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ノイズ〜色褪せた世界で笑う君の隣で〜  作者: 春本 天


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7/7

エピローグ

 警報の鳴らない朝だった。それだけで、少し世界が静かに思える。研究室の窓から薄い光が差し込み、机の上に散らばった工具を淡く照らしていた。

 空は相変わらず灰色だった。遠くでは黒煙も上がっている。きっとどこかで、今日も誰かが死んでいる。戦争は終わっていないし、世界は何も変わっていない。

 それでも、──変わったものも、確かにあった。

 小さく沸騰する音が部屋に響いており、薫は鍋を覗き込みながら眉を寄せた。


「……あれ、これ火強かった?」

『三分前から温度上昇率が高くなっています』


 後ろから穏やかな声がして、薫が振り返る。そこにはベルが立っていた。

 ショートボブの黒髪に、人間に近くなった肌、そして昔より自然になった表情。けれど、その静かな瞳だけは変わらない。


「もっと早く言ってよ」

『観察していました』

「なにそれ」


 薫はくすくす笑いながら鍋へ向き直った。

 ゆっくりキッチンへ近づくベルの歩き方は、十年前よりずっと柔らかかった。

 ──でも時々思う。

 ふとした瞬間に残る癖が、昔のリナと同じだと。視線を向ける間、言葉を置くタイミング、静かな立ち方。その全部が、薫の胸を苦しくするくらい懐かしい。


『……シチューですか』


 薫の手が止まる。


「うん、覚えてる?」


 リナは鍋を見て、白い湯気と柔らかい匂いに覚えがあったのか、その後静かに答えた。


『あなたが"好き"だと言っていました』


 その返答に薫は少し俯く。

 昔と同じ返し方、でも違う。今のベルには感情がある。声に温度があって、微かな間の取り方がある。

 薫は十年前の夜を思い出す。治癒カプセルの中で白くなっていく髪、そして最後に浮かべた微笑み。

 何度夢に見たか分からない。忘れたことなんて、一度もなかった。

 ――置いていかれたと思った。

 あの日からずっと、一人だけが生き残ってしまった気がしていた。

 世界にはたくさんの人がいて、たくさんの声もあるのに、ずっと薫の心は静かだった。 ベルがいないだけで、こんなにも世界は冷えるのかと思った。


「……ベル」

『はい』


 薫は少し迷ってから口を開く。


「今の君ってさ」


 言葉が詰まる。思っても言葉にするのは怖かった。聞いてしまえば、壊れてしまう気がした。

 それでも聞かずにはいられなかった。


「……あの時のベルなのかな」


 部屋が静かになる。外では遠く爆発音が響いていた。ベルはすぐには答えなかった。

 ゆっくり視線を落とし、自分の手を見る。白くない黒髪が前へ垂れた。


『記録は存在しています』


 静かな声が部屋へ響く。


『あなたと過ごした時間も』

『あなたを守った記録も』


 薫は息を飲んだ。


『ですが、完全に同一存在であるとは証明できません』


 やっぱり、と思った。科学的にはそうなのだろう。同じ記憶があっても、同じ声でも、失われた時間まで戻るわけじゃない。それでもベルは──。

 ベルはゆっくりと薫を見る。その瞳は、とても静かだった。


『……ですが』


 僅かな間が生じる。


『あなたを見ていると、胸部あたりにある内部装置が温かくなります』


 その言葉に薫の目が揺れる。


『離れたくないと思います』

『あなたが泣いていると苦しくなります』


 ベルは小さく首を傾げた。


『これは、十年前の私と同じでしょうか』


 薫は答えられなかった。喉が熱く、涙が滲んでいった。

 同じかなんて分からない。本当にあの日のベルなのかも分からない。

 でも、そんなこと、どうでもよかった。

 だって今、目の前で自分を見ている。自分の名前を呼んでいる。笑ってくれている。

 それだけで、薫には十分だった。

 嬉しそうに薫は小さく笑った。


「……うん」


 涙声のままで答える。


「きっと、同じだよ」


 ベルは数秒薫を見つめ、そして、本当に穏やかに微笑んだ。


「……よかった」


 その瞬間、薫は思った。

 世界はまだ壊れたままだ。戦争も終わらなければ、失ったものも戻らない。それでも……、人はきっと、こういう小さな温度のために生きていくのだと。

 ふと、薫は窓の外へ目を向ける。

 朝日が少しだけ灰色だった空を照らしていた。空がほんの一瞬だけ青く見えたような気がした。

完結です。ここまで読んで頂きありがとうございました。

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