表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記録の勇者のリブート ―改ざんされた世界で、僕だけが“真実”を覚えている―  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/20

第10話 断章の谷を越えて

 “谷”は、前よりも深くなっていた。

 史館地下の梯子を二つ降り、隠し目録の目地を針先で払って開けた縦穴の底から、かつては紙の囁きが上ってきた。今日は囁きの密度が違う。言葉の端切れが重油みたいに重く、光を呑み、吐いた息が文字の味を帯びる。


 セラが先に降り、ミナが腰に縄を巻く。ミナは新調した“冷却鞘”をリオの胸にしっかりと押し当てた。鞘の内側で針が微かに鳴き、因果熱が一段落ちる。

「灯りは剣。風は私。言葉は、あなた——」

 ミナの短い指示に、セラとリオは頷いた。三人の呼吸が、谷に入る前から揃っていく。


 縦穴の空気は、落ちるほどに“意味”を失って美しくなる。白金の紙片、背表紙の布切れ、写本の糸、活字のバラ、潰れた校正記号——どれもが時間を剥がされ、素材に戻って舞っている。リオは《世界記録書》を胸に抱え、余白に細く書く。

 ——《参照開始:断章の谷/目標:“署名フォーマット”への迂回路》

 因果熱の上昇は冷却鞘が吸い、記憶の棚板はまだ持ち堪える。セラは剣を抜き、刃に祈りの灯を走らせた。刀身が淡い文字列を纏い、光の薄膜が谷の気流を可視にする。ミナは背の皮袋から風向きを測る薄羽を取り出し、谷の呼吸を読む。

「下へ二十拍、右の渦を跨いで左へ三。——“強い注釈”が流れる」

「了解」


 谷の中央層に差し掛かった時、それは現れた。

 ——航跡。

 かつて消去された“第五の勇者:針”が通った、ほとんど色を失った細い道。紙片の流れがそこだけわずかに寝て、糸のきしみが遠くに鳴る。リオは息を止め、針の柄に触れる。柄が応える。どこか懐かしい温度で。

 航跡に沿って進むと、崩れた脚注の束の下に、半ば埋もれた金具があった。古い背金。鞘口のようにも、綴じ金の名残のようにも見える。セラが脚注を払い、ミナが気流の癖を直して紙片の重みを軽くする。リオが指先で背金を起こすと、裏に薄刻の文が現れた。


 ——『署名欄無効化』。

 ——『異本三系統同時起動』。

——『空文字押込』。


 断片は三行だけだ。だが、余白の縁がそれに反応し、ひとりでに注釈の層が立ち上がる。

 ——〈手順〉

 (一)送出キューへのアクセス権と、持続的な参照権を確保。

 (二)異なる出自を持つ異本三系統を同期起動(史料・口承・官簿など出自差必須)。

 (三)署名欄に“空文字ヌルグリフ”を押し込み、署名を“成立した未記述”として凍結。

 (条件)署名代理三名以上。代理の“責”をログで負う宣誓が必要。

 (危険)更訂局の巻き戻し介入/脚注蛇の襲来。


「三名……」

 リオが息を吸う前に、セラが一歩出た。

「私が一人」

 ミナが顎を上げる。「二人目は私。工房の名で責を負う。……三人目は?」

 谷の空気が、低く笑ったように揺れる。

 “脚注蛇”が、紙片の海を割ってせり上がった。


 脚注が蛇になるのではない。蛇が脚注を装うのでもない。

 “注釈であり続けることしか許されなかった言葉”が、ひとつの視線に結ばれたとき、谷はそれを蛇として描く。

 白黒の細字で身体ができている。鱗の代わりに本文への矢印が無数に並び、矢羽に振った尾が“参照せよ”の連呼を撒き散らす。口の中には小さな文字の歯。噛まれれば、言葉の血が出る。


「来る!」

 セラが剣を振る。

 素振りではない——“綴じ”。

 彼女は腰の袋から綴じ糸を引き、剣の鍔に固結びした。刀身に沿って糸を巻き、糸に古い祈り文を擦り込み、刃そのものを“針”へと変える。

 刃先が脚注蛇の体表を掠めるたび、矢印が切断され、参照の矛先が宙に解けて飛ぶ。蛇は怒り、本文への道筋を無理に作ろうとして自分の尾を噛んだ。参照の輪がぐるりと閉じ、蛇の体内に“再帰”が生じる。


「風を廻す!」

 ミナの声が低く鋭い。

 彼女は火床の要領で谷の気流を掴むと、肩と肘と手首で小さな渦を連続して作り、蛇の“読点”を吹き飛ばしていく。読点が飛べば、文が切れず、蛇の“息継ぎ”ができなくなる。怒った蛇が口を開いた瞬間、ミナは手袋越しに掌を向け、火床で温度を回す時のあの“待つ”間を谷の風に再現した。蛇の喉の内部で文脈がよどみ、息が詰まる。


 リオはログの渦を安定させる。

 《世界記録書》の余白に、蛇の構文を走り書きする。

 ——《脚注蛇:参照矛先→本文/身体=注釈/弱点=再帰》

 書けば、渦が整う。

 渦が整えば、世界の側が必要な“穴”を一瞬だけ用意する。

「今!」

 セラの剣が、蛇の“末尾の注(n.b.)”を断つ。

 ミナが気流で蛇の頭を谷底の“脚註係留杭”へ叩きつける。

 リオが針を半ばだけ鞘から抜き、蛇の“注釈番号”に短く縫い付ける。番号は人の手が振ったもので、神語ではない。縫える。


 蛇は二度、身を捩って、ほどけた。

 白黒の細字が紙片に戻り、矢印が鱗の残像だけを残して浮遊する。

 谷は元の呼吸を取り戻し、気流が弱まる。セラが剣を収め、綴じ糸を指に巻き直した。ミナは膝に手をつき、息を整える。


「……持ち帰る」

 リオは背金の断片と刻文を《世界記録書》の余白に写し取った。

 ——《署名欄無効化:異本三系統同時起動/空文字押込》

 ——《条件:持続参照権/署名代理三名以上(宣誓ログ必須)》

 ——《危険:更訂局介入/脚注蛇》

 記述が整うと同時に、脳の棚板がぎし、と軋んだ。

 視界をよぎる砂。

 名前が一つ、棚から落ちる音。


「リオ!」

 セラの呼びかけが、半拍……いや、一拍遅れて届く。

 リオは膝をついた。手が震える。

 ミナが無言で冷却鞘を押し当て、薄片メダルを掌に握らせる。

 ——網戸。午後の風。麦わら帽子。

 記憶の錨が音の輪郭で引き戻す。

 だが、欠けは小さくない。人名がひとつ、地名がひとつ、そして——自分の名の文字の並びが、一瞬だけガラス越しのように遠い。


「始める」

 リオは《世界記録書》を膝に置き、黒のインクでゆっくりと書いた。

 ——《私はリオ、記録の勇者》。

 文字が紙に沈む前に、セラがそれを読み上げる。

「“私はリオ、記録の勇者”」

 ミナが続く。

「“私はリオ、記録の勇者”」

 リオが最後に繰り返す。

「私はリオ、記録の勇者」

 谷の空気が、その宣言を一度だけ押し返し、やがて受け入れた。

 言葉が、錨の鎖を一本増やした。


 帰路は、より慎重だった。

 脚注蛇の抜け殻がいくつか浮遊し、遠くで別の蛇が“注釈番号”を食んでいる。谷は生きている。生きていれば、増殖もする。

 セラが先導し、ミナが後詰めで風を調整し、リオは真ん中でログの渦を持続させる。

 縦穴の口が近づくと、外の空気が急に軽くなり、言葉の重油が薄くなる。最後の段を上がった瞬間、三人は同時に床に座り込んだ。静かな笑いが漏れる。笑いは、熱を下げる。


「……代理の宣誓、どうする?」

 セラが小冊子を取り出した。

「ここに記す。誰の責でもない、という形にしない。私とミナが“署名代理”として、その責を明確に負う」

 ミナは頷き、工房の印章を取り出した。

 握りが煤けた古い印章に、彼女の親指の跡が幾重にも染み込んでいる。

「“火床オルド工房”としての記録。——『私は署名代理となる。空文字押込の責を負う』」

 セラは王家の古語に切り替え、じゃっかん硬い響きで同じ文を読み上げた。

 宣誓の音が、史館の石壁に染み、どこか遠くの“送出端末”の束線に微弱な振動として届く。神々の職場は論理で動くが、時々、音で折れる。


 日が傾く前に、三人は作戦を詰めた。

 異本三系統——史料・口承・官簿。

 史料は史館の奥、“王女戴冠式前夜の演説草稿”の初稿写し。口承は城下の古老が語る“北門の撤退歌”。官簿は衛兵詰所の“移動命令調書”。出自は異なる。内容は重なる。三系統の“同時起動”には、送出端末の遅延窓と、索引殿のキューへの細工が要る。

「更訂局は必ず巻き戻しをかけてくる」

 セラが言い、ミナが頷く。

「だから、私が風で“キューの呼吸”を守る。あなたは“渦”を。彼女は“刃”を。——三つを同時に、だ」


 夜、共同記憶儀式。

 リオは新しい一行を追加した。

 ——《朝の儀式》

 〈私はリオ、記録の勇者〉

 声にする。セラが読み、ミナが読み、最後に自分が読む。毎朝。毎朝、錨を落とす。

 規律は増え、儀式は増える。だが、それは生きるための“連載”だ。新しい頁をめくるには、指に唾ではなく、声が要る。


 翌朝。

 谷で拾った“第五の勇者:針”の航跡が、目の裏に薄く残っていた。彼は名を消した。最後に自分を帳面から消したから、道具が残った。柄と、手順の断片。

 “空文字押込”。

 署名欄を“成立した未記述”に変える禁じ手。

 それは王家の権能を奪うことではない。権能の外へ、一時的に“場”を滑らせる処置だ。場が人の速度に降りる。降りた瞬間に、人が選べる。


 史館の鐘が鳴る。

 送出端末の輪の音が、その裏で僅かに遅れる。

 窓——Δt。

 リオは《世界記録書》を開き、朝の一行を確かめてから、針を鞘から滑らせた。

 胸の内側の熱は、まだ許容だ。

 記憶の棚板は、錨で補強した。

 セラとミナが左右に立つ。

 三人の声が重なる。

「“私はリオ、記録の勇者”」

 宣言は短いが、長い道の始まりに必要な音だ。


 行こう。

 異本を三つ、同時に起こす。

 署名欄に空文字を押し込む。

 “私としての署名”の場を、彼女に渡す。

 そのために、谷を越え、神々の職場を迂回し、紙の外側に手を伸ばす。


 紙は、まだ燃えていない。

 灯りは、まだ消えていない。

 針は、鞘の中で静かに鳴り、朝の風が頁の端をめくろうとして——三人の指が、またそれをそっと押さえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ