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黒薔薇は断頭台の上で微笑む ――悪徳令嬢レティシア・レイヴンズベルクの、最悪にして最良の完結譚――

作者: シオン
掲載日:2026/06/12


 王都アルシェラの大広間は、今夜だけは舞踏会ではなく処刑場だった。


 金の燭台が幾列にも灯り、磨き上げられた白大理石の床には、貴族たちの期待と悪意が薄く反射している。楽団は既に演奏を止め、代わりに人々のざわめきが低く渦巻いていた。


 その中心に立たされているのは、一人の令嬢。


 漆黒のドレス。胸元には黒薔薇の刺繍。長い金髪は今夜ばかりは結い上げず、肩に流している。紫水晶のような瞳は、責め立てる視線の嵐を受けても、まるで退屈な芝居でも見ているかのように微動だにしなかった。


 レティシア・レイヴンズベルク公爵令嬢。


 社交界ではこう呼ばれている。


 ――黒薔薇の悪女。

 ――王都一の悪徳令嬢。

 ――微笑みながら人を破滅させる女。


「レティシア・レイヴンズベルク!」


 王太子アルベルトが、断罪の宣言台にでも立つような声音で名を読み上げた。


 淡い金髪に蒼い瞳。正義感を絵に描いたような青年で、国内では人気も高い。王太子としての資質も申し分ない――少なくとも、表向きは。


「貴様の数々の悪行は、もはや看過できぬ。聖女候補エリアナへの侮辱、学園予算の不正流用、地方貴族への違法な高利貸し、王立慈善院への寄付金横領、そして――」


「ずいぶん盛りましたわね」


 レティシアが口を開いた。


 静かな声なのに、不思議と広間全体に届く。


「しかも半分は濡れ衣、三割は誇張、残り二割は……あら、心当たりが多すぎて困ってしまいますわ」


 どよめきが走る。


 王太子の顔が険しくなった。脇に立つ聖女候補エリアナは、白百合のようにか弱く見える顔で息を呑む。薄桃色の髪、青い瞳、慎ましげな所作。平民出身ながら神殿に見出され、今や“光の乙女”として貴族たちに持て囃されている少女だ。


「まだふざけるか、レティシア!」


「ふざけているのはどちらでしょう。婚約者でもあった女性を、証拠の吟味もなく大衆の前で裁くなんて。王族の流儀としては、いささか品位に欠けましてよ」


「証拠ならある!」


 アルベルトが手を振ると、侍従が盆を運んできた。


 封蝋付きの書簡、会計帳簿の写し、慈善院の証言書。


「これらはすべて、貴様の罪を示している!」


「そう」


 レティシアは帳簿の写しを一瞥し、そして小さく笑った。


 その笑いは、どこまでも余裕に満ちている。


「……でしたら、その署名の癖がわたくしの筆跡と違うことくらい、鑑定にかければすぐわかりますわ。慈善院の証言書も、作成年月日より前に既に亡くなっている方の名前が混ざっておりますし」


 人々のざわめきが不安に変わる。


 アルベルトの眉が動いた。ほんのわずか。だがレティシアは見逃さない。


「な、何を……!」


「それに、地方貴族への高利貸し。あれはわたくしではなく財務省認可の債権回収ですわ。むしろ救済措置に近い。寄付金横領? 面白い冗談ですこと。わたくしが横領したとされる額を、同日に王太子殿下の側近家が別名義で受け取っている事実をご存じ?」


 アルベルトの顔色が変わった。


 何人かの貴族が一斉に顔を見合わせる。レティシアの父、レイヴンズベルク公爵は長年財務と内務に強い発言力を持つ一門だ。帳簿の話になると、王都の貴族ですら迂闊に口を挟めない。


「貴様、王太子を侮辱するつもりか!」


「いいえ。まだ侮辱などしておりませんわ」


 レティシアはゆっくりと扇を閉じた。


「ただ申し上げているのです。準備の甘い断罪劇は、演者だけでなく脚本家の首まで飛ばす、と」


 広間が冷えた。


 王太子の側に立っていた数人の貴族が、不自然に目を逸らす。


 その瞬間、エリアナが震える声で前へ出た。


「レティシア様……どうして、そんなふうに……? わたしは、ただ皆が仲良くなれたらって……」


「あら、聖女様」


 レティシアの微笑みがほんの少しだけ深くなる。


「善人の仮面は便利でしょう? 誰かが泥を被れば、あなたは光って見えるのですもの」


「……ちが、います……!」


「違うなら、あなたの護衛騎士が三日前に神殿裏口で誰と会っていたか、ここで公表してもよろしくて?」


 エリアナの唇が固まった。


 王太子が一歩踏み出す。


「もうよい! レティシア・レイヴンズベルク! 貴様との婚約はここに破棄する! 加えて王都追放、爵位継承順位剥奪、財産凍結を――」


「それは困りますわ」


「何?」


「財産凍結までは困る、と申し上げましたの」


 レティシアは一歩前に出た。


 裾が大理石を滑る音すら、やけに鮮明に響く。


「だって、今この瞬間に凍結されては、あなた方が昨日までわたくし名義で買い込んでいた兵糧と軍需品の支払いが滞ってしまいますもの」


 場の空気が凍り付く。


「ついでに申し上げますと、北方国境の補給線、南部港湾の塩利権、第一商業銀行の短期貸付――この三つ、今夜零時に一斉に期限を迎えますわ。わたくしが署名しなければ更新されません」


 誰かが息を呑んだ。


 大臣席から老人が立ち上がる。


「……まさか、そこまで握っていたのか」


「ええ。悪徳令嬢ですもの」


 レティシアはにっこりと笑った。


「皆様が夜会と恋愛ごっこに夢中なあいだ、わたくしは国の血管を数えておりましたの」


 王太子の喉が鳴る。


「脅しか……!」


「警告ですわ」


 彼女はそう言い切った。


「わたくしを断罪したいなら、もっと上手におやりなさい。あなた方が敵に回そうとしているのは、ただの性悪女ではなく――この国の裏帳簿です」


 沈黙。


 長く、重たい沈黙。


 しかし次の瞬間、その沈黙を切り裂くように、玉座の上段から老人の咳払いが聞こえた。


 王だ。


 老いてなお眼光鋭い国王アウレリウスが、玉座からレティシアを見下ろしていた。


「面白い」


 たった一言で、空気の相が変わる。


「レティシア・レイヴンズベルク。お前は王太子の断罪を退け、自らの有用性を示した。だが、だからといってその傲慢を無罪にはできぬ」


 王の視線は冷たい。


「よって命ずる。お前は王都を離れ、東部辺境ディルクレストに赴け。半年以内にあの土地の税収を二倍にし、治安を安定させ、街道の通行率を回復せよ。できねば本当にすべてを失う。成し遂げれば……再審を認めよう」


 ざわめきが再び広がる。


 東部辺境ディルクレスト。魔獣、盗賊、飢饉、領主腐敗が重なり、王都でも誰も近づきたがらない厄介な土地だ。


 それは追放であり、試練であり、実質的な死刑宣告でもあった。


 けれどレティシアは唇の端を上げた。


「承知いたしました、陛下」


 深々と一礼する。


「半年後、より高く、より悪辣に、戻ってまいりますわ」


 その夜、王都中が語った。


 黒薔薇はついに折られた、と。


 けれど本当は違った。


 その夜、悪女はようやく舞台を降りて、戦場へ向かったのだ。


***


## **第一章 辺境へ落ちた黒薔薇**


 ディルクレストへ向かう馬車は、貴族用とは思えぬほど粗末だった。


 まあ、当然だろう、とレティシアは考える。


 王都追放同然の女に、豪奢な金縁の箱を用意するほど王宮は親切ではない。窓枠の木はきしみ、座席も硬い。従者はたった二人。老執事のガスパールと、侍女頭のミレーヌだけだった。


「お嬢様、本当にこんな条件を受ける必要があったのでしょうか」


 ミレーヌが苦々しげに言う。


「王都で徹底抗戦もできたはずです。証拠だって、もっと――」


「できたわよ。もちろん」


 レティシアは窓の外に目を向けた。


 春まだ浅い荒野が流れていく。街道沿いに並ぶ痩せた木々。遠く見える村は、屋根の色まで貧しい。


「でも、あの場で王太子を本格的に潰したら、王都は内乱になる。まだ早いの」


「まだ、ですか」


「ええ。熟してない果実は酸っぱいだけでしょう?」


 ガスパールが小さく目を細めた。


 彼はレティシアが十歳のころから仕える老執事だ。灰色の髭を整え、背筋を寸分も曲げない。公爵家の使用人たちの中でも、彼女が最も信頼している一人だった。


「陛下の試練、想定内でございましたか」


「半分くらいは」


「では残り半分は?」


「王太子の愚かさが予想より三割増し、国王陛下の面白がりが二割増し、といったところかしら」


 ミレーヌが呆れたようにため息をついた。


「笑い事ではございません。東部辺境は本当に危険でございますよ。飢饉、疫病、山賊、魔獣、領主同士の小競り合い、密輸、賭博、売春宿、偽札――」


「最後の方はわたくしの専門ですわね」


「お嬢様!」


「冗談よ」


 レティシアは軽く肩をすくめた。


 だが冗談でもなかった。


 彼女は王都で“悪徳令嬢”と呼ばれていたが、それは単に性格が悪いからではない。彼女はあえてそう振る舞っていた。賄賂の流れを知るため、裏取引の輪に入るため、貴族たちに「同類」と思わせるため。


 清廉な令嬢を演じていては、汚れた金は寄ってこない。


 人は自分に似たものに秘密を漏らす。


 だから彼女は、高慢で、傲慢で、冷酷で、金にうるさい女を演じ続けた。半分は演技で、半分は素だったのだが。


「東部にあるものは二つ」


 レティシアは扇の先で窓ガラスを軽く叩いた。


「一つは絶望。もう一つは、誰も見ていない利権よ」


 ディルクレストは古くから東方交易の中継点として栄えた土地だった。だが街道が荒れ、山賊が増え、関税を抜く貴族と役人が手を組み、今は衰退の一途を辿っている。


 でも、だからこそ。


 腐っている場所ほど、掘れば膿も金も出る。


「お嬢様、報告書の写しを再確認いたしますか」


 ガスパールが差し出した革鞄には、東部に関する膨大な資料が詰まっていた。税収推移、治安記録、交易品目、地図、河川の水位、冬の死亡率、修道院の出納帳、沿岸警備隊の配置、地主の家系図。


 普通の令嬢なら、見ただけで頭痛を起こす代物である。


「ええ、三十七番の資料を」


 レティシアが言うと、ガスパールは即座に抜き出した。


 それは“失踪者記録”。


「やはり増えている」


 レティシアはページをめくりながら呟く。


「飢えた民が逃げた、で済ませるには若い女性の比率が高すぎるわね」


「人身売買……でしょうか」


 ミレーヌの声が沈んだ。


「ええ。それも組織的な」


 レティシアの目が冷たくなる。


 彼女は人を破滅させることに躊躇しないが、無辜を食い物にする連中は大嫌いだった。なぜならそういう輩は例外なく、弱者を踏み台にしながら自分を賢いと思っている。


 心底、趣味が悪い。


「東部に着いたらまず賭場を押さえる。次に倉庫街。最後に教会」


「教会、でございますか?」とガスパール。


「最も善良そうな顔をしている場所ほど、裏口が広いのよ」


 そのとき、馬車が大きく揺れ、外から怒号が聞こえた。


「止まれ! 荷を置いて行け!」


 山賊だった。


 ミレーヌが短く舌打ちし、膝下から細身の短剣を抜く。ガスパールも杖の底から刃を覗かせた。


 レティシアは窓の隙間から前方を見る。


 粗末な革鎧を着た男たちが七、八人。手入れの悪い剣、痩せた馬。顔つきは荒いが、練度は低い。絶望した農民上がりか、どこかの傭兵崩れだろう。


「危険です、お嬢様は下がって」


「いいえ。わたくしが行くわ」


「は?」


 レティシアはドレスの裾を整え、何事もない顔で馬車を降りた。


 男たちは一瞬、目を奪われたように息を止める。辺境の泥道に不似合いなほど美しい女。しかも怯える様子がない。


「道を塞ぐなんて、ずいぶん無作法ですこと」


 レティシアが言う。


 首領格らしき大男がにやついた。


「へえ、上玉だな。貴族様か? だったら身ぐるみと、その綺麗な指輪を置いていけ」


「身ぐるみ? それは困るわ。仕立てに時間がかかっているの」


「ふざけて――」


「でも提案ならあります」


 男が眉をひそめる。


 レティシアはにっこり笑った。


「今ここでわたくしを襲えば、あなたたちは今日中に首を吊るされるでしょう。ですが、もし道案内と情報提供をするなら、三日後から定職を与えて差し上げる」


 男たちがどっと笑った。


「なんだそりゃ。頭がおめでてえな、貴族嬢様」


「でしょう? でもあなた方、山賊の割に腹が減りすぎている。靴底も擦り切れてるし、矢筒の矢も数が合ってない。本職ならもっと上手に脅すわ」


 男たちの笑いが止まる。


「……何が言いてえ」


「あなたたちは食い詰めた元兵士か農民。誰かに街道を荒らせと使われてる。違う?」


 首領格の目が鋭くなった。


「言葉には気をつけろ、女」


「図星ね。なおさら好都合だわ」


 レティシアは手袋越しに小さな革袋を放った。男が受け取る。中身は銀貨だった。


「前金。わたくしはディルクレストに行く。あなたたちはわたくしの馬車を護衛して、代わりに“誰が”“いくらで”“どの街道を”“何のために”荒らさせているのか教える」


「信用できねえな」


「信用は不要よ。損得だけで十分」


 彼女は一歩近づいた。


「あなたたちは今日、わたくしから奪うつもりだった。でも実際には奪えない。わたくしの後ろの二人に今すぐ半分にされるから。だったら雇われた方が賢い。違って?」


 ミレーヌが妖しい笑顔で短剣を弄び、ガスパールは静かに杖を構える。


 山賊たちは互いに顔を見合わせた。


 首領格の男が苦い顔で銀貨袋を握り、低く吐き出す。


「……あんた、何者だ」


「レティシア・レイヴンズベルク」


 彼女は優雅に会釈した。


「王都で一番、性格の悪い女よ」


 こうして、辺境へ向かう途中で最初の手駒が手に入った。


 悪女は花束ではなく、飢えた男たちを従えて進む。


 そのほうが役に立つからだ。




 ディルクレストの中心都市グレイフォールは、死にかけた獣の腹のような街だった。


 石壁は黒ずみ、運河は濁り、橋梁には物乞いが座り込んでいる。市場には品が少なく、あるものは妙に高い。荷車の車輪は泥に埋まり、路地裏では薬売りと賭博屋が肩を寄せ合う。


 表通りの建物は一応の体裁を保っているが、一歩裏に入れば腐臭すら漂っていた。


「ひどいものですわね」


 馬車を降りたレティシアが、率直に感想を述べた。


「王都の役人は何を見ていたのかしら」


「見ていても、報告書を綺麗に塗りつぶしていたのでございましょう」とガスパール。


 街の代官館には、太った男が待っていた。


 東部行政長官代理、バルタザール・モンド。四十代半ば、鼈甲の指輪をいくつも嵌め、汗をかくたび香油の匂いが強くなる。目つきは卑しく、笑うたびに金歯が覗いた。


「これはこれは、公爵令嬢様。いや今は……なんとお呼びすれば?」


「好きに」


「あっはっは! ではレティシア様で。辺境へようこそ、歓迎いたしますよ」


「歓迎されているようには見えませんけれど」


 館の玄関には使用人が少なく、庭は整えられていない。なのにバルタザール本人の腹だけはよく育っている。


 わかりやすいことこの上ない。


「王命により、半年この地を監査し、再建にあたります」


 レティシアは淡々と言った。


「協力を。もっとも、しないならしないで結構ですけれど」


「ほう?」


「あなたの帳簿から先に読むだけですから」


 バルタザールの笑顔が一瞬止まった。


「……おやおや、噂通り手厳しい」


「噂の半分は事実で、半分は控えめですわ」


 その日から、レティシアは遠慮なく動いた。


 まず代官館の会計室を封鎖。倉庫管理帳簿を押収。港湾税記録と穀物配給簿の照合。さらに市場への抜き打ち視察、修道院への寄付流入確認、街道警備隊の名簿点検。


 三日で、驚くほどよく腐っていることがわかった。


 穀物は届いているのに住民は飢えている。税率は公示より高い。関税は一部しか王都に上がっていない。警備隊には“存在しない兵士”が多く、給金だけ誰かの懐へ消えている。修道院では孤児の数が帳簿と合わない。


 そして失踪者の多くが、夜のうちに河港の倉庫地区から消えていた。


「ひどい、なんて言葉では足りませんな」


 夜、仮の執務室でガスパールが言った。


 机には証拠書類が山のように積まれている。ミレーヌは壁際で腕を組み、昼間捕まえた密売人の供述書を読んでいた。


「旧領主、現行政、地方騎士、商人組合、修道院、港湾労務頭……全員が少しずつ盗んでいるから、責任が曖昧になっております」


「こういう腐敗が一番厄介なのよ」


 レティシアは羽ペンを置いた。


「一人の怪物を倒して終わり、にはならない。全員がちょっとずつ悪いと、誰も自分を悪人だと思わないから」


「お嬢様、倉庫街側から報告です」


 ミレーヌが紙を差し出した。


「昨夜、川船が三隻。荷は表向き“塩漬け肉”。ですが樽の底に二重板。中身は人を運ぶにも十分な空間です」


「やはり人身売買ね」


「買い手は?」


「まだ。ただ、神殿関係者の出入りがあったと」


 レティシアは目を細めた。


 教会や神殿がすべて腐っているとは限らない。だが少なくとも、この街では神聖さは金貨一枚で質入れできるらしい。


「今夜、賭場へ行くわ」


 ガスパールとミレーヌが同時に顔を上げた。


「お嬢様が?」


「もちろん。賭場は街の心臓よ。誰が勝ち、誰が負け、誰が借金し、誰が情報を売るか――全部集まる」


 グレイフォール最大の賭場は、港に近い酒場街の地下にあった。


 名を“赤猫亭”。


 表向きは酒場、地下は賭場、その奥は違法契約と人身売買の仲介場。船荷の出入りも近い。


 レティシアは深紅のドレスに着替え、髪をゆるく巻き、黒いレースの覆面をつけた。王都の公爵令嬢であると同時に、裏社会で名を通す女商人を演じるためだ。


「これでどう?」


「お嬢様、似合いすぎて頭が痛いです」とミレーヌ。


「褒めてくださってありがとう」


 地下賭場は熱気と煙と酒臭さに満ちていた。


 木札、サイコロ、札遊び、短剣投げ。卓ごとに怒号と歓声が飛び交い、負けた者の顔は土気色をしている。勝つ者は少数、負ける者は多数。そして本当に儲けるのは、胴元だけ。


 レティシアはその胴元を見た。


 細身の男、銀灰色の髪、片目だけ青い。笑っているのに目が笑っていない。年齢は二十代後半ほど。身なりは賭場にしては整いすぎている。


「あれが“帳簿屋アッシュ”です」と、同行した元山賊の首領――今は臨時情報屋となった男、ロイドが囁く。


「この街の裏金は大体あいつの手を通る。表向きは賭場の用心棒頭だが、実際は借金証文も密輸記録も全部握ってる」


「なるほど。あの男が蜘蛛の中心」


 レティシアはまっすぐ卓へ向かった。


「一番高い席を」


 ディーラーが目を見張る。


「……ご婦人、ここは遊びでは済みませんよ」


「遊びで来たつもりはありませんわ」


 彼女はテーブルに革袋を置く。中身は金貨。場の視線が集まった。


 銀灰の男――アッシュが近づいてくる。


「見ない顔だな、お嬢さん」


「見せたくなかったの」


「名前は?」


「今夜は“黒百合”とでも」


 アッシュが口角を上げた。


「いい名前だ。で、何を賭ける」


「あなたの店」


 その場がしんとなった。


 アッシュがまばたきを一つしたあと、愉快そうに笑う。


「それはまた、大きく出たな」


「小銭遊びは趣味じゃないの」


「面白い。だがルールがある。勝てば何でもやる。負けたら?」


「わたくしを自由に使ってよろしくてよ」


 周囲からどよめきが起こる。


 だがレティシアの表情は変わらない。


 アッシュはじっと彼女を見る。その視線は値踏みでもあり、探りでもあり、そしてわずかな警戒でもあった。


「いいだろう。勝負は三本勝負。札、サイコロ、最後は選択権を勝者に」


「結構」


 最初の勝負は札。


 レティシアはあっさり負けた。


 次のサイコロは、彼女が圧勝した。


 そして一勝一敗で迎えた最後の勝負。選択権を得たのはレティシア。


「では、帳簿を」


 アッシュの目が細くなる。


「賭場の帳簿を賭けましょう。わたくしが勝てば、今夜からここはわたくしのもの。あなたは従う。負けたら、わたくしはあなたの借金取りでも女主人でも何でもやる」


「……どういうつもりだ」


「あなたなら気づいてるでしょう? この街の王は代官じゃない。金の流れを握る者よ」


「つまり、あんたは王になりたい?」


「いいえ」


 レティシアは微笑んだ。


「王なんて面倒な椅子、いりませんわ。けれど王冠の値段を決めるのは好きよ」


 最後の勝負は、記憶と観察を使う卓だった。


 短時間だけ見せられる金庫の棚番号、その移動順、その中身の記号。胴元がどの段で何を抜き、どこに偽装帳簿を入れたか当てる遊び。賭博というより、裏稼業の適性試験である。


 レティシアは一度見ただけで当てた。


 いや、当てただけではない。


「三段目右から二番目に偽帳簿。四段目左端に真正。二段目中央に借用証。さらに最下段奥に“青い封蝋”の別記録があるわね。そこに港湾税と修道院の金の出入りを隠している」


 アッシュの笑みが消えた。


「……何者だ、お前」


「さっきも言ったでしょう」


 レティシアは覆面越しに笑う。


「王都で一番、性格の悪い女」


 その夜、赤猫亭の主人は変わった。


 そしてアッシュという男は、敗北と引き換えにレティシアの手先になるかと思われた――が。


「別に負けを認めるのは構わない」


 地下室で二人きりになったとき、アッシュは壁にもたれて腕を組んだ。


「だが従う前に聞く。あんた、本当にただの貴族令嬢か?」


「ただの、ではないわね」


「目的は?」


「この街を食っている連中を、わたくしより先に太らせないこと」


「それだけじゃない」


「鋭いのね」


 レティシアは彼に近づいた。


「王都でわたくしを嵌めた人たちを、潰すの。でもその前に、東部の腐敗と王都の腐敗がどこで繋がっているかを知りたい。あなたはその糸を持っている」


「……俺を信用するのか?」


「しないわ。でも使えるものは使う」


 アッシュはしばらく黙り、それからふっと笑った。


「いい。あんたに賭ける」


「賢明ね」


「一つだけ忠告してやる。ディルクレストの闇は、代官や商人だけじゃない。もっと上だ。王都の紋章がついた箱を、俺は何度も見ている」


 レティシアの瞳が一瞬だけ凍る。


 やはり。


 東部は捨て石ではない。王都の腐敗の“保管庫”なのだ。


 追放されたはずの悪女は、この街で真実の根を見つけた。



 ディルクレストへ来て十二日目の朝、王都から一通の手紙が届いた。


 差出人は、エリアナ・セルウェイ。


 あの白百合めいた聖女候補である。


「捨てましょうか」とミレーヌ。


「まあ待って。敵からの手紙は久々の贈り物と同じよ」


 レティシアは封を切った。


 便箋からは薄くハーブの香りがする。字は整っていて控えめだが、ところどころに迷いが見える。


 内容は簡潔だった。


 ――あなたの味方ではありません。ですが、あなたの敵が何をしているか知るべきです。

 ――王太子殿下の側近、ヴィクトル・ハインツ伯子息にご注意を。

 ――東部に送られた物資のうち、王宮印付きのものは必ず確認してください。

 ――わたしはあなたほど器用ではないので、これ以上は書けません。

 ――けれど、あの夜の断罪が正しかったとは思っていません。


「へえ」


 レティシアは読み終えると、便箋を机に置いた。


「聖女様にしては、なかなか骨があるじゃない」


「罠の可能性は」とガスパール。


「もちろんある。でも中身は本当ね。少なくとも半分以上」


 ヴィクトル・ハインツ――王太子派の中心にいる伯爵家の嫡子。表向きは温厚な政務補佐、実態は汚職と恐喝の司令塔。レティシアが王都で“悪女”を演じていた時期、最も執拗に探ってきた男でもある。


「あの男なら、東部を証拠隠しの倉庫にするくらいやるわ」


「聖女候補は完全に敵ではない、と?」


「むしろ利用されている側かもしれないわね」


 レティシアは指先で手紙を軽く叩いた。


「善人は駒にしやすいの。“正しいことをしている”と思わせれば、悪事の前でも目を伏せるから」


 そのとき、外で騒ぎが起きた。


 代官館の庭のほうで怒鳴り声。兵の制止する音。やがて扉が開き、護衛が困惑した顔で入ってくる。


「レティシア様、面会を求める者が。追い返そうとしたのですが……」


「誰?」


「王都から来た、と名乗っております。“狐の紋章の男”だと」


 レティシアの眉がわずかに動いた。


「通して」


 入ってきた男を見て、ミレーヌは目を細め、ガスパールはあからさまに不機嫌な顔をした。


 背の高い男だった。黒髪、灰色の瞳、仕立てのいい旅装。口元にはいつも人を食ったような笑みがある。年は三十前後。貴族か、それに見えるだけの詐欺師か、判別しづらい顔。


「久しいね、レティシア嬢」


「ちっとも会いたくなかったわ、リオネル・ヴァロワ」


 王都で“銀狐”と呼ばれる男。


 正式には子爵家次男。だが社交界では外交官補佐、商会顧問、秘密監査官、詐欺師、諜報員、愛人斡旋人など諸説ある。要するに誰の味方か誰にもわからない男だった。


「その言葉で歓迎と受け取ろう」


「病気なの?」


「君ほどではない」


 リオネルは部屋を見回し、勝手に椅子へ腰を下ろした。


「辺境暮らしにしては快適そうだ。さすが悪徳令嬢」


「で? 何しに来たの。わたくしの不幸見物?」


「逆だ。君が不幸にならないよう忠告しに来た」


「あなたが忠告すると、だいたいその後で死人が増えるのよ」


「誤解だ。死ぬのはたいてい、忠告を無視した側だ」


 レティシアは黙って彼を見た。


 この男は油断ならない。だが能力だけは本物だ。王都の誰より情報が早く、誰より逃げ足が速い。


「王都は動いてる」


 リオネルが低い声で言った。


「君が東部で帳簿を掘り始めたと聞いて、ヴィクトル・ハインツが焦っている。近いうちに誰かが君を消しに来る」


「誰か、じゃ雑すぎるわ」


「暗殺者か、あるいは“正義の騎士団”か。どちらにせよ、公的な形を装うだろう。君は今や“元婚約者に逆恨みした危険人物”だからね」


「便利な肩書きですこと」


「さらに悪い知らせもある」


 リオネルは懐から小さな金属片を出した。


 黒銀色の留め具。裏面に王宮印、その下に見慣れぬ刻印。


「東部から王都へ運ばれている“特別貨物”の封具だ。君が探っている人身売買の線より、もっと大きい」


「何?」


「魔鉱石」


 レティシアの目が鋭くなる。


 魔鉱石は王国で厳重管理される戦略資源だ。魔導炉、結界塔、兵器、治療術式に使われる。流通には王宮と魔術院の二重認可が必要で、横流しはほぼ反逆罪に等しい。


「東部の廃鉱から違法掘削。精製前の粗石を人身売買の荷に紛れ込ませて運んでる。利益は莫大。しかも一部は国外へ抜けてる」


「……王太子派が?」


「断定はしない。だがヴィクトルは関わってる」


 レティシアはしばし沈黙した。


 そしてゆっくり笑う。


「なるほど。ようやく見えてきた」


「何が?」


「わたくしを東部へ送った理由よ」


 ただの追放ではなかった。


 もし彼女が辺境で野垂れ死ねば、王都にとって都合がいい。もし生きて帳簿を掘れば、その先にもっと巨大な犯罪――つまり反逆級の利権――がある。国王がそこまで読んでいたのか、あるいは単に試しただけかはわからない。


 だが今わかるのは一つだ。


 この東部は、王太子派の金庫であり墓場だ。


「リオネル、あなた今どこの味方?」


「いつも通り、勝つ側だ」


「最悪」


「褒め言葉として受け取ろう」


 レティシアは立ち上がった。


「ではその勝つ側に、わたくしを入れておきなさい。あとで吠え面をかかずに済むわ」


 リオネルが笑う。


「その台詞が聞きたかった」


「条件がある。わたくしに嘘をつかないこと」


「難しい注文だ。職業倫理に反する」


「ならもう一つ。裏切るなら、せめて最後まで華麗にやって」


「それは守れる」


 こうして、辺境の悪女の陣営に、賭場の帳簿屋と銀狐が加わった。


 ろくでもない男ばかりが集まり始めたことに、ミレーヌは遠い目をした。


「お嬢様の周囲、本当に信頼できる人間が少なすぎません?」


「いるわよ」


「誰です?」


「あなたとガスパール」


「それだけ?」


「十分でしょう?」


 たしかに、それだけでかなり強い。


 だが同時にレティシアは知っていた。


 信頼できる人間が少ないのは、自分がそういう生き方を選んだからだと。


 悪女は、好かれて守られるより、嫌われて侮られる方を選んできた。


 そのほうが真実に近づけるから。




 レティシアがまず潰したのは、街の“空気”だった。


 具体的には、噂である。


 腐った街で一番安い武器は剣ではない。噂だ。剣は金がかかるし血が出るが、噂はただで人を殺せる。


 彼女は赤猫亭を通じて、いくつもの話を流した。


 ――新しく来た公爵令嬢は、代官の隠し金庫を知っている。

 ――港の倉庫で誰かが裏帳簿を売ろうとしている。

 ――修道院の裏口には夜だけ王都の馬車が停まる。

 ――賭場の旧胴元は新しい主人に負けて膝をついた。

 ――ディルクレストに王都の監査が入るらしい。


 真実を少し。嘘を少し。誇張をたくさん。


 噂が回り始めると、人は勝手にボロを出す。


 代官バルタザールは隠し金庫を移そうとして護衛を増やし、その護衛の給金がどこから出ているか露見した。倉庫頭は慌てて帳簿を焼こうとして、それが逆に証拠となった。修道院長は夜の出入りを隠そうとして不自然な寄付記録を作り、結果として数字が合わなくなった。


 そして案の定、敵も動いた。


 夜更け、レティシアの宿舎へ火矢が射られたのだ。


 だが彼女はその夜、別室で書類を読みながら茶を飲んでいた。寝室に火が回る頃には、襲撃者を待ち構えていたミレーヌとロイドたちが路地で包囲している。


 捕まえたのは三人。


 元警備兵、雇われたならず者、そして修道院の若い下働き。


「誰に頼まれたの」


 地下室で、レティシアはあまり感情のない声で尋ねた。


 若い下働きは震えていた。頬はこけ、指先に洗い物の荒れが残る。まだ十六、七といったところだ。


「し、知らない……ただ、お金が出るって……」


「誰が来たの」


「しゅ、修道院に……黒い外套の人が……院長さまに……」


「顔は?」


「見てない……でも、王都の言葉だった」


 レティシアは右手で扇を閉じた。


「そう」


 彼女は他の二人を見る。元警備兵の目は敵意に満ち、ならず者は唇を引き結んでいる。


「あなたたちは?」


「……喋るかよ」


「俺たちは雇われただけだ」


「そう」


 レティシアは椅子にもたれた。


「では取引をしましょう。喋れば半分だけ助ける。黙るなら三人とも公権力に渡して、放火未遂の上に人身売買の共犯として処理する」


「脅し――」


「脅しじゃないわ」


 レティシアは淡々と言う。


「わたくしは必要なら本当にやるの。あなたたち、よく誤解しているけれど。悪女って、口だけの人を指さないのよ」


 沈黙の末、先に折れたのはならず者だった。


「……バルタザール配下の書記官だ。名前はエドガー。あいつが金を出した」


 元警備兵が舌打ちし、若い下働きは泣き出した。


「やっぱり」


 レティシアは立ち上がる。


「ガスパール、エドガー書記官を明朝、横領と殺人教唆の容疑で拘束して」


「承知いたしました」


「ロイドには“代官が自分の部下を消そうとして失敗した”って噂を流させて」


「かしこまりました」


「ミレーヌ、修道院の孤児名簿をもう一度洗って。年齢別、月別、移送先別で」


「はい」


 部屋を出る直前、レティシアは振り返った。


「それと、若い子は食事を与えて。温かいスープを」


 ミレーヌが一瞬だけ目を丸くした。


 レティシアはそれ以上何も言わずに歩き出す。


 悪女だって、誰にでも残酷というわけではない。


 ただ、慈悲を見せる相手を選ぶだけだ。


 翌朝、代官館は大荒れになった。


 エドガー書記官拘束の報せに、バルタザールは怒鳴り散らし、権限逸脱だと喚いた。だがレティシアは王命による臨時監査権を盾に一歩も引かなかった。


「証拠もなく人を――」


「証拠ならありますわ」


 机に置かれた帳簿、賄賂記録、放火手配の供述書、署名見本。


「あなたの部下一同、よくもまあこんなに綺麗に尻尾を並べてくれましたわね」


「こ、こんなもの捏造だ!」


「では王都に送りましょうか。正式監査で」


 その一言でバルタザールの額に汗が浮いた。


 王都へ送れば、彼も終わる。だがレティシアはそこで終わらせるつもりはなかった。まだ早い。代官には代官のまま、もう少し泳いでもらう必要がある。


「安心なさい。いまはまだ送りません」


 バルタザールの顔に一瞬だけ安堵が走る。


「ただし条件があります」


「な、なんだ」


「あなたは今日からわたくしの“協力者”になっていただく。命令に従い、倉庫街の入出荷、修道院への寄付流入、街道警備の実数、すべて開示。もし逆らえば王都へ送る」


「……脅迫だ」


「先ほど自分で使った言葉を返しますわ。これは権限です」


 彼は歯ぎしりした。


 だが従うしかない。


 こうしてレティシアは、敵の首に鎖をかけたまま使い倒すことにした。


 血を流さない戦争は、こうして進む。


 敵を殺すより、敵の椅子に釘を打つ方が効率がいい場合もあるのだ。



 その夜、アッシュが珍しく真顔で訪ねてきた。


「面倒だ」


「あなたがそう言うときは、大体本当に面倒なのよね」


「南倉庫で動きがある。“銀箱”が出る」


 レティシアは眉を上げる。


 “銀箱”とは、裏社会で使われる符牒だ。人でも鉱石でも、表に出せない高価な荷に使う。


「今夜?」


「ああ。しかも護衛が多い。地元のごろつきじゃない。訓練された連中だ」


「王都の息がかかってるわね」


「それだけじゃない」


 アッシュは低く言った。


「買い手に、騎士団の紋章つき馬車が混じってる」


 レティシアは立ち上がった。


「全員集合。装備を」


 月のない夜だった。


 南倉庫地区は運河沿いに細長くのび、昼間は荷役で賑わうが夜は霧と灯火ばかりが漂う。レティシアは黒い外套をまとい、屋根の上から倉庫の裏口を見下ろしていた。隣にはミレーヌ。少し離れてロイドの手勢。アッシュは下の影に溶け込むように立っている。


 そしてもう一人。


 灰色の外套を着た長身の男が、屋根の反対側に音もなく現れた。


「遅いわ」


 レティシアが言う。


「呼ばれもしないのに来たんだ。褒めてもらいたい」


 リオネルだった。


「お嫌いだと思っていたけど、案外わたくしに未練があるのね」


「そういう意味に取るあたりが君らしい」


 そのとき、倉庫の扉が開いた。


 木箱が運び出される。外見は塩樽に見せかけているが、重量配分が違う。さらにその後ろ、縄で縛られた人影が二つ、三つ。


「……やっぱり」


 ミレーヌが息を呑んだ。


 少女たちだ。年端もいかぬ。口を布で塞がれ、ひどく怯えている。


 レティシアの胸の内で、冷えた怒りが沈殿した。


「証拠は十分ね」


「どうする」とリオネル。


「全部いただく」


 レティシアは手を上げた。


 合図。


 次の瞬間、ロイドたちが左右から雪崩れ込み、ミレーヌが屋根から飛び降り、アッシュが灯りを切る。暗闇の中で悲鳴と金属音が弾けた。


「何者だ!」


「税務調査よ!」


 レティシアの声が夜気を裂く。


「違法荷役、未登録鉱石、未成年者誘拐、虚偽申告、そして――王命違反で摘発しますわ!」


「ふざけるな!」


 護衛の一人が突っ込んでくる。だが直後、別方向から現れた灰色の影がその剣をいなし、肘打ちで昏倒させた。


 リオネルだった。


「外交官補佐にしては手が早いのね」


「副業が多いもので」


「今度税務署に書いておくわ」


 戦いは長くは続かなかった。


 訓練された護衛は手強かったが、数ではこちらが勝り、何より奇襲が効いた。数人は運河へ飛び込み逃げたものの、主な荷は押さえた。


 木箱を割ると、灰青色の粗い結晶が詰まっている。


 魔鉱石だ。


 しかも相当量。


「これだけで城壁一つ分の結界炉が回せるわね」


 レティシアは呟いた。


「こんなものを闇で流していたなんて」


 さらに別の樽からは帳簿、封書、封蝋箱。


 そして、騎士団紋章付き馬車の御者席から、若い男が引きずり出された。


 貴族の子弟らしい、上等な服を着ている。


 顔を見た瞬間、リオネルが眉をひそめた。


「ハインツ伯の三男だ」


「……あら」


 レティシアは静かに笑った。


「あなた、ずいぶん可愛がられてるのね。お兄様のお使いに辺境まで?」


 青年は唇を強く結ぶ。


「黙れ、悪女」


「正しいことを言われると皆そう言うの」


 彼は何も喋らなかった。


 だが十分だった。ハインツ家に直結する証拠がひとつ、手に入ったのだから。


 保護した少女たちは怯えきっていた。


 ミレーヌが毛布をかけ、温かい湯を飲ませる。レティシアは彼女たちの前では表情を柔らかくした。


「もう大丈夫」


 その言葉を言うのは、少し不思議だった。


 自分が誰かにそう言われたことは、ほとんどない。


「……おねえさん、だれ……?」


 小さな少女が掠れた声で尋ねた。


 レティシアは一瞬だけ迷って、そして答えた。


「怖いお姉さんよ」


 少女が不安そうに目を見開く。


 レティシアは少しだけ笑った。


「でも、あなたたちを攫った人たちよりは、ずっとまし」


 少女はそれで少しだけ安心したらしく、毛布を握りしめた。


 倉庫から戻る途中、リオネルが隣に並んだ。


「君、ああいう顔もできるんだな」


「どういう顔?」


「助ける側の顔」


 レティシアは鼻で笑った。


「気持ち悪いこと言わないで」


「損な役回りばかり引き受けるのは昔からだ」


「違うわ。得だからよ」


「何が?」


「貸しを作れる」


 リオネルは笑った。


「本当に君は」


「何?」


「ひねくれている」


「褒め言葉として受け取るわ」


 だがその声は、少しだけ柔らかかった。




 人は悪女にも心があることを知らない。


 いや、正確には、知られないようにしてきたのはレティシア自身だった。


 弱みは武器になる前に刃になる。社交界ではそう学んだ。だから彼女は欲深く見せ、冷酷に見せ、高慢に見せた。涙も慈悲も、必要なら使うが、決して“本気”では見せない。


 だが、夜更けに一人でいると、どうしても思い出す顔がある。


 母の顔だ。


 レティシアが十二歳のとき、母は病で死んだ。優しく、静かな人だった。公爵夫人にしては珍しいほど権力に関心がなく、庭の花と本を愛していた。そんな母が最後にレティシアへ言ったのは、“いい子でいなさい”ではなかった。


 ――生き残りなさい、ティア。


 それだけだった。


 母は知っていたのだろう。公爵家も王都も、善良なだけでは生きていけない場所だと。


 その夜、レティシアは机でうたた寝をしていた。


 資料を読みかけたまま眠るなど珍しい。ここのところ、彼女はほとんど眠れていなかった。


 東部の腐敗、人身売買、魔鉱石の横流し、王太子派の介入、そして王都からの圧力。次々と処理すべきことが湧く。頭を止める暇がない。


 薄目を開けると、誰かが肩に上着をかけていた。


「……誰」


「起こしてしまったか」


 アッシュだった。


 彼はいつもの胡散臭い笑みを引っ込め、少し気まずそうに立っている。


「鍵を開けっぱなしにして寝るのは感心しないな」


「賭場の主人に防犯を説教される日が来るとは思わなかったわ」


「俺もだ」


 レティシアは上着を指先でつまんだ。


「なにこれ、優しさのつもり?」


「気色悪いか?」


「かなり」


「失礼な女だな」


 それでも彼は怒らない。


 むしろその返しに慣れているような顔で窓辺にもたれた。


「眠れてないんだろ」


「余計なお世話よ」


「まあな。でも、あんたが倒れたら皆困る」


「皆?」


「使用人、情報屋、ごろつき、保護した子供ら……あと俺」


 レティシアは目を細めた。


「あなたが困るのは、わたくしがいなくなると賭場の収益が落ちるからではなくて?」


「半分はそれ」


「正直で結構」


「残り半分は、本当に困る」


 静かな声だった。


 レティシアは少しだけ言葉に詰まる。


 自分が誰かに必要だと真顔で言われるのは、案外扱いに困るものだ。


「ねえ、アッシュ」


「なんだ」


「あなた、前は何をしていたの」


「前?」


「賭場の帳簿屋になる前」


 彼は少しだけ目を伏せた。


「軍だよ」


「……へえ」


「国境警備。東部じゃないが、似たような場所だ」


 彼の口調はいつもより平らだった。


「何年かやって、上が腐ってるのが嫌になった。補給は抜かれ、兵の数は帳簿だけ増やされ、死んだ奴の給金を上官が飲み込む。で、やめた」


「そして裏に?」


「表で正しくやるより、裏で生きる方がまだ誠実に見えた」


 レティシアは小さく笑った。


「それ、少しわかる」


「だろうな」


 しばらく沈黙が落ちる。


 外では夜風が窓を鳴らしていた。


「レティシア」


 彼が不意に本名で呼ぶ。


「無理はするな、とは言わない。あんたは言ってもするだろうから」


「よくおわかりで」


「でも、死ぬなよ」


 その言葉は軽くなかった。


 レティシアは少し驚いて、そして視線を逸らした。


「わたくし、そう簡単には死なないわ」


「知ってる。だから言う」


 彼は窓辺から離れ、扉へ向かった。


「あと、明日の昼まで寝ろ。俺が表の連中を捌いとく」


「勝手ね」


「お互い様だ」


 部屋を出ていく背中を見送りながら、レティシアは上着を握った。


 それが温かいのが、少しだけ気に入らなかった。


 そして、少しだけ嬉しかった。



 東部改革五週目。


 税収はまだ目に見えて回復していないが、街道の通行量は増え、違法徴税は減り、倉庫街の動きは鈍った。賭場も管理下に置かれ、荒くれ者の一部は警備補助として再雇用された。失踪者の捜索網も広がり、保護された子供たちは三十を超えた。


 成果は出ている。


 だからこそ、敵も本気になる。


 正午過ぎ、代官館前の広場に、銀鎧の一団が現れた。


 王都中央騎士団。旗印は白地に金鷲。先頭に立つのは若い男で、無駄のない姿勢と冷たい目つきが目を引く。黒髪を短く刈り、頬に古い傷が一本走っていた。


「中央騎士団特別査察部隊隊長、カイ・ヴェルナーだ」


 彼は玄関ホールに入るなり名乗った。


「レティシア・レイヴンズベルク、公権乱用と違法拘束、ならびに王都貴族への越権捜査の疑いで、あなたを本日より監視下に置く」


 代官バルタザールが、待ってましたとばかりにニヤつく。


 レティシアは椅子に座ったまま、茶器を一つ持ち上げた。


「お茶、飲みます?」


「不要だ」


「残念」


 カイは真っ直ぐ彼女を見た。


「あなたのやり方は過激だ。現地行政への干渉、私設情報網の利用、非公式戦力の運用。王命監査の範囲を超えている」


「範囲を超えていなければ、腐敗は剥がれませんわ」


「手続きがある」


「“手続き”の名で人が売られていたのですけれど」


 カイの顎がわずかに強張る。


 彼の目は融通が利かない正義の目だった。清廉ではあるが、今のレティシアにとっては厄介でもある。


「私は感情論で動かない」


「わたくしもよ」


「なら証拠を出せ」


「山ほどある」


「正式な形式でだ」


 レティシアは肩をすくめる。


「形式の美しさと、死んだ子供の数、どちらが重いかしら」


「――言葉で煙に巻くな」


 そこで初めて、彼の声に熱が混じった。


 レティシアはそれを見て少し面白くなる。


「あなた、不器用ね」


「何?」


「融通が利かない。そのうえ、自分が正しいかどうかを内心で何度も確認している顔だわ」


「……失礼な女だ」


「よく言われるの」


 結局、カイは代官館の一角に部屋を構え、レティシアの動向を監視することになった。


 ミレーヌは露骨に嫌そうな顔をし、アッシュは「ああいう真面目なのが一番面倒だ」と吐き捨て、リオネルは「彼は買収が効かないから好きだ」と楽しそうだった。


「買収が効かないなら、なおさら嫌い」


 レティシアが言うと、リオネルは笑った。


「君は自分の天敵を嫌う傾向がある」


「いいえ。天敵なら好むわ。歯ごたえがあるもの」


 だがレティシアは侮らなかった。


 カイ・ヴェルナーは本当に真面目で、本当に有能だった。


 彼は三日で東部の帳簿を読み、四日目には違法徴税のからくりを理解し、五日目には倉庫街の巡回経路の穴を見抜いた。そして六日目、レティシアの執務室へ来てこう言った。


「……あなたが掴んだ証拠、見せろ」


 レティシアは羽ペンを止める。


「心変わり?」


「保護した少女たちに会った」


 それだけで、十分だった。


「形式は守る。だが、私は腐敗を庇わない」


「それは朗報ね」


「勘違いするな。あなたの味方になると言ったわけではない」


「ええ、期待していないわ」


「……あなたは本当に可愛げがない」


「今さらでしょう?」


 カイは苛立った顔のまま、積み上がった書類を見る。


 レティシアはその横顔を見て、ふと思った。


 こういう男は、王都では生きづらいだろう。


 真っ直ぐすぎる。


 だからこそ折られれば危険だが、折れなければ強い。


「カイ隊長」


「なんだ」


「もしあなたが東部の真実を知って、それでも王都に従うなら……そのときは敵として扱うわ」


「……そうか」


「ええ」


「なら、私もそうする」


 その答えに、レティシアは少しだけ笑った。


「結構」


 剣の真価は、主に従うことではなく、何を斬るかで決まる。


 彼が王都から来た剣なら、その刃先がどちらを向くか見極める必要があった。



 王都では、風向きが少しずつ変わっていた。


 ディルクレストから上がる報告は面白くない。追放同然だったレティシアが死ぬどころか成果を出し、しかも王太子派に繋がる不穏な証拠まで掘り当てている。


 それを最も恐れたのは、ヴィクトル・ハインツだった。


 彼は王太子アルベルトの側近として、表では有能な補佐官、裏では利権の整理人だった。魔鉱石、密輸、賄賂、人身売買、官職斡旋。彼を通せばすべてが綺麗な公文書へ化ける。


 そんな男にとって、レティシアは最悪の存在だった。


 同じ穴の貉の顔をして、実際には穴の構造図を握っている女。


 だから彼は次の一手を打った。


 王都で“聖女の告発”を演出したのである。


 神殿本院の礼拝堂。多くの信徒と貴族が見守る中、エリアナが顔色悪く立っていた。傍らには王太子アルベルト、背後にはヴィクトル。


「エリアナ、恐れずに話してくれ」


 アルベルトがやさしく促す。


「君は、東部のレティシアから脅迫を受けていたのだろう?」


 エリアナの指先が震えた。


 ヴィクトルは穏やかな笑みを浮かべている。逃がさない、と告げる蛇のような笑みだ。


「わ、たしは……」


 礼拝堂は静まり返る。


「レティシア様は……」


 彼女の喉が動く。目には迷い、恐れ、そして何かを決めた強さがあった。


「わたしに、何もしていません」


 ざわめきが走る。


 アルベルトが固まる。ヴィクトルの笑みが消えた。


「エリアナ?」


「わたしは嘘をつきたくありません。あの方は高慢で、怖くて、意地悪で……でも、わたしを脅してはいません。むしろ……」


 彼女は一度目をつむり、覚悟を決める。


「わたしは、ヴィクトル様に言われるまま、何度もレティシア様を悪く見せる証言に協力しました」


 礼拝堂が騒然となった。


 アルベルトが信じられないものを見る顔で、エリアナとヴィクトルを交互に見る。


「な……何を言っている、エリアナ」


「申し訳ありません、殿下……でも、もう嫌なんです。誰かを悪者にして、きれいな顔だけしているのが」


 ヴィクトルが一歩前へ出た。


「聖女候補殿、混乱しておいでだ。ここ数日、東部からの圧力が――」


「違います!」


 エリアナが叫んだ。


 その声は礼拝堂の高い天井に反響した。


「わたしは見ました。東部から送られた書類を、あなたが燃やしたのを! 失踪した子供たちの名簿を隠したのを! 王太子殿下の印章を勝手に用いたことも……!」


 人々がどよめく。


 アルベルトの顔から血の気が引く。


「ヴィクトル……?」


 彼はようやく、自分が何かとんでもない沼に立っていると気づき始めたのかもしれない。


 だが遅い。


 その同時刻、ディルクレストではレティシアが笑っていた。


「やっと折れたわね、白百合」


「王都から鳩便です」とガスパールが報告する。


「聖女候補が公の場でヴィクトルを告発。王都は混乱。神殿と王宮が責任の押し付け合いを始めております」


「よくやった、って手紙を送って。すごく短く」


「内容は?」


「“遅いけれど上出来”で」


 ミレーヌが吹き出しそうになる。


「お嬢様、その方に優しくする気は永遠にないのですか」


「今さら優しくしたら気味悪がるでしょう」


 だがレティシアは内心、ほんの少しだけ安堵していた。


 エリアナは善人すぎて、最後まで利用されるかと思っていたからだ。


 白い花でも、踏まれ続ければ棘くらい生える。


 そして、王都が混乱した今こそ、東部での一撃を完成させる時だった。



 レティシアはついに、東部の全体像を掴んだ。


 ディルクレストの腐敗は単なる地方の堕落ではない。王太子派の一部貴族、港湾商会、修道院の一派、そして旧領主残党が結んだ一大密輸網だった。魔鉱石が主利益、人身売買が副収益、違法徴税が運転資金。利益は王都へ還流し、その一部が貴族たちの政治基盤になっている。


 中心にいるのはヴィクトル・ハインツ。


 だがその背後には、王太子アルベルトの名と印がある。


 本人がどこまで知っていたのかはまだ不明だった。


 知らなかったなら愚か者、知っていたなら共犯者。いずれにせよ王に向かない、とレティシアは思った。


「王都へ戻るわ」


 彼女は皆の前で宣言した。


「決着をつける」


 カイが腕を組む。


「証拠は揃ったが、戻れば危険だぞ。王太子派はまだ力を持っている」


「だから行くのよ。向こうが整う前に」


「私は同行する」


「もちろん。あなたは“正しい手続き”の証人になってもらうわ」


「皮肉か」


「半分」


 アッシュが皺を寄せた。


「俺も行く」


「赤猫亭は?」


「ロイドに任せる。もともと俺の街じゃない」


「じゃあ何として来るの」


「帳簿の保管人」


「すごく胡散臭い」。


「今さらだろ」


 リオネルは窓辺で笑った。


「なら私も。王都は私の庭だ」


「庭に毒蛇が多すぎるわね」


「飼い主次第だ」


 出立の前夜、レティシアは一人で東部の丘に立った。


 街を見下ろすと、かつて淀んでいた灯りが少しだけ増えている。市場の明かり、見回りの灯火、修繕された橋のたもとの焚き火。半年も経っていないのに、街はちゃんと変わり始めていた。


「感傷に浸る趣味があったとは意外だ」


 隣に立ったのはカイだった。


 彼はいつも通り真面目な顔で、だが以前より少しだけ柔らかい。


「感傷ではないわ。投資の確認よ」


「……本当にそうか?」


「半分」


 彼は少し笑った。


 レティシアはその横顔を見る。


「あなた、最初に来たときよりマシな顔になったわ」


「それは褒めているのか」


「ええ。あなた、前は剣みたいな顔してたもの」


「今は?」


「鞘がついた」


 カイは黙って、しばらく街を見下ろした。


「レティシア」


「なに」


「あなたは、なぜそこまでやる?」


「王都に戻るため?」


「嘘だな」


 彼女は少しだけ目を細める。


「……母に、生き残れと言われたの」


「それだけでここまで?」


「生き残るって、ただ息をしていることじゃないのよ。奪われず、飲み込まれず、自分の形を残すこと」


 風が吹く。


 遠くで鐘が鳴った。


「それにね」


 レティシアは街灯の海を見つめたまま続ける。


「わたくし、自分が嫌いなの。打算的で、ひねくれてて、人の心を値段で見てしまう。だからせめて、“嫌いな自分でも見捨てられないもの”を守ってみたかったのかもしれない」


 カイはすぐには答えなかった。


 やがて低く言う。


「私は、あなたが嫌いじゃない」


 レティシアは一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「……それ、告白?」


「違う」


「残念」


「あなたは本当に――」


「冗談よ」


 だが冗談にしては、胸のどこかが少しだけ熱かった。


 彼女は夜空を見上げる。


 悪女にも、たまには救われるような言葉が必要なのかもしれない。


 もっとも、それを素直に受け取る性格はしていないのだが。



 王都アルシェラへ戻ったレティシアを、迎えたのは歓迎ではなく緊張だった。


 半年前、彼女を追放のように送り出した人々は、今や彼女が東部で何を掴んできたかを恐れている。


 その空気が街全体にあった。


 馬車が大通りを進むたび、窓辺から視線が降る。囁きが走る。


 ――黒薔薇が帰ってきた。

 ――辺境で死ななかった女。

――今度は誰の首を取るのか。


「ずいぶん人気者ね」


「嫌われる才能がおありですから」とミレーヌ。


「ありがとう」


 王宮からの召喚は、その日のうちに届いた。


 国王立会いの大評定。王太子、主要貴族、神殿代表、騎士団、財務、内務、司法、全員集合。


 つまり、前回の断罪の舞台が、今度はより巨大な形で整えられたということだ。


 大広間へ入った瞬間、半年前と同じ場所だとレティシアは思った。


 燭台、白大理石、見下ろす目、息を潜める観衆。


 違うのは、自分が今度こそ準備万端だということ。


 玉座には国王アウレリウス。右に王太子アルベルト。左に大臣たち。そしてやや後方、顔面蒼白のヴィクトル・ハインツがいる。


 エリアナもいた。白い衣をまとい、だがもう以前の“何も知らない聖女候補”の顔ではない。


「レティシア・レイヴンズベルク」


 王が口を開く。


「東部における成果と、持ち帰った報告を述べよ」


 レティシアは進み出た。


「かしこまりました、陛下」


 その声はよく通り、少しも震えない。


「結論から申し上げます。東部ディルクレストにおける税収低下、治安悪化、失踪者増加の主因は、王都貴族を含む密輸網による組織的汚職です」


 広間がざわめく。


「証拠は三系統。第一に違法徴税および税逃れの帳簿、第二に港湾倉庫および修道院を経由した人身売買の記録、第三に王宮印を悪用した魔鉱石の不正搬出記録」


 侍従たちが箱を運ぶ。


 帳簿、封蝋箱、証言書、拘束者名簿、押収物明細。カイが正式捜査官として署名した文書、神殿下級職員の証言、保護被害者の一覧。


「このうち特に重要なのがこちらです」


 レティシアが差し出したのは、青い封蝋のついた台帳。


「ヴィクトル・ハインツ伯子息が管理した裏台帳。王太子殿下の印を用いた許可書写し、東部港湾からの搬出量、王都での受取先が記録されています」


「捏造だ!」


 ヴィクトルが叫んだ。


「そんなもの、どうとでも書ける!」


「ええ。書類だけならそうですわ」


 レティシアは冷ややかに頷く。


「ですから、こちらも。ハインツ家三男の身柄、中央騎士団による押収証明、輸送荷から見つかった封具、そして――聖女候補エリアナ様の証言」


 エリアナが一歩前に出る。


「わたしは見ました。ヴィクトル様が、王太子殿下の印章を無断で使い、東部からの報告を改ざんするのを」


 アルベルトの顔が真っ白になる。


「ヴィクトル……お前、私の印を……?」


「殿下、違います! 私はすべて殿下のために――」


「わたしのため?」


 アルベルトの声が掠れる。


「私の名で、人を売り、鉱石を盗み、報告を隠したのか?」


 ヴィクトルは膝をついた。


「……私は、殿下が王になるために必要な資金を……」


 その瞬間、広間は完全に凍りついた。


 王太子のため、という言葉は、アルベルトを守るどころか巻き込む。


「必要な資金?」


 国王の声が低く落ちる。


「王太子が王になるのに、反逆に連なる裏金が必要だと申すか」


「ち、違います、陛下、私は……!」


 アルベルトが震えながら一歩前へ出る。


「父上、私は知らなかった……!」


「知らぬでは済まぬ」


 王の目は氷のようだった。


「己の印が何に使われ、己の名の下で誰が何をしたかも把握できぬのなら、それだけで無能の証左だ」


 レティシアは黙ってそのやり取りを見る。


 半年前、自分を断罪した男が、今度は己の無知によって裁かれている。


 だが彼女は勝ち誇らなかった。


 ここはまだ終着ではない。


 国王はなおも冷徹だった。


「レティシア。お前はなぜ、この件を王都でなく東部で追った」


「王都では、証拠が死ぬからです」


 彼女はまっすぐ答える。


「書類は燃え、人は口を噤み、善人は利用される。東部には、まだ埋められていない墓が多かった」


 王が目を細めた。


「お前は自らを悪女と呼ばれてなお、民を救ったのか」


「いいえ」


 レティシアは静かに笑った。


「救ったつもりはありませんわ。搾取する連中が先に利益を取るのが腹立たしかっただけです」


 ざわめきの中で、誰かが小さく笑った。


 リオネルだ。


 アッシュは呆れたように頭を押さえ、ミレーヌは諦めた顔で天を仰ぐ。


 国王はしばらく黙り、やがて言った。


「実にお前らしい」


 そして宣言した。


「ヴィクトル・ハインツを拘束。関係者の即時捜査開始。王太子アルベルトは当面の政務権を停止し、監察下に置く。東部再建の件について、レティシア・レイヴンズベルクの再審を本日付で認める」


 広間が揺れた。


 半年前の断罪は、今ここでひっくり返った。


 だがレティシアはまだ動かない。


 彼女にはもう一枚、最後の札が残っていた。



「陛下」


 再審の宣言が終わったあとで、レティシアはあえて口を開いた。


 王が視線を向ける。


「まだ何かあるか」


「ええ。ございます」


 広間の空気がさらに張る。


「わたくしへの名誉回復だけでは足りません」


「ほう」


「東部の再建を本当に進めるなら、責任者を明確にし、利権を組み替え、王宮直轄の監査機関を新設しなければなりません。財務・内務・神殿・騎士団、いずれか一つでも独占させれば、また腐ります」


 大臣たちが顔をしかめる。


 これは権力構造への踏み込みだ。


「大胆だな、レティシア」


「悪女ですもの」


 彼女は続けた。


「第一に、東部港湾税を三年間王宮直轄とすること。第二に、保護被害者の身分回復と居所斡旋基金の設置。第三に、違法掘削鉱区を王立魔術院の管理下へ移し、公開台帳を義務づけること。第四に――」


「ま、待て!」


 財務大臣が口を挟む。


「それでは前例が――」


「前例通りにして腐ったのでしょう?」


 レティシアは一瞥もくれず言った。


「今さら前例が何の役に立ちますの」


 何人かが息を呑んだ。


 彼女はさらに踏み込む。


「そして最後に。監査機関の長として、わたくしをお使いください」


 一斉に騒然となる。


「正気か!」

「自薦だと!?」

「そこまで図々しいとは――」


「ええ、図々しいわ」


 レティシアは平然としていた。


「でも適任でしょう?」


 それは反論しづらい。


 誰より裏を知り、誰より数字に強く、誰より嫌われる覚悟がある。しかも今回の件で実績まで作ってしまった。


 国王は面白そうに片目を細めた。


「王冠をよこせと言わぬだけ、まだ慎みがあるな」


「いりませんわ、そんな面倒なもの」


 レティシアはあっさり答えた。


「王冠は重いし、刺繍が古臭い」


 何人かが咳を噛み殺した。


「ただ、その値段を決める権限は欲しいですけれど」


 王は笑った。


 年老いた獅子の笑いだった。


「よい」


 その一言で広間は再び静まり返る。


「お前を臨時王宮監査長に任ずる。任期二年。東部再建と王宮監査樹立を担え。気に入らねば途中で首を切る」


「ありがとうございます、陛下」


「礼を言うのが早い。お前に任せれば、恨みを買うぞ」


「慣れております」


「だろうな」


 こうして、悪徳令嬢はついに、公式に国の裏帳簿を握る立場に就いた。


 名誉回復どころの話ではない。


 断罪されるはずだった悪女が、王宮の監査役になる。


 王都の歴史でも類を見ない、痛快と呼ぶには棘の多すぎる逆転劇だった。


 評定が終わったあと、人気のない回廊でアルベルトが立っていた。


 半年前の眩しい王太子ではなく、急に年を取ったような顔の青年だった。


「レティシア」


 彼が掠れた声で呼ぶ。


 レティシアは足を止める。


「何かしら、元婚約者殿下」


「……やめてくれ、その呼び方は」


「では何と?」


「私は……君に、謝らなければならない」


 レティシアは少し首を傾げた。


「謝罪で済むことなら、世の中ずいぶん楽ですわね」


「わかっている。私が愚かだった」


「ええ」


「ヴィクトルを信じ、君を見なかった」


「ええ」


「君が何をしていたのか、何を背負っていたのかも」


「それで?」


 アルベルトは言葉に詰まり、そして苦しげに言う。


「……許してほしい、とは言わない。ただ、もし一つだけ願えるなら」


「願うだけなら自由よ」


「君が婚約者だった頃、私は本当に君を尊敬していた」


 レティシアは少しだけ目を瞬く。


 それは予想外だった。


「でも、君があまりにも強くて、賢くて、何でも一人でできてしまうから……だんだん怖くなった。私の隣にいるのに、私より高い場所を見ている気がして」


 彼の声は、自分に言い聞かせるようだった。


「だから、君を悪者にすると楽だった。私の小ささを見なくて済むから」


 レティシアはしばらく黙っていた。


 そして静かに答えた。


「それ、口に出しただけまだましよ」


「……そうか」


「でも、許しはあげない」


 彼は小さく頷いた。


「当然だ」


「ただし」


 レティシアは彼を見た。


「本気で償いたいなら、これからは“知らなかった”で逃げないことね。自分の名が何に使われ、誰が何をしているのか、目を逸らさないこと。王になるのかどうかは知らないけれど、人の上に立つなら最低限それくらいなさい」


 アルベルトは深く頭を下げた。


「……肝に銘じる」


 彼が去ったあと、レティシアはふうと息を吐いた。


 怒りが消えたわけではない。


 だが、終わったことも確かだった。


 過去に噛みつかれたままでは、前へ進めない。



 それから一年。


 王都は忙しく、醜く、そして少しだけましになった。


 臨時王宮監査庁は評判が悪い。何しろ貴族の帳簿を開け、修道院の寄付を数え、騎士団の幽霊兵を洗い、商会の裏契約を暴き、王族の印章管理すら確認するのだ。恨みを買わないはずがない。


 その長がレティシアである以上、なおさらである。


 けれど成果も出た。


 東部の失踪者数は激減し、交易路は復旧し、港湾税収は増えた。被害者救済基金も立ち上がり、保護された子供たちの多くが新しい居場所を得た。魔鉱石の管理も公開台帳化され、横流しは大きく減った。


 もちろん、腐敗が消えたわけではない。


 ただし今は、腐るたびに誰かが喉元を押さえに来る。


 それだけでも、世界は随分違う。


 ある春の日、王宮庭園の一角で、レティシアは茶会に呼ばれていた。


 主催は国王……ではなく、王太子位継承を辞退したアルベルトの弟、第二王子セドリックである。温厚で地味、目立たぬが聡明な男で、最近は政務の中心に引き上げられていた。


「姉上、と呼んでもいいですか」


 初対面のとき、彼は真顔でそう言った。


 レティシアは「嫌」と即答した。


 それでも彼は懲りず、いまなお距離感を測り損ねている。悪い人間ではない。


「監査庁の報告、読ませてもらいました」


 セドリックが穏やかに言う。


「相変わらず容赦がない」


「容赦してほしい相手が多すぎる王宮が悪いのです」


「確かに」


 庭の向こうではエリアナが、救済院の子供たちと花を植えていた。もう“聖女候補”の看板だけではなく、自分の意思で動く人間の顔をしている。


 カイは監察騎士隊の編成を任され、相変わらず真面目で、不器用で、時々信じられないほど頑固だ。アッシュは王都の表通りに合法商会を構えた。帳簿の扱いが上手すぎて、顧客が増えすぎて困っているらしい。リオネルは相変わらず誰の味方とも言えない顔で、でも肝心なところでは這い出してくる。


 どいつもこいつも面倒だ。


 だが、少しだけ愛着が湧いてしまった。


「お嬢様」


 ミレーヌが近づいてくる。


「本日の午後、三件の面会と二件の告発、そして一件の縁談が」


「最後のは燃やして」


「了解しました」


「迷いがなさすぎませんか」とセドリックが苦笑する。


「今は結婚より税収のほうが大事ですもの」


「普通の令嬢は逆です」


「普通じゃないので」


 そこへアッシュが現れた。手には何やら書類束。


「仕事の虫め」


 レティシアが眉を上げる。


「あなたも同類でしょう」


「否定はしない」


 彼は書類を卓上へ置き、少しだけ身を屈めた。


「東部の新市場、黒字だ。例の孤児院運営も安定してきた」


「上出来ね」


「それと、そっちは仕事じゃない話だ」


「珍しい」


 アッシュは一瞬だけ視線を逸らし、それからまっすぐ彼女を見る。


「今夜、時間あるか」


 横でミレーヌが小さく息を呑んだ。セドリックはにこにこしている。


「内容によるわ」


「食事」


「商談ならいつでも」


「商談じゃない」


 レティシアは数秒、彼の顔を見た。


 賭場の帳簿屋だった男は、いつの間にかずいぶんまともな顔をするようになった。相変わらず胡散臭さは消えないが、それでも以前より光の下に立てる顔つきだ。


「……考えておく」


「保留か」


「悪女は即答しないの」


「面倒な女だ」


「知ってるでしょう?」


 彼は笑った。


「だから好きなんだろうな」


 それだけ言って去っていく。


 ミレーヌとセドリックの視線が一斉にレティシアへ向いた。


「何」


「いえ、別に」とミレーヌ。


「何でもありません」とセドリック。


「気持ち悪いわね」


 その午後、執務室へ戻ると、窓辺に灰色の影がいた。


「不法侵入よ、リオネル」


「君は色気のない挨拶しかしないな」


「何か用?」


「大したことじゃない。国外筋の密輸路、ひとつ潰しておいた。ついでに北方貴族の裏金帳簿も回収した。褒めてくれていい」


「えらいえらい」


「棒読みだ」


 彼は肩をすくめる。


「まあいい。今日はそれだけじゃない。君に伝言を」


「誰から?」


「陛下から。“お前は相変わらず憎たらしいが、よく働く”とのことだ」


「最高の賛辞じゃない」


「だろう?」


 リオネルは窓枠に腰をかけ、少しだけ真顔になる。


「……君は変えたよ、レティシア」


「何を」


「王都の流れを」


「大げさね」


「そうでもない。皆、前より少しだけ“知らなかった”で済まされないと知った」


 レティシアは静かに息を吐いた。


 たしかに、それは大きい。


「ところで、君は結局何が欲しい」


「急に哲学めいたことを聞くのね」


「暇だからだ」


「嘘。あなた暇なときほどよく働くじゃない」


「ばれてるか」


 レティシアは窓の外を見た。


 庭園の向こう、王都の空は明るい。街は汚れ、うるさく、厄介で、それでも人が生きている。


「欲しいもの、ね」


 彼女は少し考えた。


「たぶん……誰かが勝手に奪えないものかしら」


「名声? 権力? 金?」


「それらは全部、奪われるわ」


「なら?」


「わたくしが何をして、何を守って、何を壊したか。その結果だけは、誰にもなかったことにされたくない」


 リオネルは微笑んだ。


「なるほど。君らしい」


「悪女ですもの」


「いや」


 彼は首を振る。


「もう少し面倒で、複雑で、救いがたいが、悪くない」


「褒め方が下手ね」


「君ほどではない」


 その夜、レティシアは珍しく早めに仕事を切り上げた。


 アッシュとの食事に行くため……と言うと、たぶんミレーヌが卒倒するので、本人には「東部絡みの報告」とだけ伝えた。嘘ではない。半分は。


 黒い外套を羽織り、王宮の裏門から出る。


 夕暮れの王都は、灯りがひとつずつ点き始めていた。


 半年前、この街は彼女を悪女と呼び、断頭台の前座のように扱った。今も悪女と呼ぶ者は多い。けれどそれでいいと、レティシアは思う。


 名誉など気まぐれだ。愛情などなおさら不安定だ。


 でも、嫌われながらも仕事を成し、嘲られながらも結果を積み、誰かの生存率を一つでも上げられるのなら。


 それはきっと、悪女としては上出来だ。


 路地を曲がった先、街灯の下でアッシュが待っていた。


「遅い」


「待たせるのも趣味なの」


「最悪だ」


「知ってるでしょう?」


 彼は笑い、軽く手を差し出す。


「行くか」


 レティシアはその手を見て、一瞬だけ躊躇した。


 誰かの手を取るのは、帳簿を取るより難しい。


 だが結局、彼女はその手をとった。


「ええ。でも勘違いしないで。これは取引よ」


「何の?」


「今夜だけ、少し機嫌よく過ごすための」


「それなら破格だ」


 並んで歩き出す。


 王都のざわめきは遠く、夜風はやわらかい。


 黒薔薇はまだ棘だらけだ。


 けれど棘があるからこそ、簡単には折れない。



 後年、王都の歴史家たちはこの時代をさまざまに記した。


 “監査改革の始まり”

 “東部再建の転換点”

 “王太子政変未遂”

 “黒薔薇事件”


 だが民衆が一番よく覚えていたのは、もっと単純な話だった。


 ――悪徳令嬢が、本当に悪い奴らを食った。


 それだけだ。


 レティシア・レイヴンズベルクは、その後も多くを暴き、多くを怒らせ、多くを救い、さらに多くを敵に回した。彼女が天使として讃えられることは最後までなかったし、本人も望まなかった。


 なにしろ彼女は、最後までこう言っていたからだ。


 ――わたくし、善人じゃありませんもの。


 けれど善人ではないことと、正しい側に立てないことは、同じではない。


 悪女には悪女のやり方がある。


 微笑みながら値切り、紅茶を飲みながら脅し、舞踏会のような顔で戦場を渡る。美しく、醜く、計算高く、時おり驚くほど不器用に。


 世界は簡単には救われない。

 人は簡単には変わらない。

 愛も赦しも、都合よく落ちてはこない。


 それでも。


 断罪の夜に笑えた女は、次の夜にも笑える。

 追放の道を王座への階段に変えた女は、何度でも立ち上がる。

 誰かに貼られた“悪女”の札を、逆に自分の剣へ変えた女は、もう簡単には負けない。


 だから今日もまた、王宮のどこかで紙の束が積まれ、どこかの貴族が青ざめ、どこかの役人が胃を痛め、どこかの子供が温かい寝床で眠っている。


 その中心で、レティシアは多分こう言うだろう。


「まったく。働かせすぎですわね、この国は」


 黒薔薇は咲き続ける。


 誰かに愛でられるためではなく、踏みにじろうとする足を、容赦なく刺すために。


 そしてもし、いつかまた誰かが彼女を断罪しようと壇上へ立つのなら。


 そのとき彼女は、たぶん昔と同じように、少しだけ笑って言うのだ。


 ――準備が甘いですわ、と。

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