第十九話 伝えようとすることに意味がある
忍び足でピアノに近づくと、そこは白い光に包まれていた。
黒く大きなグランドピアノに座り、演奏をしている園川さんがいた。園川さんは夢中でピアノを弾いており、僕が近づいたことに気づいていないようだ。
楽しそう、というよりは真剣にピアノを弾いている。
僕には園川さんが奏でるピアノのメロディは聞こえないけれど、柔らかく、そしてスッと綺麗に動く白い手を見ると、素人目で見ても上手なのがわかる。演奏の邪魔をしないよう遠くの離れたところで、椅子を出し、座る。
美しい。
園川さんの演奏する姿は美しかった。この一言では言い表せないが、この一言に尽きる。
黒い制服に身を包み、白い手で奏でている姿は、空を自由に舞う鳥のようだった。
真剣に見つめる。音は聞こえずとも吸い込まれる。彼女が出すメロディは風を起こし、彼女はその風に乗り、高く高く、夜空の星々に向かうようにして空を翔ける。
でも、苦しそうにも見えた。
下唇を噛みながら、必死に鍵盤を叩く。どれだけ高く空を翔けようとも、輝く星には届かない。
それでも、それをわかっていても諦めず、翔け続ける。真っ暗で星以外何も見えない闇の中、たったひとり孤独に耐え、舞う。
翼は疲労し、美しい純白の羽がひとつ、ふたつと地に落ちてゆく。次第に翼の羽はなくなり、闇の中に落ちてゆく。それでも必死に翼を羽ばたかせる姿は、とても虚しく悲しかった。
演奏が終わったようだ。彼女はそっと鍵盤に手を添える。
視界が涙でぼやける。
それでもはっきり見える姿を見て、僕はいてもたってもいられなかった。
僕は椅子から立ち上がり、手を叩いた。瞬間、彼女は体を跳ねらせた。それでも僕は拍手を止めなかった。きっとうるさい拍手だろう。迷惑な観客だ。
聞こえもしないのに勝手に感動して。それでも、伝わってきたのだからしょうがない。
この気持ちを抑えずにはいられなかった。
「―――――」
園川さんが恐る恐る口を開いた。
僕は園川さんのもとに駆け寄り、スマホを出した。
『水瀬です。驚かせてごめんなさい』
スマホの音声を聞き取れたみたいで、園川さんはほっと胸をなでおろす。
『本当にびっくりした! 心臓とまるかと思ったよ……』
『ごめん。つい、感動しちゃって』
そう僕がいうと、園川さんは苦笑する。
『ありがとう。すごい拍手だったもんね。コンサートよりも大きい拍手だったよ』
『コンサートとか出たことあるんだ。すごいね! ピアノのプロになるの?』
『うーん、それはどうだろう。でも、夢はあるんだ』
『夢?』
園川さんは胸に手を当て、強い決意を秘め、話す。
『うん。私みたいに目が見えない人たちに勇気を与えられるような演奏をしたい。それが、私の夢』
真っ直ぐで固い意思を持つ彼女がとても立派に見えた。
まだ若いのに、それだけ強い意思を持って夢を抱く彼女を素直に尊敬した。
『園川さんならきっと叶えられるよ』
『ありがとう……でも、今のままじゃ全然ダメ。もっといっぱい練習して、勉強しなきゃ夢は叶えられない。――――。』
その後、園川さんは口元で何か言ったみたいだが、でんごんくんは聞き取ってくれなかった。
『そうなのかな。コンサート出るくらいだからもうプロみたいなものだと思うけど』
『ううん。それに、コンサートに出ていたのは私が小学校に入る前、まだ目が見えていたときだから』
『そう、なんだ。……ごめん』
てっきり園川さんも生まれつき目が見えていないのだと思っていたが、そうではないみたいだ。余計なことをいってしまった。僕は目元を拭い、鼻水をすする。
『ううん、気にしないで。というか、水瀬くん、泣いてるの? 何か嫌なことでもあった?』
園川さんはピアノの椅子から立ち上がり、手探りで僕の肩に触れる。僕は顔を真っ赤にしながら否定する。
『いや、そういうわけじゃないんだ! なんていうか、園川さんの演奏で感動しちゃって』
『感動って、大げさだなー。……でも、ありがとう』
彼女も僕が演奏を聞こえていないことは知っている。それでも彼女は心から笑い、喜んでいたと思う。
『また、ピアノ弾いてくれると嬉しいな』
『いいよ。水瀬くんのためだったらいくらでも弾いてあげるよ』
園川さんは空でピアノを弾くジェスチャーをする。見えなくても、彼女は夜空の星をめがけ羽ばたく。聞こえなくても、僕は彼女の想いを聴く。
見えない、聞こえないなんてことは関係ないんだ。人が何かを思い、一生懸命になれば、伝わる。
たとえ聴くことも見ることもできなくても、伝わるんだ。必死に伝えようとすることに意味があるんだ。虚しく、悲しくとも、その一生懸命さは感動に変わる。
何も恥ずかしがることなんてないんだ。彼女の一生懸命に翼を動かす姿に僕は動かされた。彼女が前に進むなら、僕も前に進みたい。
『ありがとう、園川さん。僕も前に進もうと思う』
『うん』
『手術。目の手術をするんだよね』
彼女は一瞬、ためらったのち、ゆっくりと口を開く。
『……うん。そのために、この学校に転校してきたから』
『そうだったんだ』
たしかにこの瞭綜学園の近くには瞭綜大学付属病院がある。そこは全国でもトップレベルの病院で、よくニュースでも目にする。
『はじめは勇気がなかったんだ。目が見えるようになりたい。でも、怖かった。失敗したら、可能性は低いけど、光明も感じられなくなるから』
『……そんな』
彼女は続ける。
『でも、水瀬くんのおかげで勇気出たんだ。やってみたらどうにかなる! そう思えるようになったのは、水瀬くんがパフェを一緒に食べに行ってくれたから。怖くて、不安だらけだったけど、私には水瀬くんがいるって、そう思ったら、怖くても前に進めた。だから、また、頼ってもいいかな』
園川さんの手は震えていた。園川さんは明るく、白黒はっきりして、前向きで完璧な人だけど、中身は、普通の女の子だ。
『僕にできることがあったらなんでもするよ』
僕は彼女に手を伸ばし、震えをとめるよう包み込んだ。彼女の手はとても冷たく、細い。
『……ありがとう、水瀬くん』
『大丈夫だよ』
園川さんは俯く。
『やっぱり、怖いよ。私、ほんとダメ』
こういうときほど、耳が聞こえたらよかったと自分を呪う。園川さんの声を聴き、理解したい。彼女の声が届かないかぎり、僕は彼女の心を見ることができない。
でも、聞こえなくてもわかる。僕はいま、彼女の背中を押さなければならないということぐらい。
『手術はいつあるの?』
彼女は俯いたまま、口を開く。
『…………まだ、いつとかは決めてない』
『そっか。それじゃあ、今週末でかけよう』
『え?』
彼女は顔を上げる。
『気持ちの問題は、自分ひとりじゃどうにもならない。だから、気晴らしにさ』
僕は笑顔を園川さんに向ける。彼女には見えないけど、思いを伝えようとすることに意味がないことなんてない。僕が突拍子のない提案をすると、彼女はしばらく固まり、そして笑った。
『唐突だね』
『僕にできるのはそれぐらいだし、ちょうど連れていきたいところがあったんだ』
僕は笑顔のままいう。
『嬉しいよ。元気づけてくれようとしてくれるんでしょ?』
園川さんは笑いながら言う。
『ただ僕が園川さんと一緒にいたいだけだよ』
思ったことをそのままいう。すると、園川さんは顔を隠し、後ずさる。
『やっぱり水瀬くんは遊び人だね』
『なんで⁉︎』
園川さんは顔から手を離す。顔が少し紅潮している。
『私も、水瀬くんと一緒にいたい』
『……ありがとう』
顔が火照っている。僕は必死に平静を装う。
『そ、それじゃ! またね!』
僕が何かを言う前に園川さんは素早い足取りで音楽室を後にしてしまった。僕は広い音楽室でひとりになる。
園川さんの言葉が何度も脳裏でよみがえる。鼓動が早まり、胸に手を当てると、今にも破裂しそうなほど脈打つ。深呼吸をする。
僕は音楽室を後にした。
東先生のおかげで無事、園川さんを誘うことができた。あの人には本当に助けられている。僕が誘うのに躊躇しているのを見ただけでわかったのだろうか。だとしたら、本当に大した観察眼だ。
でも、それじゃあ、あの〈転科願〉はいったいなんだったんだ。
僕は園川さんを誘えたことと、彼女に言われた台詞に興奮が冷めなかった。
それ以上深くは考えなかった。考えたくなかった。




