第11話 神殿暦の空白
王都の鐘が、ひとつ遅れて鳴った。
大祭日。神殿暦において唯一、数字が振られない日——“不可視日”。
年の巡りを調整するため、神々が“余白”として置いた一日。
だが、この余白は、王都にとっても、記録局にとっても、特別な意味を持っていた。
“送出端末”の通知が止まる。
神々の機構が、ただ一日だけ呼吸を止める。
この“空白”の間は、世界の書き換えも、正典の更新も、半拍遅れる。
その一瞬を、三人は狙っていた。
宮中庭園。
祭りの喧騒が遠くから微かに聞こえ、空は紅玉のように霞む。
空白の始まりを告げる“白い暦花”が散り、花弁の一枚が、リオの《世界記録書》の上に落ちた。
花弁が触れた瞬間、余白の文字がわずかに揺らぐ。
神々の“筆圧”が、今だけ軽くなっている。
「——始めよう」
リオが呟くと、セラは剣を抜き、ミナは炉の火を思わせる短い息を吐いた。
計画は三層構造。
第一:王女エリシアの救出。
第二:署名欄の奪還。
第三:教師ルド——仮面の書記官の“動線の消去”。
空白の時間、王城の全ての記録系統は“暦の帳”の裏へ回る。
見た目は変わらないが、書き込まれた行は誰にも読めない。
だから、書き換えが可能だ。
——正典を“紙ごと抜く”ことができる。
「リオ、右から来る!」
セラの声が飛ぶ。
庭園の回廊、向こう側の影が剣を抜いて現れた。
剣の勇者、カイン。
白金の鎧に刻まれた紋章が曇って見えるのは、空白の光が世界の縁を鈍くしているせいだ。
「……またお前か。記録の勇者」
声は低く、だが震えていた。
リオはその震えの奥に、“記憶の空所”を感じ取った。
更訂局が彼の中に作った“空洞”。
叛逆版の王女を討つという“記録”が、彼を縛っている。
「お前の剣が守りたいのは、紙か、人か」
リオの問いに、カインは一瞬、刃を止めた。
その隙にセラが踏み込む。
——剣と剣。
金属のぶつかり合いではない。
“記録”と“記録”の衝突だ。
セラの剣には、綴じ糸が巻かれている。
カインの剣には、王国の正典符が刻まれている。
正典の刃を、糸で束ねるか。
糸の意志を、符で断ち切るか。
「カイン、退いて——!」
エリシアの声が、遠く牢の方向から響く。
その声が届くより先に、ミナの針が回廊の床を突き、ひび割れを縫った。
光の糸が走る。
瞬間、庭園と牢を繋ぐ“回避路”が開く。
回廊の裂け目が、光のトンネルのように輝いた。
「行け、リオ!」
セラの叫び。
リオは《世界記録書》を開き、ページを反転。
空白日の干渉が最も弱まる正午の瞬間——
“叛逆版の昨夜”を再生した。
“叛逆版の昨夜”。
王女が玉座の間で署名を拒み、王家に背いた“はず”の夜。
だがリオは、その映像から王女ではなく、教師ルドの動線だけを抽出した。
——ルドの筆跡。
——署名欄の押印順。
——更訂局への通知タイムスタンプ。
余白に記す。
——《ルドの行:叛逆版=存在過多》。
——《忠誠版=通知先欠落》。
矛盾度、上昇。
王都の空気がわずかに“ザザッ”と揺れる。
リオは針を抜き、署名欄の上に小さく線を引いた。
——《矛盾の閾値到達》。
世界が、一拍遅れて反転する。
回廊の奥、王女の牢の鉄格子が“音もなく紙に変わり”、
その紙が一瞬で“謁見待機室”という見出しに書き換わった。
王女エリシアが、茫然と立ち上がる。
「……これは……?」
「救出だ。説明は後」
リオは短く答え、針で空間を縫う。
光の糸が床から伸び、三人の立つ場所をひとつの円に繋ぐ。
セラが後方でカインの刃を受け止め、ミナが気流を逆回転させて煙幕を作る。
空白日特有の風の“無音”が、二人の動きを包んだ。
リオとエリシアは、回避路を駆け抜ける。
宮廷塔の頂。
署名欄の保管室——白金の封印箱が、月光のように輝いていた。
だが、そこにもうひとりの影。
教師ルド。仮面の下の素顔は、静かな怒りを宿している。
「やはり来たか、“記録の勇者”。」
リオは息を整えずに答える。
「あなたの動線を抜いた。“叛逆版”は崩れる」
ルドは小さく笑った。
「神殿暦の“空白”を信じたのか。——甘い」
手に握られた札。
《緊急通知》。
送出端末に直接送るための“神殿暦専用コマンド”。
空白日でも作動する、神々の“保険”だった。
「これが鳴れば、空白は終わる。正典は再び上書きされる。お前の救出も、署名欄の奪還も——“なかったこと”になる」
ルドの指が札の角を折る。
その瞬間、リオの《世界記録書》が、勝手に開いた。
ページの縁が赤く発光する。
——《使用回数:残り一》。
小さく、それだけが表示される。
“リブート・ログ”の残り回数。
リオは理解していた。
次の一手を打てば、因果熱は限界を超え、記憶は確実に削れる。
だが、やらなければ全てが戻る。
「セラ、ミナ、今から——“署名欄”の周囲を閉じろ!」
「何を——」
「いいから!」
二人が針と糸を動かし、署名欄の封印箱を三方から囲う。
リオはページに指を滑らせ、血を落とした。
インクが溶けるように文字へ吸い込まれていく。
——《対象:ルドの緊急通知》。
——《条件:発動時、署名欄囲内》。
——《改変指令:上書き“無限ループ”化》。
ページが唸り、世界が“焦げる”。
空間の色が二層に割れ、ルドの背後の空が波打つ。
ルドが札を握り潰した瞬間、送出端末から光の柱が立ち上がった。
だが、その光は途中で“折れた”。
まるで天へ昇る前に、頁の端に挟まって破れたように。
ルドの目が見開かれる。
「何を……した……?」
リオは、崩れかける視界の中で笑う。
「“通知”を、終わらない“通知”にした。
神々に届かないまま、自分の頁を延々と巡る“脚注”に……」
ルドが膝をつく。
仮面が砕け、その顔に“焼き印”のような更訂局の校正印が浮かび上がった。
彼自身が、局の端末の一部だった。
燃えるような赤が彼の瞳に広がり、やがて静かに崩れていく。
空白日、終盤。
神殿の鐘が、再び鳴り始めた。
時間が、戻り始める。
更新の波が王都を包み、紙のページが一斉に“再印刷”されていく。
だが、リオたちのいる塔の一角だけは、静止していた。
署名欄——そこには、“誰の署名もない空白”が残っている。
それが、“叛逆”でも“忠誠”でもない、新しい“未記述”の形。
リオが求めた“空文字”の第一歩。
彼は膝をつき、視界の端で、セラとミナの姿が二重にぶれるのを感じた。
記憶摩耗。
熱が脳の奥を焼いていく。
“空白”が終わる前に、自分の名がまた落ちる前に——
《世界記録書》の最終頁に、震える手で書く。
——《私はリオ、記録の勇者》。
セラが駆け寄り、彼の肩を支える。
「……まだ戻ってこれる?」
リオは微笑んだ。
「戻るために……書いた」
外では、神殿暦が再び回り始める。
世界が息を吹き返し、紙が整い、正典が再び走る。
だがその中心には、リオたちの残した“空白”がひとつ——
神々にも埋められない“余白”として、静かに残った。
夕刻、塔の窓から差す光の中で、王女エリシアが一枚の紙を見つめていた。
署名欄。
その中央に、薄く、誰のものでもない線。
——“空文字”。
「あなたが作ったのね、リオ」
彼の名を呼ぶ声が、かすかに届く。
空白の終わりとともに、彼の意識は霞んでいく。
けれど、声の音だけは、錨のように心に残った。
世界は、書き換えられ続ける。
だが今、初めて“誰にも属さない頁”ができた。
それは人が神々と並ぶための、最初の一行だった。
そして、リオの意識は薄れていく。
彼の最後の視界に、セラとミナの姿。
その向こうに、白い暦花が一枚、逆光に透けて舞っていた。
——“空白”の一日が、終わる。




