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記録の勇者のリブート ―改ざんされた世界で、僕だけが“真実”を覚えている―  作者: 妙原奇天


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第10話 熾天使降臨

 夜は、上から裂けた。

 音より先に、光が来た。城壁の外、北東の暗がりに白い線が一本走り、次の瞬間、天蓋そのものが誰かに荒々しく引き破られたように、夜の縫い目が左右へと引き剥がされる。裂け目の向こうは、夜よりも白い昼。そこから、火ではないのに燃えるものが降りてきた。

 翼。光の翼。数える間もなく、十、また十。羽ばたきは風ではなく、戒律を撒き散らす音で街を撫でる。光は熱を持たない——はずなのに、触れた屋根が、旗が、露店の天幕が、順番に燃え上がる。燃えるのは布や木ではない。燃えるのは、世界の「許し」。許されていた温度が、ひとつずつ、剥がれてゆく。

 熾天使〈してんし〉——ルイセル。

 名が空気の温度を変える。神殿の奥の奥に隠していた古い文書の端に書かれていた字。祝福を分配する天使ではない。秩序の臍に座る刃。ひとたび降りると、地上に残されたものが「神の側」か「神に敵する側」かを、問答無用の光で切り分ける。切り分けられた境界は、血より鮮やかだ。

 鐘は、鳴らなかった。鳴らぬ鈴の代わりに、井戸の水面が震え、石畳の隙間の水路が一斉に逆流した。昼間に仕込んだ「自然」。私は窓辺に立ち、指輪の赤を夜気にかざす。夕焼けの色は消えていた。代わりに、蒼〈あお〉が掌の内側で薄く息をする。

「……また、来たのね」

 呟きは、誰に向けたものでもない。けれど、夜の裂け目は、きちんと答えた。裂け目の縁から、矢のように一本の光が落ち、塔の尖端に突き刺さって、そこに立つ影が広がる。影ではない。光の像。人間にも見える。性別は意味を持たず、美しさは観念で、身に着けた鎧は概念の滑らかさで出来ている。顔は、微笑の直前で凍ったように穏やかで冷たい。

 ルイセル。熾〈おこ〉りの天使。

「汝、神敵。滅ぶべし」

 言葉が石より先に降る。音は美しくない。清潔すぎる音は、耳より先に骨に入る。骨に入った音は、剣の角度を狂わせる。私は窓を閉めて、振り返る。ミナとフィオが扉のところに立っている。ミナは既に包帯と薬を両腕に抱え、フィオは何も持っていない。両手の空っぽは、何でも持つ準備だ。

「医療班を中庭に。水を多めに。火傷は熱を奪わないで——表面の“許し”だけを剥がれてる」

 呪文のような指示に、二人は頷いて走る。灰騎士カイルは、もう廊下にいた。彼は扉の枠を軽く叩き、言う。

「射程内」

 私は頷きもしない。頷けば、誓いになる。代わりに、壁の裏の細い空洞から蒼銀〈そうぎん〉を抜く。布の下で青い膜が薄く波打ち、刃は掌の温度を確かめるように一度だけ震えた。

「父は?」

「評議会から戻り次第、城門の指揮に。王都本隊は……遅い」

 遅い。遅さは罪ではない。けれど、遅さが人を殺すことがある。外から悲鳴が上がる。焼けるのは屋根。焼けるのは顔。焼けるのは「神の側に置いてある」と思いこんだ日常。私は蒼銀の柄を軽く握り、窓を押し開けた。夜気は冷たく、しかし冷たさが減っている。許しが剥がれた空気は、何もかもを「正しい温度」に戻そうとする。正しさは、時々、痛い。

「懐かしいね」

 私は夜空に言う。「また、殺しに来たの?」

 ルイセルは瞬きすらしない。翼は燃えず、彼の周りだけが「燃えない火」で満ちている。彼の背後の軍勢は、合唱の準備を整えている。声なき声で、光の経文が空に編まれる。地上の城下は、既に炎の波に飲まれつつあった。神殿の屋根の白が赤に変わり、広場のパン屋の屋根が崩れ、井戸の水が煮えないのに湯気を吐く。

「汝は、神敵」

 ルイセルがもう一度だけ言い切る。その一語に、街の音が吸い込まれて、静けさが薄皮一枚になった。薄皮は破れやすい。破れる前に——私は飛ぶ。

 飛ぶといっても、翼はない。階段を三段飛ばし、塔の外階段の石の縁を掴み、肺の抗議を背に押し込み、鐘楼の欄干を蹴る。体は軽くない。軽さは敵だ。重さを味方にし、風の方向に呼吸の間を滑り込ませる。足場がない空に、足場を置くつもりで、私は蒼銀を一度だけ前に出した。

 青い線が、空へ走る。

 光と刃が交わる瞬間、音はなかった。光が音を拒んだからだ。拒まれた音は、別の道を探して体の中を走り回り、鼻の奥で小さく鳴る。私の刃は、音の代わりに冷気を吐いた。冷気は風にならず、薄い膜として空に張りつく。膜は、光の進行を半拍遅らせる。半拍。戦場では、半拍は永遠だ。

 ルイセルの翼が、初めて微かに動いた。動きは優雅で、憎しみがなく、しかし迷いもなかった。彼の光は、私の膜に触れて、そこで形を変える。熱ではなく、秩序としての光。秩序は、冷やすと割れる。割れた光は、雨のように街へ落ち、屋根の上を跳ね、井戸の水に吸い込まれる。

「下へ」

 私は短く地上へ合図を出す。カイルは理解が早い。門番たちの大盾を繋ぎ、布団と毛布に水を含ませ、路地の角に張らせる。ミナは広場に簡易の寝台をずらりと並べ、フィオは水汲みの子どもらを叱りながらも笑わせ、井戸の手押しポンプに背の低い台を置く。父は城門で号令しながら、神殿の使者を「いまは祈るのではなく運べ」と睨み伏せる。祈りは後で幾らでもする。今は水だ。今は手だ。

 空では、声なき合唱が始まった。ルイセルの背後で、光の軍勢が一斉に翼を広げ、街に降る「正しさ」をさらに厚くする。許しは剥がれ、正しさが増える。世界は、息苦しくなる。呼吸。私は呼吸する。吸って、止めて、吐いて——間に刃を置く。蒼銀の先端が、夜の裂け目へ向かって細い楔の形をとる。

「退け」

 ルイセルが言う。命令ではない。告知だ。私は笑う。

「退かない。——あなたの正しさは、私を殺した」

 昔の雪が、喉に詰まる。あの夜、彼らの「正しさ」が私の部下たちの喉を凍らせた。凍った喉は、歌えない。歌えない軍は、死ぬ。私は蒼銀を一度、下から上へ撫で上げる。刃は光を固め、固まった光を薄い板にして弾く。板は、音もなく落ち、城下の路地の角に立つ。板は盾になる。盾は、面で受ける。

 「面で受ける」と言ったのは、昨夜の男だ。灰騎士。私は彼を見ない。見ないけれど、彼の轡音のない足音を聞く。盾と盾とが面でつながり、水で濡れた布が蒸気を吐き、その蒸気が剥がれた許しの代わりの薄い庇になる。庇は短い。短いが、子ども一人が潜れれば、それで足りる。

 ルイセルは初めて、その顔に「驚き」の影を乗せた。彼は天に属して久しく、地上の工夫に慣れていない。工夫は信仰ではない。工夫は、呼吸だ。私は蒼銀を水平に構え、彼の言葉を待つ。

「人の分際で、摂理に逆らうか」

「逆らってない」

 私は首を振る。汗が首筋を撫で、冷えた風で乾く。

「摂理を“分け直してる”。あなたたちが独占したままだから、こうして気圧が狂って、家が燃える」

 言い終えるより早く、光が降った。斜めに、鋭く、規則的に。規則の刃。蒼銀の面で受ける。面は、受けるときに名前を欲しがらない。受けとめた刃は、面の上を滑り、角を丸くしながら路地の石へ逃げる。石は寛大だ。何度でも受け入れ、何度でも黙っている。

 だが——永遠には持たない。

 肺が熱くなる。胸骨の裏に、薄い氷がぱりぱりとひびを走らせる。視界の端で、白い火花が弾ける。終焉剣アルトリウスの残響が、掌の裏で短く笑った。私は肩を落とし、もう一歩、前へ出る。前へ出れば、落ちる。落ちれば、終わる。終わる前に、やることがある。

「ルイセル」

 名で呼ぶ。名は鎖になる。けれど、古い知り合いにわざと鎖を見せるのは、ただの礼儀だ。彼の瞳が一瞬、針のように細くなった。

「覚えてる? 雪の夜」

「覚えていない。摂理は、個を覚えない」

「じゃあ、私が覚えてる。あなたは、その夜も言った——『滅ぶべし』って」

 私は笑わない。笑えば、泣く。泣けば、隙間ができる。隙間は、光にとって一番甘い入り口だ。

「私たちは滅ばなかった。あなたが滅んだ。——秩序の一部だけ」

 ルイセルは答えない。答える前に、彼は落ちた。落ちて来る光は、形を変える。翼が刃になり、刃が詩になり、詩が規範になり、規範が街の屋根の高さを均す。均される屋根は、背丈を失う。背丈を失えば、風の通り道が変わり、火の進みが早くなる。理屈は美しい。美しさで、死ぬ。

 私は跳んだ。跳んで、欄干の上に足を置き、塔から塔へ、まるで読み慣れた本に指を走らせるように、足場を拾っていく。蒼銀の刃先は、私の意思より速く空を撫で、青銀の軌跡が弧を描く。夜の裂け目の縁と、地上の水門の線が、一瞬だけ、見えない弦でつながる。弦が鳴る。光が撥ねる。撥ねた光は、今度は井戸へ落ちる。水面が厚くなり、湯気が白く、火が迷う。

「——アリア!」

 下から声。フィオだ。彼女は泣きながら笑っていて、両手に抱えた桶を子どもに渡し、別の子に頬を叩かれて「起きなさい!」と怒鳴る。ミナは既に火傷の処置に取りかかり、父は神殿の白衣の手から祈りの鈴を取り上げ、「これは後だ」と投げる。鈴は鳴らない。代わりに、蒼銀が歌う。

 ルイセルは、ついに近づいた。彼の足音はない。あるのは、意味だけ。長い槍のように伸びた光が、私の喉元に寸分の狂いもなく向かい——止まる。止まったのは、彼ではない。間だ。私が置いた。置いたのは、古代語の一字。《間》。言葉は刃だ。刃は、面で受けられる。面が受ければ、刃は鈍る。鈍った刃は、次の正しさを探す。その一拍で、私は蒼銀の腹を軽く返す。

 「剣の紋」が、空に浮かんだ。

 床に描いたときと同じ形。短い片刃。柄は私の足元、刃先は——天へ。紋は合図だ。合図は呼ぶ。呼びたいものだけを、呼ぶ。

 青い花が、塔の先に咲いた。

 誰も見ない。見ないのに、夜風が一つだけ別の方向から吹く。別の方向は、神殿の屋根の向こう、まだ燃えていない倉庫の奥、私たちが昼間に掘り直した細い溝の延長線。風は水を押し、溝は息を吸う。水門が呻いて、禁じられていた角度で少しだけ口を開ける。城下の二つの井戸が一瞬、繋がり、橋の下の薄い霧が厚くなる。厚くなった霧は、光を嫌う。光は、霧を嫌う。

 ルイセルの翼が、初めてその表情で“迷い”を持った。彼の後ろの軍勢が、合唱をやめる。音が途切れる。跳ねていた火が、少しだけ低くなる。私はその低さに足場を置き、蒼銀を彼の頬——ではなく、頬の「影」に触れさせた。影は彼にはない。けれど、概念の輪郭にも影は立つ。影に触れると、概念は自分の薄さに気づく。薄さに気づいたものは、地上に重さを落とせない。

「帰りなさい」

 私は言う。命令ではない。指示でもない。——お願い。お願いは、誓いの逆だ。誓いは檻。お願いは、余白。

 ルイセルは、翼を閉じかけた。閉じる前に、彼は言う。

「汝の罪は、消えない」

「知ってる。——痛みは、生きている証拠よ」

 ミナの言葉が、口を離れて私のものになった。彼の瞳が一瞬、動く。天の者は、痛みを直視しない。直視すれば、秩序が揺らぐ。揺らぎは、彼らにとって「敵」だ。

 だから、彼は退いた。完全ではない。裂け目はまだ空に開いている。軍勢は数を減らし、彼自身は裂け目の縁に戻り、そこからもなお街へ視線を落とす。視線は刃だ。刃は、面で受ける。私は地上へ降りる。降りる前に、蒼銀の背を宙で一度だけ撫で、青銀の軌跡を長く引く。軌跡は天井の亀裂のように街を横切り、光の進路に薄い皺を刻む。皺は、正しさの速度を遅くする。

 地上。膝が笑う。笑わせない。笑いは好きだけれど、今は違う。カイルが影から出る。彼は私を抱きとめない。半歩、ずれた位置で、私の重さを地面へ逃がす。盾の面で受ける。受けすぎない。私は一度、血を吐いた。鉄の味。だが、先夜より薄い。薄さは、訓練の証。

「医務室へ」

 ミナが駆け寄る。彼女の手のひらは熱い。熱い手は、正しさよりも強い。フィオが泣き笑いで「お嬢様、もう!」と叱り、父は遠くから短く頷く。その頷きは、政治ではなく、家族だ。

 私は息を整えながら、夜空を見上げる。裂け目は、まだある。ルイセルは去っていない。去っていない代わりに、降りてきてもいない。彼は見ている。見ている者に、私は見せる。

 ——人が、分け合うのを。

 広場の隅で、婦人が鍋を持ち出し、兵士がパンを割り、子どもが水を運び、老いた男が椅子を貸す。神殿の神官が躊躇いながらも乾いた布を抱え、若い商人が倉庫の鍵を私に無言で渡す。私は鍵を握らない。握らず、ほどき、間に置く。鍵は、彼の手に残したまま「開けて」とだけ言う。彼は開ける。開けた扉の向こうに、麦の匂いがして、誰かが泣く。

 風が変わる。青い花が、塔の先で一度だけ強く光って消える。消えるのは、終わりではない。消えるのは、役目の交代だ。夜の役が終わり、次は朝の役。朝は、刃ではなく、手の役。

「……戻る」

 ルイセルの声が、裂け目の向こうから落ちてきた。告知。勝利でも、敗北でもない。「次がある」という予告。彼は翼を畳み、裂け目は音もなく閉じた。閉じる瞬間、天井の亀裂の粉がひとひら落ちる。誰も見上げない。見上げなくても、粉は落ちる。

 火はまだ消えていない。消していない。火は、必要だ。熱は、麦を焼く。焼いた麦は、香りを作る。香りは、呼吸の居場所になる。私は蒼銀を布で包み、掌の青を静かに眠らせる。

 「蒼銀姫——!」

 どこからともなく、声が上がる。私は笑う。名は借りておく。借りて、使い、返す。今日の使い道は、ここまで。返す先は、朝。

 膝が震え、胸が痛む。痛みは合図。合図があるうちは、使える。私はカイルの半歩ずれた影に肩を預け、ミナの手に体温を測らせ、フィオの濡れた袖に頬を押し当てる。父は一言も発せず、しかし城門の上で腕を組み、街の光の移り変わりを見ている。光は、減った。減った分、星が見える。

 夜は、終わる気配を持ち始めた。鳴らなかった鈴が、今度は鳴るかもしれない。いや、鳴らなくていい。鈴の代わりに、人の呼吸がある。呼吸は、信仰よりも遅く、しかし確実に広がる。

 私は目を閉じる前に、夜空に向けてほんの少しだけ、中指と薬指を重ねた。病室剣の八の型。——「来る」ものに、来させる。「去る」ものに、去らせる。その間、私が選ぶ。

「また、殺しに来るの?」

 さっきとは別の調子で、私は夜に問い直す。夜は答えない。代わりに、遠くでパンの焼ける匂いが少しだけ濃くなった。火が人のものに戻っていく匂い。私はそれを胸いっぱいに吸い込み、心の奥で小さく笑う。

 ——懐かしさは、武器になる。恐れは、道具になる。天は、脅し文句にしない。

 蒼銀の青は布の下で静かに光り、青銀の軌跡は空から消えずに、街の屋根の上に細い線として残った。線は、誰かにとってはただの煤。誰かにとっては、逃げ道。誰かにとっては、祈りの代わりの目印。どれでもいい。どれも、息の通り道だ。

 朝が来るまでに、私は二度だけ短く眠り、二度だけ目を覚ました。眠りは弱さではない。次の一撃を遠くに置くための、夜の鍛錬だ。熾天使は去った。けれど「次」はある。次に備えるのは、刃ではない。人だ。分け合う手だ。私はそれを確認してから、天蓋の布に小さな円を描く。円は、鎖ではない。円は、食卓の形だ。

 そして、夜はやっと、静かに閉じた。

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