第8話 記録局という神々
王都の地下は、深さを失っていく。
階を下りるほど、音が遠のき、温度は言葉の温度に近づく。
史館の地下書庫——さらにその下の“補遺層”を越え、セラが見つけた古い梯子を二つ降り、最後に床石の目地に針先で触れて“隠し目録”を開くと、空気が紙の匂いを帯びた。湿り気のない紙。千年を経たはずなのに、まるで今日綴じたような、乾いた新しさ。
「ここが“索引殿”」
セラの声は低い。剣の鞘が僅かに壁を擦り、金属の音が厚い紙に吸い込まれて消えた。
リオは《世界記録書》を抱え、半歩、前へ。世界綴じの針は外套の内側、胸の骨の下にひやりと冷たい。
殿の中央は空洞で、周縁をぐるりと囲む書架——ではなく、書架に見える“端末”が連なっていた。束線で繋がれた木箱、輪を描く金属の梁、手回しのようでいて、誰の手も要らない車輪の群れ。箱の腹には細い窓があり、紙片が川のように流れていく。紙片の端には、短い印字。
《正典局:通知 配信列:上位》
《異本局:候補稿 留保列:中位》
《更訂局:上書案 緊急列:特位》
セラが息を呑む。「……書庫じゃない。機構だ」
リオは頷いた。頷きながら、背骨の温度が下がる感覚を追う。
「“送出端末”。ここから、世界へ“通知”が送られる」
口にすると、機構は返事をした。紙片が一枚、二枚と速度を上げ、奥の輪が一瞬だけ音程を変える。
端末の前の卓に、細い針で刻まれた図がある。円が三つ。重なり、交わり、中央で小さな菱形を作っている。
円の縁には文字。
——正典局。
——異本局。
——更訂局。
そして菱形の中心に、ただ一語。
——送出。
「宮廷の校了印は、ここの地上端末」
リオは《世界記録書》に指を置き、昨日までの追跡を書き出す。校了印の縁欠け“北東位”。綴じ糸の結びの癖。更訂局の“上書案”の裏にある短い識別子。
「仮面の書記官、ルドは……“更訂局”の現地代理人だ。目的は“戦時動員を最大化する記録秩序の維持”。だから王女叛逆。だから討伐布告。怪物退治は、物語に載るだけの副産物」
神々は怪物を狩らない。
人を動かす。
可動率。制度の回転数。
紙の上で、人は兵に、兵は数字に、数字は“効率”に束ねられる。
セラが拳を握る。手袋の縫い目がかすかに鳴る。
「だから、王都の号外は……人を走らせるためにある」
「うん。——で、まだ希望はある」
リオは端末の脇、木箱の裏に手を滑り込ませ、束線の途中に挟まれた薄い歯車を見つけた。歯が一枚、わずかに欠けている。
「“送出キュー”。通知は一斉じゃない。列に並ぶ。ここが遅延する」
目を凝らす。歯車の欠けは、意図された“余裕”。全てが即時に反映されないための、技術的なナマリ。
「キューの遅延を使えば——“現実の先に履歴を置く”逆転が可能だ」
先に、履歴。
後から、現実。
通常は逆。
だが、端末の設計にあるこの脆弱——いや、遊びを使えば、叙述に先行する“経験”をねじ込めることができる。
リオは《世界記録書》の余白に小さな欄を作った。
——《送出キュー:遅延窓(Δt)=7拍〜13拍》。
——《先行記録:局所ログ(署名付き)》。
——《適用条件:更訂局の上書案未確定/正典局の承認待ち》。
セラが息を吐く。「やれる?」
「やる。……けど、代償が来る」
言い終えるより早く、因果熱が指先を這い上がってきた。
端末の束線に触れると、世界と脳の境目が薄くなる。短期記憶の棚板が熱で歪み、昨夜食べたパンの味が空気の匂いに溶けて消える。
「っ——」
膝がわずかに折れ、セラが支える。支え方は、もう迷いがない。
彼女は《共同記憶儀式》の準備に入っていた。胸元の小冊子を開き、読み上げの印を挟み、喉の奥で三拍、息を整える。
「夜ごとに、互いのログを音読して“同期”する。今夜から。今日からでもいい」
「今日からにしよう」
短期記憶が落ちる速度に、言葉が追いつかない感覚が増える。
セラは小冊子の一頁を撫で、読み始めた。
「——《第七夜ログ:密路接触/王女“私として署名”宣言/署名欄写し受領。迷路化成功。剣勇者隊、追撃》」
音は記録だ。
音は、熱に強い。
リズムで記憶を渡す。渡された記憶は、外側の“自分”に縫い留められる。
端末の奥、輪の向こうに、もう一群の箱が見える。
蓋に封蝋。封蝋の色は白金。王家の色とは少し違う、乾いた光。
蓋に筆文字がある。
——《署名フォーマット》。
リオの心臓が一拍、跳ねた。
正典を決める最後の“署名欄”。
単なる空白の枠ではない。神々が定めた、署名の“型”。
そこにエリシアの“私”を当て込めば、正は揺らぐ。揺らいだ正は、世界のどこかをもう一度“人の速度”に戻す。
だが、白金の箱に続く通路は、途中で切れていた。
床が欠け、空間が沈む。細い階段は途中から“空白”に折りたたまれ、橋の欄干は“注釈”に変わって文字の層に溶ける。
端末脇の壁に、古い指示文が薄く残っていた。
——《署名フォーマットは、“断章の谷”の先に保管》。
——《直接の入室、不可》。
——《谷を渡り、綴じ糸の結節を経由せよ》。
「……結局、谷を行くんだ」
セラの声が少しだけ笑った。疲れと、覚悟と、わずかな安堵が混じる。谷の空気を、もう知っているからだ。
リオは頷き、端末の“送出画面”に当たる木板に針先で印を入れる。
——《更訂局:キュー操作(遅延)》。
——《正典局:承認窓(未開)》。
束線の奥が、微かにうなる。
送出列が揺れ、紙片の流れにほんのわずかな“滞り”が生じた。
世界の時計が一拍遅れ、その遅れの間に、リオは《世界記録書》の余白へ“先行ログ”を刻む。
——《王女幽閉:条件付き解除(署名権発動時)》
——《討伐布告:宥和案提示(更訂局へ逆提案)》
——《市中:号外の見出し、保留》
逆提案。
神々の“仕事”を邪魔するのではなく、“仕事に使う材料の形”を先に置いてしまう。
更訂局は、動員効率を上げるために記録をいじる。ならば“宥和案でより回る”という形を先行ログで置けば、採用の確率が生まれる。
紙は、時々、合理で動く。
神々は、時々、効率で折れる。
因果熱が一段上がった。
視界の端が、また砂を吸う。
セラが音読を続ける。「——《第六夜ログ:世界綴じ針、復元成功。辺境崖のひび、試験縫合。仮面の書記官=更訂局代理、通報。王都“王女叛逆”通知》」
音の列が、落ちていく記憶の後ろから拾い上げ、外の背骨に縫い付ける。
「……助かる」
リオが呟くと、セラは短く首を横に振った。
「私の務めだから」
それは彼女が“騎士として署名する文”の一つだった。
端末の輪が再び回り、遅延の窓が閉じ始める。
木箱の蓋がひとつ、小さく開きかけて——また閉じた。
細い隙間から、白金の封蝋の匂いがした。
《署名フォーマット》。
“断章の谷”の先。
行き方は、一つ。
「今夜は、ここまで」
セラが周囲を見渡す。見張りの気配、束線の唸り、機構の呼吸。
リオは針を収め、余白に締めの行を記す。
——《送出端末(索引殿)探索:達成》。
——《記録局:正典/異本/更訂》。
——《現地代理:ルド(更訂局)》。
——《対策:送出キュー遅延利用/共同記憶儀式開始》。
——《次工程:“断章の谷”を介した署名フォーマット取得》。
二人は殿を離れた。
戻る足取りは、行きより慎重だ。機構は生き物で、背に目を持つ。
地上へ出ると、夜の王都はひとつ深くなっていた。人の声は少なく、代わりに印刷機の金属音が遠くから絶え間なく聞こえる。号外工房が夜を呼吸している。
宿は取らない。
鐘楼の陰、屋根と屋根の間にかかる洗濯縄に上衣を掛け、瓦の段差に背を預ける。
セラは小冊子を膝に、リオは《世界記録書》を開く。
「——《共同記憶儀式:第一夜》」
声にすると、儀式は始まる。
リオが読む。
セラが読む。
同じ行を、違う声で。違う呼吸で。
音が二重になり、意味が複層になる。
“自分のログ”は跳ね返り、“相手のログ”は吸い込まれる。
やがて二つの列は一列になり、二つの人間の境界に薄い縫い目ができる。
読み終えると、リオの胸の欠損がいくらか埋まっていた。
万年筆の色はまだ戻らない。だが、欠けの縁が鋭くなくなっている。
「このやり方、続けよう」
「続ける。夜ごとに」
セラは小冊子を閉じ、剣の柄に指を添えた。
王都の風は冷たい。
冷たい風は、火を必要とする。
火は、言葉で起こせる。
夜明けが近づく。
遠く、塔の窓に小さな灯。
エリシアの“幽閉”の部屋か、校了印の卓の前か。
彼女は彼女で古鍵列を探している。
ルドはルドで、更訂局の送出枠を押さえにかかるだろう。
世界は多忙だ。
人も、多忙でいい。
ただし“人の速度”で。
瓦の隙間から薄青が滲む頃、リオはふと気づいた。
足元——屋根の端の漆喰に、細い“ひび”。
世界はいつも、少し割れている。
彼は針を取り出し、そっと当てた。
糸の光が生まれ、ひびを縫う。
小さな風の音が、澄んだ。
「行こう、谷へ」
セラが立ち上がる。
鞘の口が、朝の光を一瞬だけ飲み、返す。
リオは頷き、外套の内側で署名欄の写しを確かめた。紙はしっかりと温かい。
神々は記録局。
正典局、異本局、更訂局——三つ巴の職能の神々は、怪物の血ではなく、可動率の数を飲む。
彼らに抗うのではない。
彼らの上で、生きる。
生きたという“版”を、置いていく。
王都の路地が動き出す直前、二人は再び地下への梯子に足をかけた。
“断章の谷”の口は、ひやりと湿り、紙のささやきを孕む風を吐き出している。
谷の向こうに、白金の箱。
署名フォーマット。
エリシアの“私”を迎える“場”。
セラが一歩、先に降りる。
リオが続く。
世界綴じの針は胸の内側で微かに鳴り、共同儀式で強化された“二人のログ”が、谷へと下りていく足場になる。
因果熱は——確かに上がっていく。
だが、音読の声はそれを冷ます。
夜ごとの同期は、熱の捌き方を教える。
そして、紙はまだ燃えていない。
“神々=記録局”の送出端末は、背後で規則正しく紙片を送り出していた。
けれど、その列に、ほんのわずかな“遅延”の影が添う。
先に置かれた履歴が、列の端でこちらを振り返る。
リオは苦笑し、針の柄を軽く叩いた。
「先に、書いておいたからな」
誰にともなく告げて、谷の闇へ消える。
正典を決めるのは、神々の都合だけではない。
人の署名と、人の歩幅もまた、正典の一行を決める。
世界は、そう書き換えられうる。
そのために、二人は降りる。
神々の職場を、紙の外側から訪ねるように。
そしていつか——署名の欄に、ひとつの“私”を落とすために。




