第7話 王女の二つの履歴
王都へ戻る街道で、風が一度だけ逆流した。
耳の奥で、紙がめくれる。
リオは外套の内側から《世界記録書》を引き出し、余白に浮かぶ見出しを指でなぞった。
——《王女エリシア叛逆》。
——《王家、三勇者に討伐を布告》。
——《対象:記録の勇者》。
新しい“正典通知”は、王都の塔から放たれた鐘のように全域へ拡散している。文面は冷たく短い。エリシアは「自ら幽閉」を命じられた、と記されていた。
自発か、他発か。紙はそこを曖昧にする。
リオは針の柄を握り直した。
隣を歩くセラが、視線だけで問う。
「行ける?」
「行く。世界は今、“彼女不在”で進んでる。——戻しに行く」
夕暮れの王都は、いつもより音が少ない。
広場の号外は統一され、夜警の靴音は規則正しい。
鐘楼の影で合図を待つと、ほどなくして低い笛。城壁の見えない継ぎ目がわずかに浮き、石目が“文”の形にほどけて密路の入口を示した。
セラが先に身を滑らせ、リオが続く。
石の内部は涼しく、遠くから油と鉄の匂いがほんのり漂ってきた。鍛冶場ミナの炉の記憶が、胸の熱を少し整える。
密路は何度も折れ、狭い踊り場に出る。
そこに、彼女はいた。
王女エリシア。
豪奢は脱ぎ、旅人の外衣に近い灰の上衣。白金の髪は簡素に束ねられ、瞳の色は夜の灯より強い。
彼女は一言だけ言った。
「遅かったわね」
言葉は軽いが、声の芯に硬い意志がある。
「殿下。新しい“正典”を確認しました。——見せます」
リオは《世界記録書》を開く。
余白の縁に針先で小さな円を描き、参照を二分岐に割る。
《リブート・ログ》の層が、密路の壁に薄く投影された。
一方に“叛逆版の昨夜”。
エリシアがバルコニーに立ち、手袋を脱ぎ捨て、剣を掲げ、退位と王権への抗議を宣する。仮面の書記官が遠景のどこかで校正印を光らせ、人々のざわめきが波のように揺れる。
もう一方に“忠誠版の昨夜”。
エリシアが地下療護室で傷ついた兵に水を配り、北門の盾列へ自ら駆け、撤退の合図を僅差で切り替える。涙が汗に紛れ、槍列の上で朝の光が薄く跳ねる。
同じ夜。
同じ王女。
異なる“正”。
エリシアの横顔がわずかに強張った。
薄い息。
目を閉じ、開く。
「幼い頃、家庭教師ルドが言った。“王家の記録は署名者の意志で上書きできる”。——そう教えられた記憶があるの。でも……」
彼女は言葉を探すように眉を寄せ、こめかみに指を当てた。
「断片なの。記憶の綴じ目が抜けて、糸が滑る。ルドの筆跡、声の高さ、指の骨ばり……全部、砂になる」
ルド。
その名が密路に落ちた瞬間、壁の影がわずかに濃くなった気がした。仮面の書記官の素顔。
リオの背骨を、因果熱とは違う寒気が走る。
“彼”は、教えたのだ。上書きの方法を。
そして今、仮面の下でそれを実行している。
セラが一歩前へ出た。
騎士の声ではなく、人の声で。
「殿下。古い王家の古語に、こうあります。“ヒトは、ヒトとして署名できる”。——王女である前に、人として。選べます」
エリシアがゆっくりと彼女を見る。
密路の灯が、三人の間に薄い輪を作った。
リオは余白の端に短い欄を立てる。
——《署名権:主体=エリシア》。
——《署名対象:王印の署名欄》。
世界の“鍵穴”が、手に取るように見える。正典を決める最後のフィールド。そこに入る署名が、版を決定する。
「私は——」
エリシアは目を閉じ、深く息を吸った。
まぶたの裏で、叛逆の自分と忠誠の自分が向かい合い、重なり、ずれる。
彼女は言った。
「私として署名する権利を、宣言します」
その瞬間、壁の向こうの宮廷で鐘が鳴った。
鋼鉄の音。
密路の暗闇に、赤い影が差し込む。
剣の勇者カインの隊が、密路の入口をこじ開けたのだ。
先頭の灯が跳ね、鎖帷子の擦れる音が連続する。
「記録の勇者、そこまでだ!」
間合いは短い。
言葉より、針が速い。
リオは世界綴じの針を抜き、密路の回廊の継ぎ目に針先を当てた。
“ひび”は目に見えない。けれど世界は、いつだって少し割れている。
針先が触れると、石壁の内側を薄い光の糸が走り、壁が“文”にほどけはじめる。
「迷路化」
リオが呟き、余白に短く書く。
——《局所迷路:持続30拍/安全導線=王女側》。
光の糸が交差し、密路は分岐と湾曲を増やす。
先行して踏み込んだ騎士の足音が、すぐ隣から遠ざかり、次には足元から上方へ移る。方向感覚が奪われ、金属音が迷子になる。
「こっちだ!」
セラがエリシアの手を取る。
密路の壁が微かに開き、細い導線が現れる。
三人は息を合わせ、導線の上を駆けた。
後方で、カインの声が低く唸る。
「逃がすか——!」
彼の剣が壁を叩く音は、迷路化の層で鈍く跳ね返った。
角を二度、段差を一度。
短い踊り場でエリシアが足を止めた。
衣の胸元から、薄い紙片を取り出す。
王印——署名欄の写し。
正式な印文の外縁が縮小され、空欄の“署名フィールド”だけが抜き書きされている。それは正典を決める最後の鍵孔の型。
「これを、あなたに託す」
エリシアがリオの掌に紙片を置いた。
紙は軽いが、世界より重い。
「私が私として署名するための“場所”。——あなたは“著者”として、正しい紙を選んで」
「預かる」
短い返事。短いほど、余白は強くなる。
背後で迷路の持続が尽きかけ、石が本来の位置へ戻る“音”がした。
セラが顎で上方を示す。「抜ける」
三人は別の細い通路へ滑り込む。
最後の角で、リオは針先で小さくひと縫い。
追撃の足音が一瞬だけ“古い階段”に誘導され、十拍の余裕が生まれる。
地上に出たのは、夜半と暁の境。
王都の屋根が黒から青へ移る手前で、風は紙ではなく空気の匂いを運んでいた。
エリシアは二人に向き直る。
「私は、いったん戻る。幽閉の間にできる仕事がある。——“王家の古い鍵”を探す。ルドに教わった部屋の、鍵のさらに鍵。覚えているうちに」
“覚えているうちに”。その言葉が密やかに刺さる。
記憶は摩耗する。彼女もまた、世界に削られている。
セラが礼をした。「護衛は——」
「要らない。公には“幽閉”。外で動けば、あなたたちの署名が汚れる」
エリシアは短く笑った。
「大丈夫。私も、あなたたちの“ログ”の端を持ってる」
セラが微かに笑い返す。
リオは署名欄の写しを外套の内ポケットに滑らせ、余白に追記する。
——《王印署名欄:写し取得》。
——《署名権:主体=エリシア。媒介=著者》。
——《次工程:正典の紙面選定/署名の当て込み》。
そのとき、遠い鐘が一つ、二つ。
迷路化を破ったカイン隊が上層へ出た合図かもしれない。
風が一段強くなり、世界のページがまたどこかで鳴る。
「行こう」
セラが先に屋根の縁を跨ぎ、細い雨樋に足をかける。
リオが続く。
エリシアは最後に、王城の塔の影へ身を溶かした。
屋根伝いに離れる途中、リオの胸の内側で小さな欠損が軋んだ。
幼い日の、図書室の窓辺。誰かが置いていった古い万年筆。インクの色は……何色だった。
答えが出る前に、色が砂になって崩れる。
自己記憶の摩耗。
止まない。
けれど、渡す先がある。
「セラ」
「うん」
「さっきの密路で、エリシアが言った古語——“ヒトはヒトとして署名できる”。書き留めておいてくれ」
「もう書いた」
セラは胸元の小冊子を叩いた。
その一拍が、リオの内側の空洞をひとつ埋める。
王都の外縁に近い屋根で、一度だけ休息を取る。
ミナから預かった世界綴じ針は、空気のひびに寄り添うように静かだ。
リオは針と署名欄の写しを並べ、余白に新しい欄を作る。
——《署名の場:捜索》。
——《仮説A:史館“断章室”の最奥、綴じ糸の結節点》。
——《仮説B:王城“鍵室”、古鍵列の裏》。
——《仮説C:城下“号外工房”の母版保管庫》。
選び、潜り、縫う。
そのための針と、鍵孔の型がある。
夜がほどけ、王都の空が薄く白む。
遠く、塔の上の小窓に灯がひとつ。
“幽閉”の部屋の灯かもしれない。
リオは針を握り、空気に走る見えない“ひび”を探した。
そのとき、耳の奥でまた紙が鳴る。
仮面の書記官——いや、ルド。
彼の指の動き。校正印の縁欠け“北東位”。綴じ糸の結びの癖。
すべてがひとつの線で結ばれていく。
「必ず、追いつく」
自分に向けた誓いであり、世界に向けた宣戦布告でもあった。
セラが頷く。
「著者と騎士で、版を奪い返す」
王都の朝靄がほどけきる前に、二人は瓦の海を渡りきった。
背後で、鐘がまたひとつ鳴る。
新しい時。
新しい頁。
署名欄の空白は、静かにリオの胸の上で温度を持った。
エリシアの“私としての署名”を受け入れるために。
正典が人を決めるのではない。
人が、正典の“行”を選ぶ。
世界は、そう記されるべきだ。
リオは《世界記録書》を閉じ、針を外套にしまった。
歩き出す。
次の“ひび”へ。
次の“署名の場”へ。
そして、彼女の二つの履歴が、ひとつの名前で結ばれる地点へ。




