1,序曲
孔子が泰山のふもとを歩いていると、一人の婦人が三つの墓の前で激しく泣いていました。
孔子がそのわけを聞くと、婦人は「この地には恐ろしい人食い虎がいて、その虎によって私の父は食べられ、夫も食べられ、先日ついに子供まで食い殺されました。」と答えました。
孔子は尋ねました。「それほどの虎がいるこの地から、何故出て行かないのですか?」
すると婦人はこう答えました。「ここには、重税を取り立てる惨い政治が行われておりませんので。」
これを聞いた孔子は、弟子たちに言いました。「覚えておきなさい。人民を苦しめる苛政は、人食い虎よりも恐ろしい。」
春秋時代の中国の思想家 孔子の『苛政は虎よりも猛しの故事』より
日本の未来は(Wow Wow Wow Wow)
世界がうらやむ(Yeah Yeah Yeah Yeah)
1999年発売 モーニング娘 LOVEマシーンの歌詞より
多くの人は、全ての始まりは2022年7月に行われた第26回参院議員選挙からだと言う。
正確にはもっと早くに、それこそ何十年も前から始まっていたのだが、目に見えて状況が悪化していったのがその時期からだったという事だろう。
2022年7月に行われた参院議員選挙は、一国会議員選挙とは別の意味を持っていた。
当時の岸本政権は、これに勝って衆参両院で多数派を維持できれば次の衆院議員選挙までの3年間を安定的に運営できるという事で、その気合の入れようは並ではなかった。
そして、当時の日本は危機的状況と言ってよかった。
2022年初めごろから始まった円安は130円台の高止まりが続いており、中国初の新型コロナウイルスによるパンデミックとロシアによるウクライナ侵攻によって世界のサプライチェーンはズタズタにされ、人も物も自由に動ける事を前提としたグローバリゼーションは最早機能しなくなり、海外からの輸入が滞って物価の上昇が顕著に表れ始めて家計を直撃していた。
中流と呼ばれた人々の平均年収は過去何十年間も下がり続け、それに伴う晩婚化と非婚による少子化は益々深刻になりつつあった。
そんな中で、国の行く末を決める大型国政選挙が行われた。普通なら国民の関心が高くても不思議ではないが、結果は40%代の投票率で与党の圧勝に終わった。
当時の岸本政権は、SNS上では評判が良いとは言えなかったが、SNSをやらない高齢者層や、政治にあまり関心がない無党派層の受けは悪くなかった。
大きく目立つ失点らしい失点がないため、野党とマスコミの攻めも暖簾に腕押しと言った感じで精彩を欠いた。
しかし、失点がないという事は逆に言えば何もやっていないという事に他ならなかった。
コロナ対策で効果的だったのは、政権発足直後の海外からの渡航禁止くらいだった。これは国民からの受けも良くて支持率は上昇した。
しかし、肝心のワクチン接種は3回目以降は遅々として進まなかった。一日の感染者数は相変わらず万単位で出ていたものの、死者数は4月以降は100人を下回る日々が続いており、重症者数も減少傾向が続いていたため人々の危機感は緩んでいた。
ガソリン価格も170円台の高止まりが続き、国民経済は圧迫の一途をたどっていたが、岸本政権がやった事と言えば石油元売り会社への補助金増額くらいで、人々に直接恩恵のある減税には手をつけなかった。はなから検討すらされなかった。
これでも与党が大勝できた理由は、ひとえに人々の政治への無関心に尽きた。
「誰がやっても変わらない。」
「自分の一票程度では何の影響もない。」
10代から30代の若者層の大半が、10年近く同じフレーズを言って投票に行っていなかった。
若者層に限らず、無党派層のほとんどが投票に行かなかったため、組織票がしっかりしている与党自民公明の勝利が揺るがなかったのは必然であった。
こうして、次の大型選挙たる2025年の衆院議員選挙までの黄金の3年間を手にした岸本政権が最初にやったことは何か。
消費税の増税であった。
理由はプライマリーバランスの黒字化を2026年に達成するため。何より、コロナ対策で嵩んだ出費を取り戻し、財政規律を保たなければ日本経済は破綻すると言う名目だった。
当然、SNS上では猛バッシングが起こったが、選挙で勝ったという純然たる事実がある以上止めようがなかった。
選挙が終わって僅か3か月後の10月には2023年1月1日に消費税を一律12%に上げる事が閣議決定され、国会でも賛成多数で承認された。
「これで日本経済と円の信頼性が高まり、円安も止まり、人々は安心感から出費を増やし、経済は活性化して賃金の上昇も見込める。」
岸本総理は周囲にそう語ったという。
しかし、結果は総理の想定とは真逆を突き進むことになる。
今日のご飯が食べられない人間が、10年後の未来を思い描けるわけがない。人々は直近の生活が益々苦しくなるため余計に財布の紐を締めたのである。当たり前であった。
物は益々売れなくなり、2023年度の企業の国内での売り上げは過去最大の減少を記録した。
ならば国外からの流入はどうか?
コロナパンデミック前の日本は観光に力を入れており、ウィズコロナが見えてきた当時もそれを期待して全ての制限を解除。外国人観光客の誘致を図った。
結論から言うと来なかった。
欧州はロシアによるウクライナ侵攻問題で手一杯だった。ロシアが欧州向けガスを止めたこともあり、燃料と物価の高騰で国民生活は破綻寸前。外国に旅行に行く余裕など失われていた。
中南米や東南アジア諸国も戦争の影響を受けて、経済が混乱。2022年度には既に起きていた暴動がこの頃には日常茶飯事となり、国外旅行など一部を除いて不可能になっていた。
一番期待が高かった中国もそれどころではなかった。
2022年秋の党大会で異例の3期目に入った周金平国家主席だったが、国内はゼロコロナ政策を強行したことにより混乱が生じていた。長引く都市部でのロックダウンは否応なく人々の不満を高め、大規模なデモが頻発。無論、経済への打撃も深刻だった。
ロシアを支援しているとして、2023年度にはアメリカが更なる制裁を実施したこともあり、経済成長率は3%台に落ち込んだ。
なお、中国の発表は信ぴょう性に欠けていることは周知の事実だったため、多くの専門家は1%台と見る者も多かった。中にはマイナス成長と予測した専門家もいるくらいだった。
そんな状況で日本に来られる人はそう多くはなかった。最盛期の2019年度には959万人と1000万人弱だった中国人観光客は、2023年度は500万人と半減した。2024年度に至っては300万人台と3分の1に減少した。
増税によって国内市場が縮小の一途を辿り、海外からの流入も見込めないとあって、円は益々弱くなった。
翌2025年。ついに円は150円台にまで安くなった。
円安が進んだことにより、別の問題も浮上した。外国人労働者が来なくなったのである。真っ先に影響が出たのは、技能実習生を雇っている会社であった。
厚生労働省曰く「我が国が先進国としての役割を果たしつつ国際社会との調和ある発展を図っていくため、技能、技術又は知識の開発途上国等への移転を図り、開発途上国等の経済発展を担う「人づくり」に協力することを目的」とした技能実習生制度は、お題目だけは立派ながら、事実上の外国人労働者受け入れ制度と化していた。
主に東南アジアからの若者を低コストで雇う事を可能にしたこの制度は、一部からは奴隷制と非難されるほど評判が悪かった。
この頃には、その悪評が送り先の東南アジア諸国の一般人にも広まっていた。加えて円安が進行し、賃金的にも魅力がなくなった日本行は忌避されるようになっていた。
「日本に行っても儲からない。稼げない。」
これが、2025年頃からの東南アジア諸国の一般市民からの評価だった。
そもそも、賃金が30年間全く上昇しないどころか下がってきている国に、わざわざ労働に来てくれる物好きなどいるはずがなかった。
2015年に韓国に抜かれていた平均年収は、この頃になると一部の東南アジア諸国にすら抜かれ始めていた。
労働力が不足したことにより、この頃から公的私的問わずあらゆるサービスが持続不可能になっていった。
24時間営業などもっての外。サービス業は営業時間の短縮を余儀なくされ、それが益々売り上げを減少させる悪循環に陥った。
売り上げが下がれば給料も下がる。ボーナスカット、解雇、非正規社員への降格は珍しい光景ではなくなった。
円安によって輸出産業が儲かる仕組みも崩れていた。
振り返れば、2009年から2012年の3年間続いた民主党政権時代の異常な円高により工場と言う工場が海外に移転し、国内はがらんどうになっていた。
資源を輸入して加工。それを輸出するという構造はとうに消えうせ、急激なIT社会にもついていけず、魅力的な商品を生み出せない。
工場を国内に移転誘致したくても、高齢化により働く人を確保できない。それどころか、若者は賃金の上がらない日本ではなく海外に出稼ぎに行く人が続出していた。
日本は、確実に貧乏になっていった。