失うぞ。俺に追いつくんだろう?」
レイは唇を引き結び、強いまなざしでハルをにらんだ。それを受け止め、ハルはにらみ返す。
「おまえに言っておくことをひとつ思い出した」
「……なんですか」
「当然、マーリンズファンだよな?」
「そりゃ、生粋のセントレアっ子ですからね」
ハルはにやりとした。
「今日マーリンズが勝つかどうか、賭けないか」
「は?」
「俺は負けるほうに賭ける。必然的におまえは勝つほうに賭けることになる」
「ものすごく一方的な押しつけって気がするんですけど?」
「われらがマーリンズを信用しろよ。めでたく連敗から脱出できたら、明日の昼飯は俺がピザとコーラをおごってやる」
レイは顔をしかめた。
「賭けに勝ちたいのか負けたいのか、どっちなんですか」
「俺も生粋のセントレアっ子だ」
じゃあな、と片手をあげて、ハルは歩きだした。
どうしてか、今夜のマーリンズは強いという確信が芽生えていた。自然に頬がゆるんだことに、彼は気づいてはいなかった。