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2004年

 来年の2024年は、大阪近鉄バファローズがなくなってから20年の節目の年となる。


 筆者は、1997年に近鉄が本拠地を藤井寺球場から大阪ドーム(現京セラドーム)に移転し、自宅から格段に通いやすくなったことが契機となり日常的に野球観戦に訪れるようになった野球ファンである。


 当時はファンクラブに入りさえすれば、子供は外野自由席の入場は無料だったので、筆者は友人たちと足繁くドームへ通っていた。交通費を節約するために、片道1時間以上かけて自転車で行っていたこともしょっちゅうだった。


 やがて、成長して大人料金で入場しなければならなくなった時もドーム通いは続けていた。何試合観戦したかなど判らない。思い出など語り尽くせない。今でも当時の友人たちと学生時代の思い出を語る時は学校よりも野球観戦の出来事を語る事のほうが多い。なにせ、中学校や高校に通ったのはそれぞれ3年ずつだが、ドームには8年間の思い出が存在しているのだから。


 しかし、もうすでにドームは近鉄よりもオリックスが本拠地としていた期間のほうが倍以上も長くなってしまった。


 今や、10代の野球ファンにとって近鉄はリアルタイムで触れた経験のない、歴史上のチームとなってしまった。


 そして、この先、近鉄球団の記憶がある野球ファンは減る事はあっても増える事はない。


 だからこそ、近鉄がオリックスと合併。球団消失の憂き目にあった2004年の事を今のうちに語っておきたいと思う。ただ、球団合併の経緯、それに伴う2大IT企業の新規参入争いやプロ野球史上初のストライキなどの出来事は詳しくは説明、描写しない。


 ここでは、2004年当時、ただのいちファンに過ぎなかった筆者の心情や周囲の者たちの反応を書き記していく。


 それゆえに、今回の話はバイプレーヤーを通して2001年のリーグ優勝をふりかえるという、当初の趣旨から大きくはずれるうえに、終始、筆者の郷愁と偏見にまみれた『自分語り』になることをご容赦していただきたい。また、2004年当時の筆者や友人の言葉や心情をそのまま描写するため、現在の価値観や常識、あきらかになっている事実と照らし合わせれば、ひどく見当はずれで場合によっては不快に感じる人もいるだろうが、重ねてご容赦して頂きたい。



 それは、2003年頃の日ハム戦のライトスタンドでの出来事だったと思う。


「署名お願いします」


 試合開始を待っていた私のもとに、バインダーに挟まれたA4サイズの紙片が渡される。


 近くにいた顔見知りのおばちゃんが「レフトスタンドから回ってきたらしいで」と説明してくれた。


 書面を呼んでみると、どうやらファイターズの本拠地移転に反対するファンの活動らしい。


 この当時のファイターズは東京ドームを本拠地していたが、観客動員の面から伸び悩み、プロ野球フロンティアというべき北海道への移転が決定していたのだった。


 もちろん、移転後のファイターズは北の大地にしっかりと根づき、ダルビッシュ有や大谷翔平などのメジャーリーガーも排出するような人気球団となるのは、現在の野球ファンなら誰もが知っている事である。


 結果論から言えば、この署名活動はファイターズの未来を狭める行為であり、もし、あのまま東京に残っていたら、現在に繋がる輝かしい未来はなかっただろう。


 もちろん2003年当時の筆者でさえ東京ドームで巨人に隠れているようでは北海道移転もやむを得なしと思っていた。そして、それは私だけではなく、多くのファンの共通認識であっただろう。


 しかし、その認識とは別に、筆者には移転に反対するファイターズファンの気もちは痛いほどに理解できた。


 あらゆるスポーツ興業の中で、なぜプロ野球がこれほどまでに多くのファンを獲得できたのか。


 それは、人々の『日常』に深く根ざしているからに他ならない。


 年間130試合以上。春から秋にかけて毎日のように開催され、巨人や阪神のような人気球団ならば地上波でそのほとんどの試合が放送されていた。学校や職場などでも、昨日の試合結果について仲間同士で語り合う光景は多くみられた。


 多くの人間にとってスポーツ観戦は滅多にない『非日常』の体験と興奮を求める娯楽である。しかし、野球はその試合数の多さから大量消費され、完全に日本人の生活に溶け込んでいたのであった。

 そして、東京に住むファイターズファンの、その『日常』が脅かされようとしていた。

 もちろん、北海道に移転しても野球を観戦する事はできる。しかし、彼らは、学校や仕事の帰りにふらっと球場に立ち寄り、観客席でひとつのプレーや試合結果を肴にして仲間たちと会話を楽しむという『日常』は戻ってこないのだ。


 そして、それは近鉄ファンにとっても、決して対岸の火事ではなかった。


 この当時の近鉄も、本社からの宣伝広告費である10億円も差し引いても、さらに30億円の赤字を垂れ流している状態で、いつ身売りしてもおかしくない状態だったのだから。


 思えば、97年は本当に近鉄球団にとって大きな賭けに出た年だったと思う。それまで慣れ親しんだ藤井寺球場を捨てて、沿線でない大阪ドームに移転。さらには3度のリーグ優勝を果たした強い近鉄の象徴であるトリコロールカラーのユニフォームまで一新したのだから。


 しかし、観客動員は伸び悩み、多額のドーム使用料が経営を圧迫するという最悪の結果になってしまった。

 筆者は、長く球場に通い詰めたいちファンとしてこの当時の近鉄の不人気を身にして感じていた。


 なにせ、当時の外野席は今のようにすべてが指定席ではなく、そのほとんどが自由席だったのだが、あまりに人がいないため隣の席に自分の荷物を置くのは当たり前。疲れてきたら、靴を脱いで前の座席に足を乗っけて観戦するようなこともやっていた。


 それだけではない、


 時効だから白状するが、ドーム開業当初、子供だったのをいいことに筆者は外野自由席のチケットしか持っていないにもかかわらずバックネット裏の特等席で観戦するという悪行を友人たちと一緒になってよく働いていた(当時のドームの警備体制と設備は本当にザルで、詳細は省くが、とある方法で簡単にバックネット裏まで侵入することができたのだ)。


 もちろん、こんなことをして、実際にバックネット裏のチケットを購入した人とバッティングすればトラブルになる事は必至になのだが、悲しいことに1度もそんな事態に見舞われることはなかった。最も観客が多いはずの休日のデーゲームの日も何度かあったにもかかわらずだ。


 そして、悪行はまだ続く。


 調子の乗った筆者と友人一行は、対戦相手であるロッテベンチの近くまで行く。


 ベンチの隅では、当時のエース格である小宮山悟が座っている。


「あそこに座ってんの、小宮山ちゃうん?」

「ホンマや! 小宮山や! 小宮山や!」


 知名度が高く、特徴的な外見の選手を目の前にしてテンションがあがる馬鹿ガキども。


「小宮山さーん!」


 思いきって名前を呼び、手をふってみる筆者たち。


「こら! なにが『小宮山さん』だ。さっきまで、おもいっきり呼び捨てにしてただろ!」


 あまりにも観客が少なくて静かなため、筆者たちの会話は丸聞えだったのである。


「まあいい。ほら、ガムでも食べろ」


 ベンチの隅で山積みにされているロッテのガムを1枚ずつ筆者たちに配る小宮山。


 現役選手が試合中に子供たちにお菓子を配ってくれる。今の時代だったら、大勢のファンが集まってきそうなパフォーマンスだが、当時の閑古鳥が鳴いているパ・リーグの球場だと誰も見向きもしないのだった。


 まあ、話は大きく出脱線してしまったが、2000年前後のパ・リーグの球場の雰囲気は、福岡ドーム以外は似たり寄ったりだったのではないのだろうか。


 そして、ファイターズファンが署名活動を目の当たりにした試合後、帰り道で友人はこう呟いた。


「近鉄が身売りする時は、本拠地とバファローズという愛称を変えんでほしいわ」


 この時、すでに21世紀に入り、昭和の時代もかなり遠くなっていた。


 しかし、ドームでおこなわれるダイエー戦やオリックス戦では、ときどき見かけるのだ。南海や阪急の帽子をかぶり、試合中に大騒ぎするわけでもなく、せつなそうな目でグラウンドをみつめているオッサンたちの姿を。


 南海ホークスと阪急ブレーブスは戦前に発足された関西で共に一時代を築いた歴史あるチームだった。


 しかし、昭和最後のシーズンとなった1988年に共に身売り。


 南海はダイエーとなり、ホークスという愛称こそは残したものの大阪から遠く離れた福岡に本拠地を移転。


 阪急は身売りしてからたった2年でブレーブスと愛称を捨ててブルーウェーブとなり、関西にとどまったものの本拠地を西宮から神戸に移していた。両球団に共通するのは、急速に過去との断絶を測ろうとしていた事であり、そのたびに南海や阪急を忘れられないオールドファンは心を痛めていたという事だ。


 筆者たちにとっての理想は、2001年オフにマルハからTBSによっておこなわれたベイスターズの移転だった。球団名も本拠地も何も変わらず、親会社だけが変わって横浜ファンは身売り後の球団を何のわだかまりもなく応援することができた。


 もちろん、近鉄は横浜とは違い地域名ではなく企業名を名乗っているので、すべてがそのままとは言わないが、愛称と本拠地が変わらなければ御の字だった。


 ちなみに、この2003年のシーズンオフ、藤井寺時代から近鉄を支えてきた名物選手であるタフィ・ローズが巨人へと移籍している。


 ローズが要求する複数年契約と球団が主張する単年契約との折り合いがつかなかったためだ。ローズは当時在籍していたクラークと共に弱かった時代から近鉄を支え、後にシーズン記録と並ぶ55本塁打で優勝に貢献。さらには、どデカいハーレーで帰宅する途中でも試合後はファンのサインに応じるなど記録にも記憶に残るだっただけに、金銭面での交渉の決裂は近鉄の苦しい台所事情を如実に表すものだった。


 そして、それは近鉄だけの話ではなかった。パ・リーグで最も勢いがあったはずのダイエーも本社の業績悪化で苦しい経営体制となり、西武グループもかつての勢いはみられずと、パ・リーグ全体に勢いはなくなっていた。日本シリーズでも過去10年のうち勝てたのは96年のオリックスと99年と03年のダイエーのみで、イチローのようなスター選手はFAでセ・リーグやメジャーへ流出という、まるでたこつぼの中にいるような閉塞感がリーグ全体に漂っていたのだった。


 そして、年は明けて2004年を迎えることになる。



 


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