黒い塊
それほど長くはないこげ茶色の髪の毛でうつむく顔が隠れる。僕には見えないもので、彼女が揺れているのが僕にはわかった。そんな気がした。店内に流れる音楽がちょうどかわるとき、空気の流れが一瞬止まりこわばる。一番奥に座っている男女の会話だけが相変わらず楽しげに聞こえる。よくわからないが、その二人は次の休日のプランを話しているように思う。曲がかわりまた心地よい音楽が流れ始めると、空気のよどみは消えた。彼女の中の影が薄暗い店内と流れる音の隙間に息をひそめる。僕は、グラスの中に入った液体を一口飲む。繊細に震え均衡を保っているこの空間を壊さぬよう注意深く座り直し、時計に目をやる。今日という日が終わり、新しい一日がやってくる時分だった。夜に寄り添うようにひっそり座る彼女は、小さな背にも増して小柄に見えた。僕は彼女に話しかける。僕の中で店内に流れる音のボリュームが小さくなって行くのを感じた。
「何か飲まれないのですか?このお店はリキュールもたくさんあるようですから、きっと好みに合うお酒が見つかりますよ。」
僕は棚に几帳面に並べられたボトルに目線をやり、ゆっくりとした口調で言う。彼女は驚いたように一度店内を見渡し、自分に話しかけられたとわかると、「そうですよね。お水だけじゃ・・・。でも、何を頼めばいいのかわからないのです。こういうお店に入るのは初めてで。」と我に帰ったように言う。
彼女はブルーキュラソーで色づけられたカクテルを選んだ。慣れない手つきでグラスを持ち口に運ぶと、小さい声で「おいしい」と言った。薄いピンク色のマニキュアが塗られた細い指先からは、さっきまで彼女を覆っていた薄いベールのような影は伺い知れない。一見すると今を謳歌している今時の女の人に思える。ただ、違うのは言葉一つひとつを手探りで選ぶように話すその口調にあった。彼女の中にある言葉の入れ物の中から、一つの言葉を選び出すまで、気付くか気付かないかくらいの時間があった。
話を聴くと彼女は最近この街に引っ越して来たらしい。片田舎の長女として生まれ、高校を卒業した後、販売系の仕事に就いたようだ。何事もなく、何の不自由もなく、可も不可もないごくありがちな生活に満足していたのだと言う。彼女はこんな言葉でそれを表現した。「私がいつも欲しがったのは、ささやかな日常。それがきっと一番難しいのね。その一かけらでも現実になっていることで、私は恵まれているって思えた。」と。ただ、最近思うように行かないことが多いという。雑多な問題が頭の中を覆って、混乱してしまうのだと言う。ちょうど、思いもしない場所で雨が降り、ずぶ濡れになってしまうような感じと言った。「私は目の前にあるものをこなすだけで体中の力を使ってしまって、いつもオーバーヒート。これ以上できないって思い続けて、でもしなくちゃいけないことは、私の前に降ってくるの。災難と言えばそうだけど、結局のところみんなそうなのだと分かったら、なんだか疲れちゃった。」と。彼女は仕事を辞めてしまってから、しばらく違った環境に身を置きたいと思って、いろいろな街に足を運んでいるのだと言う。違う景色で行きかう人並みはまるで異国の人のようで、今まで自分が限られた空間で生きてきたのがよくわかると言っていた。
終電が近づいてきて、僕は「またこの店で会えたら光栄です。そろそろ帰らないといけないので。」と言って店を出た。帰り際に名刺を渡したときの、少し戸惑ったように髪の毛を触る仕草が、頭の中にぴったり張り付いてしばらく取れなかった。
また朝がやって来て、僕はコーヒーを淹れる。その次の日もまた朝がやって来てコーヒーを淹れる。そんな毎日の反復にときどき嫌気がさすけれど、僕は毎朝ミルで豆を挽き、コーヒーカップ一杯分の日常を手に入れる。そして、その日常を飲み干す。
僕が一日でできることなんて、ちょうどこのコーヒーカップ一杯分くらいのことだろう。溜息が僕の頭の中をよどんだもので重くする。人一人の小ささなど嫌というほど知っている。でも、歯車の一つである僕は周りと連動しながらこの社会を少しずつ前に進めていることも知っている。わかっているつもりだ。もう何度も言い聞かせているのだから。だけど、所詮世の中の一つの小さな部品にしかなれないのだなと思ってしまう。悲観的に物事を捉えるのは、前向きにとれば向上心に繋がるけれど、それはちょっと不幸な取り方だなと思った。頭を悩ませるものの大部分は、目線を変えるだけで解決するのだろう。同じものを食べるなら美味しいと思って食べられる人のほうがいいに決まっている。ありきたりだが「ようは捉えよう」というどこかで聞いた曲のワンフレーズが的を射ているように思う。僕は今日も残り三分の一くらいのコーヒーを一気に飲み干した。僕はテレビ前のソファーに座り、リモコンで電源を入れる。そのとき嫌な予感がして、次の瞬間には黒い塊が心の奥底からうごめくのを感じた。また、思い出してしまったのだ。
あるとき僕は気付いてしまった。母親が父親と別れた理由を。僕が物心つく前に父親は僕を虐待していたらしい。僕の中に父親の記憶はないが、僕の身体にはいくつかの浅黒い痕がまだ少し残っている。消そうと思えばできた。だけど、僕はそのままにすることにした。父親にいつか会う日があるとすれば、まだ消えていないということを見せつけてやりたかった。なかったことには絶対したくないと思った。僕は父親に愛されなかった。そして、僕は人の愛し方を知らない。人を好きになることはある。だけど、何か歪曲した感情のように思える。その理由はよくわからないが、頭が勝手にそう感じるのだ。僕はこのことを思い出す度に、クレバスに落ちたように心の中が凍えていく。指先が順に身体の中心まで冷たくなっていくような感覚に襲われるのだ。僕は、震えた右手を左手で押さえつけた。そして、僕は自分に暗示をかけるように一度天井を見あげ、次いで目を閉じ、いつものようにふぅーっとゆっくり息を吐き、静かに目を開ける。胸の中をうごめく黒い塊がいつもの場所に戻り、また深い眠りに就いた気がした。