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記録の勇者のリブート ―改ざんされた世界で、僕だけが“真実”を覚えている―  作者: 妙原奇天


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第4話 冤罪の修正と代償

 火の手は、遅れて噂になる。

 だから王都の朝には、昨夜より大きな火が燃えた。紙面の上で。

 ——《勇者、王家に叛く。史館炎上》。

 見出しは黒。活字の角は刃物のように鋭く、噂を紙の背から空へ切り上げる。実際の火は、書庫の片隅で油皿が跳ねた小火でしかなかった。棚一本、背表紙三十余。燻った煙は夜警と司書騎士の手際で早々に鎮まり、書架は煤を舐めただけで踏みとどまった。……けれど、版が決まれば事実は細部から削られていく。

 王都の門前通りは号外で白かった。

 通りすがりの男が指差す。「勇者が王に背いたってよ」

 女が眉をひそめる。「王女さまが庇ってるんじゃなかったの?」

 男は肩をすくめる。「紙が言うから、そうなんだろう」

 紙が言えば、世界が言う。

 リオは史館の脇庭で、すでに“処分”を受けていた。

 監督官バルドが読み上げる声は、鉄を打つように乾いている。

「記録の勇者、リオ・クロスフィールド。王族関連原本の無断閲覧、記録の無断改変、及び史館規矩違反の咎により、王都追放処分。王領内の史庫・史料への接近、五年禁止。抵抗すれば拘束、抵抗しなくとも監視」

 赤い封蝋の揺れるたび、文言が空気に沈んだ。反論は、文字の外に出づらい。

 セラは前に出ようとして、足を止めた。

 鎧のベルトが微かに鳴る。誓いの紐が彼女を引き止める。

「あなたは私が護る」

 囁きは小さい。しかし鋼。

「けれど、公には動けない。規律が私の背中を縛る。だから——」

「わかってる」リオは笑った。薄い笑いだったけれど、笑いだった。

「行く。王都の外で、書く。僕の“版”を、僕自身で」

 城門が開く音は、紙束を割く音に似ていた。

 リオは背嚢と《世界記録書》だけを抱え、東の街道へ出た。

 午前の光は、まだ見出しの煤を洗わない。道端の段丘には若芽、空は薄い灰。遠くに人影。槍旗を背負った一団がこちらへ向かってくる。

 槍の勇者パーティだった。

 先頭の青年——ヴァルが、馬上から見下ろした。

「裏切り者」

 言葉は投げ捨てるために作られた硬さで、足元の砂に刺さった。

 リオは《記録書》を抱え直し、肩をすくめる。「その号外、昨日の版?」

「どっちでも同じだ。紙が“正”だ」

 ヴァルの手が虚空に符を描く。槍の柄が小さく鳴き、足元に方陣が咲いた。

「——拘束術式《縫止スティッチ》」

 透明な糸のような術が走った。空気の目地を縫って、標的を絡め取る拘束陣。

 糸は真っ直ぐリオに飛び、抱えた帳面に触れ——からり、と絡んだ。頁が重く閉まり、金具が錠前みたいに硬くなった。余白の脈動が一瞬止まる。

 焦りが、喉と指先を細く打った。

 けれど、ペンはまだ動く。

 リオは《記録筆》を親指と人差し指でつまみ、帳面の端——術式の“定義行”に触れた。拘束術式は術式である以上、記述がある。

 ——〈対象:敵対者〉

 その一行の“対象”の文字に、赤い細線を引く。

 そして、上から静かに書き足した。

 ——〈対象:施術者〉

 空気が、静かに裏返る。

 次の瞬間、透明の糸は獲物を見失い、発動源へと巻き戻った。

「……は?」

 ヴァルの足元で、方陣がぬるりと反転する。

 彼の両脚に糸が絡み、膝下がたちまち縛られた。馬がいななき、ヴァルは見事に鞍から落ちる。地面が近づく途中で、せめてもの見栄で槍を地に突いて体勢を戻そうとしたが、槍先は滑って土を掻いた。

 どしゃり——。

 顔から落ちた。

 砂が舞い、隊の後衛がどよめく。

「隊長」「え、今のどうなって」「自縄自縛……?」

 頬を真っ赤に染めたヴァルが跳ね起き、リオを睨む。睨むしかなかった。糸はまだ膝下を縫い止め、槍の英雄は子どもみたいに地団駄を踏む。

 リオは肩をすくめ、静かに礼をした。

「定義は大事に。文章でも、術でも」

 次の瞬間には踵を返していた。絡めた糸は彼の背を追わない。定義が、そう記されているから。

 街道を離れ、用水路沿いに小走りで丘を降りる。追撃の気配が薄れるまで、心拍だけが靴音の代わりに耳の内側を叩いた。

 日が傾く。遠くで雷の音。空の色がもう一段濃く落ち、雨の匂いが土から顔を出す。

 橋の下は、ほどよく乾いていた。

 リオは《世界記録書》を開き、余白の広いページを選んだ。

 ——《記録:本日行動》

 筆が走る。王都追放、門前の声、東街道での邂逅、拘束術式の反転、ヴァル転倒、群衆のどよめき、逃走の経路、今の雨、橋の名。

 行為を克明に残すのは、ただの行動記録ではない。自分の今日を“外”に置く。自己記憶の摩耗が来ても、自分の外側に“自分”を残すため。

 書けば、摩耗は緩む。少なくとも、緩んでほしい。

 雨脚が強くなった。水面が荒く点滅し、橋脚に点字のような波紋を刻む。

 うたが聞こえた。

 雨の合間を縫うように、軽い旋律が近づいてくる。

 古い街道唄。旅の歌い手。

「良い夜に」

 声も旋律の一部のように柔らかかった。

 薄い外套、琵琶のような弦楽器。目元に笑いじわ。

「お邪魔します。雨宿り、相席よろしい?」

「どうぞ」

 リオは帳面を傍らに寄せた。霧雨が余白に細かな斑点を作る。

 歌い手は火も起こさず、濡れた外套を絞りながら腰を落ち着けた。

「王都の見出しは、あなたのことを歌ってますね」

「歌わなくていい箇所まで歌詞にしてるけど」

「でも、王女殿下はあなたを探しているそうですよ」

 歌い手は何気ない風を装って言った。視線も声も、無害の仮面を被っている。

 リオは頷いた。

「殿下が、僕を?」

「ええ。“著者”を。あなたは紙を直す。彼女は言葉を立てる。相性はいい」

 言葉の継ぎ目に、微かな毛羽立ち。

 “著者”という語は、今、王都でそう一般的に使われているわけではない。セラとエリシアと自分——ごく限られた口の中でだけ転がした言葉のはずだ。

 リオは帳面をそっと膝上に引き寄せ、《記録筆》を赤に切り替えた。

 歌い手のフレーズを、区切りごとに書き取っていく。

 〈王女はあなたを探している〉

 〈王女は“著者”を求めている〉

 〈王女は今宵、南門外で待つ〉

 〈王女は“単独で”やって来る〉

 “今宵”。王女の外出記録は厳密だ。単独で外に出ることは、まずない。護衛の定義がそれを許さない。

 “南門外”。今は外敵の示威が続く。南は封鎖。

 小さな矛盾点に赤い丸をつける。二つ、三つ、四つ——

 閾値を、超える。

 橋の下の空気が一瞬だけ、生ぬるく裏返った。

 局所的な《リブート・ログ》が発火する。

 水音が遠のき、雨脚が糸にほどけ、世界の飽和が半音下がる。リオと歌い手だけが、その微小な転調を聴く。

 歌い手の背中——外套の内側の皮膚に、薄い金の輪。

 校正印の焼き痕。

 それは、見えない場所に押された“従属”の証。

 仮面の書記官の手が、そこまで伸びている。

 歌い手は笑った。笑顔は崩れず、声だけが一音ほど下がった。

「……やっぱり、あなたは“見える”んだ」

「見えたのは、あなたの“昨日”だよ」

 赤で記された矛盾の行が、薄く反転していく。

 〈王女は今宵、南門外で待つ〉→〈王女は今宵、待たない〉

 〈単独〉→〈護衛帯同〉

 〈探している〉→〈監視している〉

 文は連なりを変え、意味を持ち替える。昨日の行が今日の注釈に耕され、歌い手の笑いが一拍だけ遅れる。

 彼は立ち上がり、外套の裾を払った。

「用は済んだ。位置は取れた。……ありがとう」

 礼を言って、踵を返す。

「逃げないの?」

「逃げるさ。あなたが“追わない”うちに」

 リオは追わなかった。

 筆先を握る指が、微かに震えていた。

 《リブート・ログ》を使うたび、自分の内側で何かが剥がれていく。

 記憶の端。好きだったペンの型番。幼い日に集めた切手の匂い。父が「字は丁寧にな」と言った声の音程。……どれも、砂のように指の間から落ちる。

 帳面のページの端が、少し欠けた。

 そこに、黒く小さな印が浮かぶ。

 ——《回収不能》。

 雨脚は細くなり、橋の向こうが少しだけ明るむ。

 セラの顔が脳裏に浮かんだ。

 “あなたは私が護る”と言った彼女の声は、まだ剥がれていない。剥がれたくない。

 リオはペンを強く握り直し、余白の一角に新しい欄を作った。

 ——《自分の証拠欄》。

 〈午前:追放通達、門外〉

 〈正午:東街道で槍の隊と遭遇〉

 〈同:拘束術式の定義行を書換〉

 〈午後:橋下へ退避、雨宿り〉

 〈夕刻:歌い手来訪、“著者”の語の不自然〉

 〈同:局所ログ起動、校正印痕の露見〉

 〈夜前:歌い手離脱。追跡せず〉

 最後に、一本、赤い線。

 〈宣言:編集者と著者は、紙の上だけで会わない〉

 ペン先を離すと、胸の熱が少しだけ落ちた。

 因果熱は消えない。けれど、熱の燃え方は選べる。

 熱を憎めば、世界の紙を焦がす。

 熱を使えば、世界の紙に字が立つ。

 橋の上を、車輪の音が渡っていく。遠い鈴の音。

 雨は、やがて糸から霧へ、霧から薄い膜へと変わった。

 リオは《世界記録書》を閉じ、胸に抱えた。焦げた縁は痛々しいが、紙は生きている。余白は脈を打つ。

「……使えば使うほど、俺は“昨日の俺”を落としていく」

 声に出すと、言葉は重さを持った。

 それでも、続ける。

 落とした昨日を、外に残すために。誰かが、拾えるように。自分自身が、明日拾えるように。

 東の空が、雲の襞の向こうで白む。

 王都から遠く離れるほど、見出しの声は小さくなる。

 けれど、紙を閉じる音は時々、空の彼方から届いた。

 編集者がどこかでページを繰る。

 著者はここで、ページを開く。

 セラ。

 エリシア。

 そして、仮面の書記官。

 次に会うのが、紙の上か、紙の外かは——まだ、書かれていない。

 リオは橋の下から立ち上がり、濡れた靴の紐を結び直した。

 東の街道は、薄く光る。

 行く。

 今日を、また外側に残すために。

 そして、いつか——“冤罪”という版の余白に、決着の一行を刻むために。

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