2004年②
2004年1月31日。
それは、プロ野球選手にとっての正月と言われている、2月1日のキャンプインを直前に控えた発表だった。
命名権売却――
たしかに、それまでにも野球界には「グリーンスタジアム神戸」が「YaHoo!BBスタジアム」となり、オリックスの2軍の球団名が「サーパス神戸」となるような命名権売却は存在した。
しかし、それでも1軍のチームが球団名を売りに出すとは予想外のことだった。
近鉄は、自らの球団名を売りに出してスポンサーになってくれる企業を募集。年間約36億円で命名権を売りに出して、優勝すればそこから1億円の増額。Bクラスになれば1億円減額するという出来高契約にすると説明した。
この出来事は、まだキャンプが始まっていない時期であって、各マスコミにセンセーショナルにとりあげられる。
そして、筆者もこの報を聞いた時点では、ただただ驚いた記憶しかない。
なにせ、多くの人にとってそうだと思うが、ファンが日常会話で球団名を言う時は、ほとんどが愛称ではなく企業名で呼ぶ。タイガースではなく阪神、ドラゴンズではなく中日である(ただ例外的に巨人のことを読売という呼び方を用いる時は、アンチが蔑称的な使いかたをしている時が多いような気がする)。
実際、筆者も含めて近鉄バファローズファンも、9割以上は「バファローズ」などと呼ばずに、「近鉄」呼びである。
だから、筆者もさみしいという感情がなかったとはいえないし、近鉄ファンのみならず当時の野球ファンやマスコミのほとんどが、この命名権売却には否定的だったと記憶している。
しかし、時間が経つにつれ、筆者の感情は驚きよりも嬉しさのほうが勝っていったと思う。
なにせ、この時点で筆者は、近鉄グループはとっくの昔に球団経営に興味をなくしていたと思っていたからだ。鉄道会社が球団を持つメリットがある時代はとっくの昔に過ぎて、阪急と南海は10年以上も前に身売り。さらにバブル期から平成にかけてパルケエスパーニャなどリゾート投資に失敗。非常に苦しい経営状態だった。実際、2001年にドジャースと業務提携した時や消費者金融のアコムとスポンサー契約をした時も、買収される前兆だという噂が常にささやかれていた。
それでも、球団を売却しないのは、買収額以外にも30億円もの加盟料を不況下に出してくれる企業がなかなか見つからないだけなのだと思っていた。
しかし、やりかたはどうあれ、まだ近鉄グループは球団を経営しようとする気概を持っていた。なによりも、命名権を売却するだけならば、愛称と本拠地は今までと変わらず応援できる可能性が高い。
この時の筆者にとっては、それが最も重要なことだった。
しかし、この命名権売却は、巨人のオーナーである渡辺恒雄や西武のオーナーである堤義明などの反対にあい、あっさりと断念せざるをえなかった。
そのニュースを聞いた時、筆者は友人とこう言葉を交わした。
「終わったな」
「もう来年から別のチームや」
最後の希望という命名権売却の話が潰されては、近鉄が球団を持ち続ける事など、どう考えても不可能だった。
しかし、近鉄という球団は、グラウンドの中でも外でも、いつもファンの予測を覆す行動に出る。忘れもしない2004年6月13日。オリックスとの合併を発表したのだ。
命名権売却も驚いたが、球団合併はその比ではない。今までプロ野球を見てきた中で培ってきた常識や価値観が根底から覆された気分だった。
訳が分からない――
そして、その想いは20年近く経った現在でも変わらなし、今でもこの出来事を正確に語ることが出来る言葉を筆者は持ち合わせていない。
なぜならば、歴史を語るさいには、出来事と出来事のあいだにある因果関係や、人物の行動の動機などを説明しなければならないが、それらの全容が今でもぼんやりとしか見えてこないのだ。
当時の近畿日本鉄道の社長を務めていた山口昌紀が2015年に出版した自伝「奈良に育まれ電車にのって青山をみる」では、身売り先を探していたところ、オリックスのオーナーである宮内義彦が近鉄球団に興味を持っていたので秘密裏に会いに行った。さらに合併発表の数日後に報告のため渡辺恒雄のもとを訪れたという記述が存在するが、それでも全ては密室の中で決められ、ファンは事後報告の形で経過を聞き入れるしかなかったという印象だけが残る。
実際、この2004年の球界再編騒動をふりかえる特集記事や書籍を目にすることはあるが、やはりその記述は事実経過の羅列をしているだけに過ぎないという印象がある。
しかし、各陣営の思惑……とくに当時の巨人のオーナーであった渡辺の心中はなんとなく推測する事はできる。
球団合併が発表される前から渡辺は1リーグ論者で、12球団は多すぎるというようなことを盛んに口にしていた。
さらに、FA権取得前にポスティングシステムでイチローを移籍させ、約14億円の大金を手にしたオリックスに対して「金のために日本球界の宝を売り渡した裏切り者」というような趣旨の言葉を述べ、さらには「ドラフト制度は自由競争の観点から言えば間違っている」「選手が金でメジャーに行くというのなら、日本球界はそれ以上の金を出せばいいだけの話」とも発言している。
おそらく渡辺は、資金的にも人気的の優れた球団だけでリーグを形成して、少数精鋭で年俸的にも実力的にもメジャーにも負けない魅力的な日本球界を作りあげるのが目標だったのだろう。
2004年の球界を後から振り返る際、2リーグ制を維持しようとした古田を始めとした選手会と渡辺や宮内を始めとする経営者側は、球界を破壊しようとした側とそれを救った者というような、勧善懲悪的な二元論で語られることが多いが、渡辺には渡辺なりの正義と理想が存在していたのは想像に難くない。
そして、渡辺にとっては、人気も金もなくただの一度も日本一になった事がない近鉄のようなチームは理想の日本球界には不要だった。代わりはいくらでも存在する。渡辺にとって巨人こそが絶対で、人気のないパ・リーグの球団は、いつもウルトラマンや仮面ライダーににやられる怪獣やショッカーのような存在、というような認識だったのだろう。
しかし、ウルトラマンやライダーだけでは物語は回らない。
西本政権下で初優勝を飾った79年の近鉄に、とある女子学生からこんなファンレターが送られてきたという。
『私は勉強もできない。顔も美しくない。スタイルも良くない。日頃、落ち込んでいます。でも、近鉄の選手たちの姿を見たら、努力をコツコツ積み重ねていけば、いつか何かができるようになるんだと思いました。エリートではない、無名の人たちが固まって一生懸命にここまで来たことに感動しました。私も頑張ってみます』
2004年当時、すでに1億総中流と言葉は消え、経済格差は広がりていた。2006年には「勝ち組・負け組」が流行語となった。今もSNSでは「弱者男性」などという言葉が取りざたされている。
東大を卒業し、読売グループのトップにまで昇りつめた「勝ち組」であり、「強者男性」である渡辺にはこの女子学生の気もちなど永遠に理解できないだろう。
合併が発表された後、ファンやマスコミ、選手会は猛反発。日本球界初のストライキを決行した結果。合併阻止こそは果たせなかったものの、新球団を加えての2リーグ制は維持。近鉄球団だけが表舞台から消える事となったのだった。
当時の様子をリアルタイムで体験していなくても、「合併反対」の横断幕をスタンで掲げたりするファンや、ストライキ中の球場で選手がファンのサインに応じる時の映像を見た事があるファンもいるだろう。
そして、長く球場に通い詰めていた筆者も当然そういった行為に積極的に参加していた……かというと、実はそうでもない。
署名活動にサインくらいはしていたが、大阪ドーム周辺でしていた合併に反対にするファンのデモ行進にも参加していないし、ストライキの日にも球場には行っていない。これらのイベントに出席していれば、今では知る事が難しい当時のファンの様子をもっと細かく描写できるのだが、参加していないのだからどうしようもない。
なぜここまで消極的だったかというと、もう合併が発表された時点で、筆者の中には諦観の念が支配していたからだ。
いま思えば、もうここまできたらどうしようもないと冷めていたたのだろう。命名権売却が潰された2月時点で、筆者の心境は末期のがん患者を看取る家族のようなものになっていた。無駄な事に労力をさきたくない。それよりもそっとしておいてくれ、と
実際、ファンの抵抗も虚しく、合併は承認されて、この年限りで大阪近鉄バファローズという球団は消滅する(しかし、いま思えば、まだあの時点では合併凍結の可能性が残されていたのに、当時の自分はなぜあそこまで冷めていたのだろうと思うのも事実だ)。
そんなふうに、合併が発表された6月からほとんどのイベントに参加していなかった筆者だが、さすがにこの年のホーム最終戦である9月24日の対西武戦には足を運んだ。内野席を無料開放していたが、筆者が向かったのは、やはり慣れ親しんだライトスタンドのポール近くの席だった。
そこで顔見知りのファンたちは、来年以降の身の振りかたを語り合う。
「どうする?」と問われても「どうしようか……」と力なく答えにならない答えを答える者。「来年にならんと分からんわぁ……」と苦笑いする者。まるで、いつまでも、就職が決まらない大学生のようだった。
しかし、この当時は、やはりファンの願いを無視して近鉄を吸収合併するオリックス球団に対する不信感や怒りを露わにする者が多かった。少なくとも、筆者の知り合いでは来年以降もオリックスを応援すると表明している人間はいてなかったように思える。それどころか、合併球団にはバファローズという愛称を使ってほしくないと露骨に嫌悪感をあらわにする者もいた。
それもそのはずだ。なにせ、オリックス・バファローズはあくまでもオリックス・ブルーウェーブが愛称だけを変えた球団。近鉄の歴史を継承する立場ではない。
近鉄は1949年に創設されてから、3261個の勝ち星を積み重ねてきた。しかし、オリックス・バファローズが2005年のシーズンの勝ち星がここに積み上げられていくことはない。そこが、かつて身売りを経験した南海と阪急との決定的な違いだった。実際、オリックス・バファローズが2021年に優勝時は25年ぶりの快挙と報じられた。2001年の近鉄の優勝はそこには含まれていない。近鉄という球団の歴史は、この2004年を持って完全に潰えてしまったのだ。
「近鉄の歴史を引き継いでくれるんやったら、仙台へ行こうが名前が変わろうが応援するんやけどなぁ……」
そう嘆いたファンも少なからず存在していたのだった。
そして、試合は始まるのだが、実のところ、その内容はほとんど記憶がない。星野おさむがサヨナラ打を放ち、このシーズンを故障で棒に振っていた吉岡が代打で出てきたのをぼんやり覚えているくらいで、この文章を書くために資料を読み返すまで髙村が先発していた事も忘れていたほどだ。それくらい現実感がないまま、あっというまに最期の時を迎えた気分だった
しかし、それを言うならば、合併が発表されてからホーム最終戦を迎える約3か月こそが、まるで夢の中の出来事のようだった。
それまで当たり前だと思っていた日常が二度と戻らない現実。小説や歌詞などで何度も耳にしてきたであろう表現。「失って始めて分かる本当に大事なもの」。その言葉の意味が生まれて初めてわが身に降りかかってきた瞬間だった。
当初、筆者は友人たちとバファローズという愛称と本拠地は変わらないでほしいと願っていた。
そして、その願いはかなえられる事となる。しかし、それは最悪の形であった。
なにせ、愛称はバファローズでも、残ったのは阪急とオリックス・ブルーウェーブの歴史を受け継いだ、完全な別チームなのだから。
イギリスの短編小説に「猿の手」というもの存在する。
願いをかなえてくれるが、同時に災厄をもたらすという猿の手。老夫婦は大金を猿の手に願い、最愛の息子の事故死による賠償によってかなえられるという内容だ。
まさに、その小説のような性質の悪さだった。
そして、年があけた2005年。
球場の外で、筆者はぐうぜん顔見知りの近鉄ファンのおばちゃんと会う。藤井寺時代から球場に通い、江夏の21球も89年の巨人を相手に3連勝した後に4連敗を喫した日本シリーズも現地で観戦していた筋金入りの近鉄ファンだ。
そして、近鉄がなくなり、これからどうプロ野球と向き合っていくかを尋ねると。おばちゃんは「岩隈が好きやから、とりあえず来年は楽天を応援するけど、岩隈がおらんようになった後の事はわからんわぁ」と寂しく笑っていた。そして、それ以来、会う機会はなく、これがおばちゃんとの最後の会話になってしまった。
そして、あれから、20年近くの年月が過ぎ、筆者も、かつて大阪ドームでオリックスやダイエーの試合を寂しそうに見つめていた阪急や南海ファンの気もちが痛いほど理解できる年齢になってしまった。
今でも、千代崎や九条周辺には知り合いが多く住んでいるので、ドーム近くは頻繁に通る。そして、その時、かつて神戸を本拠地としていたオリックスファンが当たり前のようにドームに入っていくのを見ると、胸が絞めつけられるような気分になるし、とくにもう近鉄の試合をみたことがないような世代……かつて筆者が近鉄の試合を観ていた時分と同じような年代の若いファンの姿を見ると、どうしようもなくせつなくなってくる。
現在も筆者は野球が好きだし、プロ野球観戦を趣味にしている。ヤクルトや阪神と戦った日本シリーズではオリックスを応援していた。しかし、それでも結局、リアルタイムの試合を観る事よりも、近鉄があった時代の映像や書籍をふりかえる事のほうが多くなってしまうのであった。
そして、筆者だけではなく近鉄ファンは2004年以来、複雑な思いを抱いて、近鉄のない20年を過ごしてきたはずだ。
未だにオリックスという球団に悪感情を持ち続けて、露骨に悪態をつく者も存在するだろう。
近鉄を愛するものの、ひいきの球団のない寂しさに耐えかねて、オリックスや楽天、または別球団のファンに鞍替えする者も存在するだろう。
プロ野球自体に興味をなくしてしまった者も存在するだろう。
筆者には、当時、近鉄の試合に頻繁に足を運んでいた友人ふたりと今でも付き合いがある。
ひとりは、合併当初はオリックスに拒否感を示しながらも、時間が経つにつれ、ひいきのチームのない生活に耐えかねて、いつのまにかオリックスを応援するようになっていた。
しかし、もうひとりは、社会人野球の選手やマネージャーを務めるなど現在でも野球に関わり続けているが、近鉄消滅後はプロ野球に興味がなくなったまま現在に至っている。
福本豊は数年前にドームでおこなわれた阪急ブレーブスの復刻イベントの際、同席していた山田久志にこう漏らしたという。
「南海ファンや近鉄ファンはまだマシやで、ブレーブスはもう名前がないんやもん。バファローズなんて名前やったら、もう近鉄やん」
ホークスという愛称と歴史を継承しながらも、遠く離れた福岡の地に旅立ってしまった南海。
歴史を継承し、関西の地に留まりながらもブレーブスからブルーウェーブ、そしてバファローズと変わっていった阪急。
そして、バファローズという愛称と本拠地は変わらなかったものの、歴史が継承されなかった近鉄。
本当に近鉄ファンが体験した不幸は、阪急ファンよりもマシだったのだろうか。
岩隈ファンのおばちゃんは、岩隈がメジャーに旅立ってしまってからは本当に楽天の応援をやめてしまったのだろうか。
かつて、球場で顔を会わせてきた(そして、これから人生でもう二度と会う機会がないだろう)知り合いたちが、この20年をどのような思いで過ごしてきたか、筆者は最近になって無性に気になるのであった。
追記
この文章を書いている2023年12月末、オリックスの元オーナーである宮内義彦が野球関係のエピソードを主に記した自伝「諦めないオーナー」を出版。
2004年の球界再編、さらには当時に近畿日本鉄道の社長である山口昌紀との会談にもふれる内容となっている。
そこで宮内は「近鉄側は身売りを考えていなかった」と語っているが、これは「身売り先を探していた」という山口の著書の記述と若干の食い違いが見られる。山口は2017年に鬼籍に入り、これ以上、新たな証言が浮上する可能性も低く、改めて2004年の騒動を書くことの難しさを感じた。