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記録の勇者のリブート ―改ざんされた世界で、僕だけが“真実”を覚えている―  作者: 妙原奇天


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第15話 “リオなき世界”

 その朝、鐘は一度だけ鳴って止んだ。

 王都の空はすりガラスのように曇り、陽光はあるのに、影の輪郭がどこも薄い。人々の足音だけが、不自然にくっきり聞こえた。

 ——名前がひとつ、世界から抜けている。

 事の核心は、気づいた者より早く、気づかない者の生活に先んじて影を落とした。


 セラは、目覚めて最初の一呼吸ののち、“遅れ”に気づいた。

 いつもなら、誰かの息遣いが半拍先に聞こえる。綴じ糸を巻く音、薄片メダルを指で弾く小さな音、冷却鞘の金具が鳴る短い音。——それがない。

 寝台の端に置いた小冊子を開く。昨日までの夜の儀式の項は整然と並ぶのに、行間に微かな“欠落の風”が吹き抜ける。

 セラはベルトへ手を伸ばし、剣を吊り直した。刀身に巻いた綴じ糸が、普段より半巻きほど余る。余った分を指に取り、「戻る」と囁く代わりに、別の言葉を用意した。


「私はリオ、記録の勇者」

 口にしてから、胸の奥にうっすらと痛みが走る。剣の芯が乾いて、そこに言葉を滴らせているみたいな痛み。

 彼が毎朝書き、三人で読み上げてきた“朝の錨”。——その文だけが、世界に残っている。反対に、その文以外の“彼”が、痕跡ごと落ちている。


 エリシアは、王服を脱いだ素の身体で鏡を覗いた。

 鏡が返す像は彼女ひとりだが、背にいつも感じる視線がない。決断の前に半拍だけ呼吸を待たせてくれる、あの気配がない。

 枕元の便箋を手に取る。昨夜、眠気に負ける直前まで書いていた“留保旗の運用規程”の草稿。妙なことに、本文の中に一度だけ、黒いインクが飛んでいる。小さな点。読み返すと、そこにだけ余白が“柔らかい”。

「参照外——」

 彼がやりかねない極端な使い方を、エリシアは理解していた。リブート・ログの効率を最大化するため、自分を“参照外”へ落とす。世界の紙の上から、自分の名だけを剥がす。

 狂気に近い選択。けれど、この世界では、奇策がやがて“手順”に変わることを、エリシアは知っている。

 彼女は便箋を畳み、小さく頷いた。

「戻す。——私たちの速度で」


 王都の掲示板。

 昼の鐘の前、セラは板面に穴をあけ、釘を二本打ち、紙を一枚貼り付けた。

 紙の中央に、太い筆で一行。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 署名欄は空白。印もなし。

 セラは振り返り、人々の視線を受け止める。

「これは、探し人の名前。姿形は書けない。なぜなら、世界が彼の記録を落としたから。——代わりに、あなたたちの一票を預けてほしい。“無署名の署名”として」


 最初に近づいたのは、魚屋の娘だった。彼女は白い布切れを懐から取り出し、紙の隅にそっと押し当てる。布には彼女の手の匂いと鱗粉が染みている。

「書けないけど、覚えてる匂いなら」

 次に、鍛冶屋の小僧が指で輪を描くように紙を撫でた。「見た。なんか、白い丸の旗を立ててたの」

 帽子屋の老人は、古い針のキャップを置いた。

 一つ一つは署名ではない。だがどれもが“覚えている”の印。

 午後には紙の周りに小物が集まり、夜には簡素な木枠が建ち、翌朝には同じ紙が市場、南門、北門の掲示板にも増殖していた。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 名前はただ一行、だが読み上げ方は無数。誰かが声に出すたび、その声帯の震えが“記録の空所”の縁に細い綱を投げていく。


 ミナは工房の大扉を完全に開いた。

 炉は朝から焚かない。代わりに金床を畳台に替え、紙の束と筆記具を並べる。

「今日は打たない。——書け」

 入り口の上に、達筆下手の差し色で小さな札を吊る。

 ——《今日の自分を、紙に留める》。

 来る者は誰でも受け入れる。職人、商人、兵士、子ども。外の長椅子には薄片メダルのかわりに小さな板片が置いてあり、誰もが自分の一日を、その板に書いて持ち帰る。

 「記録は、鍛えと同じ。——“待ち”と“繰り返し”で強くなる」

 ミナが言うと、子どもたちは意味がわからなくても頷いた。板片の裏にはそれぞれの印。

 鉄の代わりに、紙の匂いが工房に満ちる。煤ではなく、インクの濃淡が壁を染めた。


 夕暮れ。

 王都の四隅で、同じ儀式が自発的に始まった。

 誰かが掲示板の前で一行を読み上げる。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 別の誰かが続ける。声の高さは違い、呼吸の拍も違うのに、不思議とぶつかり合わない。

 “私”という単語が、読み手によって意味を変え、しかし帯として繋がる。

 自分ではない誰かの名を、自分の喉を通す。

 その連鎖が、記録局の“優先度アルゴリズム”に予期せぬ負荷をかけた。

 索引殿の束線が一時的に渋滞し、“市井の署名”が洪水のように流入する。

 「誰の署名か不明」「出自未定」「匿名多数」——普通なら重みを半減される項目が、今回は“同一文言の繰り返し”として束になり、正典の第一層へ食い込んでいく。

 “私はリオ”という連呼は、もはや一人の名ではなく、“記録を守る意思”の総称へ昇華していた。


 セラは掲示板の前に立ち尽くし、顔を上げた。

 遠くで、鐘が二度鳴る。

 ——二度?

 耳が古い癖で数え直そうとした時、彼女の視界に白い旗がひとつ翻った。

 留保旗。

 紙の中央に空の丸。

 旗の下の床に、小さな鉛筆でこう書かれている。

 ——《いまは決めない。だから、書いておく》。

 セラの胸に熱が昇った。涙の手前で止まり、目の奥がじんと痛む。

 “リオ”という無名が、街の“私”へ拡張している。

 それでも——戻ってこい。

 彼女は剣の柄を握りしめ、刀身に巻いた綴じ糸に額を当てた。

 「私はリオ、記録の勇者」

 囁きは、今度は祈りではなかった。呼びかけだ。呼び戻す声。


 エリシアは王宮の一隅に残しておいた“私室”に戻り、机に向かった。

 窓際の植物の土が乾いている。水差しで湿らせながら、彼女は紙の束を三つに分ける。

 一つは、王家の公式文書。

 一つは、市井の言葉で書いた“留保旗の運用”。

 もう一つは、宛先のない私信。

 ——《きみに伝える。私は今日、私の名の責任で“留保”を許した。君がいない間も、私たちは“決めない”を武器にする。可動率を落とさずに》

 書き終えると、机の角に額をつけた。

 “私”の署名は、世界の正典に針一本ぶんの力しか及ばない。それでも、その一本がなければ、紙は裂ける。

 「戻ってきたら、叱る。勝手に参照外へ落ちるなって。……でも、先に“ありがとう”を言うわ。あなたが空けた余白は、私たちが埋める」


 その頃、索引殿の奥。

 ルドは、最後の非常通知を机に並べていた。

 “神殿暦の無期限延長”。

 “王都の正典一括再印刷”。

 “留保旗の禁止”。

 どれも端末レベルでは通らない。彼は更訂局の“特別回線”へ札を差し込む必要がある。

 札の端が汗で軟らかくなる。仮面の下の瞼が痙攣する。

 「……届いてくれ。戻せ。揃えろ。——揃っていないのは、恐怖だ」

 ルドは恐怖を知らない男ではない。むしろ、恐怖に最短で道を付けるのが自分の仕事だと信じている。

 だが今日は、恐怖の正体が違う。

 “個人の声が揃わずに、しかし止まらない”恐怖。

 彼は札を差し込み、送出端末の頭上で両手を合わせた。

 その祈りは神にではない。効率へ、だった。


 端末が一度だけ低く鳴り、札は飲み込まれた。

 送出列の先で、暗い光。

 ——《非常通知・受理》

 ——《再印刷・準備》

 ——《留保旗・無効化手順適用》

 ルドは息を吐く。その吐息に混じって、どこかで紙の擦れる音がした。

 ——〈可動率は?〉

 背表紙の声。

 アーカの問いは冷たく、しかし、わずかに“興味”の色を含んでいる。

 〈市井署名の流入。留保旗によるΔt延長。——この非常通知は、可動率を上げるか、下げるか〉

 ルドは唇を噛んだ。

「上がる。必ず。いつも通りに」

 〈検証する〉

 “合意の地平”の束線が一斉に唸りを強め、非常通知は王都へ向けて走り出した。


 ……その瞬間、王都の掲示板の前で誰かが咳払いをし、紙の端に小さな点を打った。

 インクの乾いた音。

 点の下に、ごく細い字。

 ——《留保》

 続けて、別の誰かが同じ位置に“点”を打つ。

 ——《留保》

 三人目が、点ではなく“丸”を描く。

 ——《留保》

 点と点が丸になり、丸の中が空で、その周りに“小さな署名の責”が生まれる。

 留保旗の記法が、掲示板の前で自生的に“署名化”し始めた。


 ミナの工房では、子どもが板片の裏に、今日食べたパンの数を書いていた。

 「三つ」

 隣の老人が首を振る。「二つで十分だろう」

 子どもは考えて、一の横に斜線を引いた。

 「二・五」

 笑い声。

 それを見ていた若い兵士が、自分の板片にこう書いた。

 ——《巡回を半拍ずらす。パン焼きの列と重なる時間を避ける》

 誰かが、その板片を写して掲示板へ貼る。

 ——《私はリオ、記録の勇者》の下に、小さな実務の行が連なる。

 “留保”は怠けではない。“待ちながら動く”の手順になっていく。


 エリシアは陽が落ちる前、広場で短い演説をした。

 王女としてではなく、個として。

「決めないことを、恐れないで。決めないことは、責任の放棄ではない。——“決めない宣言”に署名すること。それは、“いまはまだ見えていない誰か”の速度に合わせること。……私も署名します」

 彼女が白い旗の中央に空の丸を描くと、風がさっと通り、鐘が一音だけ高く鳴った。

 鐘の音は、索引殿の奥にも届く。

 束線の脇で、非常通知の進みが半拍止まった。

 “待ち窓”が、街の側から自然に開いたのだ。


 セラは剣を置き、掲示板に新たな紙を貼る。

 ——《朝の錨文・読誦所》

 紙の下に、小さな行。

 ——《誰でも読んでいい。順番はない。強く読まなくていい。自分の速度で》

 人々は列をつくらない。点の群で、円にも列にもならない形のまま、各々が一行を声にする。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 読み上げは、やがて“合いの手”を生んだ。

「……私は」

「——私は」

「…………私は」

 囁きに近い音が、街の石畳を伝い、壁へ、屋根へ。

 索引殿の最深部で、背表紙の小口が静かに開き、閉じた。

 〈可動率、維持〉

 〈異本、活性〉

 〈留保、制度化〉

 短い通達が三つ、内側で連続して発行される。アーカの声に感情はない。けれど、紙の擦れ方がわずかにやわらいだ。


 その夜。

 セラは寝台の縁で小冊子を開き、明かりの下で一行を書いた。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 続けて、もう一行。

 ——私はセラ、司書騎士。あなたの昨日を覚えています。

 彼女は声に出し、読み、眼を閉じる。

 夢の中で、断章の谷の縁へ降りる。

 紙片の海は今日も流れ、書物の亡霊が言葉の端で囁く。

 遠くで、白い丸の旗が揺れている。

 旗の向こうに、声はないが、気配がある。

 セラは夢の中でも慎重に呼びかけた。

 「戻って。ここは、あなたの“参照先”」

 返事は、まだない。

 けれど、旗の丸の内側に、ほんの針先ほどの“黒”が落ちた気がした。

 ——点。

 点は、いつか線になる。

 彼女は目を覚まし、薄片メダルの代わりに自分の鼓動を数えた。

 四拍、静か。五拍目で、胸が少しだけ軽くなる。


 同時刻、索引殿。

 ルドの非常通知は、半拍遅れて王都に届いた。——届いた“はず”だった。

 表示盤は《適用》の文字を灯し、束線は負荷を下げる。

 だが王都では、掲示板の紙が一斉に“凹まず”、朱の印は空振りし、留保旗の空丸は朱を吸わない。

 “無署名印”の影が、街全体に拡がっていた。誰の手でもないが、みんなの手が押したような影だ。

 ルドは立ち上がり、端末に歩み寄る。

 「なぜ通らない。なぜ揃わない。——私は、揃えたいだけなのに」

 彼の独白を、背表紙は遮らない。

 〈署名者不在の版〉

 〈留保優先〉

 〈回路の再配線〉

 短い用語が、冷たい雨のように落ちる。

 ルドは両手で顔を覆った。手のひらの下で、目が熱を持つ。

 彼は初めて、校了の朱とは無関係な、個人の涙を流した。

 それは記録されない。——いや、記録されている。どこかの市井の紙片に、「索引殿のどこかで、紙の擦れる音が柔らかくなった」と今日の出来事の端に書かれているはずだ。


 夜明け。

 鐘は一音。

 掲示板の紙は、前夜よりも白い。

 セラが声にする。

 「私はリオ、記録の勇者」

 エリシアが続ける。

 「私はエリシア、署名者。私は留保する」

 ミナが短く。

 「私はミナ、鍛冶。今日、炉は半拍遅らせる」

 人々がぞろぞろと来て、同じ一行を自分の声に通す。

 朝の光が紙に透け、その奥の“空所”の縁が、ほんのわずかに濃く見えた。

 指先で触れれば、戻るには足りない。

 けれど、戻るための“取っ手”には、なった。


 セラは小冊子の最終頁を開き、余白いっぱいに大きく書いた。

 ——《朝の錨、王都掲示板に移管》

 ——《誰でも読誦可。誰のものでもないが、誰か一人のために》

 その左隅に、小さな点。

 ——《・》

 彼女は点の横に、さらに小さな字で書き足す。

 ——《呼び戻しの起点。参照外からの帰還用》

 エリシアが頷き、ミナが針の鞘を軽く叩いた。

 「灯りは消さない」

 ミナの声は、いつもの火の高さだった。

 「灯り続ける。——戻る場所に、火を置く」


 風が一度だけ街を撫で、掲示板の紙がカサと鳴った。

 紙の下で、誰かの足音が半拍遅れて重なる。

 かすかな、かすかな重なり。

 セラが息を止め、耳を澄ませる。

 聞こえたのは、声ではない。

 冷却鞘の金具が、遠いどこかでひとつ鳴った気配。

 その一音に、三人は目を合わせ、何も言わずに頷いた。


 “リオなき世界”は、日をまたいで動き出している。

 留保旗は市井へ浸透し、優先度アルゴリズムは“人の速さ”の重しを覚えた。

 アーカは沈黙し、ルドは椅子の上で初めて長く息を吐いた。

 戻るべき名は、まだ空所にある。

 だが、戻る道は、今日も声で延びる。


 ——私はリオ、記録の勇者。

 鐘が、一音。

 白い旗が、朝風に鳴った。

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