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2004年の野茂英雄

 今から30年前。ひとりの日本人がメジャーの舞台を目指し、海を渡った。しかし、旅立つ男に向けられた言葉は、後の称賛からかけ離れた辛辣なものが多かった。


 男の名前は、野茂英雄。


 その名は、野球ファンなら誰でも知っている。


 野茂は、間違いなくスーパースターだった。


 ソウル五輪の日本の銀メダル獲得に貢献。ドラフト史上最多となる8球団競合の末に近鉄に入団。1990年のルーキーイヤーから最多勝を始めとする投手タイトルを総なめにして、優勝チームの西武の選手を差しおいてMVPまで獲得した。


 しかし、野茂が近鉄に在籍していた期間はあまりにも短かく、その離別はあまりに後味の悪いものだった。野茂の才能を信じきり、お互いの信頼関係のもとで放任主義を貫いていた仰木が近鉄からいなくなり、後任の鈴木啓示との確執。さらには、球団に対する不信感から野茂は任意引退を選択。ルールの隙間をつくようなメジャーリーグへの挑戦に(当時は)非難が集まった。


 筆者は大阪ドームが開業した97年から足繁く球場に通うようになった人間なので、残念ながら生で野茂の投球を見たことがない。


 しかし、一緒に外野席で観戦していた年配のファンの人たちは、「江夏の21球」も「10.19」もリアルタイムで経験しているので、とうぜん野茂が藤井寺球場で投げている姿を何度も見ている。そして、それに追随して、さまざまな思い出を語ってくれたものだった。


「あの時の近鉄は強かったんやけどなぁ……」

「野茂も石井(浩郎)も阿波野も、みんな、おらんようになったからぁ……」


 昔から応援している……西本政権時の2連覇や王者西武と互角に渡り合っていた時代を知るファンにとっては、20世紀末の近鉄のチーム状況はよほど寂しいものだったに違いない。


 それもそのはずだ。

 大阪ドーム開業初年度である97年こそは、西武とオリックスに次ぐ3位に食い込んだものの、翌年からの3年間は5位、最下位、最下位という残念な順位っぷり。

 それだけならまだしも、先ほど述べたように、野茂や石井浩郎や阿波野など「出してはいけない」ような選手も簡単に放出しているのだから、往年のファンは寂しくないはずがない。


 結局、近鉄は2001年に奇跡のような優勝を果たしたものの、球団の経営状態が上向く事はなく2004年に消滅することになる。優勝からわずか3年後のことだった。


 だが、あの時、チームの経営状況が苦しかったのは何も近鉄だけではない。


 人気・集客面でのセ・パの格差。逆指名ドラフトによって大学・社会人の有望アマチュア選手のパ・リーグ離れ。それならばと、イキのいい高校生を育成してみればFAによってチームを離れる。そして、スター選手不在に陥り、よりいっそう格差が広がる負のループ。


 個人的には、21世紀初頭のパ・リーグの閉塞感と混迷は、日本の歴史に例えれば、幕末の動乱期に似ていると思う。


 明治維新に至ったきっかけは、それまで絶対的な権力で日本を支配していた徳川幕府の権威の失墜だが、日本球界における幕府の役割を果たしていたのは、まちがいなく巨人という球団だった。


 高度経済成長期に、長嶋茂雄の入団と共にそれまで人気の面で後塵を拝していた大学野球を抜き去り、プロ野球を国民的スポーツにした功績はもちろん。戦術面でもドジャース戦法を取り入れ、興行的にも技術的に日本プロ野球界に果たした役割はあまりにも大きい。


 そして、2004年の球界再編は、近鉄とオリックスの球団合併に端を発したが、最終的には巨人に追従して一リーグを支持するか、これまでどおりの2リーグを維持するかの二者択一を他球団が迫られたと言ってもいい。ファンや選手会の意見は黙殺し、巨人と同一リーグになれば、多大な利益を手にすることが出来る……実行するか否か。


 結局、近鉄とオリックスは合併したものの、選手会の要望を飲む形で2リーグは維持された。その後にドラフト制度や交流戦の実施など、さまざまな改革がおこなわれて現在のプロ野球の繁栄に繋がっている。とくに、パ・リーグは昭和や平成の閑古鳥が鳴くような有様からみごとに脱却して、20年以上も身売り球団を出す事もなく経営的な安定をみせている。これは、1950年にセ・パが分裂して初めてのことだ。


 もちろん、2リーグ制の維持はファンの民意を汲んだという意見もあるが、それ以上にこの頃は巨人の権威が失墜していた事も見逃せない。


 たとえば、FA制度が実施された当初の野球界では、巨人に在籍する事が野球選手にとっては最高のステータスだった。実際に、落合博満や広沢克己といった当時の国内最高峰の選手は巨人に移籍している。


 しかし、その意識は徐々に変わってきた。

 海の向こうに、巨人よりもはるかに歴史も伝統もあり、世界中から野球選手が集まるリーグの存在を知った。いや、正確には昔から知っていた。しかし、それは、あまりにも遠い存在の憧れで、現実的な選択肢ではなかった。


 だが、90年代後半から、日本の一流選手の目は巨人ではなくメジャーに向き始めた。


 象徴的だったのは、この時代の2大野手のスーパースターであるイチローと松井秀喜が、国内の球団にいっさい目もくれずFAでメジャーに行ってしまったことだ。


 とくに、松井秀喜のFAはひと昔前までなら絶対に考えられなかった。


 日本の野球選手にとって最高のステータスは、長嶋茂雄や王貞治のように生え抜きとして巨人で野球人生をまっとうする事だった。そして、松井には間違いなくその資格があったはずなのに、それを選ばなかった。もっと広い『世界』に目を向けた時、巨人という球団でさえ野球選手にとって最高の栄誉ではなくなっていたのだ。


 そして、日本の一流選手たちにその価値観を強烈に植え付けたのは、まちがいなく野茂だった。黒船と言う外圧が徳川幕府の権威を失墜させたように、野茂は海を渡り日本の野球選手に広い世界を見せる事で、それまでの巨人絶対主義の価値観を一変させたのだ。


 もし、野茂がメジャーに行かなかったら……巨人という球団の権威が失墜していなかったら、2004年の球界再編はどうなっていただろうか。今日(こんいち)のパ・リーグの繁栄どころか、存在すらも歴史から消えていたかもしれない。


 そう考えると、たった五年間の在籍でありながらも、野茂がパ・リーグに残した功績はあまりにも大きい。

 一般的には、近鉄の命名権売却や6月の報道から語られることの多い2004年の球界再編。しかし、その物語の1ページ目は1995年から始まっていたのかもしれない。


 そして、近鉄の球団消滅も、この時にはすでに決定事項だったのだろう。


 野茂が近鉄球団に絶望し、見切りをつけて海を渡った、その日から。





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