第3話 リブート・ログ起動
——鐘が、低く逆さまに鳴った。
王都の空にかかる音色が、一度溶けてから巻き戻る。遠く近く、早く遅く、時刻の枠線がズレるみたいに歪み、床石の目地から薄い紙面の渦がにじみ出した。渦は墨の水輪のように広がり、史館の床に描いた回路紋と噛み合って、静かに——けれど抗いようもなく——世界を裏返していく。
「始める」
リオは《世界記録書》の余白に、短く二字だけ刻んだ。
——《起動》。
発動条件はふたつ。「矛盾の重奏が閾値を超えること」と「参照権の確保」。昨夜から今朝にかけて、号外・副本・通行簿・演説草稿——すべての版が互いに食い違い、しかも“全て正しい”と主張した。リオとセラが床に敷いた細い回路は、史館の骨格と書架の配列を導線に変え、王都という巨大な本体から“参照権”を仮に引き出してある。条件は、満たした。
「代償は“因果熱”と“自己記憶の摩耗”。——わかってる」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、リオは《記録筆》を持ち替えた。セラが横で息を整え、短剣の鞘を軽く叩いて拍を取る。その音が、扉の向こうの静かな夜に馴染んだ。
世界の色が半音落ちた。飽和が抜ける。赤は鉄に、青は鉛に、金は乾いた羊皮紙に。空気の向きが逆流し、壁の燭台がふっと背後へ影を投げる。
——知覚したのは、リオとセラだけだ。
《リブート・ログ》が走り、世界は「昨夜」のフレームを開く。
王城の廊下は、闇ではなく薄い紙色に沈んでいた。柱に掛けられたタペストリの糸目が一本一本くっきり起き、侍女の歩幅が音符のように規則正しく並ぶ。足音は遠いのに、足裏の体温は近い。時間が“透明”になると、世界はこうも正確に見えるのか。
セラが顎で合図する。
「地図室は西翼の奥。一人で向かう足跡は——殿下しかいない」
足音に追いすがるように走る。走っているのに、呼吸は乱れない。逆に胸の奥で熱が溜まっていく。因果熱だ。世界の“変更前後の差分”が、体内のどこかに発火点を作る。もっと深く潜れば、もっと燃える。
地図室の扉は鍵がかかっていた。だが《リブート・ログ》の層では、鍵穴は単なる記述に過ぎない。リオがペン先で鍵穴の縁に小さく円を描くと、文字の輪郭がふわりと薄れ、ドアは記録の関節に従って静かに開いた。
灯の少ない部屋。壁一面の地図は、王都と四方国境の戦況を重ねた透明紙でできている。重なる矢印、赤い印、撤退路。
机の前に立つ王女エリシアは、ひとりだった。白金の髪は束ねられ、指先は硬くペンを握っている。紙の上、書きかけの「叛逆指示」の文。
——だが、彼女の手は震えていた。
振動はわずか。けれど、震えの分だけインクが滲み、文字の端に小さな“揺れ”が残る。
エリシアは目を閉じ、作戦図の叛逆指示へ薄い別紙をそっと被せた。その手つきは罪を隠す動作ではなく、“自分の言葉でないものを遠ざける”仕草だった。
背中の空気が、微かに変わる。
扉でも窓でもない場所から、影が浮かび上がって実体を帯びる。
鴉色の外套。仮面は無表情で、眉も口も描かれていない。持っているのは金の校正印——紙面の“最後の許可”を示す小さな輪。
仮面の書記官は、机に近づき、別紙の上から静かに印を落とした。
——ちいさな音。
《正》。
その一字が、薄い光を放って紙面に沈む。
書記官は部屋を出た。影は来たときと同じように、どこにも接していない場所から消えた。
セラが息を呑む。
「見た? “押した”。誰かが、最終の正を押した」
「見た。殿下の筆跡じゃない」
リオは机に近づいた。叛逆指示の行を、《記録筆》の腹で軽く撫でる。
触れた瞬間、文字が砂粒に変わって崩れ、波紋のように机の上の世界に拡がった。崩れた隙間から、別のインクの層が浮上する。
——《撤退命令》。
薄墨のように消されていた文字が、呼吸を取り戻すように濃くなる。命令の主語は、王女エリシア。筆致は均一、震えはない。
「補正が入る」
リオがそう言うと同時に、世界が一拍遅れて揺れた。
地図の矢印がひとつ、戦況の記号がひとつ、音もなく向きを変える。城下の広場。人々の手にあった二種類の号外のうち、一方の見出しだけがふいに薄くなり、もう一方の「王女は救援に向かった」のインクが黒く重く、紙の厚みに沈む。噂の川筋が合流し、王女への罵声がどこかへ吸い込まれて、代わりに兵の嘆息が涙に変わる。
——“正”が入れ替わる音は、静かだ。けれど、確かに鳴る。
頭蓋の内側で、鐘の残響が爆ぜた。
因果熱——来る。
リオの額に鋭い痛みが走り、視界の縁が白く灼ける。鼻腔に金属の味。滴り落ちる赤が、机の木目の隙間に吸い込まれていく。《世界記録書》の下辺がじり、と焦げ、羊皮紙の匂いに微かな焦げ臭が混ざった。
「リオ!」
セラが懐から包帯を引き出し、素早く額を巻いた。指の動きは乱れず、手の温度は高い。
「これが代償?」
「履歴の書き換えは、世界に負債を生む。——返済は、術者の体で行われる。何度もはできない」
言いながら、焦げ縁を指でつまみ、延焼を抑える。
世界が“戻る”。色調が半音上がり、音が前向きに流れ始める。灯がふつうの黄を取り戻し、時間の糸が再び“未来”へ延びる。
史館に戻ったとき、空はまだ夜の色を保っていた。
監督官バルドが待っていた。肩幅ほどもある腕組み。牙のような髭。見た目のすべてが“拒絶”を語っている。
「王族の記録に触れたのか、若造」
低い声が床を這った。「触れただけではないな。——動かしたな」
バルドの指が鳴る。兵が二人、扉の影から現れてリオの肩に手をかけた。冷たい鉄の感触。
「拘束する。史館の規矩により、原本冒涜の疑いだ」
「疑い、じゃない。——やった」
リオは素直に頷いた。逃げるには、まだ呼吸が浅い。
「ただし、冒涜じゃない。訂正だ」
刃が空気を裂いた。
——金属音。
扉が派手に跳ね開き、剣の勇者カインが踏み込む。肩にかかる赤いマント、炎の紋章。剣先は迷いなくまっすぐ、リオの胸元へ。
「お前か、王女の名誉を塗り替えたのは」
剣は問う、というより責める。
「“叛逆”が消えたせいで、俺の武勲は半分になった。救援の栄誉が“正”に置き換わった。——英雄譚は、数字じゃない。だが数字がなけりゃ、俺の刀はどこに立つ」
リオは剣を見下ろし、ゆっくりと《世界記録書》を胸に抱き直した。言葉を飲み込み、代わりにセラを見た。
セラは細く頷く。
——合図。
「史館の裏階段へ」
「こっちは引きつける」
セラが一歩前に出て、カインの剣に短剣で火花を散らす。
ちいさな音は、巨大な鐘の音に勝てない。だが、すぐ側の耳には十分だった。兵の視線がセラに向き、バルドの命が剣の音に遮られる。
リオは体を捻り、書架と書架の狭間へ滑り込んだ。裏階段——非常用に設けられ、今は誰も使わない古い木段。踏板は鳴くが、鳴き声は棚の紙に吸われて廊下には届かない。
駆ける。
階段を降りるほど、空気が湿る。外気が近い。夜と夜明けの境の匂い。
最後の一段を飛び越えると、史館裏の中庭に出た。空はまだ暗く、けれど雲の縁が灰から白に欠け始めている。
雨——降り出す音。
細い糸が降り、土と石に黒い斑点を増やす。鐘楼の影が長く伸び、雨に切り刻まれて揺れている。
息を整える時間は、ない。
カインの足音は速い。彼は“戦う”。それは彼の善でも悪でもなく、ただの事実だ。
リオは鐘楼の陰に身を滑らせ、雨の匂いを肺の奥まで吸い込んだ。
額の包帯が湿る。焦げた帳面の縁が、雨でふやける。
「……俺は“記録”の勇者だ」
自分の声が、鐘の胴の内側へ落ちていく。
「戦う相手は怪物じゃない。物語を編集する“神”だ」
見上げた鐘楼のさらに高い、空の彼方——誰かがページを閉じる音が、確かにした。
風じゃない。雨じゃない。紙の音だ。分厚い、世界規模の“製本”の音。
その瞬間、リオの視界が刹那だけ暗転した。
——記憶の縁が剥げる。
幼い日のノートの表紙。好きだったペンの型番。高校の教室、黒板の匂い——そういう断片が、砂のように指の間から零れた。
自己記憶の摩耗。たしかに始まっている。
でも、怖くなかった。
背中の温度が、雨より確かなものを伝えてきたからだ。
「追っ手を撒いた。行くよ、著者さま」
セラが戻ってきた。短剣には一滴の血もない。けれど彼女は戦っていた。視線で、足運びで、気配で場を押さえ、時間を稼いだ。
「著者?」
「あなたはもう“読む人”じゃない。“書く人”」
セラは濡れた髪を指で払うと、半歩だけ前に出た。
「次は、どのページに手を入れる?」
問いは軽い。でも、その芯は鋼だ。その鋼に、自分のペン先を重ねてみたいと思った。
鐘が、今度は正しい向きで鳴った。
夜が退き、朝が来る。
広場に散った号外はひとつに揃い、人々は紙を読み、顔を上げ、空を見た。
王女は救援に向かった。
——世界は、そう記された。
史館の屋根を打つ雨が強くなる。
リオは濡れた帳面を胸元に抱え、ペン先で余白にごく小さく印をつけた。
——《記録:リブート・ログ初回》
——《損耗:自己記憶(軽度)・帳面縁焦げ(局所)》
——《副作用:王都版の固定(一次)》
最後に、もう一行。
——《宣言:編集者よ、ページの外で会おう》。
書き終えると、胸の奥の熱が少しだけ冷めた。
因果熱は消えない。けれど、燃やし方は選べる。
セラが片手を差し出す。
「休むべき? それとも、次の参照点に潜る?」
「休まないと記憶が抜ける。——でも、抜ける前に、抜けても忘れない“記述”を残せる」
リオは彼女の手を取った。
雨は止まない。だが、ページはめくられる。
今度は、こちらが先にめくる番だ。




