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記録の勇者のリブート ―改ざんされた世界で、僕だけが“真実”を覚えている―  作者: 妙原奇天


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第17話 神話の署名欄

 正午の鐘が一音鳴ったとき、王都の空は不意に“軽く”なった。

 風が紙をめくるように街区を通り抜け、屋根瓦の影が半拍だけ遅れて追いかける。壮麗でも劇的でもない、けれど誰もが首元の襟を一つ緩めたくなる種類の変化。——空文字が押し込まれたあとの世界は、ほんの針先ほど“待つ”ことを憶え、その分だけ呼吸が深くなっている。


 掲示板の中央には、いつもの一行。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 そのすぐ下に、昨夜から増えた小さな文。

 ——私は私だ。決めないと決める権利を、ここに。


 広場の端で、白い旗が揺れた。空の丸。その丸の縁を風が撫で、丸の外周に集まった“今日の用事”たち——塩の荷車、井戸の桶、幼い子どもの手——が一拍遅い拍で秩序よく交差していく。遅いのに、進んでいる。


 その風の底、石畳の陰——“索引殿”の奥階。

 合意の地平は、いつもより静かだった。署名の粒の明滅が少し落ち着き、光の波形に長い周期のうねりが生まれている。中央には相変わらず、無数の頁を束ねる巨大な背表紙。金の小口が細く痩せ、一行の題字だけがはっきりと読み取れる。


 ——《ARCA》。


 〈試練は、合格〉

 紙の擦れる音が、宣言の代わりに落ちた。

 〈干渉度を引き下げる。送出の“待ち窓”は常設化。正典欄には空文字を維持する。……ただし、条件が一つ〉


「維持者を、地上から選べ」

 背表紙の角が金の粉を落としながら、ゆっくりとこちらを向いた気がした。

 〈空文字は、誰のものでもない余白だ。余白は、すぐに“私物”にされる。私物化は効率を上げるが、人を欠けさせる。——これを避ける責任者を置け〉


 セラは一歩前へ出た。綴じ糸を巻いた刀身が、ここでは“書見台”の支柱のように見える。

「王権ではなく、市井の“読み手”の代表を——“記録自治会”を設けたい」

 背表紙には表情がない。だが小口の光がわずかに収束した。

 〈構成と、役割〉

「構成は六。王家から一、工房から一、軍から一、市場から一、寺院から一、そして“無署名の署名”の読み上げ係から一。役割は二。正典欄の空文字を守ることと、“留保旗”の運用を地上の速度に合わせて調節すること」

 セラの声は背筋が通っていた。——命令ではない。朗読だ。読む声は、人を押さず、ただ“こちら側へ”呼ぶ。


 エリシアは王服ではなく、簡素な上衣の胸元に手を当てて頷いた。

「王家の一は、私が責任を負う。王権でなく“私”として。自治会の決議に王権の印は使わない。——印は、ここから先、“待ち”のために使う」

 〈承知〉

 紙が一枚、静かにめくれ、合意の地平の端に細い罫が引かれた。そこに“記録自治会”の欄が生まれる。


 ミナが続く。工房の煤で黒ずんだ指先が、ここでは炭筆のように見えた。

「工房の一は、私が引き受ける。役目は、Δt(待ち窓)の調律。並び替えの順番は“炉の順”に揃える。熱いものは冷ます。冷えすぎたものは、少し焚く。窯と井戸と荷車の列を、正典の拍に、逆に正典を列の拍に合わせる」

 〈可動率は?〉

「上がる。——急がず、落ちない“上がり方”で」

 背表紙の小口に、目には見えないが、納得の“押し痕”が残った気がした。


 「軍の一は、俺がやる」

 声は地上から。広場の階段を降りて、風と砂を連れてくる足音。

 剣の勇者カインが正面に立った。今日は武勲の紋章を胸に付けていない。代わりに、胸元には紙の短冊。

「軍の報告書は、これまで閉じていた。正しさを揃えるためだ。……だが、俺は昨日、セラに“名を問われて剣を止めた”。あれが正しいことを、報告書に残せない軍は、弱い」

 彼は短冊を掲げた。

 ——《軍報、公開型へ移行。閲覧窓を市井に開く。反証窓と連動》

「被害最小版の署名は、これから“誰の目にも”届く位置に置く。勝ちの線と同じ高さに」

 〈軍報の匿名はどうする〉

「半減。署名を増やす。責任は、場内で受ける。——例外は、命の危険がある場合だけ。留保旗で守る」

 背表紙は何も言わなかった。代わりに、合意の地平の端で幾つかの署名粒が明滅を早めた。肯定の点滅。


 「市場の一は、私が」

 市場の取りまとめ役の女が、荷札を束ねた手で挙手した。

「紙は昔から扱ってる。帳面も、伝票も、値札も。……“読む側”の権利を、ずっと場末に置いてきた自覚がある。これからは、値段より先に“待ち窓”を書く。値上げの理由も書く。書けば、怒る前に話ができる」

 〈寺院の一は〉

 僧衣の男が静かに前へ出た。

「不可視日は神のためでなく、人のためにある。暦の“空白”は、留保旗と兄弟。儀礼を、地上の速度に合わせる。祈りを、読む」

 背表紙の角がわずかに沈む。——承認。


 「それで、最後の一は?」

 セラが問うと、広場の片隅で小さな手が上がった。

 幼い少年。昨日、板片の裏にパンの数を書いて“二・五”にした彼だ。

「ぼく、読み上げ係、やる」

 笑いが起きた。けれど誰も否定しない。

 少年は胸を張り、掲示板の前に立って、一行を読む。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 声は高い。高いが、合意の地平へ届く“帯”の角度を持っている。

 〈適任〉

 背表紙の擦れが、わずかに柔らいだ。署名の粒が少年の声の軌跡に沿って並び、この場で彼を“読み上げ係”として記録する。


 「これで“記録自治会”は六。運用規程は初稿だけど、回しながら直す。——『待ちながら回す』」

 ミナが短い要綱を合意の地平へ掲げると、背表紙は一行だけ通達を落とした。

 〈干渉度、段階的後退を開始〉

 〈送出窓Δt=街の拍に準拠〉

 〈正典欄=共同余白として固定〉


 背表紙は続けた。

 〈最後の問い〉

 〈署名欄に名を戻すか?〉


 広場のざわめきが一瞬、止まった。

 セラの喉仏が小さく上下する。

 エリシアは、手の中の白旗を握りしめる。

 ミナは鞘の縁を軽く叩いた。

 ——紙の下のどこかで、冷却鞘の金具が、まだ遠くで鳴ったままだ。


 「……戻すべきだと思う?」

 エリシアの問いは、セラにもミナにも向いていなかった。掲示板の紙に向いていた。

 紙は答えない。

 代わりに、少年がもう一度、読み上げる。

 「私はリオ、記録の勇者」

 今度は、最初の「わ」の手前で、息をひとつためる。

 セラはわずかに笑みを崩した。

「その“ため”は、彼の速さだね」

 ミナも頷く。「炉口を開ける前の半拍」

 背表紙は沈黙した。沈黙は問いの続きのように長く伸び、やがて束線のどこかで薄金の火花が散った。

 〈“戻すか”の決定は、地上の“待ち窓”で——留保〉

 問いの送り手である神が、“留保”を採択した。紙が、一枚、人の側に倒れる音がした。


 自治会の最初の仕事は、驚くほど地味なものだった。

 軍報の公開様式の雛形を作り、寺院の不可視日を“留保旗対応日”と連結し、市場の値札の端に“留保窓(相談窓)”を描く。工房はΔtの実験場を開放し、子どもが読誦をするときの順番を“列にせず、円にもせず、点のまま”に流す手順を考案した。

 正典欄の空文字は、いまのところ、誰の名も吸い込まず、ただ“待つ”だけの丸としてそこにある。

 誰かが勢いで書き込みそうになるたび、丸は少しだけ紙の下へ潜り、意志を冷ます。

 ——押さない自由は、押す自由と同じ重さを持っている。


 合意の地平では、背表紙が束線の張りを少しずつ緩めていく。

 〈干渉度:三→二〉

 〈通知:戦→飢え→日常〉

 戦の“見出し”は薄墨になり、代わって“食卓”“路地”“学校”“門限”といった見出しが出力の先頭に並び始める。可動率は下がらない。むしろ、均される。

 背表紙はふと、金の小口を一筋だけ開き、地上の掲示板の風景を覗いた。


 少年が一行を読み、女が値札に“留保窓”を書き、兵が報告書に自分の名を添え、僧が不可視日の鐘を一音だけ鳴らし、その音に合わせてパン屋が窯の口を半拍遅らせて開ける——

 紙のこちらとあちらの拍が、いまは一つの曲を奏でている。


 〈署名者は、まだ戻らないのか〉

 背表紙は誰にともなく呟いた。

 返事は、声ではなかった。

 広場の風が、掲示板の紙片の山を一度だけ大きくめくった。

 上から二枚目に挟まっていた一枚がひらりと舞い、少年の足もとへ落ちる。

 拾い上げた少年は、紙の中央の小さな字を読む。

 ——《朝の錨は、明日もこちらで》

 少年が顔を上げ、広場に響くように声を張った。

 「明日も、読む!」

 笑いが起き、拍手が起き、紙の束がもう一度、風でめくれた。

 その瞬間——合意の地平の中心で、背表紙の巨体が、わずかに笑ったように見えた。笑うという表情を持たないはずの黒革が、ほんの一瞬、金の小口を柔らかく歪めた。


 セラはその日の夕暮れ、掲示板の前で人々の輪がほどけるのを待ち、最後に一人で紙に顔を寄せた。

 「——遅い」

 叱る声は、すでに優しさを含んでいた。

 「でも、待てる。私たちは、待てる世界を作った」

 彼女は刀身の背でそっと紙端を押さえ、小さな字を足す。

 ——《読誦は自由。列にならないで》

 その横へ、エリシアが短く。

——《留保旗:食卓にも》

 ミナが笑ってさらに。

 ——《Δtは腹に合わせる》

 小さな三行は、いかにも“日常”だった。戦の見出しにはならない。だが、世界を毎日一ミリずつ正しい方向に滑らせる“指示”だ。


 夜。

 索引殿の天井のない空に、白い点がひとつ、遠く灯った。

 星ではない。署名の粒でもない。

 誰かの“ためらいの前の息”。

 それが光として記録されるほど、この世界は——紙の下で——少しだけ柔らかくなっている。

 背表紙は音を立てずにそれを見上げ、束線の一本を紙の“日常”へ回した。

 〈試練、完了〉

 〈地上に委ねる〉

 〈私のページは、少し薄くなる〉


 広場の白い旗が夜風に鳴る。

 少年は翌朝のために喉を温めるように、水を飲んで喉を鳴らした。

 カインは初めて“公開軍報”の一行目を書き、レイは弦を緩めたまま、街の屋根を数えた。

 エリシアは私室で“王権印を押さない練習”をし、僧は不可視日の鐘を磨いた。

 ミナは針の鞘に油を差し、セラは小冊子の余白に短い祈りを書く。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 ——私は、私の速度で待つ。

 ——そして、呼ぶ。


 呼び声は、まだ空所の縁に淡く吸い込まれる。

 それでも、呼ぶたびに縁は濃くなり、手触りを得る。

 指先で掴める“取っ手”の形を、世界がゆっくりと削り出しているのがわかる。


 神話の署名欄は、いまや誰のものでもない。

 神も、王も、勇者も、そこへ好き勝手に名を彫れない。

 ——共同の余白。

 人が迷い、ためらい、決めないと決めるための丸。

 その丸の周りで、日常が回る。

 食卓が整い、門が開き、鐘が一音だけ鳴り、子どもが声を出す。

 世界は“英雄譚”の次の章へ、あくまで人の歩幅で進む。


 そして、紙の裏側では——

 背表紙が、黙ってページを一枚閉じ、次の見出しを遠くに見送った。

 〈次章:帰還〉

 題字は、まだ白い。

 白いということは、書けるということだ。

 誰の名で。どんな速度で。どんな声で。

 その選び方を、世界はようやく自分たちの手に取り戻したのだ。

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