報われた右腕・岡本晃
2021年。オリックスバファローズが26年ぶりにリーグ優勝を果たした。
京セラドームでおこなわれた胴上げ。
その現場に現れたひとりの球団職員の姿に目を奪われたオリックスファンは多かったのではないだろうか。
その球団職員の名前は佐藤達也。
かつて、佐藤は中継ぎ投手として、オリックスの勝利の方程式を担っていた選手である。
とくに、オリックスが最後に優勝争いをした2014年には67試合に登板。2年連続で最優秀中継ぎのタイトルを獲得して、ファンから絶大な信頼感を得ていた。
しかし、現代野球において、中継ぎ投手の旬はあまりにも短い。
佐藤も例外ではなく、翌年の2015年に腰痛を発症。そこから度重なる故障によって、徐々に成績を落していった2018年には現役を引退しているのだった。
そして、2021年からさかのぼる事20年。京セラドームで初めて胴上げがおこなわれた2001年に、近鉄の中継ぎエースだった男が今回、紹介する岡本晃である。
岡本は即戦力を期待され、95年に関西大学から逆指名の2位で近鉄に入団。1年目こそは登板機会がなかったものの、2年目の97年には10勝6敗の好成績をあげて、新人王候補にもなる。(新人王には新人の最多盗塁記録を更新したロッテの小坂が選ばれた)。
しかし、3年目の98年は8勝13敗。4年目の99年は9勝12敗と2年連続で負け越し、5年目の2000年には未勝利に終わってしまう。
この岡本の成績下降を目の当たりした当時の筆者は、正直、「またか」と落胆したのをよく覚えている。
なぜならば、90年代の近鉄に入団した大学・社会人出のドラフト上位ピッチャーは、こういう成長曲線を描く選手が多かったからだ。
91年ドラフト1位の髙村祐。
93年ドラフト1位の酒井弘樹。
97年ドラフト1位の真木将樹。
入団してから1,2年目くらいはそこそこの成績を残すのだが、その後は伸び悩み、成績が先細る。それが、当時、逆指名によって入団する近鉄の即戦力投手のお決まりのパターンだった。
そして、捲土重来を狙った2001年。
岡本は開幕3戦目に先発を任せられるが、あっさり4回3分の1でノックアウトされてしまう。
このままで終わってしまうのか……。そう思われた矢先、岡本はここから不死鳥のように復活を遂げる。
4月3日のロッテ戦で中継ぎに転向すると、そこから別人のような安定感を発揮。来る日も来る日も投げ続け、近鉄の弱小投手を支え続けた。
そして、守護神である大塚が不調で2軍に落とされると、そこからストッパーの役割を任されるようにもなった。
とくに筆者が印象に残っているのは、5月26日のオリックス戦である。
ストッパーの岡本は延長戦の10回から登板すると、そこから12回までの3イニングをひとりで投げ切ったのだ。
役割は「ストッパー」でありながらも、使われかたは来る日も来る日も投げ続けなければならない「中継ぎエース」。それが、大塚不在時の最後のマウンドを守っていた岡本に対する率直な印象だった。
2001年の近鉄が打線を売りにするチームで、その反面、先発を始めとする投手陣に弱点を抱えていたことに異論はない。しかし、代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打やマジック1を点灯させた中村のサヨナラ2ランに代表されるような、今でも多くの野球ファンの記憶に残る奇跡のような逆転劇。それはリリーフ陣の踏ん張りによるものが大きかった。
とくに岡本がいなければ、大塚が1軍復帰し、巨人からトレードでやってきて7連勝を果たす三澤興一が加入するシーズン中盤を待たずに、そうそう優勝争いから脱落していただろう。
余談だが、開幕前まで先発としてシーズンを乗り切るため身体を調整し、前半戦の酷使が祟ったためか、後半戦の岡本はやや精彩に欠けていた。後半戦は岡本よりも巨人から移籍してきた三澤のほうが安定感があったくらいだ。
しかし、監督である梨田はよほどのことがない限り、大塚に託すセットアッパーのポジションを岡本で固定し、三澤→岡本の順番を変えようとしなかった。
この采配は、前半戦のいちばん苦しい時期の投手事情を支えてくれた岡本に対する梨田なりの「敬意」に筆者は思えて仕方がなかった。
2001年の近鉄が打線を売り物にしたチームで、MVPがシーズン最多本塁打タイ記録を作ったタフィ・ローズだったことに異論はない。しかし、「投」のMVPはこの岡本だったのではないのだろうか。
近鉄らしさが発揮できずに、1勝4敗でヤクルトに敗れ去った日本シリーズの第4戦。1対1のタイスコアで迎えた7回ウラ。
岡本が代打・副島孔太に勝ち越し本塁打を浴びたシーンを、筆者の友人である近鉄ファンは「わずかに残っていた希望が完全に打ち砕かれ、絶望に変わった瞬間だった」と表現した。それほどまでに当時の近鉄ファンは、岡本に絶大な信頼感を持っていたのだ。
しかし、冒頭で述べた通り、中継ぎ投手の旬はあまりにも短い。
2001年に61試合に登板して102イニング、2002年に65試合に登板して69イニングに登板してキャリアハイを叩き出した岡本の成績は徐々に下降していき、優勝からわずか四年後の2005年にはユニフォームを脱いでいる。
そして、時は流れて2022年。
もはや、近鉄のあの奇跡のようなリーグ優勝は遠い過去の記憶となり、プロ野球ファンの話題になる事すら少ない。たまに振り返ってもらえる事があっても、語られるのは中村やローズ、北川といった主力打者ばかりで、投手陣は「リーグ最下位の防御率でも優勝できた驚異のいてまえ打線」というように、その破壊的パワーを持つ打線の凄さを語る際の強調材料とされる場合が多く、賞賛の声はほとんど聞かれない。
岡本の、自らの投手生命を削った、あの2001年の粘投は決して報われないものだったのだろうか?
否。断じて違う。
2021年の京セラドームでおこなわれたオリックスの胴上げの場にいた佐藤達也。
彼を、球団職員としてではなく現役選手として胴上げに参加させたかった思ったオリックスファンは多かっただろう。
それほどまでに、2014年にソフトバンクを苦しめながらも最後の最後で散っていったチームのために投げ続けた佐藤の姿は、胸を打つものがあった。
それを考えれば、2001年の岡本の粘投は報われたのでないだろうか。
己の投手生命を削ってもマウンドに立ち続けた中継ぎ投手である彼らが、本当に手に入れたかったもの。
それは、後世の賞賛ではなく、あの瞬間のチームの優勝だったのだから。