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記録の勇者のリブート ―改ざんされた世界で、僕だけが“真実”を覚えている―  作者: 妙原奇天


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第17話 遺された者たち

 最初の年は、数え方から決めた。

 戦のあと、城壁の石はまだ温く、広場の隅には焦げた木枠が積まれていた。神殿の鈴は鳴らないままだが、その代わりに市場の天幕が風でぱたぱた鳴り、午前と午後の境目を知らせる。鐘がないなら、風で刻む。暦がないなら、生活で区切る。灰騎士カイルは机に向かわない。机は言葉を硬くする。彼は庇の下、小さな折り畳みの卓を膝の間に挟んで、人と同じ高さで紙を広げた。紙は白いままでも役に立つ。白は、座る者の数だけ埋まる。

「——では、最初の年を“蒼銀暦一”とする」

 立会人は多くなかった。父は顎だけで合図を送り、ミナは包帯を背に、フィオは子どもたちを膝に乗せ、ルイセルは灰の衣で端に座る。「座る」。それがこの国の新しい儀礼だった。誰も跪かない。誰も立ち尽くさない。座って、パンを割って、水を回し、話を始める。話が長くなると、誰かが「はいどうぞ」と言って席を譲る。譲られた席に座ると、話は短くなる。不思議だが、そういうものだ。

 暦は三つの柱でできた。

 一、昼寝の長さで季節を測る。

 二、祭は“分け合い”の量で決める。

 三、祈祷回数の帳面は廃止し、代わりに“座った回数”を記す。

 父は眉をひそめた。「座った回数で何がわかる」

「会って、顔を見て、息が合った回数がわかります」とカイルは答える。「息が合う回数の多い村ほど、雨のときに庇を先に出す」

 理屈は簡単で、しかし紙には書きにくい。だから暦は、紙より先に広場で口伝された。子どもは口伝が好きだ。口で習ったものは、紙より早く覚える。覚えた子は、忘れてもまた誰かに習える。「はいどうぞ」があるから。

 蒼銀暦の最初の日、カイルは丘へ登った。剣は立っている。柄に結わえた白銀の髪は、風で細く振れ、根元の土は薄く凍り、凍りの輪郭に沿って青い花が四つ、迷いながらも確かに咲いている。彼は柄を拭き、布の結び目を締め直し、小さく息を吐いた。呼吸は、祈りの代わりだ。彼は剣に向かって、誰にも聞こえない声で報告する。

「——一日目。面は増やせている。庇も足りてる。鈴は鳴らないが、代わりの音はもう十分だ」

 風が頷き、花はそれぞれにうなずき、丘は座る場所を少しだけ広げた。

     *

 国の再建は、盾を並べることに似ていた。正面から構えて受けるのではなく、面を重ね、角度を繋ぎ、押されても押し返さず、流して、受けて、ほどいて、次の面へ渡す。カイルは兵舎を学校に変え、槍を箒に替え、整列を「椅子並べ遊び」に置き換えた。朝の号令は短く、昼の合図は笑いで、夕方の解散は「鼻歌二節分歩いたら自由」で終わる。兵は減り、子どもが増え、怒鳴り声は消え、物を運ぶ音が増えた。

 「“祈り部屋”をどうしますか」

 神殿の神官が戸惑いを隠せずに問う。袖はもうまくられている。ミナが隣で頷き、包帯の端を整え、フィオが口笛で気まずさを丸くする。カイルは祈り部屋を見回し、窓を開け、床に木粉を撒いた。

「昼寝部屋に。祈りたい人は、寝る前に息を整えるといい。寝ている人を起こしたら罰金。罰金はパンにして、『はいどうぞ』の籠へ」

 規則は紙より先に、笑いと一緒に広まった。笑いは、人を走らせずに歩かせる。

 門の外から旅人が来るようになった。彼らは丘に登り、剣と花に会い、座る。座って、話す。話すうち、彼らは剣を「アリア」と呼び習い、少し照れて笑った。「名で呼ぶのは、鎖じゃないのか」と彼らは言う。カイルは首を振る。

「鎖になる名もあれば、座布団になる名もある。『アリア』は座布団だ。疲れた人が座って、息が合うまでの間のための」

 子どもたちはそれをすぐ覚えた。「座布団のアリア」。彼らは剣に背中をもたれ、青い花に指を触れ、花の方が背中に触れ返してくると、びくっとして笑う。笑うと、眠くなる。眠くなった子どもは、丘の芝で短い昼寝をし、起きるとパンをちぎって隣に「はいどうぞ」と渡す。渡された子は、また隣へ。この往復が、蒼銀暦の分の単位になった——「一はいどうぞ」。

     *

 ルイセルは、人間として地上に残った。

 名はそのまま、肩書は降ろす。彼は「律」の仕事を手放し、代わりに生活の段差を数えはじめた。段差は怪我のもとだ。彼は階段の一段目を少し低くし、井戸の綱の取り手に布を巻き、橋の欄干に子どもの肘の高さの削れを作る。

「天使が土木をやる時代が来るとはね」とフィオが笑う。

 ルイセルは意味を学びながら頷く。「我はもう天使ではない。……我は、手すりだ」

「手すりって、いい響き」ミナが言う。「人が自分の脚で降りるのを、ただ手伝う」

 彼は夜に眠ることも覚えた。最初は寝返りの仕方がわからず、朝まで同じ姿勢で固まっていたが、猫と子どもが勝手に胸の上で丸くなる癖を覚えると、眠りは柔らかくなった。夢を見た。夢の中で、鈴は鳴らなかった。鳴らない鈴の重さが心地よかった。目を覚ますと、丘の青が少し濃くなっている。彼は小声で言う。

「盟友。……汝の間は、まだここにある」

 誰も答えない。答えないのが返事だった。

     *

 墓碑を作ることになった。戦は終わったが、死は生活から消えない。むしろ、ゆっくりと帰って来る。老いた者は、老いた分だけ眠る。疲れた者は、疲れた分だけ座る。座ったまま眠って、そのまま起きない者もいる。国が静かになってからの死は、音が少ない。少ないからこそ、言葉が必要だ。墓碑の言葉。名を鎖にせず、しかし忘れない言葉。

 石工は聞いた。「何を刻む」

 カイルは丘を見て、剣を見て、青い花を見て、答えた。

「《祈らぬ者こそ、生きる者》」

 石工は首をひねる。「祈るな、と?」

「違う。祈りを、強制の外に置く。祈っている間も、生きている。祈らない間も、生きている。——生きている者を、名で括らない」

 墓地は丘の向こう、風の道に沿って作られた。石は低く、座りやすい形で、上に花瓶は置かない。花は丘にある。ここは座る場所だ。人は座り、パンを割り、水を注ぎ、話す。話す内容は、死んだ者の癖。くしゃみの仕方、笑う前の口の片端の動き、昼寝のときの手の位置。「はいどうぞ」と椅子を差し出した回数。それらの話の最後に、石の言葉を指で撫でる。「《祈らぬ者こそ、生きる者》」。撫でると、心臓が一拍、楽になる。

 ルイセルは墓碑を見て、低く薄く笑った。「名文だ」

「だろう」とカイルも笑う。笑い合う癖は、彼らのあいだにやっと生まれた新しい礼だった。

     *

 蒼銀暦三年、学び舎ができた。屋根は低く、窓は大きく、床は固くない。壁には字ではなく、面と間の図が貼られている。面は盾の並び、庇の角度、椅子の高さ、井戸の綱の巻き方。間は呼吸の数え方、笑いの入れどき、沈黙の置き方、泣き止むまで待つ長さ。教師は、杖を持たない。杖は天の道具だ。代わりに手ぬぐいを持つ。汗を拭く。涙を拭く。汗や涙は、字より早く学びになる。

「剣の名は?」と子どもが問う。

「アリア」と皆が答える。

「どうして?」

「座布団になるから」とカイルが言う。「疲れたら、もたれなさい。——でも、刃には触り方がある。面に触ること」

 子どもは「面」をすぐ覚えた。面で受けないと痛いのだと、転んで知る。膝小僧の痛みは、彼らのいちばん確かな教師だ。膝を撫でていると、フィオが駆け寄って「はいどうぞ」と飴を一個くれる。泣くのが早く終わる。終わったら、また走る。

 授業の最後に、教師は必ず一度、窓を開ける。風が入る。鈴は鳴らない。鳴らない代わりに、誰かの笑い声が遠くで弾ける。弾けた笑いが混ざり合い、言葉が要らない同意になる。

     *

 蒼銀暦五年、はじめての「大座」が開かれた。

 評議会ではない。祭でもない。怒りでも、嘆きでもない。——座る日だ。街の椅子を全部広場へ出し、家の敷物を全部庇の下に敷き、神殿の床で昼寝をし、天幕の影でパンをちぎり、水を渡し、歌わず、ただ、座る。座っていると、人は勝手に話し始める。話し始めると、勝手に笑う。笑うと、勝手に泣く。泣いたあと、勝手に眠る。眠ったあと、勝手に起きる。起きたとき、誰かが「はいどうぞ」と言って椅子を譲ってくれる。譲られた椅子に座ると、人は自然に「ありがとう」と言う。この順番が、蒼銀暦の核だった。

 ルイセルも座った。彼はまだ、座るより“立つ”に慣れている。天は立つ文化だった。けれど、大座の日は座る。座って、膝に猫と子どもを乗せ、眠り、起き、少しだけ頭が汗ばみ、汗を手ぬぐいで拭う。拭いながら、彼は小さく呟く。

「……我は、ここにいる」

 カイルは遠くでそれを聞き、頷きはしない。頷きは布告だ。頷かず、ただ庇の端を少し広げ、夕立の角度を見て椅子の位置を半歩ずらす。半歩ずらす、それだけで、人は濡れずに済む。

     *

 蒼銀暦七年、遠くの村で小さな暴動があった。神殿の倉庫に残っていた古い帳面を誰かが持ち出して、「祈祷回数が足りない」と言いだした。足りないと言われると、人は走る。走る者は転ぶ。転ぶと、膝が痛む。痛みは合図だ。カイルは兵を出さず、自分で行った。ルイセルは同行し、ミナは包帯を背に、フィオは口笛を用意し、父は城門で出入りの幅を整えた。

 村では怒鳴り声が交錯し、鈴が鳴った。鳴る鈴——懐かしく、しかし鋭い。刃だ。カイルは鈴を鳴らす神官の手を捕まえず、その掌に自分の掌を重ねた。「手を、合わせる」。神官は一瞬驚き、鈴がひとりで転がって畳の上で止まる。鳴らない。鳴らない鈴を見て、誰かが笑い、笑いでひとつの叫びが解け、解けた叫びの跡に、フィオの口笛が滑り込み、ミナの包帯が膝に載り、ルイセルが段差を削り、カイルが椅子を並べる。座れば、怒りは遅れる。遅れるうちに、腹が鳴る。腹が鳴ると、パンが半分に割られる。「はいどうぞ」。——それで、終わった。

 帰り道、ルイセルが言う。「秤が折れても、皿は残る。……皿の上に、鈴を載せる者がいる」

「皿は料理のためにある」とカイル。「鈴は枕の下に。鳴らない重さが、眠りを守る」

 ルイセルはうむ、と短く頷く癖を覚えた。覚えた頷きは布告ではない。生活の合図だ。

     *

 蒼銀暦十年、丘の花は増え過ぎず、しかし減りもしない。その日、子どもたちが剣の前で輪になった。輪の中心に、白い小石。小石は、墓碑の端から持ってきたものだ。彼らは小石の上に指を置き、小さな声で唱える。

「アリア、アリア、座布団のアリア」

 彼らは剣の背にもたれ、目を閉じ、鼻から息を吸い、止めて、吐く。呼吸は、病室剣の型に似ている。教えたわけではない。生活が教えてしまった。ルイセルが遠くで笑い、ミナは肩の力を抜き、フィオは泣いて笑い、父は腕を組んで何も言わない。カイルは輪の外で膝をつき、誰よりも長く、静かに座った。

 その輪の中、ひとりの少年が目を開け、剣を見上げて言った。

「……アリアは死んだの?」

 返事をする者はいない。してはいけない。代わりに、風が通り、花が一つ、遅れて開く。少年はそれを見て、自分で言った。

「死んだのじゃない。祈りの代わりに、花になったんだ」

 輪の大人は頷かない。頷けば、言葉に背骨が生える。今は、柔らかいままがいい。柔らかい言葉は、座りやすい。座りやすい言葉は、長持ちする。

     *

 蒼銀暦十二年、カイルははじめて長く寝込んだ。風邪だ。風邪は強敵ではないが、油断は命取りになる。ミナは薬を煎じ、フィオは笑いを薄くし、ルイセルは静かに部屋の段差をさらに削った。父は黙って見守り、子どもたちは家の前に椅子を持ってきて座った。「座る」はお見舞いの代わりだ。座っていると、病人の呼吸が整う。整った呼吸が窓から出たり入ったりするのを、椅子は受け止める。

 寝床の脇に、剣はない。剣は丘にある。カイルは枕に手を置き、目を閉じ、鼻から吸って、止めて、吐く。——間に、声が滑り込む。

「面は、増えたか」

 風の声は、彼だけに聞こえる。彼は笑い、咳き込み、涙が出て、ミナが拭く。彼は答える。

「増えたよ。庇も、椅子も。……鈴は、枕の下だ」

 風は満足そうに窓を揺らし、薄い青を部屋に落とし、青はすぐに空気に混ざって見えなくなる。見えないものが、いちばん頼りになるときがある。呼吸の形とか、笑いの合図とか、座る場所の広さとか。カイルは眠り、目を覚まし、また眠り、目を覚まし、ある朝、すっかりよくなった。

 起き上がると、戸口にルイセルが立っていた。灰の衣、薄い笑み、猫を抱え、猫は眠っている。彼は短く言う。

「起きたか」

「起きた」

「では、座れ」

 二人は縁側に座り、朝の光を受け、猫は伸び、鈴は鳴らない。鳴らない朝は、長持ちする。

     *

 蒼銀暦十五年、国は遠くまで広がった。広がったと言っても、地図の線が動いたわけではない。椅子の数が増え、庇が長くなり、笑いの合図が共有され、鈴の鳴らない時間が伸びたというだけだ。旅人は戻り、また出てゆき、各地の丘に小さな剣が立ち、青い花がゆっくり開いた。すべての剣が「アリア」と呼ばれたわけではない。名は土地ごとに違った。違って、よかった。

 カイルは丘の剣の前に立ち、布の結び目を確かめた。白銀の髪は、風でほどけない。ほどけないが、ほどける余地は残してある。彼は片膝をつき、柄に額を近づけ、呼吸で挨拶する。言葉はいらない。言葉は、椅子の上に置いておけば、誰かが使う。

「俺は——」

 言いかけて、やめる。言い切らないのが、この国のやり方だ。言い切ってしまうと、人が立ち上がりにくくなる。立ち上がりにくい椅子は、長持ちしない。

 彼が立ち上がると、丘の風が服の裾を引いた。引き止めるのではない。方向を示す。示されなくても、彼はそこへ行くつもりだった。市場、井戸、神殿(今は昼寝部屋)、学校、墓地、そして——食卓。

 食卓は相変わらず長く、低く、座りやすい。パンは焦げすぎず、焦げが少しだけいい匂いを残し、水は印なしで透明に、皿は割れても面で繕われ、椅子は誰かが必ず「はいどうぞ」と言ってくれる場所に置かれている。子どもが「今日の単位は?」と聞くと、誰かが答える。「一はいどうぞ」。笑いが起き、笑いは早く覚えられ、覚えられた笑いは誰かを起こし、起こされた誰かはまた座る。

 ルイセルもまた、座る。彼はもう、天を見上げる癖をやめた。空には門も秤もない。雲と風と鳥と、たまに猫がいるだけだ。彼は人の高さで、呼吸を数え、段差を削り、夜には鈴を枕の下に置く。鳴らない鈴が眠りを守る。——それで十分だ、と彼は学んだ。

 子どもたちは剣の名を「アリア」と呼び習い、墓碑には《祈らぬ者こそ、生きる者》が刻まれ続ける。刻むたび、石の粉が少しだけ光る。粉は風に乗り、丘の上で花の根元に落ちる。落ちた粉は土になる。土は花を支え、花は風を支え、風は座る者の背に回って、息を楽にする。

 蒼銀暦の年は、静かに重なっていく。

 重なるたびに、鈴は鳴らず、笑いはよく響き、涙はすぐに拭われ、怒りは面で受けられ、面は増え、庇は長くなる。

 国は、それでよかった。

 ある夕暮れ、カイルは丘の端に座って、風に向かってごく短く言った。

「見ているか」

 風は答えない。答えないのが、いちばん信頼できる返事だ。彼は続けない。続けないのが、いちばん長持ちする言い方だ。彼は立ち上がり、庇の長さを寸で測り、椅子の脚のぐらつきを指で確かめ、やがて広場へ降りていく。広場には、もう席がある。誰かが「はいどうぞ」と言う準備をしている。彼は受け取り、座り、パンを割り、水を渡し、笑い、少しだけ泣き、また笑う。

 ——蒼銀暦十七年、遺された者たちは、遺されたものを増やすのをやめなかった。

 遺されたのは、剣の名と、花の青と、鈴の鳴らない重さと、座る癖と、「はいどうぞ」と言う声と、墓碑の言葉と、呼吸の数え方と、面の合わせ方。

 それらを増やすのは、祈りではない。生活だ。

 生活は、ゆっくりと、しかし確かに、国を再建した。

 剣は立ち、花は揺れ、風は通り、鈴は鳴らず、笑いは響く。

 その真ん中に座っていると、ほんの少し、青銀の匂いがする。

 それで、十分だ。

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