第5話 司書騎士セラ
王都史館の尋問室は、音を嫌う。
壁は厚く、床は布で覆われ、椅子の脚には革巻き。人の吐息だけが、静かに積もる。
セラ・ブレイは正面の机に両手を置いた。革手袋を外し、指を揃える。剣は預け、胸甲の留め具もほどかれている。それでも背筋は崩さない。司書騎士の姿勢は、裁きの前でこそ形になる。
監督官バルドの影が、対座の灯を曇らせた。
「質問に答えよ。追放者リオ・クロスフィールドと内通したか」
「内通の定義を」
「やり取り、連絡、情報の授受、共謀、同道の総称だ」
「規律に反するそのいずれも、していません」
「では、なぜ史館の床に“参照権の回路”が描かれていた?」
「……史館の床は、もとより層を持ちます。彼が“なぞった”のです」
灯がぱちりと跳ねた。
壁の向こうで、誰かの息が浅くなる。
セラは気づいていた。尋問室の側壁に薄い格子があり、その向こうに小部屋があることを。そこに、王女エリシアがいることを。前夜、断章室の閲覧許可を出した本人が、今は黙って耳で剣を振るっている。
バルドが机を指で叩いた。「お前は彼を庇うのか」
「事実だけを述べています。記録の勇者は、王女殿下の“名誉”を救った。それが昨日の世界で確かに起きたことです」
「では——史館炎上の責は?」
「“炎上”は誤記。小火で済み、書架の損耗は最小。……見出しは版によって変わりました。号外は“正典”に従い、“正典”は——」
「編集者の手にある、か」
言ったのはバルド自身だった。
重い声の底に、痛むような疲れが宿る。
「ならば尚のこと、我らは規矩を離れられん。紙の外側に立つ者がいるのなら、紙の内側を守るのが史館の務めだ」
彼は墨で染めた書状を持ち上げ、朱で追記する。
「司書騎士セラ、当直任務に降格。地下保管層の夜番を命ずる。——“断章の谷”の見張りだ」
短い休止。壁の向こうの気配が、わずかに動いた。
エリシアが、なにかを言いかけて、飲み込む気配。
セラは頭を垂れた。「拝命します」
* * *
夜——史館は、紙の海に戻る。
地下はひんやりと湿っていて、灯を持つと空気が揺れる。
当直卓に点呼の朱印を押し、セラは用具の棚から鎖巻きのランプを取り出した。だが、すぐ戻した。
彼女は剣を抜く。
刃が、灯りになる。
司書騎士は戦場で読んだ。読んだ者だけが抜ける剣がある。伝承のうち、ときどき真実は残る。刃に祈りの文を小声で唱えると、刀身に薄い光が満ち、窓のない廊下に昼のような輪郭が生まれた。
目指すのは最下層最奥——“断章の谷”。
古い井戸のような縦穴が穿たれ、欄干の縄は太く、蔵書より古い。覗き込むと、黒ではなく、紙の欠片の白が渦を巻いている。ページの角、切り落とされた索引、背表紙の布。亡霊は悲鳴を上げない。ただ囁く。
——欠けた連番が痛む。
——目次が捜している。
——正から落ちた“正”は、どこへ。
セラは足に縄を巻き、剣の灯を胸に、縦穴の中へ身体を預けた。
温度が落ちる。息が細くなる。
ある段を過ぎると、言葉の粒が風になる。
落ちるほどに、囁きが意味を失って美しくなる。
谷底の床は、紙と紙の間の空白でできていた。
そこで、彼女は見た。
王国の“正史”を束ねる巨大な綴じ糸。
それは、海の底の綱橋のように谷をまたぎ、何百、何千という紙片をひとつに留めている。
——だが、途中から糸が違う。
繊維の撚りが変わり、艶が変わり、ほんの僅かに太さが違う。
誰かがほどき、別の糸へ繋ぎ替えた。継ぎ目は巧妙だ。見なければわからない。見ても、背筋が冷えるだけだ。
セラは縄を解き、縁に膝をついた。
右手を伸ばす。
指先が綴じ糸に触れ——はじかれた。
弾いたのは、言葉ではない。
神語。
人の舌が届かない“許可”の層。
触れた瞬間、掌に静電のような痛みが走り、祈りの灯が一度だけ消えかけた。
剣を目に寄せる。刀身に細い罅。祈りの文が、ところどころ薄く剥げる。
「……触れない」
呟きは誰にも届かないはずなのに、谷がわずかにざわめいた。
亡霊の単語たちが寄り、彼女の肩に、指に、鎧の縫い目に触れては離れる。
セラの喉の奥に、悔しさの味が滲む。
守るために剣を学び、読むために誓いを立てた。
それでも、“正史”の綴じ糸は、彼女の言葉を拒む。
縄が軋み、柱が遠くで鳴る。
地上の鐘が、夜更けを一つ、数えた。
* * *
同じ夜の、遠い旅籠で。
リオは浅い眠りの底で、言葉を見た。
夢は音から始まった。
刃が灯り、紙が鳴り、井戸が低く唸る。
暗闇の向こうに、白い糸。
綴じ糸に触れた誰かの指が弾かれ、きれいな爪が血を引く。
名前を呼ぶ声がした——言葉にならない音で、確かに。
目が覚めると、帳面の余白にインクが滲んでいた。
滲みは、見慣れた字に集まっていく。
——セラ。
名が浮かぶ。
リオは迷わなかった。
旅籠の代金を枕の下に置き、夜の冷たさの中へ出る。
方角は、余白が教えた。
世界の半音が落ちる前の、刹那の静けさ。
彼は《リブート・ログ》を使わない。
歩く。
記録の勇者は、歩きながら書く。書きながら歩く。
手と足を揃え、人の速度で世界へ戻る。
王都の城壁が見え始めた頃、夜明け前の風が湿り始めた。
史館の屋根に掴まり、鐘楼の綱を手繰る。
手のひらに縄の油が移る。皮膚の汚れが、“戻ってきた”と告げる。
縦穴の口は、いつもより暗かった。
下から、灯りが来ない。
リオは息を吐き、綱を伝って落ちる。
目が高度を忘れた頃、足が床に触れた。
紙と紙の隙間のような地面——そこに、倒れている人影。
鎧が、剣が、祈りの灯を半ば失って、なお微かに光っている。
セラ。
呼ぶ前に、抱き上げていた。
その瞬間——綴じ糸が、薄く白熱した。
音はない。光だけ。
二人の間に、ひと筆の橋が架かる。
参照共有。
ログが、分けられる。
リオは《世界記録書》を開き、余白の一角をそっと撫でた。
「君が見たものを、僕も見る」
指の腹に、セラの視界が流れ込む。
断章の谷、亡霊の単語、綴じ糸の継ぎ目、神語の反発。
痛みの温度まで、同じになる。
「そして——僕が落とした昨日を、君が覚えていてくれ」
声が震えた。
言ってから気づく。
それは助けるための申し出なのに、助けを乞う形でもあった。
セラの瞼がかすかに動く。
睫毛の影が震え、色の戻った瞳が開く。
彼女は涙腺の縁に薄い水を溜め、笑おうとして笑えず、それでも口角を上げた。
「それが、私の騎士の務め」
短い。だが、世界を支えるには十分な文だった。
参照共有は、長くは続かない。
因果熱が二人の間に橋をかけ、熱が冷める前に橋は消える。
セラは自力で立ち上がり、剣を杖にして息を整えた。
リオは綴じ糸の白熱の残光に、そっと手を伸ばす。
今度ははじかれない。
共有の一瞬だけ、神語の縁が緩む。
彼は“見た”。
綴じ糸の繋ぎ替えに使われた結びの癖。
校正印の縁欠けと同じ、“北東位”にごく小さなズレ。
糸の繊維の撚り——人の手の回転。
仮面の書記官の影の上に、見えない指のかたち。
セラが低く囁く。「戻ろう」
「うん。——二人で」
* * *
井戸を登るのは、降りるより難しい。
縄は、重い。
紙の囁きは、帰る者の足を引く。
セラが先を行き、リオは背を押す。
次の段で順番を入れ替え、今度はリオが先に腕を伸ばす。
背中合わせに、互いの呼吸を測る。
登りながら、リオは余白の欄に小さく記す。
——《参照共有:成立(短)》
——《綴じ糸:繋ぎ替え痕/北東位ズレ》
——《証人:セラ/王女(間接)》
言葉は短く、しかし手は止まらない。
“二人で持つ”記録は、いつもより濃く乾いた。
縦穴の口が白む。
夜明けの光は、紙ではない。
目に痛いほどの現実。
セラは最後の段で息を吐き、床に手をついた。
史館の上階は静かで、しかし静けさの向こうに、足音と鎧の微かな触れ合いがある。
追手は——まだいない。まだ、だ。
当直卓に戻ると、朱印の封が一通、無造作に置かれていた。
封蝋は青。王女の個印。
セラが剣の先で封を割る。
文は短い。
——《巡回任務》を命ず。
——王都周辺の史料の保全、路上の記録の収集、散逸の防止。
——護衛一名を帯同してよい。
——任務期間、定めず。
——報告は“著者”を経由し提出のこと。
セラは息を飲み、リオを見る。
リオは紙の端を指で撫で、校了印の有無を確かめた。
——押されている。縁欠けは、ない。
これは“正”。しかも、正の外縁から押された正だ。
壁の向こうの尋問室で黙っていた人の、静かな剣。
「処罰は?」
「当直命令は、私の机に残る。巡回任務は、私の背に乗る」
セラは紙を折り、胸甲の裏に差した。
「私は王都を離れる。任務として。規律の内側から、あなたを護る」
リオの喉に、言葉が上がった。
ありがとう、では足りない。
すまない、でもない。
彼はただ、頷いた。
頷くたびに、落としてきた“昨日”が少し戻ってくるような気がした。
* * *
王都の東門の朝は早い。
麺の湯気が立ち、荷車が並び、兵の交替が短く続く。
門の外では、号外が昨夜の版から朝の版へと差し替わっていた。
——《勇者、史館炎上の“疑い”。詳細不明》
黒の角が、丸くなっている。
紙は、時々、反省する。
セラは旅装に軽い鎧。
背には剣、腰には小冊子、肩には“巡回任務”の旗。
リオは外套の内側に《世界記録書》、胸に焦げた縁、額の包帯は新しい。
門番が書状を見て、眉を上げ、敬礼し、通す。
足元の石が、外と内を分ける線になる。
歩き出す前に、セラが言う。
「ひとつ、約束」
朝の光が、彼女の瞳に薄い金を射した。
「あなたは、落とした“昨日”を私に渡す。私は、拾った“昨日”をあなたに返す。……それで二人で、今日を増やす」
リオは笑う。今度は薄くない笑いだった。
「了解。著者と騎士の、共同作業」
東の街道は、前より少しだけ明るかった。
雲の襞が無数の欄外みたいに重なり、風が本文を繰るように草を揺する。
彼らは歩いた。
セラが前へ出て、リオが並び、時々入れ替わる。
背中合わせに井戸を登った癖が、もう身体に残っている。
鐘楼の音は遠のき、代わりに小さな村の鐘の音が近づく。
道の端に、破れた紙片がひとつ落ちていた。
拾い上げると、それは誰かの日記の一行。
——“きょう、しあわせ”。
幼い筆。
セラが受け取り、小冊子に挟む。
「巡回任務の第一号成果」
「いい記録だ」
リオは余白に小さく書く。
——《記録:司書騎士セラ、同行開始》。
——《備考:記録は一人では持てない》。
——《付記:綴じ糸の“北東位”を追え》。
空の彼方で、またページが閉じる音がした。
だが、今度は遠くなかった。
紙の外側にいる誰かは、彼らの歩調に興味を持ち始めている。
それならちょうどいい。
著者と騎士は、歩きながら頁を増やす。
王都の塔が霞む頃、エリシアは史館の窓から外を見ていた。
机の上には、巡回任務の副本。
その余白に、彼女はひとことだけ、書いた。
——《戻れ。王国の“正”を、紙の外から守るために》。
インクが乾くまでの間、彼女は、もう片方の自分——叛逆の自分——に小さく微笑みかける。
どちらも“正典”。
ならば人間としての選択で、一つを選ぶ。
彼女は鐘の綱に手をかけ、静かに、確かに鳴らした。
新しい時のはじまりを告げる音は、紙ではない。
けれど、紙にも刻まれる。
セラとリオの背に、その音が届いた。
二人はふり返らない。
歩きながら、同じ頁の端を指で押さえる。
風がめくろうとするのを、少し笑いながら堪える。
——記録は、一人では持てない。
——だから物語は、二人で書ける。




