(五)
時刻はまもなく19時半になろうとしていた。すでに事務所内に功太と多喜さんの姿はない。
「少々甘く見ていました。かえぴょんさんがあんなにも膨大な量の動画をYouTubeに上げているとは思いもしませんでした」
「かえぴょんさんは人気YouTuberでしたから」
かえぴょんさんがYouTubeに上げている動画の中から、かえぴょんさんに恨みを持っていそうな人物をピックアップしていく、という作業は、2人がかりで挑んだにもかかわらず、全体の約70パーセントほどしか終わらなかった。奈津美には話していないが、残りは私が自宅ですべて行うつもりでいる。これ以上遅い時間まで彼女に手伝わせるわけにはいかないからだ。彼女を守る、と約束した以上、そこは絶対に譲れない。
「私、こんなに美味しいハンバーガーを食べるの初めてです」
「私もです。ハンバーガーとはいえ、1つ1500円ほどのものになると、こんなにも美味しいものなんですね」
「えっ? これってそんなに高いんですか? 値段を聞いたら余計に美味しいような気がしてきました」
ハンバーガー好きの功太と多喜さんでも、さすがにあの量は食べ切れなかったようで、事務所の冷蔵庫にはたくさんのハンバーガーが入れられていた。私と奈津美はそれをレンジで温め、今こうして食べている。値段を知った途端にスマホでハンバーガーの写真を撮りはじめた奈津美。さすがは今時の女子高生である。
奈津美は昨日、高校の卒業式だったそうだ。だから厳密に言えば彼女はもう高校生ではない。春からは短大に進学するのだという。
「食べ終わったら、今日はもう上がっていいですよ」
「はい、分かりました。惣さんはまだお帰りにならないんですか?」
「私も食べ終わったら、今日はもう帰ります。送って差し上げましょうか?」
「いえ、今日は自転車なので大丈夫です。明日は何時頃に来ればいいですかね?」
「私はいつも8時には来ていますので、それ以降でしたらいつでも大丈夫です。功太と多喜さんはいつも9時半くらいに来ていますよ」
「分かりました。それじゃあ明日はとりあえず9時頃に来てみます」
自転車で帰っていった奈津美の姿を見送り、私も自宅へと帰った。
今からやれば昼間の続きを1人で行っても、全て終わらせるのに朝まではかからないだろう。それにいつもなら憂鬱にしか感じない持ち帰り残業も、思いがけず奈津美と知り合いになれた為か、今日は少しも苦に感じることはなかった。自分でも驚くほどの都合の良さである。
私は自宅で仕事をする時にはいつも、アロマキャンドルとカモミールティーを用意する。リラックス効果と、仕事に対する集中力を高めることが目的だ。しかし私はハーブや、匂いの効能など、詳しいことは一切知らない。つまり自分の気に入った匂いを周囲に漂わせることに満足する、似非アロマニストなのである。匂いから受ける感情や印象は人それぞれであり、誰かの意見に左右されるなんて可笑しい。それが私の持論だ。今夜も彼らにほんの少しだけ手助けをしてもらいながら、私は仕事を始めた。
かえぴょんさんは膨大な量の動画をYouTubeに上げていたが、私のときのようにこっそりと誰かを撮影し、何かを検証する、といったような動画はとても数が少なく、動画によって誰かを辱めたりするものや、誰かがかえぴょんさんに恨みを抱くような動画もほとんど見つかることはなかった。しかし全ての動画をチェックすると、少ないながらもかえぴょんさんに恨みを抱いているのではないか、と推測される人物を数名ピックアップすることができた。対象となった動画は16本。つまり対象者は16人見つかった。その中には私や、私のように検証動画を撮られた警察官も含まれるので、それらを排除すると残りは14人。ただしその内の2人に関しては、かえぴょんさんが動画をYouTubeに上げてからすでに3年以上が経過していた。逆恨みとして考えるのならば、少々時間が経ちすぎているようにも感じられる。
「惣さん、こんなところで寝ていたら風邪を引きますよ」優しい声とともに、誰かに体を揺すられ、私は重い瞼をなんとか開く。そこいたのは奈津美であった。
一瞬、状況が掴めずに戸惑ったが、目の前にあるデジタル時計が示している時間を見て、状況を把握することができた。
私は午前3時過ぎに仕事を終え、そのまま眠りについた。睡眠時間は4時間ほど。眠たかったものの、今朝もいつも通りの時間に起きることがきた。そして普段のように8時には出社。まだ誰もいない事務所の中で1人仕事を始めた……つもりであった。だがいつの間にか睡魔に襲われ、眠ってしまっていたようだ。
「もうこんな時間でしたか」時刻はすでに午前9時をまわっていた。
「随分とお疲れのようですね。もし何でしたら、昨日の仕事の続きは、私1人でやりますけど」
「いえ、昨日の仕事ならもう全て終わりました」
「えっ? もしかしてあの後1人で仕事の続きをされたんですか? 言ってもらえれば、私もお手伝いしましたのに」
「だからです。奈津美さんがご無理をなさるといけませんので、言いませんでした。すみません」
「いえ、こちらこそお気を使わせてしまったみたいで、すみませんでした。でも私のことなら、それほどお気になさらなくてもいいですよ」
「そうはいきません。昨日、私は奈津美さんを守ると約束しましたし、それにあなたがお怪我をされたりすると、保険の関係で色々と面倒なのです」もちろん保険云々の話は嘘である。
「そういうことなら分かりました。でも何だか、ごめんなさい」
「こちらこそお節介ですみません。少々面倒な奴だと思って、許してください」
もう春だとはいえ、この時期の朝はまだまだ冷え込む。奈津美はおそらくこの事務所に出社して来てすぐに、私が眠ってしまっていることに気が付き、起こしてくれたのだろう。彼女の頬や鼻、耳などは寒さで赤くなっているようだった。
私は彼女を暖かい場所に座らせ、2人分のカップにコーヒーを注いだ。
「今日は動画からピックアップした、かえぴょんさんに恨みを抱いている可能性がある人のアリバイを調べるんですよね?」
「いいえ。私達ではピックアップした人を探し出すのに、時間がかかりすぎてしまいます。それに、かえぴょんさんの遺体が発見されてすぐに、祖父江さんから私に確認の電話がかかってきたことからも、警察も私たち同様に、かえぴょんさんがYouTubeに上げていた動画の中に犯人がいる、という可能性を考えたのだと思われます。つまり私たちよりも先に、警察はかえぴょんさんの動画を確認し、その中から犯人となっても不思議ではない人物を既にピックアップしている、ということです。もちろん祖父江さんが私のアリバイを確認したように、他の容疑者たちにも既にアリバイを確認していることでしょう。さらに言うのならば、警察がピックアップした人々の中には犯人と思しき人がいなかった。つまり容疑者全員のアリバイが確認された、ということだと思います。だからこそ私に捜査協力の依頼がきたのだと」
「じゃあ動画の中に犯人はいない、と言うことですよね? では惣さんはどうして動画の中に犯人がいない、と知りつつ動画を全て確認したのですか?」
「もちろん本当に動画の中に犯人がいないか、ということを確認するためです。私たちは動画の中から、かえぴょんさんに恨みを抱いている、と思われる人物たちをピックアップしました。もちろん警察の様子から、おそらく私たちがピックアップした人物の中に、怪しい人物はいない、ということはなんとなく分かっていました。ですが何事にも穴や抜け目というものはあります。確認はしすぎて危険はなくとも、しなさすぎて危険なことは往々にあるのです。それに警察が私たちよりも先に動いてくれたおかげで、私たちはピックアップした人達を1人1人探し出し、調べる必要がなくなりました。そろそろ祖父江さんから電話がかかってくる時間です。詳しい話はその時に伺ってみましょう」
「毎朝祖父江さんから、電話がかかってくるんですか?」
「はい。祖父江さんから依頼を受けている間は必ず。私が何か新たな情報を掴んだ場合、捜査会議などで捜査員にその情報を伝え、捜査に役立てる為なのだそうです。祖父江さんは、私が仕事をさぼっていないかを確認することが一番の目的だ、とも言っていますがね」
時刻が9時20分になると、事務所の電話がなった。もちろん祖父江からの電話である。
「ほら、やはり祖父江さんから電話がかかってきましたよ」奈津美にそう告げると、彼女は一瞬考え込むような、なんとも不思議な表情をみせた。
「どうして電話に出るまえから、祖父江さんから電話だと分かるんですか?」もちろん祖父江と約束をしている訳ではない。でもこの電話が祖父江からのものだという根拠ならあった。
「時間です。理由は分かりませんが、祖父江さんはいつも9時20分ぴったりに電話をかけてくるのです」奈津美の問いに答え、鳴り続ける電話の受話器を手に取る。
『よう美少女、俺だ。何か進展はあったか?』
「いいえ。ですが遺体の状況から、犯人はかえぴょんさんがYouTubeに上げていた動画の中に映っている人物の可能性が高く、かえぴょんさんに強い恨みを抱いている人物だと推測されます。ですので、昨日はかえぴょんさんの動画を全てチェックし、恨みを持っていそうな人物をピックアップしました」
『あの量の動画を全て見たのか? ご苦労なこった。だが残念だったな。こっちでもそのセンを考えて動画を全てチェックし、怪しい奴のアリバイを片っ端から調べたが、お前を含め全員にはアリバイがあった』
「確か警察官も映っていたと思いますが、警察官のアリバイも調べたのですか?」
『いや。あれは警察官ではない。おそらく秋山の知り合いだろう。つまりあの動画は秋山のやらせ動画、ということだな』
「なぜそう断言できるのですか?」
『動画をもう一度よく確認してみろ。制服警官がS1Sの赤いバッジを付けているのは不自然すぎるだろう』
「そんなの付けていましたか? でもそれが本当なら確かにおかしいですね。警視庁でもなければ、捜査一課でもない、ましてや制服警官がS1Sのバッジを付けているはずがありませんものね」
『大方刑事ドラマでも見て、警察官が皆着けているものだと勘違いでもしたのだろう。勘違いといえば、お前が自分のアリバイを証言した際に、コンビニの中から警察官を見た、と言っていたが、それもおそらく秋山が用意した撮影用の偽警官だろう。お前の証言を確かめるついでに、近くの防犯カメラ映像を確認してみたところ、動画と同じように赤いバッジを付けた警察官が映っていた。一応所轄に確認してみたが、その時間パトロールはしていなかったそうだ』
「防犯カメラ映像には、動画を撮影しているかえぴょんさんの姿も映っていたのですか?」
『そんな訳はないだろう。その時間では既に秋山は殺されているはずだからな。お前の言いたいことは分かる。秋山が既に殺されている時間にもかかわらず、何故秋山が用意した偽警官がその時間、そこにいる必要があったのか。おそらく秋山の知人である偽警官は、秋山が殺されたことを知らなかった。事前に秋山と撮影の打ち合わせをしていた偽警官は、打合せ通り、何処かから秋山に撮影されていると思いながら、指定の場所をパトロールしてまわった、といったところだろう。まあどちらにしても、今、交友関係を調べているから、偽警官を演じていた奴もそのうち見つかるだろう』
「そうですか……。分かりました。では一応自分でも確認してみますので、この辺りの派出所や駐在所に配属されている警察官の顔写真を送っていただけますか?」
『それくらいお安い御用だ。だがそれにしても、いつもは常にこっちの先を行って、あっという間に犯人を暴き出すお前が、こっちに遅れを取るなんて珍しいな。たいして役に立たなかったら、料金を割り引かせてもらうからな』
「ご心配には及びません。必ず巻き返してみせますから。ところで、そちらはどんな状況ですか?」
『いや。こっちもまだ、進展と言えるようなものは何も挙がってはいない。まあ、だからこそお前に依頼したんだ。今回も期待しているからな』
祖父江との電話を終え、私は簡単に電話の内容を奈津美にも伝えた。奈津美は今後の行動など、色々と私に質問があるようであったが、「少し待ってください」という一言を残し、私が考え込むと、邪魔をしてはいけない、と思ったのか、彼女も静かに何かを考えるような仕草をみせた。私は頭の中に残存する言葉や、イメージなどを紡ぎ、何か脳が処理し切れていない、モヤモヤとしたものを形にしようと、意識を集中させる。
ようやくおぼろげに何かが見えかけたところで、意識を妨げるように、何かの音が私を現実に戻していった。次第にはっきりと聞こえてくる音を聞いていて、私はそれが人の声だということに気付く。それは聞き覚えのある2種類の声。楽しそうに会話をしているようであった。そこまで分かれば、もう目視する必要はない。
「おはようございます」間違いない、これは多喜さんの声だ。
「おはようございます」挨拶を返したのは奈津美の声。
そして挨拶もせずに、私の元に駆け寄って来る足音。これは功太のものだろう。
「惣さん、冷蔵庫の中のハンバーガー食べた? あれすごく美味しかったよ」私を気遣い、声をかけない、という選択肢は功太にはないようだ。だがIQが高いとはいえ、今のように、功太が時折見せる子供らしい姿。私はそれを見ることが結構好きだった。
「ええ、昨日戻ってきてから奈津美さんと一緒に食べましたよ。確かに美味しかったですね」
「美味しかったです」横から奈津美も嬉しそうな顔を浮かべ、功太に答える。
「そうでしょ? だったら今度からハンバーガーは『Rock the shake』だけで買うようにしようよ」
「それは無理です。でも確かに美味しかったので、月1くらいのペースでしたらいいですよ」
「ホントに? やったー。絶対無理だと思ってた」多喜さんとハイタッチで喜ぶ功太。そうとう嬉しかったのか、奈津美にまでハイタッチを求め、奈津美はそれに全力で応じている。微笑ましい光景であった。
「奈津美さん、先程質問された今日の調査についてですが」
「はい」功太たちとふざけあっていた奈津美は返事とともに居住まいを正した。
「昨日も言いましたが、私はかえぴょんさんの動画に映っている人物の中に、犯人がいると考えています。今でもそれは変わりません。しかし祖父江さんの話によると、動画の中にあやしい人物は映っていなかった、ということでした。もちろん未だに身元の分かっていない偽警官が、かえぴょんさんを殺害した、という可能性は否定できません。警察のほうでもそれは分かっているはずです。今はかえぴょんさんの交友関係を調べているようなので、偽警官がかえぴょんさんの知り合いで、尚且つかえぴょんさんを殺害した犯人ならば、すぐに逮捕されることでしょう。では既に警察が動いているにもかかわらず、私たちは何を調査すればいいのか。私は祖父江さんの話には、1つ腑に落ちない、気になる点があります。それは本当にかえぴょんさんと偽警官が知り合いであったのか、ということ。そもそも知り合いだと考えられるようになったのは、動画に映っていた警官が偽者だと判断されたからです。そこから、かえぴょんさんの警察官検証動画はやらせ動画だった、ということが考えられ、ならばかえぴょんさんと偽警官は知り合いであろう、と判断されたわけです。しかし、かえぴょんさんの他の動画を見たり、かえぴょんさんに直接お話を伺ったりした感じでは、かえぴょんさんがやらせ動画を撮影するとはどうしても思えないんですよね」
「私もあの動画がやらせ動画だった、と聞いたときは違和感を覚えました」
「はい。それに私がかえぴょんさんに検証動画を撮られた際にも、かえぴょんさんからやらせを示唆するような言葉は何もありませんでしたし、そもそも事前に何かを言われることすらありませんでした。ですから、あの動画はやらせではなく、かえぴょんさんは町で見かけた警察官を、たまたま検証相手として選んだに過ぎなかったのではないでしょうか。しかしその警察官は偶然にも偽警官だった」
「でもそうだとしたら、偽警官はどうして警察官の服を着て町を彷徨っていたんですか?」
「かえぴょんさんが動画に撮った偽警官、そして私が見た警官。最低でも2回は偽警官が現れたことになります。理由は分かりませんが、彼らは警察官という特殊な職業に扮し、コスプレイヤーなどとは違い、本物に成りすまし町を彷徨っていることから、何か目的があったことは間違いないでしょう。例えば、警察官の服装で相手を安心させ、強盗や詐欺などの犯罪を行っている、とか、日頃の鬱憤を晴らすために警察官になりきり横柄な態度をとって回っている、とか、自衛団気取りで警察の真似事をしている、などと色々と想像することはできます。もし私の予想通りかえぴょんさんと偽警官が知り合いでなかったとするならば、偽警官はかえぴょんさんが撮った動画により、何か気に食わないことや、不都合などがあったのでしょう。この場合は、動画によって恥をかかされた、とか、自衛団の存在を浮き彫りにされてしまった、とか、偽警官の犯罪の証拠を偶然かえぴょんさんが撮影してしまった、といったようなことが考えられます。もちろん、犯罪の証拠を偶然撮影してしまったかえぴょんさんが偽警官を強請っていた、といったセンなど、他にも色々と考えられるでしょう。まあ、かえぴょんさんはお金には困ってはいないようだったので、強請っていた、というセンは考えにくいですがね。とにかく警察と同じことをしていても埒が明きません。私たちは私たちの見解で調査をしていきましょう」
「はい。ですが、かえぴょんさんと偽警官が知り合いでないことを、どうやって証明するんですか?」
「奈津美さんもご存知かもしれませんが、この辺りの交番は都内などとは違い、警察官が24時間常駐しているということはまずありません。所謂『空き交番』、という奴ですね。人手不足により夜間は無人となり、警察電話と呼ばれる警察署への直通電話で不在の時間を対応しています。つまり夜間、この辺りを警察官が自転車でパトロールする、ということは余程の大きな事件でもない限りありえないのです。もちろん警察署の警官がパトロールすることはあるでしょうが、それはパトカーでのものです。よって夜間に自転車でパトロールする警察官が短い間に2回も目撃される、ということは些か多すぎるように感じます。ですから今日は、夜間に自転車でパトロールしている警察官の目撃情報を集めてまわり、その頻度や、様子などを探ってみることから始めたいと思います」
「夜に自転車でパトロールしている警察官なら、私もよく見ますよ」
「本当ですか? 何時頃に見たか覚えていますか?」
「はい。バイトの帰りによく見かけるので、22時から22時半までの間だと思います」
「その警察官の服装や様子などで気になることはありませんでしたか?」
「いえ、私が見た限りでは普通のおまわりさんでした。まあ見た限りとは言っても、私、おまわりさんを見ると、何も悪いことをしていないのにいつも目を逸らしてしまうので。だから私の意見はあまり参考にならないかもしれません」
「そんなことはありません。それに警察官を見て、目を逸らしてしまう人って結構多いんですよ」
「何だか、何かを見透かされるようで怖いんですよね」
「それでは奈津美さんにはコンビニで一緒に働いていた人達に、夜間自転車でパトロールしている警察官を最近見かけたことがあるか、ということを確認してもらいたいと思うのですが。大丈夫ですか? バイトを辞めたばかりで、気まずいようでしたら私がやりますが」
「いいえ、大丈夫です。円満退職でしたから」親指と人さし指で輪を作り、にこりと笑う奈津美。今日も彼女の美しさは健在のようだ。
私と奈津美が仕事の打ち合わせを始めたことに気が付いたのか、功太と多喜さんはすでに各々仕事を始めていた。功太は自分のデスクに座り、何やらパソコンで作業を、多喜さんは雑巾を片手に、事務所内を掃除してまわっている。
奈津美は私との打ち合わせを終えると、手持ち無沙汰からかスマホを取り出し、何かを始めた。おそらくSNSなどをチェックしているのだろう。見た目は大人びてはいるが、こうした姿を見ていると、改めて奈津美が高校を卒業はしたばかりの今時の女の子だということを実感する。
私は自分のデスクに座ったまま、目の前のパソコンを起動させた。かえぴょんさんの動画に映っている警察官の胸に、S1Sの赤いバッジが付いていた、という祖父江の証言を確認するためだ。
動画を確認すると、確かに動画に映っている警察官の胸には赤いバッジが付けられていた。だが赤い、ということは確認することができるが、S1Sのバッジかどうかは距離と画質の問題で確認が出来なかった。おそらく警察官が胸に赤いバッジを付けている、ということから、捜査員は赤いバッジがS1Sのバッジだと判断したのだろう。本物に見せようとしている偽警官が、警察に関係のない、無駄に目立つ赤いバッジを付けているはずがない、という先入観。だが思い込みは人の判断を狂わせる。バッジがS1Sのバッジだと断定するのは早計だろう。
私は奈津美にはコンビニで一緒に働いていた人達に聞き込みをしてもらい、自分は通り沿いの店を一軒一軒まわって聞き込みをする、と言う予定を立てた。13時になったら2人とも一旦事務所へと戻り、昼食及び、聞き込みの報告と午後の打ち合わせを行う、ということも奈津美とは約束をした。
時刻が10時になったことを確認し、私は奈津美に声をかける。
「奈津美さん、そろそろ聞き込みに行きましょうか」
「あの、私は一緒に働いていた人達に、夜間自転車でパトロールをしている警察官を見たことがあるか、ということと、見たことがあった場合、その警察官がどんな様子であったか、ということを聞けばいいんですよね?」
「はい。お願いします」
「それなら、もう終わってしまったんですけど、あとは何をすればいいでしょうか?」
「はい?」
「LINEのグループに登録してあるので、もう全員に聞き終わっちゃったんですけど」
「もう終わったんですか?」正直すごく驚いた。知らず知らずのうちに、彼女を侮っていた自分の浅はかさを認めない訳にはいかなかった。私にとって聞き込みとは、自分の足を使い、存在しないものについて聞きまわるような、地道な作業であった。果てのないような道を進む、苦行のようなもの。だが彼女はそれをLINEという今時のツールを使い、あっという間にこなしてみせた。私はてっきり彼女は暇をもてあまし、スマホをいじっているだけだと考えていた。まさか直ぐに行動を起こし、作業に取り掛かっているとは夢にも思ってはいなかった。
「では、もう結果も分かったのですか?」
「はい。店長と店長の奥さんを含めて、今働いているのは全部で7人なんですけど、その内の5人が、夜間に自転車でパトロールをしている警察官の姿を最近見たことがあるそうです。店長は話したこともあるそうで、すごく真面目な感じの、優しい人だったと言っていました。残りの4人は全員、警察官と話したこともなく、警察官にも特に変わった様子は見られなかったと言っています。ただ噂話としてですが、髑髏のバッジを付けた警察官には気をつけろ、という話を聞いたことがある、という人もいました」
「気をつけろ、とは具体的にどういったことか分かりますか?」
「逆らったら暴力を振るわれた、とか、殺された人や消された人がいる、とか、とにかく店長の話とは間逆の怖い話ばかりでした」
奈津美が調べたところによると、夜間に自転車でパトロールをしている警察官が頻繁に目撃されていることは確かなようである。これでかえぴょんさんと偽警察官が知り合いである、という可能性はだいぶ低くなった。だが優しい警察官と、暴力を振るうという警察官。そして暴力を振るうという警察官が身に付けているという髑髏のバッジ。S1Sのバッジだと思われている赤いバッジがそれなのであろうか。奈津美のおかげでだいぶ情報は集まったが、まだ分からないことが多すぎる。
「そうですか、分かりました」
「では、私はこれから何をすればいいですか?」
「そうですね……。奈津美さんの高校時代の同級生に所謂ヤンキーというか、やんちゃな男の子たちはいませんでしたか?」
「いえ、私は女子高だったので。でも中学の頃は、やんちゃというのかどうかは分かりませんが、素行の悪い男子や、恐い感じの男子は何人かいました。でも私の友達ではありませんでしたし、そういう人達とは話をしたこともなかったので、詳しいことは分かりません」
「お友達の中で、今もその子達と連絡をとれそうな人はいませんか? 出来ればその子たちから話を伺いたいのですが」
「連絡先を知っているかどうかは聞いてみないと分かりませんが、知っていそうな人なら何人か思い当たります」
「では奈津美さんには連絡先を知っている人を探し出して、やんちゃな同級生の方々と午後にでも会えるようアポイントを取り付けていただきたいと思うのですが、宜しいですか?」
「はい。やってみます。あとは何をすればいいですか?」
「時間が余るようでしたら、スーパーカマタギの反対側にある鳩峰公園で、夜間に自転車でパトロールをしている警察官について、聞き込みをしてきていただけますか? 子供連れの若いお母さんたちが、たくさんいると思いますので」
「分かりました」奈津美はすぐさま再びスマホを手にすると、何処かに電話をかけ始めた。早速作業に取り掛かったのだろう。
「功太は引き続きサイトの確認をお願いします」
「うん。分かった」
私は電話で話す奈津美の声を聞きながら、多喜さんに行ってきます、と声をかけ、事務所をあとにした。