凡才な平民ギルド職員、冷遇された才媛魔導士を手助けしたら「生涯を共にしたい」と衆目の前で求婚される話
子どもの頃は何かになれると憧れ、大人になるにつれ現実が見えてくる。
そうして、人は、だいたい自分が「特別じゃない」と気づく。
俺もその一人だ。
名前はセイン・アルバ。生まれも育ちも平民。少し学があったおかげで、魔導士ギルドの職員になった。就職先は辺境の支部で、配属された俺は雑多な事務仕事をこなしていた。
書類整理、予算管理、依頼の振り分け、魔導士たちのスケジュール調整──そういう、戦うでも研究するでもない、地味で面倒な裏方仕事。
勤勉とまでいかなくとも真面目に働く気質のおかげで、「仕事はできるほう」くらいには評価されていたが、別に飛び抜けて優秀というわけでもない。
魔導全盛期のこの時代に生きていながら、俺の魔力量は平均以下で、剣も振れないし、頭だって良くてそこそこだ。
自分で言うのもなんだが、まあ、"凡才"なんだろう。
だからこそ、就職してからも俺は張り切ることはなかった。
大魔導師になれるわけもなく、ギルドで出世したいという野心もない。
せいぜい、食いっぱぐれない程度の地位を確保して、真っ当な暮らしができたら十分だ──と思っていたのに。
のんびり構えていた俺が、中央本部に異動になったのは、ほんの数ヶ月前の話だ。
名目は「人手不足の解消」。
実態は「誰でもいいから穴埋めに寄こせ」という本部の雑な要請に、支部長が「じゃあ、セインで」と軽く返した結果だった。
現地で採用・教育しろよとか本人の意向ぐらい確認しとけ、と内心悪態はついた。が、組織に逆らえないのは末端職員の悲しい性だ。
切り替えて、凡才には凡才なりの需要がある。人手不足の現場では悪いようにされないだろうと高をくくっていた。
ただひとつ、予想外、いや予想以上だったのは──本部の空気の悪さだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
中央本部は、噂以上にギスギスしていた。
まず、雰囲気が重い。
魔導士ギルド本部といえば、本来は優秀な魔導士や研究者が集い、日々新しい術式や魔道具の開発を行う──叡智と魔導の殿堂、のはずだ。
だが、俺が着任して目にしたのは、苛立った顔で廊下を歩く魔導士たち、疲れ切った表情の職員たち、そして誰も目を合わせようとしない、張りつめた空気だった。
「セインくんだっけ?悪いね、本部に来たばかりなのに」
部署の先輩である中堅職員、ルガートが肩を竦める。
「着任早々でアレだけどさ。本部は今、ちょっと荒れてる」
「……“ちょっと”で済むんですかね?」
「済んでないね。全然」
でしょうね、と思った。
彼の説明によれば──。
先代ギルドマスターは温厚で、実力主義ながら育成にも熱心な人物だったらしい。
しかし、病で倒れ、後任として据えられた現ギルマスは、とにかく分かりやすい派閥主義者。
自分に従う者だけを重用し、それ以外は雑に扱う。さらに先代がよほど憎いのか、先代が育てていた若手を露骨に遠ざけ、中堅以上には無茶な仕事を押し付けて、潰れても気にしない。
そして──何より変化を嫌う。
「新しい術式の提案、運用の効率化、新規プロジェクト……全部“前例がない”の一言で潰される。で、現場の負担だけ増えていく。ね、素敵だろ?」
「……笑えないです」
「そうなんだよなぁ……」
平民出身の俺には、権力争いなんて遠い世界の話だと思っていた。だが、トップがアレだと下っ端までしっかり影響が降りてくるらしい。
人事は歪み、仕事は偏り、疲弊した人間ばかりが増えていく。
そして、本当に優秀な人間ほど、そんな環境でもそれなりの成果を出してしまうせいで、余計に扱き使われる──。
そして、その最たる例が。
「……フォルティナさんか。」
「目端が利くんだね、セインくん」
ルガートが苦笑する。
「エリス・フォルティナ。先代ギルマスの愛弟子。平民出身だけど魔導の才は本物。術式設計も運用もできるし、現場だってこなせる“何でも屋”だよ」
「万能型、ですか」
「そう。だから何でも押し付けられてる。現ギルマスに」
……嫌な予感しかしなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
予感は、すぐに確信に変わった。
着任してたった数日。
俺は中央本部の一角──資料室奥の簡易オフィスの前で足を止めた。
扉の向こうから、紙束が崩れる音と、押し殺したようなため息が聞こえたからだ。
「……失礼します」
ノックして扉を開けると、噂以上の光景が広がっていた。
書類の山、山、山。
机の上、隣の小机、その下の箱、床に積まれたフォルダ──まるで紙の墓場だった。
その中心に、ひとりの女性魔導士が埋もれていた。
淡い金髪を簡素に束ね、青いローブの袖を肘までまくり上げ、片手で書類をめくりながら、もう片手で術式修正案を書き込んでいる。
彼女が、エリス・フォルティナ。
先代ギルマスの秘蔵っ子にして、現ギルマスから不当に酷使されている才媛──その人だった。
忙しさに慣れた者特有の無駄のない動き。だが、横顔に滲む疲労は隠しきれていない。
「……あの」
声をかけると、彼女はぴくりと肩を揺らし、慌てて顔を上げた。
「っ、すみません! 今、何か──」
「総務のセイン・アルバです。先日支部から異動してきました。今日から本部勤務でご挨拶にと」
「あ……」
そこでようやく、彼女は少しだけ表情を和らげた。
「エリス・フォルティナです。魔導技術部所属……でしたが、今は色々と雑務も兼任しています」
“色々”の中に、一体いくつの部署が混じっているんだろう……考えたくない。
部屋をざっと見回した瞬間、俺は確信した。
──これは忙しさで積もった量じゃない。仕事の流れそのものが破綻している。
「フォルティナさん」
「エリスで構いません」
「じゃあ、エリスさん。この書類……魔導士ギルド全体の案件が混ざってますよね?」
「え?」
彼女が瞬きをする。
「魔導技術部の研究関連、実験許可申請、本部予算案、支部からの問い合わせ……更に魔導士のスケジュール調整。本来、部署ごとに分かれてるはずのものが、ほぼ全部“あなた一人”に集まってます」
「……はい。ここ数ヶ月で、なぜか色々と、私に回ってくるようになってしまって」
“なぜか”じゃないだろうな、と心の中で呟く。
現ギルマスの顔が浮かんで、胃が少し痛くなった。
「正直言いますと、エリスさん」
「はい……?」
「これ、"あなた一人"で抱えていい量じゃありません。というより、本来の分担から完全に逸脱してます」
「……ですよね」
小さく苦笑が漏れる。
微笑むというより、諦めて笑っている。その表情が、妙に胸に刺さった。
「分かってはいるんです。けれど私が断ると、他の人にもっと理不尽な負担が行ってしまうでしょう? それなら、私が受けたほうが……と思ってしまって」
…あぁ、こういうタイプなのか。なんでも抱え込んで、自分の限界が壊れるまで我慢するやつだ。
そして──こういう人が壊れる時が、一番組織にダメージが大きい。
「エリスさん」
「……はい?」
「そのお考え、周りが助かっているように見えて、結局は誰も助かってません」
「……厳しいですね」
「事実ですから」
少し沈黙が流れた。
彼女の視線が、机の上の紙束へと落ちる。今、彼女の中で何かが崩れかけているのが分かった。このまま放置すれば、間違いなく近いうちに折れる。
才媛として名高い彼女が、才気溢れる有望な人間が、潰されていく様を"凡才"たる俺には──どうにも、見過ごせなかった。
「エリスさん」
「……はい」
「よければ、少しだけでも手助けさせてください。」
驚いたように、彼女の瞳がこちらを向いた。
「え……でも、セインさんは本部に来たばかりで、そんな──」
「本部に来たばかりだからこそ、です」
俺は、書類の束の一番上をめくりながら言った。
「"総務"ですから。逆にここまで集中していれば、どの部署で何がどのくらい滞ってるのか、把握するにはちょうどいいです。それに、俺、"整理整頓"は得意なんです。」
「……得意、なんですか?」
「ええ。支部では、よく“面倒”な案件を押し付けられてましたから」
凡才でも、場数だけは踏んできた。
だからこそ、こういう紙の山なんて、慣れている。……規模は桁違いだが。
「まずは分類から始めましょう。これは技術部、これは管理部、これは人事、これ、うわ…本来ならギルマスの決裁案件……」
仕分けながら、エリスに顔を向ける。
「あなたの本来の仕事は、魔導技術部としての研究と、その実務的な運用ですよね?」
「はい……そう、です」
「なら、それ以外は、なるべく俺が抱えます。根回しも含めて」
そう言うと、エリスは慌てて首を振った。
「そんな、セインさんにばかり負担を──」
「いいえ、これは俺の"仕事"です」
淡々と言い切ると、彼女がぽかんとする。
「エリスさん。“仕事”を奪うのは悪人のすることです。あなたがすべきなのは、人から取り上げることじゃない。自分の“本来の仕事”を全うするために──最善を尽くすことです。違いますか?」
その瞬間、エリスの瞳に、少しだけ光が戻った気がした。
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そこからの数週間は、なかなかに忙しかった。
まず俺は、エリスに集中してもらうため、彼女の机から“管轄外の書類”を引き剝がしていった。
各部署の担当に話を通し、「この案件、本来はそちらの管轄ですよね」と穏やかに押し返す。
中には嫌な顔をする相手もいたが、そこはルガートや他のまともな職員たちの協力もあって、どうにか折り合いをつけた。
同時に、エリスが抱えていた彼女の“本来の仕事”の優先順位も整理した。
研究計画、術式改良案件、暴走リスクのある古代魔法の調査、各地からの魔導支援要請──。
「……セインさん、これ、本当に私の仕事だけでこんな量が」
「ええ。逆に言えば、今まではそれ“以外”のものまで押し付けられてたわけです」
「…………」
エリスは黙り込んだあと、ぽつりと呟いた。
「やっぱり……おかしかったんですね、私の状況」
「おかしいですよ。まともじゃない」
他人事みたいに言うと、エリスは少しだけ笑った。
その笑みはまだ弱々しいが、前よりもだいぶ息をつけているように見える。
「セインさんは……不思議な人ですね」
「よく言われます。向こうでも困ったらセインに投げとけって」
「ひどい言われよう……」
「…褒め言葉ですよ、たぶん」
実際、支部でも問題児の“担当”やら面倒事の“後始末”やら、よく押し付けられていた。
規律を重んじるギルドの中で、新しいことを試みれば何かしらトラブルは発生する。
試みを受け止めつつ、組織として破綻しないように潤滑させるのが、俺の仕事だった。
その際、重要なのは先入観で切り捨てないことだ。数多くの失敗と掴み取った成功を重ねて学んだことでもある。
それだけが、"凡人"たる俺の取り柄だ。
だからこそ、俺の"直感"が告げていた。
「……エリスさん」
「はい?」
「今、本当にやりたいことって、なんですか?」
そう聞くと、彼女は一瞬ぎょっとした顔になった。
そして、少しの沈黙の後、観念したように笑った。
「古代術式の再解析です。特に、暴走したときの収束過程に興味があって」
「暴走を“止める”んじゃなくて、“収束させる”?」
「はい。止めるだけなら封印や遮断でいい。でも、積み上がった魔力を安全な形で逃がす術式があれば……魔導被害はもっと減らせるはずです」
その瞬間のエリスの横顔は、仕事に追われていたときとはまるで違っていた。
純粋に楽しいものの話をするときの、子どものような光。
これを見た瞬間──ああ、俺はこの人を放っておけないな、と、妙にしみじみ思ってしまった。
「良いですね」
「……良い、ですか?」
「はい。少なくとも、俺みたいな"凡人"には到底思いつかない発想です」
言うと、エリスは照れたように目を逸らした。
「……セインさんは、もっと自分を評価してもいいと思います」
「これ以上になく正確だと思ってますが?」
「…そういうところですよ」
苦笑まじりのやり取りの中で、少しずつ、エリスの表情は柔らかくなっていった。
書類の山は減り、彼女の研究時間は確保され、少しずつ本来のリズムを取り戻していく。
俺の一日のタスクは増えたが、不思議と苦にはならなかった。
むしろ──楽しかった。
凡才の自分が、誰かのために役に立っていると実感できるのは、思っていたよりずっと気持ちが良かった。
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「なあ、セイン」
ある日の夕方、休憩室でルガートが話しかけてきた。
「最近、フォルティナ嬢の顔つきが柔らかくなったと思ったら……お前、何やった?」
「正しく仕事の分配をお願いしただけですよ」
「おぉ、怖いねぇ…。あれな、ギルマスが聞いたら発狂するぞ」
そんな大層なことをしたつもりはない。ただ、歪んだ流れを少し戻しただけだ。
「まあでも、本部の皆は助かってるよ。フォルティナ嬢、この前までいつ爆発するか分からない火薬だったからな。…あの人がキレたら本部ごと吹き飛ぶって、本気で囁かれていたからさ」
「…危険物扱いなんですね」
「まぁ、刃物みたいなもんだよ。ちゃんと扱えば最高の武器や道具になるが、放っとけば自分に返ってくる。……問題は、上がそれを分かってないところだな」
ルガートは肩をすくめる。
「それはそれとして。お前のほうはどうなんだ?」
「どうとは?」
「とぼけるなよ。フォルティナ嬢、最近お前を見る目が完全に“信頼のおける人”を見るそれだぞ。ちょっと前まで、誰を見ても『失望したくない』って警戒して距離取られていたのに」
「……観察が細かいですね」
「職業病だ」
確かに、エリスの態度は変わってきている。
最初は遠慮と警戒で距離を置いていたはずなのに、今では困ったときの最初の相談相手になってしまっていた。
ふと礼を言われることも多い。
「セインさんがいてくれて、助かりました」
その一言が胸の奥で小さく響くたびに、なんとも言えない感覚がくすぶる。
尊敬?
好意?
憧れ?
どれも少し違う気がする。もっと厄介で、もっと自覚したくない何かだ。
ただ、俺は"凡才"で木っ端なギルド職員だ。
関係者が口を揃えて認める才媛で、ギルド中の注目を集める魔導士に、自分からどうこうしようなんて、大胆なことはできない。
この距離感のまま、穏やかに続けばいい。それが正解だと、そう思っていた。
──その考えが、甘かったと気づくまでは。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
異変が本格的に表に出始めたのは、本部全体が慌ただしくなり始めた頃だった。
原因は、近々開かれる魔導士ギルドの「総会」だ。
各地各拠点の支部長や代表魔導士が一同に会し、活動報告や新しい施策の承認を行う、年に一度の大イベント。
現ギルマスにとっては、自分の統治を誇示する絶好の舞台だ。
だからこそ──彼は焦っていた。
先代ギルマスの影響力を完全に払拭し、自分の色に塗り替えた姿を見せたい。そのためには、「先代の遺産」であるエリス・フォルティナの存在は邪魔でしかない。
そんな空気が、ひしひしと伝わってきた。
「最近、エリスさんのところに来る仕事、少し変じゃないですか?」
ある日、俺がそう言うと、ルガートが渋い顔をした。
「あー……気づいたか。さすがだな、お前」
「やたらと“成果の見えない調査案件”とか、“他部署の失敗の尻拭い”とか多くなってます」
「だな。明らかに、“失敗したら責任を押し付けやすい”案件だ」
嫌な予感が、じわじわと濃くなっていく。ルガートが別れる前に耳打ちしてくる。
「とある情報筋から聞いた話だが…、ギルマスの野郎、『ちょうどいい。あれを追い落とす好機だ』って張り切っていたらしいぞ」
俺はエリスの元へ向かう足取りが重くなっていた。右手に握るこの発案書が原因だ。
古代の危険指定術式を再現するという、危うさの塊みたいな計画が書かれている。扱いを間違えれば、都市ごと吹き飛ばしかねないほど、難題極まりない内容なのだが…。
本来なら厳重な管理下で慎重に進められるべき話が、なぜかこっそりと、エリスの担当として回されてきていた。
「これ……おかしくないですか?」
資料を見て、エリスが顔を曇らせる。
「危険指定術式の再現実験が、こんな簡素な承認プロセスで通るなんて……」
「誰が通したんです?」
「現ギルマスのサインになっています」
ため息が出そうになった。
エリスは、不安そうに資料をめくりながら言う。
「でも……これを断れば、きっとまた誰かにしわ寄せがいってしまう。それに、危険はありますが、私の研究とも関連があります。収束術式のデータが取れる可能性も……」
そう言いながらも、彼女の声は心なしか震えていた。
これは、明らかに“罠”だ。
失敗すれば「先代の関係者がやらかした」と大々的に公表できる。
成功しても、功績はギルマスが横取りする。
よくもまぁ、狡い手を思い付くものだ。
…反吐が出る。
「エリスさん」
俺は、真剣な声で言った。
「これをひとりで抱えるのは、間違いなく危険です」
「……分かっています。でも──」
「だから、俺にも噛ませてください」
彼女が驚いたように目を見開く。
「セインさん?」
「術式の内容は分かりません。魔導のことは、あなたに任せるしかない。でも、実務上の管理とリスクの洗い出しは、俺にもできます」
俺の仕事は、“現場を潤滑に回すこと”だ。
それは支部でも、本部でも、変わらない。
「何かあったとき、全部あなたのせいにさせないためにも。俺に出来る範囲で、絡ませてください」
エリスは、しばらく黙って俺の顔を見つめていた。
やがて、深く息を吐いて、小さく頷く。
「……分かりました。頼らせて、ください」
その瞬間、俺は腹を括った。
この案件で、また彼女一人に抱え込ませはしない、と。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
結果から言うと──悪い予感ほど、よく当たる。
総会を目前に控えたある日。
本部の一角──実験用の区画スペースで、魔力暴走が発生した。実験区画の壁面が、内側から押し広げられるように軋んでいる。床の魔力陣は、赤黒く脈動し、ひび割れが走っていた。
原因は、例の危険指定術式の試験運用だ。
エリスが設計した“収束用の安全装置”を無視し、ギルマス派の魔導士が勝手に魔力量を上乗せしていたらしい。
理由は簡単だ。
「もっと派手な成果を出せば、総会で自分たちが目立てる」と思ったからだ。
結果、術式は暴走し、魔力の奔流が実験区画を飲み込んだ。状況を把握するために、現場に来ていた俺たちは、運悪く巻き込まれた。
「セインさん!!」
「くっ……!」
先頭にいた俺は咄嗟に防御結界の簡易版を起動し、近くにいた職員たちを庇った。
なんやかんや言って、魔導士になりたかった頃に覚えた自己防衛用の術式だ。
だが、押し寄せてくる魔力の圧は容易く俺の許容限界を超えてきた。
視界が白く染まり、耳鳴りが響く。
吹き飛ばされる寸前──誰かの叫び声が聞こえた。
「セインさん!!」
次に意識が戻ったとき、俺は床に倒れていた。
頭に鈍い痛みが走り、身体のあちこちが痛みを訴える。
幸いなことに、あれで軽い打撲と魔力酔いで済んだらしい。
視界の端で、暴走した魔力が渦を巻いているのが見えた。
封じきれなかった術式が、今にも制御を失い、本部全体を巻き込もうとしている。
(……っ、最悪だな、これ)
身体を起こそうとした瞬間、肩を支える腕があった。
顔を見上げると、エリスがいた。
泣きそうな顔で、でも、決意を固めた目をして。
「セインさん……! よかった、気がついて……!」
「大丈夫……ですよ。ちょっと、頭が回らないだけで」
「ちょっとで済んでません!!下手したら──」
「…今は俺のことより…。この魔力暴走、止めないと…」
わざと遮った俺に対して、エリスは怒ったように目を細めた。
「どうして、いつもそうなんですか……! 自分が傷ついても、人のことばかりで……!」
そこまで言って、彼女は一度息を呑み、必死に落ち着こうとする。
「……セインさん」
真剣な声だった。
「私は、今からあの暴走を止めます」
「できるんですか」
「やります。でなければ、セインさんが庇ってくれた人たちも、私を信じてくれた人たちも、皆無駄になってしまう」
その瞳には、迷いも恐れもなかった。
ああ、やっぱり──この人、本当に強いな。
俺はゆっくりと息を吸い、微笑んだ。
「……信じてますよ」
「……え?」
「あなたなら、大丈夫です」
そうすることしかできない自分に、苦笑が漏れる。
だが、不思議と、"凡才"だからと自嘲する時より気分は悪くなかった。
エリスは、唇を噛んで俯き──そして顔を上げた。
「……本当に、ずるい人です」
「え、なんで?」
「そんな風に言われたら…、絶対成功させるしかないじゃないですか!」
涙の痕を拭い、彼女は暴走する魔力の渦へ向き直った。
ローブの裾がひるがえり、金の髪がふわりと宙に浮く。
その背中は、誰よりも頼もしかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
結局、エリスが何をしたのか、俺には分からずじまいだった。
彼女曰く、暴走した術式の構造を把握し、その上で、別の術式を重ねて魔力の流れを“収束”させた、と。
要は止めるのではなく、行き場を与える。増水する河をせき止めて氾濫させるのではなく、別の水路に流し込んで落ち着かせるのと同じ、と。
"凡才"の俺は、説明をされてもぼんやりとしか理解できなかったが、一緒に聞いていた周りも同じような反応だったから、これはエリスが飛び抜けているだけなんだろう。
俺は彼女の周囲に魔法陣が幾重にも展開し、輝きが強まり、やがて暴走の光が静かに沈んでいく様を眺めていた。
そして、最後の一筋の光が消えたとき、実験区画は静寂に満ちていた。
崩落も、爆発も、本部全体への被害も──何ひとつ起きなかった。
代わりに残ったのは、エリスの新しい術式と、その記録だけだ。
「……やった、のか」
誰かが呟いた。
次の瞬間、周囲から安堵と歓声が湧き上がる。
その中で、俺はただ、エリスの背中を見ていた。
彼女は肩で息をしながらも、しっかりと立っていた。
額から汗は流れ、指先が震えている。それでも倒れなかった。
ぎりぎりで踏みとどまり、本部を守り抜いた、その姿を──
俺は、ただ胸が痛くなるほど誇らしいと思った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
後始末は、想像以上に慌ただしかった。
暴走の原因究明、責任の所在、報告書作成、魔力残留の確認──やることは山ほどあったが、幸い、大きな人的被害はなかった。
そして、調査が進むうちに明らかになってきた事実。
危険指定術式の発動条件を書き換え、暴走を誘発しやすくしていた魔導士がいたこと。
その背後に、現ギルマスの指示があったこと。
──すべてが露呈するまで、そう時間はかからなかった。
総会を前にしての大スキャンダルに、本部は騒然となった。
現ギルマスは解任され、派閥関係者の役職持ちはほとんどが更迭された。
エリスは、本来なら“共犯者”として巻き込まれていてもおかしくなかったが──暴走を止めた実績と、その前後の記録から、むしろ“被害者”として認定され、更に“功績者”として称えられた。
その結果として、魔導士ギルド総会では、“新生の象徴”として彼女が前面に押し出されることになった。
そして、ついでのように。
「セイン・アルバ。異動してからの尽力が評価された。正式に“内部統括補佐官”として任命する。おめでとう!」
「……マジですか」
俺は"内部統括室長”に昇格しているルガートに背中を叩かれながら、副ギルマスから半ば呆然と任命書を受け取っていた。
「お前なぁ。ここまで本部の再建に貢献している奴、他にいないんだぞ?地味に、かなりとんでもないことしてる自覚を持て」
「…ルガート"室長"には言われたくないですね」
「ハッハッハッ!俺はただ、お前に乗っかっただけだ。じゃなきゃ、今も死んだ目で雑用係してたわ」
「……食えない人だ」
軽口を叩きながらも、胸の奥では妙なざわつきがあった。
“内部統括補佐官”。
肩書きとしては、"凡才"の俺には出来すぎだ。
けれど、周りの空気はそれが当然だと受け入れている。
──そうか。
俺が思っている以上に、俺のやったことは誰かを助けていたのか。
そんな実感が、じわじわと、ゆっくり胸に降りてきた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
魔導士ギルド総会の日。
本部の大広間には、各地の支部から錚々たる顔ぶれが揃っていた。
新しいギルドマスター候補や、各支部長、名のある魔導士たち。
そして、その前で功績者たちへの表彰と、新体制の発表が行われる。
彼女の名前が呼ばれたとき、場内はひときわ大きなどよめきに包まれた。
難題だった魔力暴走の収束を実現した新術式の開発者。
古代術式の暴走を一人で鎮めた功績者。
そして、ギルドを代表する魔導士として。
『エリス・フォルティナ』
総会の壇上で、堂々と立っていた。
先日まで書類の山に埋もれていた姿が嘘のように、凛とした立ち姿で。
俺は、少し離れた席からその様子を眺めていた。
正直言うと──とても誇らしかった。
自分はたまたま居合わせただけ。まだ外様だったことを良いことに、勝手に見かねて、口を出して、少しばかりエリスの環境を整備しただけ。
技術部として躍動したのも、研究が実って新術式を完成させたのも、最終的にあの暴走を止めたのも、全部エリスの才覚によるものだ。
俺は偶然その場にいただけの"凡才"に過ぎない。
それでも──。
彼女の笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのを、止められなかった。
「……続きまして、フォルティナ様から、この場を借りて一つ、伝えたいことがあると申し出がありました」
総会の進行役がそう告げると、会場がざわりと揺れた。
エリスが一歩前に出る。
まっすぐ前を見据えたあと──ふっと、優しい目になった。
「皆さま。本日は、このような場をいただき、ありがとうございます」
澄んだ声が、ホール中に響き渡る。
「先代ギルドマスターに見出され、この魔導士ギルドで働くことになってから、私はずっと、自分の才覚を証明しなければ、と躍起になっていました」
静かな告白だ。
「平民の出である私が、この場に立つためには、誰よりも成果を上げ、誰よりも失敗せず、誰よりも“優秀な存在”でなければならないと、思い込んでいたのです」
会場の何人かが視線を落とす。似たような感覚を抱えた者は、少なくないのだろう。
「ですが、そうしているうちに、私は自分を見失っていました。何でも抱え込み、疲弊して、肝心の研究からは遠ざかり……何のために魔導士になったのか、自分でも分からなくなりました」
そこで、エリスは一度言葉を切り──ゆっくりと視線をこちらに向けた。
「そんな私に、こう言ってくれた人がいます」
心臓が跳ねた。
「『それはおかしい』と。
『あなたが抱えるべきでないものまで背負っている』と。
『それは、あなたの才覚を殺しているだけだ』と」
周囲の視線が、一斉に俺のほうへ向く。
やめてほしい。
そんなこと、一言も言ってない。
「その人は、自分をよく"凡才"だと言っていました。魔力も、頭の出来も、平凡で。でも──人を見る目と、整理整頓する手際は、とても凡人とは思えませんでした」
…いや、少しは言ったかも。
「私は、彼に救われました」
エリスの声が、ほんの少し震えた。
「仕事を整え、私の研究の場を取り戻してくれた。あの暴走の最中、最後まで私を信じてくれた。誰も見て見ぬふりをする中、その人だけは、手を差し伸べてくれました」
会場が静まり返る。
彼女は、ゆっくりと息を吸い──そして言った。
「私にとって、彼は、"最高の仕事仲間"です」
胸が痛い。
嬉しくて、恥ずかしくて、逃げ出したいくらいで。
でも、視線を逸らすことができなかった。
「でも、わたしはあることに気づきました」
エリスは、壇上からまっすぐこちらを見たまま、言葉を続けた。
「私は、彼と"最高の仕事仲間"では到底満足できないことに」
総会の場にいる誰もが固唾を飲む。
「この胸から溢れ出る想いは更に先を望んでいます」
そこで、エリスはほんの少しだけ頬を染めて、微笑んだ。
「セイン・アルバさん」
名指しされた瞬間、心臓が爆発したかと思った。
「あなたがいてくれたから、今の私があります。あなたが信じてくれたから、私はここまで来られました」
言うな。
それ以上言ったら、本当に立っていられなくなる。
そんな俺の心の叫びなど知る由もなく、彼女は一歩前へと踏み出した。
「だから──」
その声は、誰よりも真剣で、誰よりもまっすぐだった。
「わたしの”最愛の人"として、生涯を共に歩んでください!」
会場が、一瞬、完全に止まった。
時間さえも固まったかのような静寂。
それを破ったのは、誰かの「はぁ!?」という素っ頓狂な声だった。
「公開プロポーズかよ……!」
「ギルド史上初じゃないか!?」
「やべぇ、見てはいけないものを見ている気がする!」
ざわめきが一気に爆発する。
隣の席でルガートが、顔を真っ赤にしながら俺の肩を揺さぶった。
「セイン! お前! やったなオイ!」
「ちょ、やめてください今それどころじゃ──」
頭が真っ白だった。
ルガートや周りの連中が俺を羽交い締めにして、壇上まで連れて来る。大広間は既にお祭り騒ぎだが、俺の耳には届かない。
「ほら、姫がお待ちかねだ、天下一の幸せ者!」
ルガートに背を叩かれ、押し出される。
正面にいるエリスは、不安そうな顔はしていない。
ただ、俺を信じ切った目で、じっと待っていた。
ああ、もう。敵うわけがない。
俺は、自分の心の中でそう呟いて、一歩前へ出る。
エリスと真正面から向き合う。
「……エリスさん」
「はい」
彼女の瞳が、期待と不安とを押し殺した色で揺れる。
その目を見てしまったら、もう後には引けない。
「俺は、平民で、凡才で。魔導の才能もないし、あなたのように偉業を成せる何かを持っていません」
ざわめきが少し静まる。
「たぶんこれからも、ギルドの隅で、書類を整理して、誰かの背中を支えることくらいしか、できないありきたりな人間です」
それが、俺だ。
どこまで行っても、凡才は凡才。
でも──今この瞬間だけは。
彼女が向けてくれた期待に、応えたいと思った。
「……こんな俺でよければ」
エリスの目が、大きく見開かれる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
その瞬間、彼女の顔がぱぁっと輝いた。
「……はい!」
次の瞬間、総会の場は、祝福で爆発した。
歓声と、口笛と、拍手と、野次と、笑い声。
誰かが「いいもん見た!」と叫び、誰かが「ギルドの新たな伝説だな」と茶化す。
副ギルマスは頭を抱えながらも、どこか楽しそうにため息をついた。
「まぁいい。新生魔導士ギルドには、ちょうどいい話かもしれんな」
俺はただ、隣で泣き笑いの顔をしているエリスの肩を、そっと支えた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
──その後のことは、まあ、大した話じゃない。
俺は正式に内部統括補佐官として本部に残り、エリスは魔導技術部の総責任者として、暴走収束術式の研究を進めた。
俺はともかく、エリスは引っ張りだこで忙しそうだった。それでも不思議なもので、どれだけ忙しくなろうと、気づけば彼女は俺のところに顔を出すし、俺も仕事の合間にこっそり様子を見に行くようになった。
職場では、例の公開プロポーズの件で揶揄われ、俺も彼女も何度顔を真っ赤にしたことか。
食堂で並んで食べれば周囲がやけに距離を空けるし、どちらかが相手の部署に顔を出すと、妙に気を利かせた職員が誰かしら呼びに行く。
そんな周囲の茶化しにも、エリスはいつの間にか慣れたらしい。からかわれても涼しい顔で微笑み返すし、ときどき俺の袖をそっと引くようになった。
……いや、嬉しいよ、エリスさん。でも、あなたはどこまで行くつもりなんですか。
そんな日常を繰り返しながら、本部の空気は、徐々にだが、変わっていった。
「平民だから」「女だから」という理由で押しつぶされる人間は減り、“成果を出す者がきちんと評価される”土台が整いつつある。
もちろん、完全に歪みが無くなるわけじゃない。
人がいる限り、組織には必ず無理が生じる。
でも、そのたびに誰かが倒れる前に、少しずつ調整していけるなら──それで十分だ。
そんな、ほどほどに忙しくて、それ以上に楽しい日々の中で、たまに思うことがある。
凡才の俺が、どうしてここまで来られたのか。
答えは単純だ。
俺はただ、ひとりの才媛魔導士に向かって、「その状況はおかしい」と言って、手を差し伸べただけ。
それだけだ。
……それだけで、気づけば俺は、ギルド総会の場で、才媛から公開プロポーズを受ける羽目になっていたのだから、人生は分からない。
結局のところ、凡才の俺には、いつまでも現実がどう転ぶか分からないままだったが。
誰かの"特別"には、なれていたようだ。
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