第十話
夏の暑さが盛りを迎える頃、イングリッドと男爵令息が婚約間近との噂がまことしやかに流れた。
噂の真偽を確かめるため、エミールはイングリッドとの面会を求めたが、彼女が応じることはなかった。
エミールは焦っていた。
どれもこれも、アデルのせいだ。
アデルとの婚約を破棄すれば、全ては上手くいく。
エミールの空回りする頭の中では、アデルが全て悪いことになっていた。
「アデル嬢との婚約を破棄することなど、できるわけがない」
「父上っ! 父上は、私がイングリッドを失ってもいいとおっしゃるのですか⁉」
息子の言葉にうんざりした表情を浮かべたカルローニ伯爵は呆れた様子で言う。
「そもそも、イングリッド嬢がお前のものであったときなど無かったではないか」
「なんてことをっ!」
「エミール? エミール⁉」
聞く耳を持たない息子は怒り狂った様子で、呼び止める父の声にも応えず、そのまま屋敷を出て行った。
カルローニ伯爵はため息をひとつ吐き、執務室で重要な書類仕事にとりかかった。
エミールは屋敷を出たその足で、キャラハン伯爵家を訪れた。
先触れもなく訪れたエミールを訝しく思いながらも、アデルの父であるキャラハン伯爵は彼を応接室に通した。
椅子に腰を下ろしたキャラハン伯爵の横には、アデルの姿があった。
彼女は赤いドレスのすそを優雅に広げて椅子に座っている。
エミールは椅子を勧められても座ることなく、イライラして落ち着かない様子を見せていた。
突然の訪問にも関わらず、アーとかウーとか唸ってばかりで本題へ入らないエミールに、焦れたキャラハン伯爵は水を向けた。
「本日はどのような用件で?」
「婚約を破棄するっ!」
そして口を開いたかと思えば、婚約破棄すると大声でわめきたて始めた。
「こんな地味な女と結婚するのは嫌です。婚約を破棄しますっ!」
「はぁ?」
キャラハン伯爵は目と口を極限まで開いてエミールを凝視した。
「……理由は?」
「アデル嬢が地味だからです!」
それのどこが婚約破棄の理由に? と疑問に思うキャラハン伯爵を置き去りにして、エミールはギャーギャーまくし立てている。
「このままではイングリッドが他の男と婚約してしまうっ」
エミールの様子は、普通ではなかった。
キャラハン伯爵は考えた。
カルローニ伯爵家と縁を結ぶことは、両家にとってためになる話だったはずだ。
だがそれは、跡取りがまともな男だった時の話である。
今目の前にいる男とアデルを結婚させて、キャラハン伯爵家に利はあるだろうか?
この男と結婚させるよりも、婚約破棄の方が良いのではないだろうか?
「アデル嬢との婚約を破棄するっ!」
「分かりました。では、婚約を破棄しましょう」
キャラハン伯爵は商人の顔になり、にっこりと笑ってエミールの提案を受け入れた。
アデルは父の隣で大きな目をすがめ、父と元がついた婚約者とを見比べていた。




