プロローグ 1《優香》
「馬鹿を言うな!!」
怒鳴り声を上げながら、男は勢いよくテーブルを殴る。男の太く強い腕で振り上げられた拳は重く、殴られた安物のテーブルはゴン、と鈍い音を立てて大きく振動する。
男のエメラルド色の瞳には、強い怒りと心配の色が滲んでいる。
「…ルイ、落ち着いて」
男の隣に座る女性が、静かな声で男を諌める。ルイと呼ばれた男は女性の方をガバッと振り返り、なおも声を荒らげる。
「レーナ、これが落ち着いていられるか!」
「あなたの気持ちは分かっているけど、きちんと話もせず頭ごなしに怒鳴りつけるものではないわ」
「む…」
ルイは眉間に皺を寄せ、グッと口ごもる。怒りはおさまっていない様子だが、女性、レーナの言葉も一理あると考えたのか、拳を下ろし怒りを鎮めるように大きく息を吐き出す。
…ルイの怒りは尤もだと思う。けれど、彼は筋肉質で強面なその見た目に反して穏やかで優しい人物。叱る時でさえ今のように声を荒らげることはなかった。
どうやら私は、彼の逆鱗に触れてしまったらしい。
ルイは怒りを抑えるよう努めながら、ゆっくりと口を開く。
「…カリーナ、本気なのか?」
「……うん」
この世界に生まれてから7年。まだ《カリーナ》と呼ばれることには慣れないが、私は己の意志をきちんと伝えるためにもまっすぐにルイを見つめたまま頷く。
ルイの隣に座るレーナは、優しいはちみつ色の瞳に心配の色を宿し、静かに尋ねてくる。
「…村にも魔法を学べる学校はあるわ。戦士になりたいなら、これまで通りお父さんに習うこともできるし、なんなら、隣町の学校まで通ったっていい。それでは駄目なの?」
「…私はもっと、この世界のことを知りたいから」
「……だが、王立マジーリア学園は平民よりも王族も貴族の方が多い。そんな場所に田舎の村の、ただのパン屋の娘が入学するなんて、大量の獣の檻にほぼ無防備で飛び込むようなものだ。それに、マジーリアは全寮制だ。よく情緒不安定になるお前を、親から離して一人にするなんて、俺は絶対に反対だ!」
必死に怒りを抑えて、冷静に話をしようとしている様子だが、一言言葉を口にするたびにまた少しずつ語気が強くなった。
しかし、レーナは今度はルイを止めることなく、彼の言葉に賛同するように軽く目を伏せている。
七年間、カリーナの両親として愛情深く見守ってくれていた二人でも、やはり私たちの様子は情緒が不安定なように見えるのだ。
そう考えた時、私の脳裏で不機嫌そうな女の声が響く。
――誰の情緒が不安定だって?私は普通だよ!
…しょうがないでしょ。私たちの普段の言動を見れば、誰だってそう思うよ。
口に出したら喧嘩になりそうな危なげなその発言を、静かに心の中で宥める。すると、再び頭の中で不機嫌そうな、かつ臨戦態勢と言わんばかりの声が返ってくる。
――あたしが代わってやろうか、《ユウカ》。一言ガツンと言ってやる。
…駄目だよ《ユウ》。あなたが出たら話にならなくなっちゃうし、やっぱり情緒不安定だって言われてますます反対されちゃうよ。
説得するように、頭の中でもう1人のカリーナに話しかける。
ルイは、私たちのこの行動が原因で、自身の娘カリーナ・ベイカーは情緒が不安定なのだと思い込んでいるようだが、《ユウ》の言う通り、私は、私たちはたった1つの秘密を除けば、いたって正常な人間だ。
両親にも言えない。言っても信じてもらえるか分からないから、尚更言えない。たった1つの秘密。それは。
……カリーナ・ベイカーには、2人の少女の人格が入っているということだ。
*
「…あれ」
強烈な記憶と共に、私は目を開けた。
通常であれば、目の前に見えるのはいつもの通学路か、もしくは16年過ごした自室の天井で、あの強烈な体験はただの夢だったのだと安堵して、何事もなく日常へと戻っているはずだった。
だが、実際私の目の前に広がったのは、そのどちらでもなかった。
目の前に映る景色の色は、黒。ほんの少しの光すらない、真っ黒だった。
目が慣れてくれば何か見えてくるかもしれない。期待を込めて闇に中をジッと見つめてみたが、やはりいつまで経っても何も見えなかった。
……もしかして、ここは地獄か何かだろうか。
そっと心の中で呟くと、私の脳裏に再びあの強烈な記憶が蘇る。
いつも通りの1日。いつもと同じ帰り道。いつもの違ったのは、何故か私の隣に《あの子》がいたことだろうか。




