プロローグ 2《優香》
*
一条優香は、クラス1の優等生だ。
成績は常に学年上位で、クラス委員も務め、教師からの評判も悪くなかったように思う。
まもなく高校2年生。行きたい大学を决め、本格的に受験勉強に励まなければならない時期。
その日私は、放課後に大学のパンフレットを探すため、門限ギリギリまで学校に残っていた。
だが、そこまではここ最近での日課であり、両親にも伝えていたこと。そのために、両親と交渉して元々の門限の時間を少し遅くしてもらい、学校を出る時は必ず連絡すると約束もしていた。
門限が近付いたので、約束通り母に「これから学校を出ます」とメッセージを送り、カバンを持っていつもの通学路を歩いていた。
だが、いつもと違うことがあった。
信号待ちをしている私の隣に、普段こんな場所では会ったことがない人物が立っていたのだ。
茜色の夕日に照らされて、キラキラと輝く派手な金髪に、校則違反のピアスを両耳どころか下唇にまで付け、同じ学校のものとは思えない程に着崩された制服に、短く切られたスカートの下には学校指定のジャージズボンを履いている。
きつい目の下には、ついさっきできたばかりのような真新しい擦り傷がある。
どこかでまた、喧嘩でもしてきたのだろう。
こちらは対照的にまっすぐな黒髪に、シワが一切ない制服。黒縁の眼鏡。ピアスなんてとんでもない。
彼女は、一応私と同じクラスの女子で、周囲からはち夜叉路木と呼ばれている、今時流行らない不良だ。
成績は下の下。入学から今まで、1日まともに学校にいたことがないのではないかという程に素行不良で、暴力的な噂が絶えない、有名な危険人物だ。夜叉路木というあだ名も、夜叉のように喧嘩が強いという噂から付けられたものだ。
様子を伺うように、チラチラと隣の女子を見る。彼女はこちらに全く気付いていないらしく、興味もなさそうな目でスマホを見ている。
クラスメイトだが、私はほとんど彼女と話をしたことがない。彼女自身があまり学校に来ないため、というのが1番の理由だが、彼女自身、クラスメイトとも教員ともあまり話さないのだ。
1度だけ、生活指導の先生と話している姿を遠目に見たことがあるが、あの時は教師が一方的に彼女に話しかけていただけで、彼女自身は耳を傾けている様子すらなくそっぽを向いていた。
遠くの歩道には何人か通行人がいるが、この場にいるのは彼女と自分の2人だけ。気まずいような空気が流れている。だが、気まずさを感じているのは、恐らく私だけだろう。彼女は未だに私の存在に気付いていない。
気付かれてすらいないなら、私も彼女のことを気にせずにいよう、と思い直し進行方向に目を向けた。
と、その時。
目の前に広がった光景に、私はギョッと目を見開く。
横断歩道の信号は赤。だというのに、道路に飛び出そうとする小さな影がある。
その影は、2歳か3歳かという程の幼い少女。横断歩道の先には小さな公園がある。少女は恐らくそこで遊んでいたのだろう。私から見れば通常よりひと回り小さいサッカーボールがコロコロと転がり、それを少女の短い腕が捕まえようと追いかけている。不器用な少女は、ボールに追いつくたび足で蹴ってさらに転がしてしまい、またボールばかり見ているせいで進行方向を見ておらず、自身が赤信号の横断歩道へ飛び出そうとしていることに気付いていない。
そこへ、まるで狙い澄ましたかのように、大型トラックが走ってくる。
「――っ」
危ないっ!
そう叫ぶ暇もなく、私はカバンを放り投げて飛び出した。
まるで、アニメかドラマのワンシーンを切り取ったような状況だなぁ、と頭の中で考えながら。これ、もしかして自殺行為だったかも?と僅かに後悔し、しかし身体が止まることはなかった。
私の腰よりも背の低い少女に、2本の腕が伸び、少女の身体を強く押し除ける。刹那、私の身体は強い力で突き飛ばされた。
ゴン、ともガン、とも言えないような鈍い衝撃音と、呼吸も止まるような程の激痛。いや、燃えるような熱感。
頭が大きく揺れるのと同時に、私の視界は真っ黒になった。
通行人と思しき人の声だけが、くぐもって聞こえてくる。
「おい、女の子が轢かれたぞ!」
「おい、誰か救急車!」
「ひどい怪我だ…これじゃ2人とも………」
声が徐々に遠くなっていく。
身体の感覚はもうない。
人は死の間際に走馬灯と呼ばれるものを見ると何かで読んだことがあるが、そんなものを見る思考能力もないのか、何も思い浮かばない。ただ漠然と、己はこのまま死ぬのだと、頭が理解するだけ。
それが、最後の記憶だった。
*
「……やっぱり、死んだのかな」
そう口にしても、不思議な程悲しくも恐ろしくもなかった。
恐らくトラックに轢かれたのだろうが、身体はどこも痛くないし、あの燃えるような熱感もない。
…あの少女は、無事だろうか。
私の中にあるのは、その感情だけだった。
私の手は、確実にあの小さな身体に触れ、確実に突き飛ばしたはずだ。
すぐに視界が真っ黒になってしまったので、あの子がどうなったかは分からないが、無事ならいいと心から願う。
……私とは違って、きっとあの子は、何かあれば親がきっと心から悲しむだろうから。
…ところで、ここはどこだろう。
思い出したように周りを見渡す。しかし、やはり辺りはいつまで経っても真っ黒なままで何も見えない。
水の中にいるような柔らかな浮遊感。お湯に包まれているかのような優しい熱。遠くの方で見知らぬ誰かの声が聞こえるような気がするが、何を言っているのかは上手く聞き取れない。
身体は動くのかと、全身へ意識を向けてみる。手のひらを目の前に掲げ、開いたり閉じたりしてみる。問題ない。
足は動くかと、膝を曲げたり伸ばしたりしてみる。こちらも問題ない。だが、歩行を試みようと足を動かしてみるが、そもそも己の足が地面を踏みしめている感覚がないため、前進することができない。
「…どうしたものかな」
小さくはぁ、と息を吐く。
このまま、真っ暗な空間の中に漂っていることしかできないのか。それとも、このまま待っていればいずれ違う景色が見えてくるのか。
全く予測もつかない状況。しかし、私はやはり恐ろしくも悲しくもない。むしろどこかホッとしていた。
……これで、もう…………しなくていい……。
その時。
私のすぐ近くで、すすり泣くような声が聞こえてくる。姿は見えないが、声の主がひどく悲しんでいることが伝わってくる。
声は、私のすぐ右隣から聞こえた。
よく意識を向けてみると、そこに人の気配がある。
まるで幼い少女のような泣き声。
…もしかして、あの時の少女だろうか。
顔は覚えていないが、私の脳裏にあの時ボールを追いかけて道路に飛び出した少女の姿がよぎる。
…助け、られなかった?
そう心で呟くと、私は初めて悲しみの感情を抱いた。自分のためでなく、すぐ隣でシクシク泣く少女のために。
「…ごめんね」
助けられなくて、ごめんね。
姿は見えない、触れられるかも分からないが、私はすぐ隣にいるだろうその子に手を伸ばしてみる。すると指の先に柔らかいものが触れた。なぞるように探ると、それは手の形をしていたので、そのまま握りしめる。
私が手を握ると、声の主はビクッと怯えるように1度だけ震えたが、振り解かれることはなかった。
私の手が、少女の心を慰めることができるのかどうかは分からない。けれど、何もない、何も見えないこの場所では、これ以外に慰める方法が思い浮かばないのだ。
「…大丈夫、ひとりじゃないよ」
聞こえているかは分からないが、私はそう言葉をかける。握る手を離さないように、ギュッと強く握る。すると、声の主も応えるように強く握り返してきた。
「ひとりにしないから」
寂しさを紛らわせるように、誓いを立てるように。
姿も見えない相手だが、恐らく同じ時、同じように死んでしまった私たち。これからどうなるのか分からない真っ暗なこの場所で、姿は見えずとも誰かが傍にいるという事実は、私にとっては非常に心強いことだったのだ。
そっと目を伏せる。少し経ってから、泣き声は止んだ。同時に、閉じた瞼の向こうがカッと明るくなる。
真っ白な光と共に、産声のような泣き声が頭の中に響き、私はまた意識を失った。
*
クリントン王国の端。王都から遠く離れた美しい川の村、フルーメン。
村1番のパン屋である《ベイカーの城》の店主、ルイ・ベイカーとその妻、レーナ・ベイカーの間に、初めての子供が誕生した。
予定日よりずっと早く産まれた娘の身体は小さく、しかし力強い産声を上げる。
夫婦は自身の初めての娘に、「小さくて愛らしい」という意味をもつ《カリーナ》という名前を付けた。
この時、夫婦は目の間の幸せに夢中で夢にも思わなかった。
自身の娘カリーナが将来、世界を救う救世主の1人になろうとは。