(一)
1本のつり輪に身を預け、次々と視界に入っては消えていく、オレンジ色の世界をただ眺めていた。
夕陽に染められたありふれた景色。正直こんなものに郷愁感や暖かい温もりのようなものを抱くとは思ってもみなかった。
そもそも電車に乗ること自体何年ぶりのことだろう。学生時代には通学やアルバイト、友達と遊んだりと、毎日のように電車を利用していた。しかし、それが歳を重ねるにつれ少しずつ減っていき、いつの頃からか移動手段から電車という選択肢が消えていた。もちろん理由は分かっている。免許をとり、車を運転するようになったこと。電車を利用せずとも通える距離に仕事場があること。ショッピングモールが出来たことにより、自宅周辺が栄え、わざわざ遠出をしなくとも用事が全て済むようになったこと。そして何より私には現在友達と呼べる人間が1人もいないことも大きかった。
久しぶりに車窓から見る景色。それらには懐かしいながらも、所々に数年ぶりの変化を感じることができ、思いのほか電車での15分という移動時間は苦には感じられなかった。依頼人に電車で来ることを指定された時には、正直面倒くさい、という感情しか抱かなかったが、たまにはこんな風にいつもと違う交通手段や、いつもと違う道を通る、といったことも悪くはないようだ。
座席はほぼ人で埋まってはいるものの、まだ帰宅ラッシュが始まるのには幾分か時間が早いこともあり、比較的車内は空いていた。乗客にはサラリーマン風の男性も見受けられるが、高齢者や赤ちゃんを抱っこした若いお母さん、学校帰りと思われる女子高生のグループ、目を閉じ携帯プレイヤーで音楽を聴いている大学生風の男性、といった具合に、平日の昼間のような客層が、今も圧倒的に車内を占めていた。
全身に伝わるガタン、ゴトン、という心地の良いリズム、友達の失敗談で盛り上がる女子高生たちが手を叩きながら笑いあう声、それらが癒しのような安らぎを与えてくれる。私は少しだけ口角を上げると、その場の空気感を味わうべく、静かに目を閉じた。
程なくして電車は1つ目の停車駅に止まった。この駅は通勤、通学の時間帯には乗降客が非常に多い。ホームは常に人で溢れている、というイメージがある。しかし、この時間帯ではこの駅でも利用客は少ないようで、この車両から降りる人は1人もおらず、新たにこの駅から乗ってきた乗客も3人のみであった。
何気なく新たに乗ってきた乗客に視線を向ける。すると、その乗客のむこう、この車両の後方で吊革に掴まりスマホを操作している、ある人物の姿が目にとまった。
色白で背が高く、モデルのようなスタイル。そして何よりも完璧なまでに整った端正な顔立ち。所謂絶世の美少女というやつだ。
彼女の名前は長嶋奈津美。今は私服のようだが、赤咲女子高校に通う学生で、うちの事務所の近くのコンビニで、毎週土曜日と日曜日にアルバイトをしている女の子だ。
そのコンビニは私が毎日のように通っているコンビニなので、彼女も私のことをいつも来る客だ、というくらいには認識しているかもしれない。だが彼女とはいらっしゃいませ、ありがとうございました、などという店員と客としての会話以外は一切交わしたことがなかった。つまり私と彼女とは知り合いでもなければ、ろくに話したこともないのだ。
私が彼女のことを初めて見たのもやはりそのコンビニでのことであった。彼女の圧倒的な美しさに一瞬で目を奪われ、感動さえ覚えた。彼女の名前は胸に付けられたネームプレートと、レシートに印字された名前で確認することが出来た。それからはコンビニで彼女を見かけるだけで嬉しかったし、幸せな気持ちにもなれた。
だが私は彼女に恋愛感情を抱いている訳ではない。私ははじめ彼女のことを、大人びた見た目から、20歳くらいの大学生だと思っていた。そうなると彼女とは歳が5つ以上離れていることになるし、そもそも端から付き合いたい、などという感情すら抱くことはなかった。
ただ綺麗な花を見るように、彼女の姿を見られるだけで幸せだった。彼女の恋愛や夢を蔭ながら応援したい、とさえ思った。だからといって、何か行動を起こすつもりはないし、ストーカーのように彼女のことを調べたり、追いまわしたりするつもりもない。
彼女が赤咲女子高校の学生だと知ったのも偶然のことだった。うちの事務所のスタッフに買い出しに行かされ、近くのファストフード店に車で向かった時、偶然にも制服姿の彼女の姿を見かけたのだ。赤咲女子高校の制服は特徴的な大きなリボンがポイントとなっており、彼女が赤咲女子高校の生徒だということはすぐに分かった。大学生だと思い込んでいただけに、制服姿の彼女を見た時は目を疑ったほどだ。そして彼女と共にいた母親らしき女性の美しさにも、彼女の母親ならば、と納得することができた。
もちろんいくら私だって、彼女へのこの思いが傍から見れば気持ちの悪いことだ、ということくらいは理解している。だからこそ、これまで誰にも彼女への思いを話したことはなかったし、これからも誰にも話すつもりはない。
彼女に幸せでいて欲しい、ただ私はそう願っていた。
久しぶりの電車内という空間、奈津美の存在、それらによって電車での移動時間は私にとって最高のものとなった。しかし幸せな時間というものはそう長くは続かない。
電車はあっという間に、目的の駅へと到着した。私は最後にもう一度彼女の姿を見ておこうと思い、彼女に視線を向ける。すると彼女も私と同じ駅で降りるのか、スマホを鞄にしまい込んでいるところであった。私はその姿を確認すると、早足で車両後方に移動をはじめる。出口付近で彼女に接近し、顔を少しでも近くで見たかったからだ。もちろん話しかけるつもりなどはない。出口付近でタイミング良く一緒になるように歩幅を調整した。
彼女の動きに合わせ、電車の出口付近に近付く。自分でも驚くほど自然に彼女と並び、電車のドアが開く瞬間を共に待つことができた。さりげなく彼女の顔を見ようと視線を送ると、私は心臓が飛び出るほどの衝撃を受けた。なんと彼女がこちらに視線を向けていたのだ。つまり私と彼女は目が合っていた。彼女の目に吸い込まれるのではないか、というほどの一瞬のドキドキ。しかし彼女は何事もなかったかのように、私にぺこりと頭を下げた。いつもコンビニに買い物に来る客だと気付いたのであろう。私は戸惑いながらも、落ち着いた自分を演出し、彼女に対し会釈を返した、と同時に開くドア。名残惜しげに見送る私の視線をよそに、彼女はすたすたと電車を降りて行った。
私は気持ちを切り替え、依頼人の家に向かう為、秋立公園口の改札を目指した。しばらくすると、あることに気がつく。私の少し先を常に奈津美が歩いていたのだ。改札が何か所もあるターミナル駅にも関わらず、彼女も秋立公園口の改札を目指しているのだろうか。これでは私が彼女のあとを付けているみたいだ。それこそストーカーだと思われてしまう。私は彼女に気付かれまいと、距離をとるため、意識的に歩くスピードを落とした。
秋立公園口の改札を抜け階段に差し掛かると、ちょうど階段を降り切った奈津美の姿が見えた。これくらい離れていればもう心配はいらないだろう。
依頼人と約束をした時間まではまだ1時間以上ある。どこかの喫茶店にでも入って、時間までゆっくりしよう、と考えた。ちなみに私がゆっくりしたいのは喫茶店であり、カフェではない。今流行りのカフェというやつでは、どうも落ち着くことが出来ないのだ。私は10年ほど前、学生時代に通っていた喫茶店を目指すことにした。無くなっていなければいいのだが。
駅前にある商店街のアーケードを抜け、華やかな店舗が立ち並ぶ大通りに出る。目指す喫茶店はこの通りに面した、大型書店の地下にあったはずだ。
次第に近付いてくる見覚えのある看板を見て安堵していると、不意に誰かに追い抜かれた。私を追い抜いた相手は、大型書店から出てきた1人の男性の元に急いで駆け寄ると、彼に何かを懇願しているように見えた。
「かえぴょんさんですよね? 私ファンなんです。頑張ってください。いつも応援しています。この間の公園のシーソーでジャンプするやつも面白かったです」
何であろうか? 必死に話しかける女性とは対照的に、話しかけられた男性はいささか迷惑そうな態度を見せ、女性を拒否しているかのようにも見える。
「あっ、ありがとうございます」恥ずかしそうに周りを気にしつつ、控え目に答える男性。
「良かったら写真とか、サインとかお願い出来ますか?」
「ごめんなさい。今急いでいるんで」男性は早々に彼女をあしらい去って行った。
男性は私と同じ20代後半と思われるが、何故か彼は詰襟の学ランを着ており、決してイケ面と言えるような部類の人間でもなかった。芸能人だろうか。だが俳優のようなオーラも感じられないし、どちらかと言うと、所謂オタクと言われる、一般の人が近付きがたいオーラを彼は放っていた。私の知らない人気のお笑い芸人か何かだろうか。
傍から見ると、あしらわれたように見えた女性であったが、彼女は彼女で、好きな相手が見られたことで満足なのか、興奮冷めやらず、といった感じで、幸せそうな様子を見せていた。そして何事もなかったかのように大通りの向こう側に渡ると、早速今の出来事をSNSにでもあげているのか、歩きながらスマホを操作し、そのまま人込みの中に消えていった。
彼女は奈津美であった。
彼女のプライベートが垣間見れたことは嬉しかったものの、探偵という職業がそうさせるのか、私はむしろ20代後半で学ランを着ている彼の正体の方に興味を持っていた。もちろん興味と言っても、恋心的な気持ちの悪いものではない。私の中にはそういった趣味も思考も存在してはいない。ただ純粋に彼が何者なのかを知りたかったのだ。
奈津美がファンだと言っていたことや、サインを求めたことからも、彼が芸能人や有名人だ、という可能性は高い。確か彼女は彼のことを『かえぴょんさん』と呼んでいた。ならば、あの学ランは彼の衣装ということになるのだろうか。いや、だとしてもテレビのロケ中でもないのに、芸能人が衣装のまま街中を歩きまわっているのは不自然すぎる。
どう考えても彼が何者なのかは分からなかった。
何事もなかったように、どんどん歩いて行ってしまう彼。私は彼の背中を気がつくと追いかけていた。だが問題はおそらくこのまま尾行しているだけでは、彼の正体が分かることはないだろう、ということ。私は彼と距離をとりつつ、スーツのポケットからスマホを取り出すと、見なれた番号に電話をかけた。
『はい。加賀探偵事務所でございます』
「多喜さん。私です」
『あっ、惣さん、どうなされましたか?』
「今事務所に功太いますか? いたら代わって欲しいんですが」
『はい。いらっしゃいますよ。功ちゃん、惣さんからお電話ですよ』
電話に出た彼女は汐留多喜。御年82歳のウチの探偵事務所の事務員だ。功太というのは、榊原功太。12歳にしてスタンフォード大学を飛び級で卒業した秀才で、ウチの探偵補佐兼、経理だ。留学経験があるだけあって英語とフランス語は堪能である。
『もしもし、なに?』
「功太、あなたテレビ好きですよね? 私と同じくらいの歳で、かえぴょん、って呼ばれている、詰襟の学ランを着ている芸能人とか、芸人とかを知りませんか?」
『何それ? そんなダサい人、知らないよ』
「あなたでも知りませんか。分かりました。ありがとう」
テレビ好きな功太が知らない、となると、これはかなりの難題なのかもしれない。
しばらくすると、男性は突然立ち止まった。目的の場所に着いたというよりは、道の端、店舗と店舗を繋ぐ壁に寄りかかり、スマホで何か作業をしているように見えた。
彼の様子を確認し、私も少し離れた場所で立ち止まる。彼が直ぐに動き出しそうにもなかったので、再びポケットからスマホを取り出すと、ネットで彼のことを調べてみた。しかし検索フォームに『芸能人 学ラン』『芸人 学ラン』『有名人 学ラン』などと入力してみたものの、彼のものと思われる写真や情報は一切なかった。
ふと彼に視線を戻すと、先程の場所から彼の姿が消えていた。見失ってしまったのかと思い、一瞬焦ったものの、彼の姿は直ぐに見付けることが出来た。彼は先程までは被っていなかった学帽を身につけ、どこかの店に入っていくところであった。
ここからでは様々な店舗の電飾が邪魔をし、彼がどの店に入ったのかが分からない。しかし位置関係や看板から推測することは出来た。おそらく全国チェーンで有名な牛丼店に彼は入店したのだろう。
しかし、牛丼店の前まで行ったところで、私はその目を疑った。店内に彼の姿がなかったのだ。となると、彼が訪れたと思われる店は、牛丼店の隣の店。華やかな電飾に『玉金浦島太郎』という店名の書かれた、個室ビデオ店であった。私は個室ビデオ店、というものには入店したことがなかったが、その形態は多少理解している。レンタル店のような豊富に揃えられたアダルトDVDの中から好きなものを選んで、防音設備の整った個室でそれを見る、というもの。はっきりと店側は主張していないものの、DVDを貸してくれ、所謂自慰行為を行う為の個室を貸してくれる店、というやつだ。店の看板にはシャワールーム完備、などとも書かれている。
彼は本当に芸能人なのであろうか。芸能人がこんな時間に人目を憚らず、こういった店に出入りする、ということは考えにくいのだが。
人の趣味についてとやかく言うつもりはないが、彼の一体どこに、奈津美をあれだけ引き付ける魅力があるのだろう。もちろん一面だけを見て人を判断する、ということには問題があるのは分かっている。だが彼の正体が分からない今、それだけが不思議で仕方がなかった。
実は彼は売れていない芸人で、仕事がない日は生活の為に、こうした店で割のいいアルバイトをしている、という可能性だってある。真実が分かるまでは彼を穿った見方で見ることはやめておこう。
現時点で確実に言えることは、彼が客側の人間だったとしても、店側の人間だったとしても、直ぐに店から出てくることはないだろう、ということ。ならば多少残念ではあるが、このあと依頼人との約束がある私には、これ以上彼を調べることはできない。
依頼人の家はここから近く。今更あの喫茶店に戻る、ということも忙しない。仕方なく私は目の前にある牛丼店に入り、約束の時間までのひと時を消費することにした。
牛丼店やラーメン店というものは、客の回転率が異常なまでに早い。品物は注文すれば直ぐに出てくるし、客はなぜかそれを忙しなく食べ、食べ終わるとすぐに店を出る。決められたルールではないものの、それがサイクルとして出来上がっており、誰もが牛丼店やラーメン店はそういうものだと理解している。
牛丼の並盛に生卵を乗せ食べた私であったが、私もご多分にもれず入店してから10分足らずで店を出てしまった。やはり牛丼店では腹は膨れても、時間はあまり消費できないようだ。しかし店内にいたうちに、外はすっかりと陽が沈み、まるで闇が電飾の輝きを引き立てようとしているかのように、街をすっぽりと覆っていた。
依頼人との約束の時間まではあと20分ほどある。もはや時間的に喫茶店に行く、という選択肢は選べない。だが缶コーヒーでも飲みながらゆっくりと向かえば、依頼人の家にそれほど早く着く、ということもないだろう。
個室ビデオ店の入り口横に設置されている自動販売機に小銭を投入し、缶コーヒーのボタンを押した。ガタン、という音を立てて出てきた缶コーヒー。それを取り出そうと腰をかがめると、自動ドアの開く音が聞こえた。個室ビデオ店から誰かが出てきたようだ。反射的に音が聞こえたほうに目を向けると、そこには学ランを着た先程の男性が立っていた。
正直目を疑った。なぜ彼がこんなにも早く店から出てきたのだろう。やはり彼は客ではなかったのだろうか。だとしたら彼は一体何者なのだ。もはや私には再び彼を追いまわしている時間はない。今を逃せば、おそらくもう彼の正体を知る機会はないだろう。
私は意を決すると、最後の手段に出る為、彼に直接声をかけた。
「あの、すみません」
「はい?」突然話しかけられたこともあるだろうが、明らかに彼は私を警戒しているように見えた。
「少し前に、あなたが女の子にファンだと言われている姿を目撃したのですが、失礼を承知でお聞きします。あなたは何をされている方なのですか?」
「あなたこそ、どなたなんですか?」依然警戒心を解いていない様子の彼は質問を返してきた。
「すみません。申し遅れました。私はこういうものです」私は名刺入れから名刺を1枚取り出すと、それを彼に差し出した。
「探偵さん? 誰かに私のことを調べるように依頼された、ということですか?」
「いえ、そういった訳ではなく、ただ私の個人的な好奇心です。女の子にファンだ、と言われていたので、あなたが芸能人や有名人なのかと思いまして……」
「それにしてはテレビで顔も見たことないし、こいつは一体何者なんだ? て思ったってことですか?」
「恐縮ですが、そう言われてしまうと、まさにその通りです」
するとやっと警戒を解いたのか、彼は楽しそうに笑い声をあげた。
「探偵の方にお会いするのは初めてですが、探偵さんって特殊な仕事だけあって面白いことを考えるものなんですね」
「いや、探偵全般がそうというよりは、むしろ私だけが変わっているのかも知れません」
「私は『かえぴょん』という名前でYouTubeに動画を投稿しています。所謂YouTuberというやつです」
「YouTuber、たしか動画の再生回数による広告収入で生活している人のことですよね。実際、それだけで生活が出来るものなのですか?」
「人にもよりますが、私の場合は月9百万くらいの収入になります」
「月9百万? 年収でもなくて? 単位はもちろん円ですよね?」
「はい。日本人でもトップの人達になると、月8千万くらいは稼いでいますよ」
「本当ですか? 聞いているだけでも普通に働くのがばかばかしくなってきますね」
「でも傍から見ると楽チンに見えるかもしれませんが、これが結構大変なんですよ。再生回数を維持し続けなければなりませんからね。まだ未編集ですが、ちょっと見てみますか?」彼はそう言うと、自分のスマホを操作し、画面を私に見せた。
どうやら動画はこの個室ビデオ店の店内で撮られたもののようだった。学ランを着た彼が山形弁のような訛りのある方言で店員と会話をしたり、店内でドタバタと様々なリアクションを見せている。所謂面白動画と言われるものもようだ。スマホを店員に見付からないようにさりげなく置いたり、手に持ったりしながら巧みに撮影されている。
「これは今、この店の店内で撮ったばかりの動画です。僕は大学受験に何回も失敗している山形から来たばかりの真面目な人を演じていて、この人は女性経験もなければ、女性の裸すら見たことがない、今どきあり得ないような青年の設定です。女性とろくに話したこともなければ、女性と目が合うだけで赤面してしまうような男性。動画の目的は、設定や僕の演技、店員の反応などを見てもらい、視聴者に笑ってもらうことです」
確かに彼はDVDのパッケージを見て、鼻血をだしたり、股間を押さえてもだえたり、出演女優の顔や体に対する感想や、妄想などを大きな声で語ったりと、志村けんの芸風的なドタバタものを1人で演じている。始めは冷ややかな視線を送っていた店員も、最後は大爆笑している様子が映っていた。
「こんな感じの動画を週に4、5本アップしています」
「凄いですね。これじゃあ大変だ」
彼はその他にも、リアルな象のマスクを被ってファストフード店のドライブスルーに行き、店員を驚かす動画も見せてくれた。それを他の動物のマスクに変え、何回も畳みかけるのだ。やはり途中からは他の店員達まで集まり大爆笑になっている。
YouTuber。最近小学生が将来の夢として挙げる、などの話題で度々テレビ番組などでも取り上げられているが、実際に会ったのも、話を聞いたのも今日が初めてのことだった。
失礼にも売れない芸人などではなく、YouTuberという職業についていた彼。私の年収ほどの月収を得、そしてある種YouTubeという世界では有名人でもあった。彼の正体を推理する上で妨げとなった学ラン、あれは今日の撮影の為だけの衣装であったようだ。
始めこそ私を警戒していた彼であったが、私の仕事が探偵という、ある種一般人からするとキャチーな職業であることを知ると、彼は警戒を解き、YouTuberという職業について親切に色々と教えてくれた。ある程度稼ぎ出すYouTuberは皆、事務所に所属してもいるのだという。
私はお礼の言葉と共に、先程買った缶コーヒーを渡し、彼と別れた。予定していた時間よりも5分ほど遅れているが、多喜さんによると、依頼人の依頼内容は娘の結婚相手の身辺調査。報酬の割には大して大変な仕事でもなく、打ち合わせの時間に多少遅れても問題になるような案件でもない。小説や漫画、アニメなどの影響で探偵の仕事は誤解を招きやすいが、殺人事件の依頼などはないに等しく、ほとんどが身辺調査、浮気捜査、家出人探し、ペット探しなどのような地味な仕事なのである。
何気なく空を見上げると、電飾のきらめく街の中で、まるで自らの存在を主張するかのように、一粒の星が必死に瞬いていた。