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記録の勇者のリブート ―改ざんされた世界で、僕だけが“真実”を覚えている―  作者: 妙原奇天


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第14話 正典と異本の戦場

 戦場は、最初から割れていた。

 王都外縁の平野に敷かれた陣は一つ、旗も一つ、風向きも一つなのに、見える世界の版が三つ、四つ、五つと重なり、薄い障子のように前後へずれていく。馬蹄が粉塵を上げる「武勲最大化版」、避難路が最短で確保される「被害最小版」、徴発せず市場を開いたままの「生活継続版」、そして「叛逆断罪版」。同じ太陽のもと、違う正しさが各々の“正典”として走り、互いの影を踏んでは乱れ、重なっては揺れた。


 リオは《世界記録書》を胸に抱え、朝の一行を短く口にする。

「私はリオ、記録の勇者」

 セラが続け、ミナが頷き、エリシアが「私として」と添える。錨を落とす声が四つ、砂の中に杭を打つみたいに、版の浮力を少し沈めた。


「三系統、同時に起こす」

 リオは余白に三本の細い柱を引き、下にそれぞれの署名欄を書いた。

 ——《市民目撃版》:署名代理=セラ

 ——《生活継続版》:署名代理=ミナ

——《個人尊厳版》:署名代理=エリシア

「優先度ルールβ、拡張。拮抗は許容、暴走は抑止。——回すよ」


 合図と同時に、戦場の空がわずかに低くなる。

 セラが前に出る。彼女の剣には綴じ糸が巻かれ、鞘口からの祈りが刀身の背に沿って微光になる。彼女の視線が拾うのは「誰が見たか」。民家の軒下の子の目線、屋台の女の肩越しの視界、物陰の老人の呼吸。その“位置”から見える戦場だけを切り出し、「重さ」を与える。彼女の署名が一つ入るたび、乱戦の輪郭が民家を迂回し、槍列の角が屋台を踏まず、矢の落下点が人の頭上から半歩ずれる。


 ミナは後方。針の柄は鞘にあるが、その手は炉の掌だ。彼女が計算するのは「回すための待ち」。パン屋が焼き上げるときと避難路の折り返し、井戸の列と負傷者の列が交差しない角度。彼女の署名は数式ではない。短い指示文——

 ——《塩の荷車は南門へ》

 ——《水桶は隊列の外側》

 ——《鐘は一音のみ》

 その一行一行が、兵站の拍を“生活”の拍に合わせ、無駄な怒りを消していく。


 エリシアは、王服を脱いだ“私”として戦場の中央に立ち、個の名前に署名した。

 ——《捕虜A、顔を覆う布を与える》

——《傷兵B、家族への使いを優先》

——《避難民C、名を呼ぶ》

 尊厳の署名は戦術に見えない。けれど、それが入るたび、刃が首ではなく肩に止まり、槍の石突きが土を打ち、怒鳴り声が命令形から呼びかけに変わる瞬間が確かに増えた。戦は、少しだけ“人の速さ”へ戻る。


 だが、敵もまた自分の版を持つ。

 剣の勇者カインは「武勲最大化版」を一度選んだ。背負ってきた訓練、積み上がった演習、王国の表紙に載る栄誉。そのすべてがその版を指させば、彼の足はそちらへ向かう。刃に刻まれた正典符が光り、彼の視界は「勝ちの線」で満たされる。


 セラがそこへ入る。

 剣が交わる。火花ではない——記事と記事の行頭が衝突し、字間に生まれた熱が跳ねる。

「カイン。君が守りたいものの名を、言って」

 彼は答えない。彼の版は“勝つ”で等号を引くように訓練されている。

「君の剣の速さは知ってる。でも、速さの前にあった“ためらい”も知ってる。君の訓練帳の余白にあった、小さな修正液の丸——『ここで振り下ろさない』って書いた、あの白い丸を」

 カインの眉が揺れた。

「君の剣が守りたいものの名を。紙じゃない、王冠でもない。——名を」

 彼は息を一つ、落とした。「……弟」

 その名は、武勲の行には載らない。載らないが、彼の体内で正典の重しをひっくり返すには足りた。

「なら“被害最小版”に。君が弟に見せたい戦い方を、今ここで」

 セラの糸が彼の刃に絡み、武勲の記述にほんの小さな“待ち”を挟み込む。彼の剣は角度を変え、彼の署名が切り替わった。——《カイン:被害最小版へ》

 視界の障子が一枚、すっと引かれ、血の流れが細る。彼の背中に積もっていた重い紙の束が、一部、軽くなった。


 弓の勇者レイは、遠距離からの“確定”を好む。「誤差最小版」を背に射つ。だが今、版は多重に揺れ、風の層が増え、最適化された軌道が足もとから崩れる。

「数字は嘘つかない」

「数字は君の息を知らない」

 ミナが風の層を整え、レイの射を“人の息”の拍に戻す。

「三拍、吸って。二拍、ためて。一拍で離す」

 レイの指が、いつもより一瞬遅れて弦を離した。矢は敵兵の槍の柄を打ち、足を止めさせ、死ではなく分岐を生んだ。彼の署名が、僅かに「最小」から「最小被害」に傾く。


 戦場の反対側、仮面の書記官ルドは、更訂局の権限で「校了」を乱発した。

「校了」「校了」「校了」。

 朱の印が雨のように降る。印は版を固定し、版は人を走らせ、走った人が次の印を呼ぶ。

 ミナの工房から届いた封筒には、そのための道具が入っていた。“無署名印”。

 印面は空。押すと、紙に「署名なし」の凹みだけが残る。

 「これは印ではない。“押さない自由”の影だ」

 リオはそれを握り、ルドの校了の印面に重ねた。

 朱の校了が、紙に触れる瞬間、空の印影が先に紙を凹ませ、朱を弾く。

 「空振り」

 セラが呟く。

 ルドは顔色を変えず、札を次々に折ったが、無署名印の影は印影を空洞に変え続けた。印だけの世界に、印の“外”ができた。


 戦場は、統合と分裂を繰り返す。

 セラの「市民目撃版」が優勢になると、攻城塔は軒を避けて角度を変え、ミナの「生活継続版」が浮くと、塩の荷車が無傷で通る路地に兵の列が重なる。エリシアの「個人尊厳版」が光ると、誰かの名前が口にされ、名を呼ばれた者は“物語の中の無名”から一歩だけ戻ってくる。

 一方、カインの署名が切り替わったことで「武勲最大化版」は弱まり、レイの矢は「誤差最小」から「最小被害」へ移行。ルドの「叛逆断罪版」は校了の雨を頼みに攻め込むが、無署名印に吸い込まれて効果を失う。


 リオはその全体の拍を取りながら、世界の縁に触れ続けた。

 優先度ルールβは回っている。出自分散、待ち窓、反証優先、少数浮上、署名責任、人の速度。どれも利いている。だが——版の重さは常に“誰が署名するか”で変わってしまう。署名しているのは勇者、騎士、王女、鍛冶、そして現場の民の一部。署名できない人間の沈黙が、まだ底に溜まっている。


 紙の端が熱を帯びる。因果熱がひと段上がる前に、リオは冷却鞘を胸に引き寄せ、薄片メダルを押し当て、朝の一行を心で復唱する。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 その右に、もう一行、未知の欄を割いた。

 ——《署名しない選択》

 目を凝らす。

 「優先度は“誰が署名するか”で決まる。ならば、“署名しない”を選べる場が必要だ。——“留保版”を個人の権利として制度化する」

 言葉にした瞬間、索引殿で聞いた背表紙の声が、遠くで紙をめくる音に変わって響く。〈可動率は?〉


 「回す。止めない。——“留保旗”を立てる」

 リオは《世界記録書》の余白から、旅の途中に思いついて図だけ描いておいた小さな旗印を引き出した。布地は白、縁に細い黒の罫。中央には空の丸。

 無署名印の陰でも、正典でも異本でもない“第三の印”。

 意味はひとつ——《私はこの場面の署名を留保する/留保を理由に排除されない》。

 署名“拒否”ではない。署名“延期”。可動率の計算に組み込まれた、立ち止まる権利。


「セラ、隊に回して。ミナ、留保旗の運用——“待ち窓”と連動。エリシア、“個としての留保”の宣言文を」

 三人の手が走る。

 セラは民兵の列に白い旗を渡し、「争うな。旗を掲げた者の前に“文”を置け」と命じる。

 ミナは送出窓に小さな歯車を足し、留保旗を識別すると自動でΔtを二拍延ばす仕組みを刻む。「待つ」は炉の基本だ。

エリシアは短く宣言する。「私は“王女として”ではなく“私として”、留保する権利を求め、これを使用する」——古語と市井の言葉を混ぜ、読み上げた。


 戦場のあちこちに白い小旗が上がった。

 それは降伏ではない。起立でもない。人が自分の速度で“まだ決めない”と宣言する合図。旗が上がると、セラの署名が視線を逸らせ、ミナの署名が動線をわずかに曲げ、エリシアの署名が名を呼び、リオの余白が“留保”の行を記録する。

 ルドの校了は、白旗の上では効かない。

 白の中央の“空丸”が、朱を吸わず、力を空へ逃がす。校了の朱は空転し、紙は凹まず、版は固定されない。


 カインが白い旗の前で足を止めた。旗の下には、彼がかつて訓練場で一度だけ剣を止めた少年の横顔が、違う誰かの顔に重なって見えたのだろう。

「……留保」

 彼は小さく呟き、自分の胸にも同じ“空丸”を描いた。

「レイ、射るな」

 矢羽がわずかに震え、音が止む。

 その静止は、敗北ではなかった。次の拍の準備であり、次の版を選ぶ権利の保全だった。


 戦場は、一瞬、静かになった。

 静けさが可動率を下げるのではないか、という背表紙の問いが、遠い紙擦れに乗る。

 リオは首を振る。

「下げない。動かしながら待つ。——留保旗の下では、生活継続版を優先する」

 パン屋が窯の口を開け、井戸の列が自然に伸び、負傷者の搬送が“留保路”に沿って揃う。留保は“穴”ではない。人の速度を通すための“目抜き通り”だ。


 ルドが仮面の下で初めて感情を見せた。苛立ちでも怒りでもない。戸惑い。

「……お前は、反対も肯定もしないのか」

 リオは頷いた。「今は、まだ」

 ルドの手の札が一枚、力なく垂れた。

 アーカの背表紙は遠くで紙を一枚めくり、何も言わなかった。沈黙は不承認ではない。検討の静けさだ。


 正典と異本の戦場は、完全な統合には至らない。

 だが、版の間に“留保”という第三の帯が走り、行き来が滑らかになった。

 セラの剣は殺さず、ミナの針は裂け目を縫い、エリシアの声は名前を繋ぎ、カインの刃は“ためらい”を戻し、レイの矢は呼吸を選ぶ。

 リオは余白に長い一行を書き足す。


 ——《優先度ルールβ補遺:個別留保権(Personal Defer)を実装。留保旗掲揚時、当該局所にΔt+2を付与。反証窓を拡張し、生活継続版を一時優先。留保は免責ではなく、〔記憶の責〕として記録される》


 書き終えると、胸の奥で灯がひとつ増えた気がした。

 因果熱はまだ低くはない。記憶の棚板もきしむ。

 それでも、今この瞬間、戦場の紙が一枚“破れないで済んだ”ことを、風が認めていた。


 やがて、角笛。

 両軍が一斉に退くわけではない。退く者と留まる者、それぞれの版がそれぞれの拍で動く。だが、その中に白い旗の帯が確かに通っていた。

 ルドは背を向け、索引殿のほうへ歩きながら一度だけ振り返った。仮面の下で、彼は初めて“校了ではない”目で戦場を見たのかもしれない。

 カインは剣を下げ、レイは弦を緩めた。

 セラは剣を拭き、ミナは針を鞘へ戻し、エリシアは自ら掲げた白旗を畳んで胸に当てた。


 空は一枚。

 鐘は一音。

 それでも紙の下では、アーカの束線が次の“飢えの版”を動かし始めている。

 正典と異本と留保。

 その三つを抱えたまま世界が回るなら、人は“読む”と“待つ”と“決める”を、もっと細かく使い分けなければならない。


 リオは《世界記録書》の亀裂に指を添え、深呼吸した。

 朝の一行を、もう一度。

 ——私はリオ、記録の勇者。

 その右に、小さく。

 ——留保を、人の権利に。

 風がその文字を一度だけ撫で、戦場に残った砂埃の匂いが薄れていく。


 遠くで、紙の擦れる音。

 〈見た〉

 背表紙の短い通達が、一拍遅れて届いた。

 敵であり、対話者。

 次の試練は、戦ではなく、飢え。

 可動率は腹に結び直される。

 白い旗は、きっと食卓にも必要だ。

 リオは旗の縁を指で撫で、仲間たちに視線を配った。

「次へ」

 三つの返事が、ひとつの拍で重なる。

 正典と異本の戦場を後にして、彼らは“飢えの版”へ向けて歩き出した。

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