3,破滅
日本の貧困者は薬物もやらず、犯罪者の家族でもなく移民でもない。教育水準が低いわけでもなく、怠惰でもなく勤勉で労働時間も長く、 スキルが低いわけでもない。世界的にも例の無い、完全な「政策のミス」による貧困である。
2021年 カナダの大学の経済学の講義にて
岸本政権は有効な手立てを打つことが出来なかった。否、解決方法はわかっていても誰もそれをやろうとはしなかった。
もしも、減税して購買力と購買意欲が上がり、不景気を脱してしまったなら、これまでの政策は何だったのだという声が国民から上がるのは確実だったからだ。
「日本を、こんな状況に追いやった責任を追及されかねない。」
『減税したことによる景気回復』緊縮財政を押し進めた全ての人間が、それを恐れていた。
有効な手立てが打たれないまま状況は悪化し続け、2027年中頃には円はついにかつての360円を突破した。
国民経済は完全に崩壊し、失業者・餓死者は続出。
配給に並ぶ人々は増え続け、その配給をするための出費がさらに国費を圧迫する悪循環に陥った。
インフラの整備もままならず、座席シートがボロボロなのはまだましで、地方では開閉装置が壊れてドアが開きっぱなしのバスや電車が珍しいものではなくなりつつあった。
「発展途上国か、ここは…。」
その光景に、多くの日本人がSNSにそう呟いた。
そして、その認識は間違っていなかった。
国内のその惨状から、世界は最早日本を先進国とはみなさなくなり始めていた。
多くは黙って餓死か自殺を選んだが、どの社会にも例外はいる。
2027年11月。寒さが厳しくなり始めていたこの時期に、財務省官僚が暴漢に襲われる事件が2件同時に起こった。
どちらの犯人も直ぐに逮捕されて取り調べが行われた。
その結果、二人に接点は無く、単独犯の犯行時間がたまたま重なっただけという事が判明したが、財務省官僚と緊縮財政論者たちの受けた衝撃は大きかった。
恐れていたことが起きたと感じたからだ。
彼らは、岸本政権を動かしてこれはテロだと声明を発表させた。許しがたい国家と法への攻撃であり、断固対応すると。
彼らは、即座に警察予算を別の予算から切り取って大幅に増額した。それは教育予算であり、年金であり、インフラ整備のための予算など多岐に渡った。
当然、しわ寄せがいった分野は不満の声が上がり、質の低下も顕著となった。国民の不満は増大したが、それに対する政権の返答は増税であった。
最早、理由など何でもよかった。
増税のための増税であり、困難な状況にも関わらず増税を成功させたとして財務省官僚は出世し、増税を主張した経済学者は財務省とマスコミから称賛されて莫大な見返りが約束された。
しかし、この頃になると増税の影響が一部の富裕層にも及ぶようになっていた。
彼らは不満をSNSで呟くなどせずに、政治家や官僚に直接文句を言える立場にあった。
財務省官僚と緊縮財政論者達は、どうやっても彼らを説得できないとわかると、彼ら富裕層の所得税を減額した。
これに、国民の怒りがSNS上で爆発した。
財務省官僚と緊縮財政論者への罵詈雑言と殺害予告の数は、警察の対処能力を遥かに超えて拡散し続けた。
そして、決定的な事件が起きてしまう。
2028年12月。
生活の困窮から財務省前で一人の女性が焼身自殺した。
SNS上において、この抗議の焼身自殺への賛同は100万以上のいいねが付き、同じように焼身自殺する者が相次いだ。
自殺者の中には燃えたまま財務省の建物に飛び込もうとして、それを阻止せんと警護する警察官にも襲い掛かるものまで現れた。
それが、数百人規模で行われたのである。財務省の建物の周りには焼死体が積み上がり、ついに警察官の中に殉職者が出る事態にまで発展した。
後に、燃える冬と名付けられたこの事件によって身の危険を感じた財務省官僚と緊縮財政論者達の行動は早かった。
一斉に国外に逃亡したのである。この頃、海外に渡航出来る日本人は限られるようになっていた。
「いつか、こんな日が来るんじゃないかと思っていました。ですので、準備は万端でした。」
海外の高級リゾート地の別荘にて、マスコミ相手に元官僚と論者たちはシャンパン片手に平然とこうのたまった。
パニックに陥ったのは岸本政権である。
岸本政権は財務省官僚の言いなりであった。事実上、彼らこそが近年の日本政府であり、総理大臣以下の閣僚と政治家達は財務省官僚のスポークマンと化していた。
体で言えば頭脳を失ったのである。政治家たちは右往左往するばかりで何の対応も出来なかった。
「最早、政府の体を成していない。」
アメリカがそう評したのも無理はなかった。政治家はいるが、日本政府は存在していないも同然だった。
そして、それを長期間許すアメリカではなかった。
2029年3月17日。
関東にて、例年より早い桜の開花が発表されたこの日。ポンペイオ大統領は首都圏に近い座間・横須賀・厚木・横田の各部隊を動かして国会議事堂並びに霞が関、そして皇居を占領するよう命じ、そしてそれは僅か一日で果たされた。
米軍は、自衛隊には事前に連絡して動かないよう要請していた。
政府が機能しておらず、防衛出動も緊急事態も宣言されなかった自衛隊はこれに従うより他になかった。
「一般市民と皇族への被害厳禁。それを条件に、我々は戦わずして二度目の敗戦を喫した。」
後に、防衛省官僚は悔しそうにマスコミに語った。
突然のアメリカの行動に一般の日本人はどう動いたか。
結論から言うと、何の行動も起こさなかった。
普通なら外国の軍隊が許可なく自国政府を打倒したならば、抗議活動の一つや二つはあってもおかしくないが、この時の日本人はアメリカ自身が驚くほどなんの抵抗もしなかった。
最早、自国政府が機能していない事。何より、機能していても自分たちを助けてくれないことをこの数年で嫌というほど味わっていた日本人達は、今の政権を守るために体と命を張る事をむしろ拒否したのである。
かくして、日本政府は瓦解した。
現役の政治家たちは全員自宅待機を命令された。事実上の自宅軟禁であるが、それに抗議した市民は極一部だった。
東京証券取引所は一時閉鎖され、円の取引も停止された。
そして、ポンペイオ大統領は日本人に向けて演説を行った。
「今の混乱を終息させるため、日本を一時的にアメリカの準州とします。知事は我々が任命しますが日本人ですので心配は無用です。経済に関してですが、円は停止。ドルの使用を始めます。換金期間は4月1日から2030年3月31日の1年間となります。この期間は並行して円の使用も可能ですが、2030年4月1日からは完全に使えなくなります。ドルへの移行に伴い、消費税とガソリン税を一時的に停止。また、収入に関係なく一律給付金を毎月20万円給付します。この給付金は0歳から100歳のお年寄りまで、生きている日本人全員に例外なく支給されます。また、婚姻と出生数回復のため、新たに生まれてくる子供には一時金100万円を支給致します。」
端的に言えば、政治的にはグアムと同じ扱いになるという事だったが、それよりも日本人が驚いたのは後半の経済的な大盤振る舞いだった。
SNS上では歓喜の声が木霊し、トレンド上位100位全てがこの話題で塗りつぶされた。
アメリカがこれほどの出費を出来る事を日本人は不思議がったが、アメリカ人からすればむしろこれが出来ない日本のほうを不思議がっていた。
この時代、アメリカでは『自国通貨を発行できる政府は財政赤字を拡大しても債務不履行になることはない』という認識が広がっていた。
つまり、財政赤字はそれほど問題では無いというのが常識になりつつあった。
現に、アメリカではコロナ渦で傷んだ個人消費を大規模な財政出動によって支えた結果、2022年時点で需要が急回復。それに対応しようと供給能力の再開を急いだ結果、人材獲得競争が激化。急速な賃上げが国全体で起こっていた。
当時日本がまだコロナで苦しんでいる中、アメリカでは既にウィズコロナが動き始めていたのである。
日本の円も自国通貨建てのため、財政出動をやろうと思えば可能だったのだが、この動きは全て緊縮財政論者と財務省に潰されていた。
日本人は毎月20万。年間240万円の収入が無条件で確保されるとあって沸き立ったが、そのうち本国を差し置いてこれほどの好待遇を受けて大丈夫なのかという心配の声が上がり始めた。
しかし、これは杞憂に終わった。
当時の日本人の平均年収は400万円ほどであり、240万円を足しても640万円ほどにしかならなかった。
そしてこれは、当時のアメリカ人の平均年収の3分の2程度でしかなかった。職種によっては、それこそ半分にも満たなかったのである。
宝くじに当たってなお、自分よりも収入が低い人間に嫉妬する者などいない。
何のことはない。アメリカ人からしたら、この程度の支出は貧しい人間に寄付をしているのと変わらない感覚だった。
日本は、それほどまでに貧しくなっていたのである。
日米以外の国は、この事件をどう受け止めたのだろうか。
つい10年前まで、世界的に見ても安定した経済と政治を誇っていた自由民主主義の国が一夜で独立を失ったことに、世界は驚きの声を…上げなかった。
日本人だけは知らなかったが、海外ではこの展開は時間の問題と見られていたのである。
当然、ロシアや中国のような専制政治国家群はアメリカの行動を暴挙として非難したが、これは単に自分たちの戦略が崩れたことへの憤りだったため西側諸国は無視した。
とうに国連も機能していなかったため、非難決議は採択こそされたものの何の効力も持たなかった。
アメリカの統治が始まった瞬間、日本経済は急回復を始める。
当たり前であった。人によっては収入がいきなり倍になったのである。消費に対する罰金もなくなり、人々はタガが外れたように物を買い漁った。
ガソリン税がなくなったことにより遠出する人が増え、国内の観光業界は息を吹き返すことになる。
ガソリン税の停止は物流業界にも多大な恩威をもたらした。燃料の高騰に悩んでいた各社はそれをコストとして計上し、それが物価の高騰にも繋がっていた。
無くなれば当然その分安く出来る。貧困に喘ぐ最下層の人々には消費税停止と合わせて特に恩威が大きかった。
ネックだったのは少子高齢化による人員確保である。
いきなりの需要増で人員不足に見舞われた国内各社は、大慌てで人員確保に走った。
海外に出稼ぎに行っている若者を呼び戻し、涙を呑んでバイトや非正規雇用に甘んじていた社員を他社に取られてはたまらぬと正社員に格上げする事例が相次いだ。
既に正社員だったメンバーへの増給とボーナスupは当たり前になった。
40年近く停滞していた日本人の賃金は、急上昇することになる。
収入の増加と地位の安定は人々の心に余裕を取り戻した。
お金の問題で結婚と出産を諦めていた人々は、これまでの行動が嘘のように恋愛と育児を楽しむようになった。
結婚式場は予約が困難となり、一時金の効果もあって最低時には50万人台まで落ち込んでいた出生数は2030年には70万人にまで急回復。翌2031年にはあっさりと100万人の大台を突破した。
「産婦人科医と助産師さんが不足して海外のお医者さんにお世話にならざるを得ず、保育園が儲かる分野として企業が次々参入してくる。こんな光景はつい3年前まで想像も出来ませんでした。」
外国の産婦人科医に赤ちゃんを取り上げてもらった女性は、そう言って苦笑したという。
かくして日本経済は重しが取れたバネのように跳ね上がり、日本人の購買力上昇を見て取った外国は日本向けの輸出を増大させた。それがまた単価の押し下げに繋がり、安すぎない程度に設定された値段がさらに売り上げ向上をもらたす好循環が生み出された。
その様子はまさにバブルであり、自然と第二次バブル景気と呼ばれることになる。
アメリカがここまでした事には訳がある。当然、善意で助けたわけではなかった。
アメリカにとって、ロシア・中国・北朝鮮といった挑戦者達から太平洋を守るための防波堤、いわゆる不沈空母としての日本の存在価値は高まっていた。
経済の面から見れば、中国と言う巨大市場を失った以上、日本には何が何でも復活してもらわねばならなかったのである。
そう、アメリカ製品を売り込むための代わりの市場として。
故に、日本の企業が労働力不足を補おうと外国人を入れようとした際にも、アメリカ政府によって潰された。
日本人の購買力が上がらねば意味がなかったためである。
アメリカはどこまでも冷酷に、自国の国益の観点から日本に介入したのであった。
唯一、消費税がなくなったことにより、還付金が無くなる輸出産業を心配する声が上がったが、この頃の日本は輸出できる商品自体が無くなっていた。
円安により海外から原材料を仕入れることが出来なくなっていたためである。
つまり、懸念するような事態そのものが起きなくなってしまっていた。
この日本の好景気を苦々しく見ている者たちがいた。
海外に逃亡した旧財務省官僚と緊縮財政を唱えた財政破綻論者達である。
彼らから見れば、自分たちの政策と真反対の事をやって景気が回復するなど面白いわけもなく、海外から今の日本の景気は文字通りバブルであり、いつか弾けると盛んに喧伝した。
しかし、最早誰も耳を貸すものはいなかった。彼らの寄稿を読んだ人々からは、ため息と嘲笑の言葉しか出なかったという。この瞬間、本当の意味で彼らは政治力を失った。
日本は本当の意味で、財政破綻の危機から解放されたのである。
仮に本作のように減税と給付金がなされても、作中のようなバラ色にはならないと思います。
なぜなら、今の日本は最早手遅れかもしれないからです。