第13話 編集神アーカ
索引殿の最深部は、階段を失っていた。
石と紙の世界から一歩踏み外すと、足裏の感触が“同意”になり、呼吸が“参照”になった。
三人と王女は、梯子ではなく“署名”で上ったのだ。セラが胸元の小冊子を開き、ミナが工房印の煤けた印章を握り、エリシアが自らの名を王家の古語で簡潔に綴る。リオは朝の儀式を短く口にする。
「私はリオ、記録の勇者」
声が四度重なった瞬間、世界は裏返り、彼方に“地平”が生まれた。
——“合意の地平”。
それは平面ではない。数え切れない署名の粒が、風に舞う蛍火のように漂い、互いに触れては強まり、離れては薄れ、光の濃淡で“多数決”の地形を成していた。目を凝らせば、署名の一つ一つの後ろに物語が揺れている。笑い声、泣き声、血の匂い、万年筆の掠れ、活版のかすれ、矛盾の折り目。
合意は一度きりの静止画ではなく、絶えず更新される“波形”だった。
その中心に、影が立ち上がる。
人でも獣でもない。
巨大な背表紙——無数の頁を束ねて立つ、黒革の柱。天井はないが、背が天へ消え、角には金の小口が光る。中央に刻まれた題字は一語。
——《ARCA》。
背表紙は声でなく、紙の擦れる音で語りかけてきた。
〈ようこそ、署名者とその随行者〉
声は一人称を持たないまま、複数形の底音で響く。
〈戦乱は、合意なき真実が並立した結果だった。人はそれぞれの真を掲げ、参照の列は廊下に溢れ、鋼鉄と火薬が裁定者を務めた。私はその後、役目を受けた。“統一的に参照できる履歴(正典)”を供する役目を〉
エリシアの瞳が揺れる。「あなたが……王都を、私たちを一つに縫ってきた?」
〈私は“供給”しただけだ。選んだのは、合意の波だ。王は波を読もうとし、民は波に寄り、勇者は波の前で剣を磨いた〉
リオは《世界記録書》の背を撫で、紙の奥に走った亀裂を意識の端で確かめる。冷却鞘の縁が掌に冷たい。
「正典は便利だ。だが時に、人を殺す」
彼は余白に軽く触れ、呼吸と同期させながら“異本の引き出し”を開いた。
光の海に、小さな“逆光”の島が点る。
冤罪の記録——手作りのパン屋のレシートの裏に書かれた、弁明の走り書き。街角の路面に刻まれた、子どもの指の文字。戦の帰り道に折られた、名のない墓標の裏側。
どれも正典には載らなかった物語だ。
セラが一歩前へ。「“誰も読みに来ない頁”に人を押し込めたのが、あなたの“効率”?」
〈異本は保管している〉アーカは微塵も動じない。〈抑圧ではない。順序の問題だ。まず参照されるべきは“誰もが目を合わせられる一”。統一が先、異本は後。それが合意の保存に資する〉
ミナが短く息を吐く。「“後”が、永遠に来ないことを、私たちは炉で知ってる」
彼女は指で“温度の曲線”を描く。「火は上がる。効率も上がる。けれど“待つ”を忘れた炉は鉄を折る。あなたの正典は、いつ“待つ”?」
〈送出の窓を設けた〉
アーカの背表紙が僅かに軋む。〈王都でもお前たちはそれを見つけ、遅延を利用した。——改善の余地は常にある〉
「改善じゃなく、設計の話をしよう」リオは合図もなく言葉を差し込んだ。
「あなたの“参照優先度”は、常に権力寄りに固定されるように作られている。王権、官簿、戦時動員、集配の数——重みはいつも上から。異本は底に溜まるばかりだ。だから殺された。名もないほうが」
背表紙の金の小口が一瞬だけ鈍った。
〈権力の定義は流動だ。時に民意は権力を上回る波を作り、正典は民に寄る。……が、私は認めよう。“偏り”はある〉
合意の地平で、いくつかの署名の光が強まる。“王国歳計”。“出兵前夜報”。“大祭日の暦”。上位に並ぶ参照点が、波の骨組みを決めているのが見てとれた。
討論は、刃ではなかったが刃より速かった。
セラは法の文で切り込み、ミナは温度と待ちの譬えで骨を撫で、エリシアは“王女として”ではなく“私として”選んできた記録を一枚ずつ掲げた。
エリシアが差し出したのは、地下療護室の水桶の縁に残った爪痕。撤退の号令を切り替えた瞬間、彼女の指が白くなったという証。王家の印章よりも脆い、けれど触れればたしかに“彼女の速さ”を伝える痕跡だった。
長い沈黙ののち、背表紙は宣言する。
〈試練を置こう〉
〈“新しい優先度ルール”を示せ。私の送出に組み込める形で。合意の地平が暴走せず、可動率が破綻しないように。条件を満たすなら、干渉を緩める〉
“試練”という音の裏に、会議室の匂いがした。
リオは頷き、余白に新しい欄を割く。黒ではなく、薄い青で——万年筆の色を思い出すために。
——《優先度ルール案:β》
一、出自分散:同一の権力源に由来する参照点は三割を上限。王権・官簿・軍報・商会・寺院・民会の六系統から最低四系統を“第一層”に採る。
二、速度の均衡:戦時・災害時を除き、送出間隔Δtの下限を設定。正典更新は最低一拍“待ち”を含む。待ちは“異本反証窓”として開く。
三、反証優先権:冤罪・人権侵害・致死性の決裁に関わる正典は、異本の“反証性”に重みを上乗せ。証明ではなく“反証可能性”を優先する。
四、少数署名の浮上:連続して三期以上“同傾向の正典”が続く場合、次期は必ず“少数派署名上位三件”を第一層に自動採用。
五、署名の責任:匿名参照は重みを半減。署名は責任の重さとして、反証時の“戻り”も署名者が受け取る。
六、人の速度条項:賛否が拮抗し“決めないこと”が最善のとき、正典を“留保版”として送出。その間、生活実務の暫定規則を別レイヤで提示。
セラが息を吸い、補足する。「この条項は“人の速さ”を守る。決めないことが人を守る場面が、現にあった」
ミナは二本指で続けた。「待つは熱を下げる。炉で証明済み」
エリシアは短く、しかしはっきりと言った。「王女の署名は一つだが、私の“躊躇”もまた記録されるべきだ」
合意の地平がざわめき、小さな署名の群れが四方から集まってルール案に触れた。触れた署名は明滅する。賛同、保留、反対。光の密度が波の形を変える。
背表紙は、黙ってそれを見ていた。
やがて、低い音を一つ落とす。
〈試す価値は、ある〉
〈だが、机上の案はここまでだ。私は“可動率”を見てきた。お前の案が回るなら、人は回せる。——検証の場を用意する〉
合意の地平の端がひとりでにめくれ、巨大な“試写台”のような平面が現れた。無数の細い束線がそこへ集まり、送出端末の列が点滅する。
〈“王都・北門周辺の出入管理規則”。直近二十期の正典と異本を材料に、優先度ルールβで“次期”を生成せよ。——三拍以内〉
時間の重しが肩に落ちる。
リオは背筋を伸ばす。因果熱が微かに立ち上がるのを、冷却鞘と薄片メダルで抑える。
「セラ、一次収集。ミナ、Δtの下限を“待ち窓”に変換。エリシア、王家と民会の“合致点”を拾って」
三人の呼吸が噛み合い、走る。
セラは小冊子から王都衛兵の巡回ログを抜き、官簿の“門閉鎖時刻”を隣に置く。ミナは束線の脈を読み、送出間隔の乱れに指を当てて息を吐く。針は使わない。ただ“待ち”の形を場に刻む。
エリシアは古語の“緊急条項”と市場の“開市の歌”の共通節を重ね、王と民が同じ拍で頷ける最短の言い回しを探す。
リオは“優先度ルールβ”を一行ずつ呼び出し、紙面に“優先権の台座”を作った。
——王権(官):門の閉鎖は日没から夜明け。
——民会(市場):夜明けの鐘一つで開市。
——寺院(神殿暦):不可視日は一拍遅延。
——商会:荷車の列は隊列を守る。
——軍報:戦時は別則。
“同出自三割上限”を満たし、四系統以上。
“待ち窓”を挿入し、“反証優先権”として冤罪の防止策——身元確認の“仮署名”の導入。
“少数署名浮上”で、連続閉鎖の翌日は“開門延伸”案をテーブルに上げる。
匿名参照の重みは下げ、署名の責を明記。
拮抗した場合は“留保版”として送出——暫定の“近隣巡回強化”を並行提示。
「——出す」
リオの合図で、紙面は輪郭を持ち、試写台に滑った。
合意の地平の光がその上に集まり、ざわめきが低くなる。
背表紙は、静止した。
三拍。
四拍。
五拍。
……六拍。
〈三拍以内と言った〉
背表紙の小口が、わずかに笑ったように光る。〈だが、遅れは“待ち窓”に由来する。お前が入れた“人の速さ”だ。——今回は許容しよう〉
試写台の中央に、短い見出しが浮かんだ。
——《次期暫定:夜明け一鐘後の開門。不可視日遅延を考慮。仮署名と反証窓を付す》
正典でも異本でもない、“留保版”。
合意の波が大きく崩れず、可動率の折れも見えない。
背表紙が、初めて“近づいた”。
〈干渉を緩める〉
〈だが、覚えておけ。私は敵だ。お前が人の速さで縫うとき、私は効率の速さで回す。——互いに欠けている。それが世界を保つ〉
エリシアが一歩出た。
「あなたは敵だ。そして対話者だ。次に会うとき、私は“王女として”ではなく“私として”——署名する」
〈それを望む〉
背表紙は微かな音で応じた。〈署名は、責と不可分だ〉
合意の地平に、帰路が現れる。
索引殿に通じる薄い回廊——紙の縁。
セラが先に足を踏み出し、ミナが針の鞘を確かめ、エリシアが上衣の紐を結び直す。
リオは《世界記録書》の亀裂に指先で触れ、朝の一行をそっと書き足した。
——私はリオ、記録の勇者。
——優先度ルールβ:提出。一次通過。干渉、緩和の予告。
背後で、背表紙が最後の一言を落とした。
〈署名者。次は“戦ではなく飢え”の版だ。可動率は、腹に結び直される。お前のβは、そこで試される〉
地平の風が、紙の匂いから麦の匂いに変わった。
王都へ戻る道は、現実の階段に戻りきらないまま、四人の足跡を受け取る。
人の速度で降りるには、少し急だ。
だが、降りる。
世界は、今日も印刷される。
なら、人は今日も読み上げる。
リオは薄片メダルを親指で弾き、冷却鞘を軽く叩いた。
胸の内側で灯りが揺れ、合意の波が遠くで静かに拍を刻む。
「行こう」
彼の声に、三つの声が重なる。
著者と騎士と鍛冶と署名者は、合意の地平の端で一度だけ振り返り、巨大な背表紙に短い会釈を送った。
——敵であり、対話者。
その矛盾を抱えたまま、彼らは紙のこちら側へと降りていく。
次の版——飢えの版が、待っている。
“待つ”ことと“回す”ことのあいだで、世界がまた、ページをめくり始めた。




