すべてが忘れ去られる前に
かつて、パ・リーグには大阪近鉄バファローズという球団が存在していた。
プロ野球がそれまでの1リーグからセ・パ2リーグに分裂した1949年に誕生し、あまりの弱さゆえにに「パ・リーグのお荷物」「万年最下位」などと揶揄されながらも、4度のリーグ優勝を達成。しかし、ただの1度も日本一にはなれずに2004年に55年の歴史に幕を下ろした球団。
そして、その近鉄の歴史で結果的には最後の栄光となってしまったのが、今から紹介する2001年のリーグ優勝である。
近鉄は、その歴史において低迷期が長く、優勝すること自体が稀だった。しかし、ひとたび優勝、もしくは優勝争いに加わると、とんでもなくドラマチックな試合を展開する事で知られている。
そして、その例にもれず、2001年もそうだった。
初回に5点を取られながらも、最終的には10対9で勝利した開幕戦。5点のビハインドがありながらも最終回に一挙8点を取り前半戦を首位で折り返すことに成功した7月17日のロッテ戦。ローズが日本タイ記録に並ぶ55号のホームランを打ち、中村がサヨナラ逆転3ランで華を添え、マジック1とした9月24日の西武戦。 そして、北川による史上初の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン。
そのドラマチックな試合の数々に、当時の野球ファンは度肝を抜かれ続けた。
しかし、合併による球団消滅から17年。今では当時の記憶を知る野球ファンも少なくなってきた。
だからこそ、今、2001年の大阪近鉄バファローズを語りたい。
それも主砲である中村やローズや北川といった、一般的に語られることの少ないバイプレーヤーを中心に紹介していきたい。それが、球団合併に伴う球界再編の末に消滅してしまった、この球団にふさわしいと感じたからだ。
最後に、2001年当時の近鉄のチーム状況を説明しておきたい。
投打ともに主力はスケールと個性に溢れ、王者・西武のライオンズのライバルとして89年にリーグ優勝したのは、今は昔。
その後は、近鉄の悪しき伝統というべきか、当時の主力選手たちは次々と移籍してチームは弱体化。かつての猛牛軍団は見る影もなくなっていた。
さらに人気面でも、関西では絶対的な支持者を持つ阪神だけではなく、同じパ・リーグのオリックスにも大きく水を開けられていたような状況。
それに加え、日本経済も未だバブル崩壊の痛手から立ち直れずにいた。そんな終わりの見えない不況の中、親会社から補填される10億円の宣伝・広告費を差し引いても、年間30億円もの赤字を垂れ流し、いつ身売りをするのかと常に囁かれていた。しかし、それは何も近鉄球団だけではなかった。
FAによるスター選手のメジャーや巨人などの人気球団への流出。逆指名の採用によって有望新人選手が入団しにくいドラフト制度。何度も誰が訴えても実現する気配すらないセ・パ交流戦。この頃の、ダイエーと西武以外のパ・リーグ4球団は多かれ少なかれ、そんな閉塞感の中で常に身売りの影がチラついていた。
近鉄もそんな打破するために、97年に本拠地を藤井寺球場から大阪ドームへと移すが、思ったように観客増にはならずに、近鉄沿線ではないため、それまで少なからず存在していた試合時の鉄道の売り上げがなくなったうえに、多額のドームの使用料でよりいっそう経営が圧迫される始末で、チームは99年から2000年にかけて2年連続最下位。
つまり日本経済がどんぞこ状態であった時代の、さらに体力が奪われつつあったパ・リーグにおける2年連続最下位チーム。それが2001年の開幕を迎えた当初の近鉄というチームの状況だったのだ。
なお、これから書く文章は、筆者の偏見と感傷に満ちたものになるのをご容赦していただきたい。