第十部:影と炎
イグニスがシーカーに気を取られたその隙を見逃すサイファーではなかった。
「シャドウ・ステップ」を使い、影から影へ一瞬で距離を詰め、そして「シャドウ・エッジ」でナイフに影を纏わせ背後からの一撃で終わらせにかかる。
しかし、影の刃がイグニスにまさに届こうとしたとき、イグニスの炎が一条、ナイフを払う。
それは物理的な衝撃ではなく、まるで生きているかのように揺らめく、彼女の意思そのもののような炎が、ナイフを包み込み、そして払ったのだ。その炎がイグニスに絡みついていくのを見て、サイファーが一度下がろうとした時だった。
イグニスは突如、苦痛に顔を歪ませ、その左腕の義体が、溶け出した金属の光を放ちながら不気味に軋む。
彼女の炎が螺旋を描きながら天へと昇り、見る間に輪郭を持った巨大な炎のトカゲの精霊、サラマンダーへと姿を変えた。世界中の怒りを凝縮したような、甲高い威嚇音が通路に響き渡る。その鱗は、マグマの塊が脈打つような、異質な輝きを放っていた。
それは、アリアによって「覚醒」させられたイグニスの魔法が、彼女自身の制御を完全に超えてしまったことを示していた。
「お前ら審問官ごときに我々の邪魔はさせない」
イグニスは短くそう告げると、サラマンダーの後ろに下がる。その顔には、既に疲労と苦痛の色が濃く浮かんでいた。彼女の琥珀色の瞳は、サラマンダーが放つ灼熱の光に照らされ、狂気と悲しみ、そして一抹の絶望が混ざり合って揺れていた。
サイファーは、サラマンダーの咆哮に一瞬ひるんだものの、すぐに体勢を立て直す。
彼は炎の精霊を迂回するように、ボルトガンを撃ちながら距離を取る。しかし、ボルトはサラマンダーの熱で全て溶けてしまい、有効な攻撃手段とならない。
ここからは、サイファーとサラマンダーの壮絶な戦いが始まった。
サラマンダーは、巨大な口を開けて噛みつき、鋭い爪で薙ぎ払い、そして体から灼熱の炎を噴射する。その攻撃は単純ながらも、破壊力に満ちており、サイファーは何度も致命傷を負いかけた。
通路の床は溶け、壁は炭化し、彼らがいた空間は、まるで地獄そのものへと変貌していく。サイファーは、影のエーテルを使い、サラマンダーの熱から身を守りつつ、シャドウ・ステップで攻撃を回避する。
彼は、サラマンダーの動きのパターンを瞬時に読み取り、その隙を突く戦術を組み立て始めた。
サイファーは、腕の布地が焦げ付いて大きく裂け、服の所々が燻り、苦しみながらも、カウンターと一撃離脱でサラマンダーの攻撃を捌き、少しずつ弱らせていく。
炎の精霊が放つ灼熱のブレスを紙一重でかわし、その巨大な顎が地面を叩きつけると、サイファーは生じた影の中に身を潜めた。
彼は影の中から、影のエーテルをナイフに纏わせ、まるで影が炎を食い破るかのように、サラマンダーの鱗の隙間を的確に捉え、その一部を削り取っていく。
サラマンダーの怒号が響き、通路全体が熱で震える。しかし、サイファーは、その攻撃の合間を縫うように、一瞬の隙も逃さずに攻撃を繰り返した。幾度となく刃がサラマンダーの体に刻まれ、その動きは鈍り、体から噴き出す炎が不安定に揺らぎ始めた。
そして、ついにその時が来た。サラマンダーが次の攻撃のために大きく身を捻らせたその隙を突き、サイファーは影のエーテルを込めた渾身の一撃で、その首を落とした。
サラマンダーが光の粒となって消え去ると、イグニスは地面に崩れ落ちた。
彼女の体からは、制御不能な炎が吹き出し、その左腕の義体は完全に溶け落ち、見るも無残な状態になっていた。
サイファーが近づくと、イグニスは最後の力を振り絞り、微かな声で呟いた。
「……なぜだ?お前の魔法はこの世界のエーテルのものじゃない。なぜ、その繋がりが完全に失われていない?」
その言葉は、サイファーの心に深い動揺を呼んだ。彼自身の能力の根源が、未だに解明されていないことを突きつけられたのだ。
イグニスは、自分と同じく精霊界との繋がりを断たれているはずのサイファーが、なぜその能力を維持しているのか、その理由を知りたがっていた。それは、彼女自身の絶望の根源に繋がる問いだった。
しかし、その問いに答える時間はなかった。イグニスは、アリアによって増幅された力の暴走に耐えきれず、まるで燃え尽きる薪のように、その身を灼熱の炎に包んでいく。
彼女の義体の溶け出した金属が皮膚と融合しながら蒸発していく。エルフ特有の尖った耳の先端も、炎の渦に飲み込まれて歪み、彼女の「真の自分」を取り戻そうとする渇望が、皮肉にもその肉体を完全な灰へと変えていく。
彼女の最期は、アリアが目指す「覚醒」が、どれほど危険なものかをサイファーに見せつける、悲劇的な結末だった。
炎がイグニスの全てを焼き尽くしていくさなか、サイファーは憐憫にも似た複雑な感情で心がいっぱいになった。彼は彼女の無惨な結末に深く揺さぶられた。
イグニスの死に際に放たれた一筋の炎は、彼の「シャドウ・コール」を介して、まるで過去の記憶の一部のように、彼の脳裏に焼き付く。
それは、親と引き離され、施設での孤独な日々を送ったイグニスの悲しみと、彼女が追い求めた「自由」の断片だった。
その記憶の断片は、サイファーの脳裏に鮮明な映像として流れ込んでくる。それは、まだ幼いエルフの少女が、両親の温かい手を引き離される瞬間の、絶望に満ちた叫びと、恐怖で凍りついた心臓の鼓動だった。
施設の白い壁に囲まれた無機質な部屋に収容され、体の一部を義体と交換し、エーテルとの繋がりを強制的に閉鎖されるという、筆舌に尽くしがたい苦痛。精霊の声が聞こえなくなり、色彩豊かな世界が灰色に染まっていく、その孤独な日々。
そして、アリアと出会い、再び「自由」という希望の光を見出した瞬間の、燃えるような情熱。それらすべての感情が、イグニスの最後の炎と共にサイファーの中に流れ込み、彼の精神を激しく揺さぶった。
イグニスが追い求めた「自由」とは、単なる「秩序」からの解放ではなく、失われた過去と、自らの魂を救うための、切実な願いだったのだ。
サイファーは、イグニスの絶望的なまでの苦痛と、彼女が最後に問いかけた言葉の残響を、すべての音を奪われた空間で、自分の心臓の音だけが響くように感じていた。
彼女は、自分と同じように「秩序」という名の檻に閉じ込められていた、もう一人の自分だったのかもしれない。そう自らに言い聞かせるように、彼はまだ熱を帯びた床に立ち尽くしていた。
サラマンダー vs ローグ・へクスブレード(ソロ)