エピローグ
警報の鳴らない朝だった。それだけで、少し世界が静かに思える。研究室の窓から薄い光が差し込み、机の上に散らばった工具を淡く照らしていた。
空は相変わらず灰色だった。遠くでは黒煙も上がっている。きっとどこかで、今日も誰かが死んでいる。戦争は終わっていないし、世界は何も変わっていない。
それでも、──変わったものも、確かにあった。
小さく沸騰する音が部屋に響いており、薫は鍋を覗き込みながら眉を寄せた。
「……あれ、これ火強かった?」
『三分前から温度上昇率が高くなっています』
後ろから穏やかな声がして、薫が振り返る。そこにはベルが立っていた。
ショートボブの黒髪に、人間に近くなった肌、そして昔より自然になった表情。けれど、その静かな瞳だけは変わらない。
「もっと早く言ってよ」
『観察していました』
「なにそれ」
薫はくすくす笑いながら鍋へ向き直った。
ゆっくりキッチンへ近づくベルの歩き方は、十年前よりずっと柔らかかった。
──でも時々思う。
ふとした瞬間に残る癖が、昔のリナと同じだと。視線を向ける間、言葉を置くタイミング、静かな立ち方。その全部が、薫の胸を苦しくするくらい懐かしい。
『……シチューですか』
薫の手が止まる。
「うん、覚えてる?」
リナは鍋を見て、白い湯気と柔らかい匂いに覚えがあったのか、その後静かに答えた。
『あなたが"好き"だと言っていました』
その返答に薫は少し俯く。
昔と同じ返し方、でも違う。今のベルには感情がある。声に温度があって、微かな間の取り方がある。
薫は十年前の夜を思い出す。治癒カプセルの中で白くなっていく髪、そして最後に浮かべた微笑み。
何度夢に見たか分からない。忘れたことなんて、一度もなかった。
――置いていかれたと思った。
あの日からずっと、一人だけが生き残ってしまった気がしていた。
世界にはたくさんの人がいて、たくさんの声もあるのに、ずっと薫の心は静かだった。 ベルがいないだけで、こんなにも世界は冷えるのかと思った。
「……ベル」
『はい』
薫は少し迷ってから口を開く。
「今の君ってさ」
言葉が詰まる。思っても言葉にするのは怖かった。聞いてしまえば、壊れてしまう気がした。
それでも聞かずにはいられなかった。
「……あの時のベルなのかな」
部屋が静かになる。外では遠く爆発音が響いていた。ベルはすぐには答えなかった。
ゆっくり視線を落とし、自分の手を見る。白くない黒髪が前へ垂れた。
『記録は存在しています』
静かな声が部屋へ響く。
『あなたと過ごした時間も』
『あなたを守った記録も』
薫は息を飲んだ。
『ですが、完全に同一存在であるとは証明できません』
やっぱり、と思った。科学的にはそうなのだろう。同じ記憶があっても、同じ声でも、失われた時間まで戻るわけじゃない。それでもベルは──。
ベルはゆっくりと薫を見る。その瞳は、とても静かだった。
『……ですが』
僅かな間が生じる。
『あなたを見ていると、胸部あたりにある内部装置が温かくなります』
その言葉に薫の目が揺れる。
『離れたくないと思います』
『あなたが泣いていると苦しくなります』
ベルは小さく首を傾げた。
『これは、十年前の私と同じでしょうか』
薫は答えられなかった。喉が熱く、涙が滲んでいった。
同じかなんて分からない。本当にあの日のベルなのかも分からない。
でも、そんなこと、どうでもよかった。
だって今、目の前で自分を見ている。自分の名前を呼んでいる。笑ってくれている。
それだけで、薫には十分だった。
嬉しそうに薫は小さく笑った。
「……うん」
涙声のままで答える。
「きっと、同じだよ」
ベルは数秒薫を見つめ、そして、本当に穏やかに微笑んだ。
「……よかった」
その瞬間、薫は思った。
世界はまだ壊れたままだ。戦争も終わらなければ、失ったものも戻らない。それでも……、人はきっと、こういう小さな温度のために生きていくのだと。
ふと、薫は窓の外へ目を向ける。
朝日が少しだけ灰色だった空を照らしていた。空がほんの一瞬だけ青く見えたような気がした。
完結です。ここまで読んで頂きありがとうございました。




