第1章 優等生と夜叉 ①
「ん……?」
固い床の感覚と、薄明るい光に、私は目を覚ました。
先ほどまで何もなかったはずの真っ暗な空間。しかし今私の目に映っているのは、全く違う景色だった。
それは、真っ白な地平線。夜明け間際のような薄明るい光があるだけで、何もない真っさらな空間。
いや、正確には違う。何かはあった。
所々に、岩のような大きくて黒い塊がゴロゴロと転がっている。地平線の先はどこまでも続いていて、どれほど目を凝らしても終わりが見えない。
「何、ここ……?」
風もなく、熱もない。天井を見上げてみると、光源もなく真っ黒だ。この空間を照らす薄明るい光は空からのものでなく、地面そのものがうっすらと光を帯びているようだ。
明らかに現実世界とは異なる空間。かといって、ここが死後の世界なのかと問われるとそうだと確信できるようなものな何もない。
地面の上で横たわっていたらしい私はその場からゆっくり立ち上がると、辺りをキョロキョロと見回す。
誰もいない。
意識を失くす直前まで、隣にいた誰かの手を握っていたような気がするのだが、右手が微かに熱を帯びているように感じるだけで、隣には誰もいなかった。
ひとまず、この辺りを探索してみよう。
立ち止まって考え込んでいるよりも、辺りを観察して情報を集めた方が冷静に状況を判断することができる。
そう考え、私は一歩踏み出した。
と、その時。
目の前の光景が、一気に変わる。
黒い岩に囲まれた、円形の空間。中央には背もたれの高い赤色の肘掛け椅子。その椅子と向き合うように、上空に大きなモニターのようなものが浮かんでいる。だがモニターには何も映っておらず、真っ黒だ。
「何、これ……?」
状況が飲み込めず、思わず声が漏れる。
事故で死んで、異世界に転生した。なんて創作物を読んだことはあるが、これは一体どういう状況なのだろうか?これは異世界転生なのだろうか?
目の前の情報を処理しきれずにいると、少し離れた黒岩のふもとに、丸い影があることに気付いた。
何だろう、と目を凝らしながら歩み寄る。距離を詰めるごとに、どうやらその影の正体は人影のようだと確信した。誰かは分からないが、岩のふもとに座り込み、両方の膝を抱えて丸くなっているらしい。
私はホッとした。私以外にも、人がいたのだ。
顔は抱えられた膝に埋もれて隠れてしまっているが、派手な金髪がよく目立っている。
……金髪?
まさか、と思い私は一瞬足を止めたが、少しして恐る恐る近付く。
距離がさらに狭まると、ますます心当たりのある特徴が目に映ってくる。私はもっとよく見ようと、眼鏡をクイッと持ち上げた。
私と同じだが、着崩された制服。短く切られたスカートから覗く、学校指定のジャージズボン。両耳にはピアス。真正面からしっかり見るのは初めてだが、赤く小さな花がいくつも連なっているような、私が噂で知る限りのその人からはあまりイメージできないような可愛らしいデザインのピアスだった。
人影は私の存在に気付いたのか、ビクッと身体を震わせ、警戒するように勢いよく顔を上げる。
きつい目つき、下唇のピアス。
私は確信した。
「や、夜叉路木さん!?」
思わず声を上げると、彼女はきつい目つきに怒りを宿らせてギッと睨み、声を荒らげる。
「夜叉路木って言うな!!」
あまりの剣幕に、今度は私の方がビクッと身体を震わせた。
そうだった。彼女は人から《夜叉路木》と呼ばれているものの、彼女自身はその呼び名が嫌いで、実際に呼ばれると怒るのだ。
その反応も含めて、私はこの人物が夜叉路木さんなのだと再確認した。
「ご、ごめんなさい」
「…あんた、もしかして委員長?」
夜叉路木さんは私の顔をジーッと見つめると、確認するようにそう尋ねてくる。
委員長。聞き慣れた呼び名なのに、学校にほとんど来ない彼女にそう呼ばれると何故だか違和感を覚える。
確かに私はクラス委員長ではあるが、ここは学校ではないし、他のクラスメイトも学校外では「一条さん」や「一条」と呼ぶ。
もしかすると、私の名前を覚えていないのかもしれない。私も彼女のことは夜叉路木と呼ばれているということしか知らないし、学校にほとんど来ない彼女ならあり得る。
「ここは学校じゃないから、私の名前は…」
「知ってる。一条優香だろ?」
「え、うん。そう、だけど…」
虚をつかれたように言葉を詰まらせながら、なんとかそう答え頷く。
驚いた。まさか、教室にほとんどいない彼女が私の名前を覚えているとは思わなかった。
まぁ、クラス委員長を担っていれば、仲良くしていなくても名前だけは覚えられるものだ。素行不良で、あまり他人に興味がなさそうな夜叉路木さんでも、さすがに名前は覚えるだろう。
逆に、私自身は彼女のことを《夜叉路木》としか覚えていない。申し訳ないような、恥ずかしいような気持ちになった。
誤魔化すように頭を振ると、彼女から少し離れた位置へ移動し、彼女と同じように黒岩を背にして正座する。
「…どうしてここにいるの?」
「…多分、あんたと同じだ」
ぶっきらぼうにそう返答すると、彼女はぽつりぽつりと話し出す。といっても彼女の話は、彼女自身の事情を除けば概ね私の記憶と同じだった。
*
いつも通りの日常だった。
家に居場所がなくて、かといって学校に行く気にもなれず、ブラブラと街をただ歩いていた。
喧嘩で負けなしの夜叉路木、自分がそう呼ばれて噂されていることは知っている。でも、あたし自身はしたくて喧嘩しているわけじゃない。ただ、弱い者イジメと卑怯者を見過ごせず、ついつい手を出してしまうだけで、意味なく喧嘩を吹っかけているわけじゃない。
逆恨みで報復に来た連中を返り討ちにしたり、「夜叉路木を倒して箔をつける」と意味不明なことを言ってきた奴を殴ったことはあるが、それはただの正当防衛だ。
…思わずやりすぎて過剰防衛になってしまうことはあるが、それはしょうがない。喧嘩を吹っかけてくるのは男ばかりで、力加減なんてしている余裕はないのだ。
その日も、いつものように報復に来た他校の男子たちを返り討ちにしていた。途中でパトロール中の警官に見つかり、捕まるのは面倒だと思って走って逃げた。
ここまでは、いつもの日常だ。
あたしは小さい頃から足が早い。しばらく逃げたら警官の姿は消えていた。
いつもと違うのは、普段はあえて避けるようにして歩いているはずの通学路に来てしまったことだろうか。
捕まらないように必死で逃げている間に、あたしは無意識に家に帰ろうとしていたようだ。
…帰っても、あたしを待っている人なんていないのに。
それに通学路付近には、たまに生活指導の教師が見回りのために歩いていることがある。
クラスメイトはおろか、クラス担任を含むほとんどの教師が関わってこない中、学校で唯一あたしに話しかけてくるのは、生活指導の長谷川だけだった。
といっても、内容はいつも小言ばかり。
やれ出席日数がどうのとか、ピアスは校則違反だとか、家族とちゃんと話しているのかとか。昭和の熱血教師かと言いたくなるほどしつこい。
…気にかけてくれるのはありがたいが、いち教師にうちの事はどうしようもないと思う。
警官から逃げるためにせ全速力で走ってきたためか、身体中の筋肉が疲れている。体力はある方だと自負しているが、さすがにこの疲労感のまま引き続き街を歩き回る気は起きない。
「…仕方ない、帰るか」
諦めるようにそう呟くと、渋々家路へ向かった。
横断歩道の手前に来たところで、赤信号に阻まれ足を止める。その時、すぐ左隣に見覚えのある人影があることに気づいた。
クラス委員長、一条優香。
校内で有名な優等生。他人に興味がなく、クラスメイトの名前と顔もほとんど覚えていないあたしが、唯一名前を覚えているクラスメイトだ。
優秀な一条と、素行不良な夜叉路木。正反対の存在として、あたしたちは2人1組で噂にされていた。
「一条さんはまた学年上位、それに比べて夜叉路木は………」
そんな陰口を、あたしは何度も聞いた。けれど、あたしが一条優香を覚えているのは、もっと個人的な理由だ。
学校でも家でも誰も呼ばないあたしの下の名前が、一条優香と一文字違い違いなのだ。
もちろんそう思っているのはあたしだけで、すぐ隣で居心地悪そうにしている彼女はきっと気付いてすらないだろう。
……気まずいな。
なんとなくそう思って、あたしはポケットからスマホを取り出した。
見るためだけにアカウントを作り、一度も投稿はしたことがないSNSを開き、適当にスクロールする。
ただスマホを見ている、という姿勢を見せるためだけの行動なので、内容はほとんど頭に入っていない。
この横断歩道の信号は割とすぐに変わるはずだが、何故か今は異様に長く感じる。この気まずさが、そう感じさせるのだろうか。
自分でも聞こえるか聞こえないかくらいの大きなため息を吐き、スマホから目を離して正面をボウッと見る。その時、目の前に広がった光景に、あたしは目を見開いた。
赤信号のまま横断歩道に、明らかに幼児用の小さなサッカーボールが転がる。そしてその後を、まるでテンプレートのように小さな少女が追いかけ、道路に飛び出す。
車道からは、大型のトラックが走ってくる。
一瞬、あたしの身体は氷のように固く、冷たくなった。
再び動くことが出来たのは、私の横にいた一条優香が、少女を助けようと飛び出した後だった。
彼女に引っ張られるようにあたしの身体は道路へと飛び出し、一条優香が少女に手を伸ばすのとほぼ同時にあたしも手を伸ばして少女を突き飛ばす。後から飛び出していったとはいえ、あたしの手の方が一条優香より僅かに前に出て、確実に少女を安全な歩道へと押し出した。
途端、鈍い音と共にあたしと一条優香の身体は強い力で吹き飛ばされる。
熱いような、激痛。地面に勢いよく頭を叩きつけられ、骨が砕けるような音が頭に響き、視界がグワン、と大きく揺れる。同時に、視界が真っ暗になった。
遠くの方で恐らく通行人だろう人の声と、驚きと恐怖で泣き叫ぶ少女の声が聞こえる。だが、しばらくしたら何も聞こえなくなった。
どれほど時間が経ったか、ふと目を覚ますと真っ暗で何もない空間がいて、誰かがすぐ隣にいる、と気づいた瞬間今度は強い光に目が眩んでまた意識を失い、そしてその後三度目を開けるとどこまでも続く地平線にいた。出口を探そうと歩き出したら、この場所に出た。