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記録の勇者のリブート ―改ざんされた世界で、僕だけが“真実”を覚えている―  作者: 妙原奇天


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第9話 因果熱と記憶摩耗

 最初に抜けたのは、パン屋の屋号だった。

 つい昨日まで、屋根の赤い瓦と同じ音の名前だったはずなのに、舌の上に載せる前に砂のように崩れた。次に消えたのが、王都の北門脇の小路の名。三番目は、鍛冶場の帰りに寄った露店の親父の呼び名。四番目は——

「リオ!」

 セラの呼びかけが、半拍遅れて届く。彼女の声は確かにそこにあるのに、耳と胸の間に薄い膜が挟まったみたいに、反応が遅れる。

 足が止まる一瞬の遅延——その刹那に、因果熱が背骨の芯まで上がっては、じり、と退いていく。

 世界は、書き換えた分だけ熱を帯びる。

 熱は、記憶の棚板から始めて、名前のラベルを焼いていく。

 辺境の火山裾で別れてから、ミナの工房へ戻ることが増えた。戻るたび、彼女は作業台の上を片付け、リオの《世界綴じ針》と《世界記録書》を一瞥して、必要そうなものを先に用意しておく。

「ここを冷やす」

 彼女は針の根本を指で弾き、音の立ち上がり方を確認する。熱の籠もる“穴”を見抜いている。

「収納中は、因果熱の上昇を抑える。——“冷却鞘シース”を作る」

 炉が青く鳴る。

 ミナは薄い板材を重ねて、鞘の内側に微細な溝を刻む。その溝は針の“記録波”を逃がす道になり、余熱を鞘の側へ流す。外側には、温度変化にだけ反応する古銀の細い環。《世界記録書》の余白から引き出す“経験”の線量と、鞘の吸熱能力のバランスを小さく合わせるための印だった。

「入れてみて」

 リオが針を滑らせると、鞘の中で極細の音が鳴り、胸の熱が一段落ちた。頭の内側の白い砂が、一部、固まって輪郭を取り戻す。

「いい」

 ミナは頷き、次に極小の薄片を並べた。銅と銀の間に淡い青を差した合金。

「“記憶の錨”だ。あなたの幼少期の風景を刻む。——“どこにも接続されていないが、常にそこにある”記述の片。熱で剥がれにくい」

 リオは目を閉じ、まだ砂になりきっていない景色を集める。

 夏の図書室。網戸に当たる午後の風。ガラスの向こうの空が薄く白い。机の下に影。影の中に麦わら帽子。万年筆の色は——青? 緑?

 ミナは彼の呼気のリズムに合わせ、刻印を押す。薄片の表に波紋のような線、裏にごく小さい地名と季節の単語。

「刻んだ。なくしても、また作る」

 夜、共同記憶儀式。

 屋根と屋根の間で身を寄せ、セラが小冊子を広げる。リオも《世界記録書》を前に出す。

「——《第八夜ログ:索引殿侵入。記録局=正典・異本・更訂。送出キュー遅延の窓を確認。署名フォーマットは“断章の谷”の先》」

 読み上げる声は、熱に強い。

 リズムのある文は、脳の棚板に“溝”を刻む。そこに意味が流れ込んで、冷たく固まる。

 セラは時々、読み上げの合間に薄片メダルを指で鳴らし、音の輪郭でリオの視線を引き戻した。半拍遅れて届く呼びかけを、音のリズムが前に引き寄せる。

 試運転は、王都の市場で行った。

 “疫病流言”。

 正午過ぎの魚売りの台の上に黒墨で書かれた手書きの札が増え、人々が無言でそれを覗いては、目で伝染していくように顔を曇らせ、口の中で同じ単語を反芻し始める。

 ——感染源は北門。

 ——水に近づくな。

 ——王家は隠している。

 更訂局が先に“恐れ”の線を引いておき、そこへ号外が墨を注ぐ仕組み。可動率が下がるようでいて、結局は人を走らせる動力にもなる。

「小規模な反転で抑える」

 リオは針の鞘を外し、冷たさを胸に流し込む。送出端末の遅延窓(Δt)は七拍から十三拍。正典局の承認が来る前の、短い隙間。

 余白に赤で走り書きする。

 ——《候補異本:否定論(疫病伝播の“事実なし”)》。

 ——《裏付け:“北門井戸の水質検査”——過去ログ参照》

 セラが頷き、衛兵詰所の記録棚から“井戸の点検簿”の写しを持ってくる。点検印は昨日。水質は良好。

 リオは“否定論の異本”に官の記録を添え、送出キューの列にそっと“先置き”する。

 ——先に履歴。後から現実。

 市場の空気が、两拍ほど無風になった。

 ざわめきが息を合わせる。

 魚売りの男が札を持ち上げ、首を傾げ、棚の下に置きなおす。井戸端の女たちは、半歩だけ互いに近づいた。

 嘘を消したのではない。嘘が“少数派の異本”へ戻っただけだ。

 混乱は、未然に抑えられた。

「成功」

 セラが短く言い、薄片メダルを鳴らす。

 リオは胸の熱が少し引くのを感じたが、その代わりに言葉の端が砂を噛んだ。

 パン屋の屋号——思い出せない。

 市場の露店の親父の呼び名も——薄い。

 やはり、書き換えは“落ちる”。

 夕刻、号外。

 活字は黒く、角が鋭い。

 ——《勇者間対立、露わ。剣の勇者カイン、弓の勇者レイ、記録の勇者追討の共同声明》

 紙は、人を走らせる。

 更訂局の報復は早い。“可動率”を上げるための、燃料投下。

 王都の広場で人々が顔を上げるたび、リオの胸の内側で砂が乾く。

 声明の文面は冷たいが、カインの筆致の箇所だけ、迷いの“揺れ”がほんの少し残っていた。

 彼は葛藤している。

 叛逆が“正典”になった瞬間、彼の中のある行が削られ、そこに空所ができた。空所は判断を硬くする。柔らかかったはずの“ためらい”の層が飛び、剣は速くなる。

 履歴は、人の中にも“編集”を加える。

 夜の屋根の上で、共同記憶儀式。

 セラが“勇者間対立”の正典に関する周辺ログ——カインの過去の戦歴、レイの射法の癖、王都の演習日誌——を読み上げる。

 リオは呼吸の速さを音に合わせ、薄片メダルの冷たさで指先の温度を下げる。

「……俺も、同じ罠に落ちる」

 口にすると、言葉は重くなった。

「記憶の空所が増えれば、判断が硬くなる。世界のための線引きが、“人のための線”を潰す。——だから、制限する」

「制限?」

「書き換えの回数。対象。規模。自分のためにルールを作る」

 セラは頷き、紙片を渡す。

「書いて。自分自身に命令する文。——“規律”はあなたにも効く」

 リオは《世界記録書》の余白を新しく割き、黒でゆっくりと書いた。

 ——《改変規律(暫定)》

 一、同一地点・同一事象への《リブート・ログ》連続適用は二回まで。三回目は必ず“外部証人”を介すこと。

 二、物質・生体への履歴改変は、冷却鞘装着下に限る。作業後は共同記憶儀式を挟む。

 三、公共秩序に関わる“恐怖”系の正典への介入は、小規模異本の先置きで済ませる。直接の正典改変は最終手段。

 四、王女エリシアの“私としての署名”に干渉しない。署名欄の選定と当て込みは媒介に徹する。

 五、因果熱の自覚症状(人名・地名の喪失、時間感覚の乱れ、セラの呼びかけの遅延)が三項目を超えた場合、その日の操作を禁じる。

 書き終えると、胸の内側に一本、細い柱が立ったように感じた。

 規律は、外からの命令だけではない。

 自分で決めた規律は、燃えにくい。

 ミナの工房から届いた“冷却鞘”は、その夜、はっきりと効いた。

 針を納めている間、熱はゆっくり低下し、抜いた瞬間の衝撃も和らぐ。

 薄片メダルは、儀式の終わりに必ず触れる癖がついた。

 ——網戸。——午後の風。——麦わら帽子。

 万年筆の色はまだ曖昧だけれど、曖昧さが“かたち”を持った。

 翌朝。

 王都の広場で、カインとレイの共同声明の続報。

 セラが「行く?」と問う。

「行かない。——今、ぶつかると“規律”の最初の行を破る」

 リオは首を振り、代わりに送出端末の“遅延窓”を覗く準備をした。

 “勇者間対立”の列の上に、別の候補を先に置く。

 ——《共同訓練の実施(対処のための“連携”の記録)》

 レイには連携が得意な射法がある。カインは本来、隊を“立てる”剣だ。

 二人の柔らかい部分を“先行ログ”に載せるのは姑息かもしれない。けれど、神々が人を数に束ねるなら、人が人の“癖”で世界を支える番だ。

 昼、号外の角が丸くなる。

 ——《共同訓練、実施へ》。

 “追討”の文は残るが、連携の行が同じ紙に乗った。

 紙は時々、矛盾を抱えたまま進む。矛盾は、急ブレーキを避ける緩衝材だ。

 リオは冷却鞘を撫で、薄片メダルに指を置いた。

 セラが横で、小さく笑う。

「よく、踏みとどまった」

「“規律”のおかげ」

 その日の夕暮れ、ミナから新しい包みが届いた。

 鞘の内壁に刻まれた溝が増えている。吸熱の道が太くなり、温度の立ち上がりがさらに遅くなるはずだ。

 手紙には短い文。

 ——《燃やし過ぎるな。燃えろ、ではなく、灯れ》。

 ミナの字は不器用だが、火の扱い方を知っている字だ。

 夜——共同記憶儀式。

 読み上げの最後に、セラが薄片メダルをリオの掌に戻す。

 彼女の指が、ほんの僅かに震えているのに気づいた。

「セラ?」

「……あなたの“呼びかけ”が、半拍遅れた。昼間、二度」

 セラは正直だ。

「だから、私にも“規律”を。あなたが“遅れ”を示したら、私が問う。——“ここはどこ、私は誰”。三拍のうちに答えられなければ、その夜の操作を止める」

 リオは笑うしかなかった。

「厳しい」

「命を預かってるから」

 短い、揺るぎない返答。

 音が、規律になる。

 風が変わる。

 遠く、送出端末の輪の音が微かに聞こえた気がした。

 神々の職場は、今日も休まない。

 けれど、その列の端に、ほんの小さな“遅延”の影がくっついている。

 人の署名と、人の歩幅が、影をつくる。

 リオは胸の内側で、もう一度だけ自分の“規律”を読む。

 一、二、三、四、五。

 読み終えると、名前が一つ、戻ってきた気がした。

 パン屋の屋号——赤い瓦と同じ音。

 ——“アカガワ”。

 口に出すと、意味ではなく音の重みで、記憶の棚板に戻ってきた。

 因果熱は消えない。

 記憶摩耗も止まらない。

 けれど、冷やす術を覚えた。

 縫う針に鞘ができた。

 錨を持った。

 そして、規律を得た。

 世界は、相変わらず紙の上で走っている。

 だが、その紙の端は、今夜も二人の指で押さえられている。

 風がめくろうとして、少し笑って諦めた。

 ページのこちら側で、著者と騎士は、呼吸を揃える。

 “次”の行は、まだ白い。

 白い行の前で、リオは静かに針を鞘に納めた。

 灯れ。

 燃えるのではなく。

 灯り続けるために。

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