第6話 辺境の鍛冶場にて
古い火山の裾は、息をしていた。
地脈が遠くでうねり、乾いた土の隙間から硫黄の匂いがかすかに立つ。東の街道から山裾へ折れると、黒い溶岩の裂け目に寄り添うようにして、石と土と鉄で組まれた集落が現れた。屋根は低い。煙突が多い。風は冷たいのに、どこか温度の気配が満ちている。
「ここだ。“世界綴じ”の鉄を扱う鍛冶屋がいる」
セラが短く顎で示す。
看板はない。かわりに、戸口の上に針の柄だけが吊られていた。黒ずんで、握り口に古い刻印。柄だけ——肝心の針は、ない。
戸を叩く前に、中から鎚音が途切れた。
現れたのは、寡黙そうな女。年の見積もりが難しい顔。右腕の袖は肘のあたりから革で巻かれ、火傷の古傷が淡く光っている。
女はリオを見た。セラも見た。見返して、またリオを見た。視線はすべて秤の皿のように正確だった。
「……記録の勇者ね」
それだけ言って、女は踵を返す。
「ミナ・オルド。火を入れる。話はその音で」
炉に火が落ちる。
ふっと吸って、どん、と吐く。
空気が色を変え、鎚と金床が会釈を交わす。ミナは鉄の塊を火に預け、右腕ではなく左で器具を捌いた。古傷を庇っているのではなく、傷の先に“働き”が移ったのだというように躊躇がない。
「世界綴じを扱うと聞きました」
リオが口を開くと、ミナは頷いた。
「伝説は二種ある。“針の勇者”と“記録に触れる勇者”。うちの工房は前者の末裔だ。世界の裂け目を縫う“世界綴じ針”の柄だけが、代々伝わっている。肝心の針身は——ほら」
ミナが棚の奥から木箱を出す。布の上に置かれたそれは、鋭さの記憶を残したまま、根元でぽっきりと折れていた。折れ口は滑らかではない。捻じ切られたように繊維がむしれている。
「折れた理由は」
「未知。十七年前の夜。空のどこかで巨大なページが捲られた。音もなく、けれど“火”だけが一瞬止まった。その瞬間、針は紙から弾かれたみたいに折れた。……以来、柄ばかり磨いてる」
ミナの口元がわずかに笑う。自嘲でも諦めでもない。“続きのページがいつか来る”と知っている者の薄い笑い。
セラが座を正し、柄に指先で触れた。握り口には古い刻印がある。
——〈綴じのために、切る〉。
その矛盾の標語を見て、リオは《世界記録書》を開く。
「……出自記録を参照する。設計図と、鍛圧時の配合——材料の“履歴”が残っていれば、再現できる」
余白が薄く脈打つ。注釈層が開き、文字が立ち上がる。古い鍛造記録。温度の推移。炭材の比率。鋼の心と皮の硬さ。打ち返しの回数。冷却のタイミング。その間に挿まれた、判じ物のような短い句——「音を聴け」。
リオは金床の傍らに立ち、白紙のページに設計の“元データ”を起動する。工房の空気が、紙の余白のほうへ軽く傾く。世界の側が、少しだけ“参照”される。
「物質の履歴改変は、生体や文章よりも因果熱が大きい」
自分で言って、自分で頷く。
「やる。けど、たぶん燃える」
「燃えたら止める。それだけ」
ミナが水桶を足もとに引き寄せる。
セラが黙って体を寄せる。右肩を貸す位置は、もう決まっている。
——三人の呼吸が揃う。
リオは《記録筆》を握り直し、余白の“配合”の行に触れた。
〈炭材:黒松炭 五〉とあるところを、〈四・五〉へ。〈鋼:三枚合わせ〉を〈四枚〉、〈打ち返し:十二〉を〈九〉。
“今”の工房で用意できる素材と、十七年前の記録の齟齬を最小に寄せる。ページの変更は金床の上へ波打ち、鉄の芯に“昔の温度”を一瞬だけ思い出させる。
炉の火が鳴った。
ミナの鎚が落ちる。
——甲高い音が二度、三度。
金属の叫びは次の瞬間、歌に変わった。
温度の層が交わり、鋼の心と皮の境が滑らかに撫でられていく。
因果熱が来る。
リオの背骨に沿って熱が走り、視界の端が白く灼ける。鼻腔の奥で鉄の味。額の包帯が一瞬でじっとりと濡れる。
膝が、落ちる。
支えられる。
——セラの肩。
力の配分を計るように、彼女は少しだけ力を込め、少しだけ抜く。その“少し”の匙加減が、世界の傾きを戻す。
ミナは黙って冷水を差し出した。
飲むと、舌が生き返った。
「続けて」
それだけ言って、彼女は鎚を持ち直す。
夜が来る。
炉の火が青く変わるのは、温度が成層して“癖”が消えた合図だ。
ミナは鎚を置き、針身になりかけの鉄を火から引き上げた。
鍛接の面は、まだ脈を打っている。
セラが刃の反りを見る。眼差しは冷たく、敬虔だ。
「ここ。ここまで。反りは浅く、糸は深く走るから」
彼女の指示を、ミナは一音も落とさず受け取る。
「昔、この国にはもう一人“記録に触れる勇者”がいた」
ミナは火箸を置き、ふっと目を細めた。炉が青くなってからの語りは、だいたい真実だ。
「十七年よりもっと前。世界が一度、薄紙になりかけた頃。そいつは紙に触れて、橋をかけた。でも——最後に自分の名を帳面から消した」
リオの喉がぴくりと鳴る。「名を、消す?」
「記録は重い。持てば持つほど、背骨が曲がる。だから置いていった。道具を。針の柄は、その人が“いつか誰かが続きを縫う”って置いていったもの。……道具は、持ち主を待つ」
世界は、途中で終わる物語を、誰かに託している。
託された側の息が、少しだけ熱を帯びる。
リオは額の汗を拭き、余白に短く書いた。
——《無名の記録に触れる者:存在》。
——《置き土産:針柄》。
——《継承条件:未記述》。
未記述。空白。そこに、今、三人が立っている。
明け方、炉の火が音をひそめる。
三人は炉口の前に並んだ。
ミナが鉄を引き延ばす。
セラが反りを見取る。
リオが“強度を保証した歴”を余白から転写する。
筆致は慎重に、けれど迷いはない。〈この針は〇〇の温度で〇〇回打ち返され、同配合を三度繰り返し、冷却は〇〇の水で……〉。文章が金属の内部に“経験”として染み込む。
高い金属音。
水に落とす瞬間、針はわずかに震え、空間に糸のような光が走った。
揺らぎ——が、一音だけ澄む。
「……行こう」
ミナが工房の外へ導く。
辺境の崖。古い溶岩が泣くようにひび割れていて、その一本が他より細い。
リオは息を整え、針の柄を握り直す。
折れていた場所に、新しい針身が延び、先端は人の髪より細い。
針先を“ひび”に当てる。
糸——光の糸が、静かに走る。
世界のほうから針を迎え入れるように、裂け目の左右の縁が細く撓む。
縫い目が生まれ、風が一音だけ澄んだ。
崖の向こうの空がわずかに青くなり、鳥の鳴き声の輪郭が一段くっきりする。
成功。
世界綴じの針が、甦った。
ミナは針を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「……戻ってきたわね。柄がやっと、柄になれた」
セラが肩の力を抜き、リオは《世界記録書》をそっと閉じる。
紙は脈打っていた。
因果熱の残り火がまだ胸にあったが、燃え尽き方は穏やかだ。
そのとき。
工房の外、ずっと風のように静かだった“視線”が、温度を持った。
仮面の書記官。
いつからいたのか、いつの層から来たのかはわからない。ただ、そこに“存在の記述”だけが置かれている。
仮面は口を開かない。けれど、世界のどこかの“連絡”の行が走るのが見える。
——〈編集神アーカへ通報:記録の勇者、世界綴じを得る〉。
空のどこか、巨大なページが音もなく捲れた。
風が一度だけ方向を失い、朝の光が紙の裏側から照れたように色を変える。
次の瞬間、王都から“正典通知”が走る。
余白の端……否、街角の号外、城の伝令、民衆の口の端、そして史館の棚の見出しまで——すべてが一斉に新しい見出しを掲げた。
——《王女エリシア叛逆》。
セラの手が、柄の上で握り締められた。
リオの奥歯が、鳴る。
ミナは目を細め、仮面の書記官の“存在の記述”に目を据えた。
「戻る」
リオは言った。
声は低いのに、炉の火よりはっきりした。
「もう一度、やり直すために。今度は“針”を持って」
セラが頷く。「護る。刀でも、紙でも」
ミナが柄に手を添える。「持って行け。私の工房で眠っていた分、働いてもらう」
仮面の書記官は、何も言わない。
ただ、ページの影が長く伸びる。
編集神アーカの名が、空気の深い層でにぶく光った気がした。
名は、権限だ。権限は、綴じ糸を握る。
ならば著者は、針を握る。
三人は視線を交わした。
王都は遠い。けれど、ページの外側からなら近い。
セラが旅装の紐を結び直し、ミナが炉の火に一礼し、リオが《世界記録書》の余白に短く宣言する。
——《王都へ反転》。
——《目的:正典の再編集阻止/“王女叛逆”行の訂正》。
——《新装備:世界綴じ針(試作・強度ログ付与)》。
火山の裾が熱をくれ、朝の風が冷たさで額の熱を奪う。
仮面の書記官の影は、いつの間にか薄くなっていた。見えない線で記述だけを残し、どこかへ消えた。
空の高みで、再び紙の音。
だが、今度は——鳴る前に、こちらのページをめくる。
「行こう」
セラが先に立つ。
ミナは工房の戸に鍵をかけず、ふと笑って肩をすくめた。「帰る場所は、開けておく」
リオは針を外套の内ポケットに滑らせ、余白に一行だけ書き足す。
——《世界は縫える》。
三人の歩調が揃う。
山裾を離れ、黒い溶岩の裂け目を越え、乾いた草地に朝の影が長く伸びる。
王都までの道は、長い。
長いが、物語は長いほど、針の出番が増える。
ページの縁が風でめくれようとした瞬間、三人は同時に指で押さえ、笑った。
——その笑い声も、ログに刻まれる。
そして、次の一行を刻みに、彼らは歩いた。




