表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記録の勇者のリブート ―改ざんされた世界で、僕だけが“真実”を覚えている―  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/20

第16話 最後の巻き戻し

 夜明け前の王都は、紙の匂いが濃かった。

 掲示板の前には、夜通し消えない灯りと、人々が置いていった小さな紙片の山。子どもの丸い字、大人の崩れた走り書き、震える筆致、几帳面な活字の貼り抜き——どれもに一行だけが共通している。


 ——私は私だ。


 それは“私”が“リオではない”という反駁ではない。彼が不在の場所に、空洞の形を合わせるための声だ。声は集まり、紙の層をくぐって、索引殿へと微かに降りていく。


 セラは、鐘の一音を背に受けて立った。

 刀身に巻いた綴じ糸は指二本ぶん余り、昨日より少しだけ軽い。胸の奥では、その分だけ“借りた呼吸”がよく通る。隣にミナ、反対側にエリシア。三人の視線は合わない。合わないが、呼吸は合っている。


「——行こう」


 索引殿の門が静かに開いた。さまざまな版の風が、挨拶もなく三人の頬を撫でる。

 階段は、もうない。署名の粒が足場になり、三人は“読む”ことで降りる。


 最下層——“断章の谷”の口の前に、儀礼はなかった。代わりに、手順だけがある。

 『署名欄無効化』。

 『異本三系統同時起動』。

 『空文字押込』。

 条件は三つ。持続的参照権、署名代理三名、そして——過去の分岐点へ“深層リブート”。


「深層のスイッチは、私が引く」

 エリシアが静かに言った。

 王家の古語で書いた短い祈りを胸に置き、彼女は“王女として”ではなく“私として”扉に触れる。

「責は、私に。——正典の外で、私という名で」


 扉が、紙のようにめくれた。

 谷の空気は相変わらず重く、しかし今日は焦げ臭さよりも、墨の香が強い。上から、掲示板の紙片の“呼気”が降りてきているのだ。


 ミナは針を鞘に納めたまま、両掌を合わせる。炉の火を焚くときの“待ち”の姿勢。

「参照電源、良好」

 彼女の背後で、工房に置きっぱなしの小さな発条が遠く鳴く——思い違いだ。だが今夜は、どんな錯覚も支えになる。

「負荷は分散できるはず。街が“留めて”くれてる」


 セラは小冊子を開き、一枚目に昨日から書き足してきた“朝の錨”を確かめた。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 続けて、最終手順の宣誓文。

 ——私はセラ、司書騎士。この署名の責を負い、記憶の責を引き受ける。

 エリシア、ミナも自分の文を重ねる。筆致の違いは、三人の速度の違い。だが、行の高さはぴたりと揃った。


「行く。——深層リブート、開始」


 《世界記録書》は、不在者の持ち物であるにもかかわらず、セラの腕の中で微かに光った。リオが“参照外”へ落ちる前に残した手順が、余白に薄く走る。

 ——《矛盾の重奏:閾値設定=市井署名総数×留保旗数÷Δt》

 ——《過去参照:王都決戦・大祭日・叛逆夜》

 ——《代理署名:三名分/宣誓ログ添付》

 ページが自走しはじめ、谷の底に隠れていた“過去”が口を開ける。深層の渦は、いつもより静かだ。紙片が、殺気を持たない。


 渦を一歩、踏む。

 視界はすぐに暗くならなかった。代わりに“見出し”が浮かぶ。

 《王女叛逆(案)》

 《王都炎上(号外)》

《勇者討伐声明(草稿)》

 その上に、薄白い帯で“空白の署名欄”が走っている。——そこへ押し込むのだ、空文字を。


「ミナ、温度。セラ、糸。私、古語」

 エリシアの声が、三人分の拍の真ん中に落ちた。

 ミナは“待ち”を刻む。Δtを二拍延ばし、渦の息継ぎを人のリズムに寄せる。

 セラは綴じ糸で“版の縫い目”を押さえ、空白の欄が逃げないように針目を仮に打つ。

 エリシアは古語で、署名欄の“食み出し”を鎮める。

 準備は整った——はずだった。


 谷の反対側で、朱の光が立ち上がる。

 ルドがいた。

 彼はいつもの仮面をつけていない。頬に走る古い切り傷と、額の小さな傷跡が生のまま露出している。片手には校了印、もう片方には、黄ばんだ小冊子。


「私が、ここに立つのは、職務だ。——いや、もう少し正確に言おう。義務だ」

 声は乾いていた。乾いているのに、ところどころが湿っている。

「第五の勇者は、敵の槍を折り、裂け目を縫った。私はその副官だった。——副官は、元から“署名者”ではない。証言者だ。後から、揃える役だ。……だから、お前たちがやっていることは、羨ましい。羨ましいが、危うい」


 セラは一歩、進む。

「危ういのは、“揃えるために人を捨てる”やり方」

 ルドは苦笑した。

「捨てたわけじゃない。置いてきた。先に進むためだ。——副官は、名前を置いてこそ、全体が回る」

「あなたは、署名のために自分を捨てた」

 セラは剣を持ち直す。糸が鳴った。

「お前たちは“私”を聖化する」

「違う。『私』に“待ち”を与える」

「“待ち”は遅延だ。可動率を下げる」

「——炉は、待たないと折れる」

 ミナの声が間に入る。短い、しかし重い音。

 ルドの眼が一瞬、彼女へ流れる。

「鍛冶屋か。……なら知っているだろう。炉は、時に過熱のほうが綺麗に仕上がることを」

「綺麗は、長持ちと同義じゃない」


 言葉が刃に変わる前に、刃が先に動いた。

 セラは踏み込み、ルドの校了印に向けて刀身を滑らせる。

 朱の印面が振り下ろされ、セラの刃がその朱を“切り離し”にかかる。

 校了は記号だ。切断できない。——はずだった。

 だが、刃に巻かれた綴じ糸が、古い祈りを吸い上げる。

 刀身は“針”になり、印面の“朱”ではなく、“押される前の空間”を縫った。

 印は逃げ、朱は空を打つ。

 空振り。——無署名印の影が、街から谷へ届いている。


 ルドは即座に下がり、札を二枚折る。

 《一括校了》

 《留保無効》

 朱の帯が谷全体を覆い、空白の署名欄の上に“蓋”をしようとする。

 ミナが二歩で風を組む。

「待て」

 掌を返すと、朱の帯の下にΔtの空洞が生じ、帯は“沈む”。

 エリシアの古語が、空洞の縁を硬める。「あなたの朱は、まだ読めない」

 セラが糸で帯の端を縫い止め、三つの動作が同じ拍で重なった。


「ルド」

 セラは初めて、名を呼ぶのではなく、問いかけた。

 「あなたの、名は?」

 沈黙。

 ルドは笑わなかった。

「ルド。——それで足りる」

「足りない。あなたの、名は」

 セラは歩を進めるごとに、ひとつひとつ呼ぶ。

「書記官ではなく。代理人でも、副官でもなく。——あなたの、名前」

 刀身が、彼の影を踏む。

 仮面はもうない。隠すものは、残響だけだ。

 谷の上から、掲示板の読誦が微かに降る。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 それは“誰かの名を呼ぶ”練習にも似ていた。

 言葉の形が、口の中で温まっていく。


 ルドの肩が、一度だけ上下した。

 「……ハル」

 ささやき。

 セラは頷いた。

 「ルド・ハル」

 その瞬間、索引殿の束線が低く鳴った。

 仮面よりも深く貼り付いていた“役職”の接点が剥がれ、ルドの背から更訂局の細線が数本ずるりと外れる。

 名を呼ばれるとは、そこに“私”があると世界に知らせること。役職の上から名を置けば、名の側が重くなる。


 ルドは足元を見た。自分の影が、自分の足の形をはっきりと持っているのに気づく。

 「私は……」

 その言葉の続きは、紙にならない。

 だが、朱の校了印は音もなく消えた。空気の中で、何も押されない“凹み”だけが残る。

 無署名印の影が彼の掌にも落ち、彼自身の意思で印が“空”に戻された。


「終わらせよう」

 エリシアが署名欄に向き直る。

 空白は、まだ白い。

 押し込むのは、空文字。

 “何も書かれていないのに成立する署名”。

 それは王家の権能を奪うのではない。権能の外に、場を滑らせる処置だ。

 人が選ぶための“余白”を、紙の中に恒常化させる。


 ミナが針を半ばだけ抜き、風の音で糸の張りを合わせる。

 セラが綴じ糸で欄の四隅を支え、弛みを取る。

 エリシアが古語で宣誓を読み上げる。

「——私は、私として、署名する権利を留保し、その留保を制度として書き込むことを望む」

 三人の声に、上から幾千の声が重なる。

 ——私は私だ。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 声は個々に違うが、帯として一つに束ねられる。


「空文字——押す」

 エリシアの指が、署名欄の中央、見えない印面を押さえた。

 押したはずなのに、音がしない。

 代わりに、世界が一度だけ、長く息を吐いた。

 空気が入れ替わる。

 紙の繊維が緩み、束線がわずかにたわみ、送出端末の頭上で光が弱まる。

 正典の欄には、誰の名もない丸がひとつ——中身は空。

 “成立した未記述”。

 その丸は、これから先、誰かが署名しようとしたとき、必ず一拍の“待ち窓”を開く。反証の入口を常設化し、留保旗を人の権利として接続する。


 ルドは両膝を床についた。

 「……見事だ」

 誉め言葉ではない。認定の声だった。

 彼の背から外れた細線は、床に落ちて消える。

 “副官”は、もう局の端末ではない。ただの人間に戻った。

 セラは彼に手を差し出す。握手ではない。救い上げでもない。

 「立てるなら、立って」

 ルドはその手を見つめ、やがて自分の膝で立ち上がった。

 「私は——私だ」

 自分に向けた署名。その一行が、彼の胸に沈む。


 空文字が押し込まれた瞬間から、深層リブートの渦は後退を始めていた。

 過去の見出しが自発的に折り畳まれ、草稿の角が丸くなり、号外の黒が薄墨に変わる。

 世界は“巻き戻った”のではない。

 “巻き戻しを終える権利”を獲得したのだ。

 選べる。——決める前に、待てる。


「戻ろう」

 ミナが針を鞘に納める。手の震えは少ない。負荷は、街が持ってくれた。

 セラは《世界記録書》の余白に一行を書いた。

 ——《空文字押込:完了。留保常設。副官=ルド・ハル、局権限離脱》

 エリシアは短く祈り、紙面の角に“私”としての印を軽く押した。

 谷の上から、読誦の声がさらに近づく。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 ——私は私だ。

 ——留保。


 帰路の足元に、薄い紙のきざはしが現れる。

 三人が一歩、踏み出したとき——索引殿の奥、背表紙の小口がわずかに開いた。

 〈可動率、維持〉

 〈留保、常設〉

 〈干渉、後退〉

 アーカの通達は淡々としていた。だが最後に、短い一行が加わる。

 〈署名者、戻れ〉


 セラは振り返らない。振り返ると、今の“軽さ”が嘘になりそうだったから。

 階の端で、彼女はただ一度、刀身に額を当てる。

 「ここまで、届いた?」

 谷は答えない。

 代わりに——遠く、冷却鞘の金具が、ひとつ鳴った気がした。


 王都に戻ると、空が高かった。

 掲示板の紙は、昨夜より白い。

 紙の中央の一行は、そのまま残っている。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 その下に、新しい短い行。

 ——私は私だ。決めないと決める権利を、ここに。


 民衆のざわめきは、戦ではなく、食卓に向かっていた。

 塩の荷車はΔtの窓を通って運ばれ、井戸の列は自然に伸び、パン屋の窯は半拍遅れて口を開く。

 “待つ”は怠けではない。——動くための速度だ。

 セラは胸の奥の痛みが弱まっていくのを感じながら、掲示板の前に立った。

 エリシアが隣で、白い旗の中央に小さな丸を描き足す。

 ミナは針の鞘を軽く叩く。「灯りは、持って帰れた」


 人々の読み上げは、いつも通り——いや、少しだけ違う。

 声の帯の中に、極細の糸のような音が混ざった。

 “私は”の“は”が、半拍早く震える。

 セラは顔を上げる。

 誰の声でもない。

 しかし、確かにいつもの“朝の一行”の、あの声帯の揺れ。


 ——私はリオ、記録の勇者。


 紙は、凹まない。

 印は、押されない。

 ただ、空気が一度だけ、紙の裏から押し上げられた。


 セラは笑わない。泣かない。刀身を握り、短く息を吐いた。

「遅い」

 叱責は、愛情の速度で落ちた。

 エリシアは頷き、ミナは口の端だけ上げる。


 最後の巻き戻しは、終わった。

 世界は、空文字ひとつぶんだけ、長く息を吐くことを覚えた。

 そしてその息の中に、戻ってくるべき名前の“余白”が、確かに残っている。

 呼べば、届く。

 呼び続ければ、帰ってくる。

 紙は、まだ白い。

 白いということは、書けるということだ。

 セラは掲示板の端に、細い字で一行だけ書き足した。


 ——朝の錨は、明日もこちらで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ