第3話 最初の出会い
「おねえちゃん、こっちこっち」
どこからか私を呼び止める声がきこえる。前にも後ろにも、それらしき人物はいない。辺りを見回しても、みんな目をそらして通り過ぎていく。空耳かと思ったけれど、さらに呼びかける声が聞こえる。
「こっち、上だよ」
言われたとおりに見上げてみる。雪の粒が目に飛び込んできたあとには、鍔付き帽子をかぶった小学生くらいの男の子が窓から手を振っているのが見える。空耳じゃなかったんだ。彼は私が気づいたことを確認すると、入口を指し、”入ってきて”と促す。
どうしようかと思ったけれど、とにかく雪の上に足を置きたくないという感情のほうが勝ったので、中に入ることにした。両端に部屋の入口があって、その奥に階段。彼がいたらしい部屋は三階の左側。壁がむき出しになっている階段を上る。壁全体に張り詰めた冷気が漂っていて、外にいるときと寒さは変わらない。足元もその冷気とリンクして一層冷え冷えとしてくる。雪はたしかに無いけれど靴の湿気で足跡が後ろに残っている。
時折ビチャッ、ビチャッという嫌な音と水が搾り出される感覚を味わいながら目的の部屋の前に着いた。すると中から”そのままどうぞ”と声がかかる。ドアを開けると少し暖かい空気が私に向かってきた。暖房があるらしいとわかり、すぐにドアを閉める。
目の前には、窓から顔を出していた男の子が立っている。やっぱり小学生らしい幼さを残した顔立ちだ。薄手のジーンズにセーターを着ている。
「こんにちは。とりあえず、靴を脱いであがって」
彼に促されて濡れた靴をようやく脱いでじゅうたん敷きの床に足をつける。部屋を見回してみると、中央にテーブルとポット、奥にベッド、隅に窓とエアコン、反対側にキッチンがある。ごく普通のワンルームに見える。テーブルにはいつのまにかコーヒーが二つ置かれていた。濡れた足から、暖房とミックスされた嫌なにおいが出始める。けれど、いくら子供でも男の子の前で生足を見せるのは嫌だ。がまんして乾くにまかせながら、座ってコーヒーを口にする。甘くない程度に砂糖が入っていて美味しい。なんだか気がついて初めて落ち着けた気がする。周りを見渡す冷静さはあったけど、現状を理解しようとすることで精一杯だったことにいまさら気がついた。同じように向かいでコーヒーを飲んでいる彼に思いついたことを聴いてみることにした。
「ね、ねえ、聞いてもいい?」
「え? なに?」
「呼んでくれたのはうれしいんだけど、どうして私を呼んでくれたの?」
「おねえちゃんだけに声をかけたわけじゃないよ。僕のほうを向いてくれたのも、ここまで来てくれたのも、おねえちゃんが初めてなんだ」
彼はほかの住人と同じように、でもたぶん違う理由で、すこしうつむきながら答えてくれた。そういえば、私より年下に見えるけど、とてもしっかりしている。おそらく彼の家は自営業か友働きだ。子供だけの時間が多いから、自然と自分のことは自分でするようになる。自分が通ってきた道だから、なんとなくわかる。
「そうなんだね・・・」
誰からも見向きされないつらさもなんとなくわかる。
「おねえちゃん、ここに来たばかりでしょ?」
「ここ、って、この街に、ってこと?」
「うん」
「そうだけど、どうしてわかるの?」
「ここのひとってさ、みんなつまんないんだ。話しかけても知らんぷりなんだから。だから、おねえちゃんが来てくれて、僕、とても嬉しいんだ」
目の前に笑顔。ここにきて人が笑っているのを初めて見た。笑顔一つでこんなにいやされるとは思わなかった。寒空ではなく暖かい部屋、そしてコーヒー。癒しの材料が重なったこともあるのかも。
彼が言うには、こんな私でも少しは役に立ったらしい。そう思うとこちらも笑みがこぼれる。やっと本当の意味で落ち着いたのかもしれない。
私はコーヒーをもう一口飲んで、実は一番聞きたかったことを聞いてみた。
「ねえ、ここはいったいどこなの?」
「ここはね、”冬の街”っていうんだ」
「ふゆの、まち?」
「僕もよくわからないけど、みんなそう呼んでるよ」
「この街はなんなの? 出口はないし、みんなうつむいているし、雪が降ってて寒いし」
「そういうの、よくわかんない。ただ・・・」
「ただ? なに?」
「僕たちがこの街にいることは確かだよ」
それはつまり、なにもわかっていないのと同じこと。それを言わないようにしているのだろうか。年下の男の子に気を遣われていると感じてしまった。ちょっと自分が情けなくなる。
「ところでおねえちゃん、疲れたんじゃない? 少し寝たら? 僕はちょっと出かけるから、気が済むまでいてくれていいよ。あ、エアコンは止めないでね。帰ってきたら寒くなっちゃうから」
その瞬間、コーヒーを飲んだ安堵さも手伝ってか、急に眠気と疲れが押し寄せてきた。私は彼の提案を受け入れ、休ませてもらうことにした。年下とはいえ男の子の部屋に泊まるなんて、とは思ったけど、どうにかするつもりだったら凍えそうな私を介抱して体力を回復させるのもおかしな話。彼の言葉を信じることにする。
一人になった部屋でコップの片づけをして、靴下とコート、上着を脱ぎ、電気を薄暗くしてベッドに横になる。暖かい布団にくるまり、いつの間にか深い眠りについた。もしかするとこの街から出られるのかもしれないと思いながら。
目が覚めたとき、私はベッドの上で布団にくるまっていた。目の前のテーブルも、広げてある靴下も、エアコンの暖かさも、彼がいないことも、眠る前と変わりない。つまり、私はまだ”冬の街”にいるということだ。不思議と慌てるとかがっかりするといったことがない。この街にいたいわけでもないのに、なにを落ち着いているのかわからない。とりあえず起きて身支度を整え、通学スタイルに戻る。ポットからお湯を注ごうとしたとき、裏返しになった紙がテーブルに置いてあることに気がついた。
どうやら彼は戻ってきて、そのときに書いたメッセージらしい。メッセージを読み終えたとき、ここへきて一番の焦りを感じた。
”お話してくれてありがとう。ぼくはこの街を出るよ。この部屋はおねえちゃんが使って。それじゃ、さようなら”
話はゆっくりと展開してゆきます。