マイペースな核弾頭・大村直之
球団消滅から20年近くの時間が経過した現在でも、プロ野球ファンのあいだで最強打線論争があると、たびたび名前があがる2001年の近鉄いてまえ打線。
しかし、近鉄という存在が完全無欠の最強チームではなかったように、この年もいてまえ打線も爆発力は凄まじいものの完璧な打線ではなかった。
それは決定的に機動力が使えないというものだった。
そして今回、紹介したいのが、この年のいてまえ打線で核弾頭を務めた大村直之である。
大村は1993年のドラフト3位で近鉄に入団。高卒選手ながらも1年目から早くも一軍にあがり、2年目の95年には外野手として110試合に出場して76安打を放つ活躍をみせる。そして、3年目以降も順調に安打を重ね、まさに順風満帆と言えるプロ野球人生をスタートさせるのであった。
しかし、この大村の長所は打撃だけではない。
むしろ、走攻守でいえば、足と守備のほうが光るモノがあり、大村は90年代後半から2000年代前半にかけて多くの試合でトップバッターを任されていたのだった。
いてまえ打線の異名を取る近鉄野手陣の中で大村の俊足はたしかに希少性が高かった。しかし、その打撃ぶりをよくよく観察してみれば、1番打者としての適性に疑問符がつく事は当時のファンならよく知っている事だった。
その理由は、ひとことで言えば打撃が淡白なのだ。
1番打者はいうなれば、塁に出てナンボの役割。それゆえに、綺麗な形でのヒットよりも、四球や内野安打でもいいから粘りに粘って泥臭く出塁することが求められる。
しかし、大村はとにかくどんな場面でもフルスイングを敢行。打球を転がそうという気概は薄く、ポップフライが多いうえに四球は少なかった。
とくにそれが顕著に現れたのは優勝前年である2000年である。
この年は、大村は不調に陥り、番打者を武藤孝司や平下晃司に譲る事が多かった。
とくに、平下の存在は大村にとって脅威だったのは想像に難くない。
なにせ、武藤のポジションはショートで大村とかぶる事はないが、平下は外野手。しかも大村と同じで俊足が売りで、年齢的にも若く勢いがある。
この年、就任1年目で機動力野球を掲げていた監督の梨田は、この期待の若手を積極的に1番打者として起用していたのだった。
さらに、この大村はファンの代表である応援団から嫌われていたフシがある。
なぜかというと、この頃にはすでに実績充分で、専用の応援歌があったにもかかわらず、2000年のある時期を境に、大村が打席に立つと、なぜか2軍あがりの選手に使われるような汎用応援歌しか演奏されなくなったのだ(本当の理由は今でも分からないが、当時よく球場に通っていた年配のファンから聞いた話によると、なにか応援団の気に障るような言動があったらしい)。しかし、大村はそんなファンの仕打ちも特に気にする様子もないし、あいかわらず、初球から積極席に打っていって、マイペースを崩さない。
とにかく、自身の不調と平下が台頭した2000年が大村にとって最大のピンチであり、2001年が正念場だったことは間違いない。
しかし、この大村と平下のセンター争いは意外な形で早期決着する。
なんと平下が3対3のトレードで阪神に移籍してしまったのだ。しかも、1番打者争いのライバルである武藤も故障してしまい、開幕は絶望的な状態(実際、武藤はこの年はまるまる1年、棒にふってしまった)。
まったく競い合うことなく、1番センターの座を手に入れた大村。
そして、筆者を含む2001年の開幕前、近鉄ファンの多くはこう不安を感じたはずだ。
「武藤も平下もいなくなった現状で、もし大村が2000年のような不振に陥ったら、1番を任せられる打者が誰もいないぞ」と。
そう、結果的には球史に名を残すほどの強力打線となった2001年のいてまえ打線だが、筆者が益田の項で述べたように近鉄の野手陣は層が厚いわけではない。さらに、いかに近鉄打線はいくら中軸がローズや中村を擁して強力とはいえ、トップバッターが出塁しなければ絵に描いた餅。得点力が低下するのは目に見えている。 しかし、先ほど述べたように大村はどんな場面でもフルスイングするような性格で、打撃がトップバッターらしからぬ荒々しさ(この点は武藤と正反対だった)。近鉄ファンが不安になるのも仕方がない。
開幕前、大村は地味な存在ながらも確実に近鉄打線の命運を握る存在だったことは確かだ。
そして、迎えた開幕戦の日ハム戦。
大村はホームランを含む5打数3安打の活躍をみせて、5点差の逆転劇に貢献する。
そして、大村はこの開幕戦の勢いをそのままに、いてまえ打線の1番打者として完全に定着して順調に安打を量産する(荒い打撃。一番打者としては低い出塁率、少ない盗塁はあいかわらずだったが……)。
なによりも白眉だったのは7月17日に千葉マリンスタジアムでおこなわれた前半最終戦。この試合は、勝てば前半戦を首位で折り返せるが、8回を終了して9対4と5点差ビハインドと苦しい展開だった(ちなみにこの日、先発して2回途中6失点でマウンドを降りたのは、開幕戦でも炎上していた門倉である)。
しかし、ギルバートと鷹野のタイムリーで3点を返し、7対9にまで詰め寄る。
さらに、走者を2人置いて、大村に打席が回ってくる。
ここで大村はやってくれた。
そのバットから放たれた打球は逆転の3ランとなり、10対9。その後もローズにも一発が飛び出して、9回だけで一挙8点。最終的には近鉄は12対9の乱打戦を制して、前半戦を首位で折り返すことに成功したのだ。
そして、大村は最終的には打率2割7分1厘、16本塁打という見事な成績で優勝に大きく貢献する。
何度も言うが、当時の近鉄は中軸を打てる打者が豊富に揃っていたが、リードオフマンタイプの打者は手薄だったので、大村の活躍はまさに値千金だった。そして、大村は2002年以降も1番センターとして、いてまえ打線を引っぱり、球団がオリックスと合併した2004年にFAでダイエーに移籍、2010年の名球会に入れる2000本安打を目前にして、戦力外。現役を続行の意志を示しながらもトライアウトには参加せずに、あっさりとユニフォームを脱ぐのであった。
その引退の仕方が示すように、どこかマイペースでリードオフマンらしからぬ自分のバッティングを貫いた大村。
引退後の情報は極端に少ないが、オーストラリアに渡り、日本球界とは距離を置いた生活を続けているらしい。マイペースなリードオフマンはユニフォームを脱いでも我が道を突き進んでいたのであった。