海の向こうから吹いた神風・ショーンギルバート
神風が吹く――
これは古くから日本人が好んで使ってきた言い回しである。
もともとは日本書紀に出てきた言葉なのだが、元寇の際に日本の窮地を救った暴風雨が吹き荒れたエピソードが最も有名で、それ以来スポーツの世界では奇跡的な展開によって劣勢を覆した時に使われる場合が多い。
そして、2001年、この年は近鉄にとって神風が吹いた1年だということは間違いない。
開幕前、この年の近鉄の戦力はお世辞にも充実しているとは言い難く、多くのファンや評論家も優勝はおろかAクラスさえも難しいと予想していた。
しかし、いざ日ハム相手に初回で開幕投手の門倉が初回で5失点の取られながらも、最終的には10対9という大逆転劇を演じると、混戦ながらも首位争いに加わる大健闘をみせていた。
しかし、近鉄の好調の原因は、あくまでも打線の強力さを含む「勢い」。当時パ・リーグを2連覇していたダイエーやかつての絶対王者・西武に比べて地力が劣っていたのはあきらかだった。
近鉄の弱点。それは開幕投手の門倉が炎上したことに代表されるように頼れるエースのいない弱小投手陣なのは間違いない。しかし、野手陣に限って言えば、内野陣の要と呼ばれる正遊撃手の不在であった。
ここで、2001年時点での近鉄の遊撃手事情を説明しよう。
まず、前年の2000年におけるレギュラーは武藤孝司だった。
武藤は堅守と小技の利く粘り強いバッティングで大阪ドーム時代初期の近鉄を支えた内野手だ。とくに、伝統的に大味な野球を展開する近鉄野手陣の中では珍しく「足」が使える選手で、97年には2000年は共に20盗塁以上記録してチーム内の盗塁王となっている。
しかし、2000年の八月に併殺プレーの際に右肩を負傷。その年のオフに手術を敢行したものの、術後の経過も思わしくなく、復帰のメドが立たない状態だった。
さらに、内野のユーティリティプレイヤーのベテラン吉田剛は、2000年の5月に同僚の西川慎一と共に阪神へトレード。すでにチームを去っていた。
また若手の有望株である前田忠節とダイエーから移籍してきた新里紹也は、レギュラーとしては打撃が非力すぎる。後にレギュラーを獲得。合併後のオリックスや西武などでも活躍する阿部昌宏もこの時点ではルーキーで攻守ともに決め手に欠く――。そんな状況だった。宏 個人的には、梨田はこの中でも、とくに前田に期待していたように思える。
なにせ、前田がルーキーだった2000年当時オリックスとの開幕戦。実績のある武藤をセカンドにしてまでも、いきなりショートのスタメンとして起用したのだから。とにかく、この前田の守備の評価は高かった。そして、梨田はこの前田の存在があったからこそ、近鉄では貴重だった小技のできる吉田剛を阪神にトレードしたフシがあったのだと思う。
しかし、前田の打撃は非力で、バットに芯がないのかと疑いたくなるような有様だった。もちろん、梨田もそんな事は百も承知だっただろう。苦手のバッティングは試合に出場することで少しずつプロの水に慣れてほしいという思いがあったはずだ。
だが、それでも前田の打撃はいっこうに上向かず、100試合出場、165打席ものチャンスは与えられたにもかかわらず、打率は0.196でホームランに至ってはゼロという体たらく。続く2001年も武藤の怪我もあり、2年連続開幕スタメン遊撃手の座を手にいれるものの、あいかわらず、打撃成績はいっこうに上向かない。
ギルバートがシーズン途中に来日したのは、そんな時だった。
このギルバート、身長は175㎝で体重は80㎏弱と身体はそこまで大きくはない。しかもバリバリのメジャーリーガーではなく、バッティングも一般的な助っ人外国人選手に期待されているだけの水準に達していなかったと言ってもいいだろう。
しかし、この時の近鉄には、間違いなく必要な選手であった。
なにせ、守備位置は、野手の中ではキャッチャーと並んで近鉄最大のウィークポイントであるショート。守備は堅実で、バッティングもショートとしては及第点で時には一時は上位打線を任されるほどだった。
個人的に印象に残っているのは、来日して1か月も立たないあいだに、水口が故障。本職のショートではなく、セカンドを守り、しっかりと水口の穴を埋めたのだ。
まさに外国人選手に似つかわしくないユーティリティっぷり。水口が故障から復帰した後には、ショートのポジションに戻り、シーズン終了、そして日本シリーズまで正遊撃手の座を守り抜いたのだった。
当然だが、日本の球団が助っ人外国人を調査する時は,内野ならば三塁手や一塁手。そして、外野手が主なようにまず打力を最優先する(実際に、近鉄がギルバートの前に獲得していたガルシアは打力優先の選定だった)。
だから、当初はリストアップしていなかっただろうショートが本職の選手。しかも、それがシーズン途中での補強になると、それは典型的な『泥棒を見て縄をなう』行為でしかない。そして、いわゆる『どろなわ』は失敗に終わる例がほとんどなのだが、この年の近鉄のギルバートは成功した。これは、まさに近鉄に吹いた『神風』に他ならない。
地味だが、野手に限れば、まちがいなく近鉄優勝を決定づける最後のピースだったギルバート。そして、その獲得に大きく貢献したのが、この年に近鉄と業務提携を結んだロサンゼルス・ドジャースの副社長トミー・ラソーダだった。
ラソーダは、野茂がメジャーに挑戦した時のドジャースの監督ということもあり、日本球界でも名の知れた名将。そして、この年から近鉄の球団アドバイザーに就任して、1か月に1回の割合で来日して、1週間ほどチームに滞在していたのだった。
アメリカ球界との太いパイプ、なによりも、かつて名将として名を馳せた選手の審美眼。今ではほとんど語られる事はなくなってしまったが、ラソーダが2001年の優勝において果たした役割は、とてつもなく大きい。
なにせ、フロント主導で獲得したウィル・フリント(2001年の成績は、わずか1試合のみの登板。6月で退団)、フレッディ・ガルシア(同じく打率1割5分3厘で1本塁打のみ。5月で退団)がまったく戦力にならなかったのに対して、ラソーダが獲得したふたりの外国人投手、ショーン・バーグマンは2ケタ勝利あげ、ジェレミー・パウエルも日本シリーズ開幕投手の大役を果たすなど、とにかく不安定な近鉄の弱小投手陣の中で最後まで先発ローテーションを守ったのだから。
それまで二年連続の最下位。開幕前の評価ではBクラス確実とまで言われた戦力でダイエーや西武と言う強豪と優勝争いに加われたのは、この途中入団の3外国人選手の力によるところが大きかった。
しかし、じつはこの年の近鉄がシーズン途中の補強が成功したのは、この3人だけではない。
関口伊織。左の中継ぎが不足していた時に横浜からをトレード獲得。結果的は左ではチーム最多登板を果たすようになる。
三澤興一。大塚が不調に陥り慢性的な中継ぎ不足の時に巨人からをトレードで獲得。後半戦だけで七勝をあげる大活躍をみせる。
益田大介。左の代打がいない時に中日からを獲得。代打の切り札として層の薄いベンチの野手の中でなくてはならない存在になる。
そう、前年まで2年連続最下位で開幕前までは圧倒的に評価が低かった近鉄が下馬評を覆し、ダイエーや西武という強豪チームと互角に戦えたのは、彼らに代表される途中入団の選手の大活躍によるところが大きい。
また、途中入団でこそないものの、代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打を放った北川や後に近鉄最後のエースとなる岩隈なども、前年にはいなかった新戦力である。
代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打に代表されるように、この年の近鉄の戦いぶりは神がかり的と称される展開が多かった。
しかし、真の『奇蹟』はあの優勝決定の1試合だけで語る事はできない。
思えば、この年の近鉄は優勝争いから脱落しそうな時がたびたび存在していた。しかし、そのたびに次々と開幕前には戦力として予想できていなかった救世主が現れ穴を埋め、なんとか踏みとどまってきた。
そして、その存在こそが、がこの年の近鉄に吹いた、本当の『神風』に違いないのだから。