疎遠だった幼馴染がAVデビューする話(~Front side edition~)
今朝の東京は快晴だった。3月の心地の良い日差しは僕の新しい生活の門出を祝ってくれているように感じた。しかし、その日差しは、地元である庄内平野に来る頃には、すっかり曇ってしまっていた。
東京では道行く人はみな、耳にイヤホンをつけ、自分の世界に入りつつ歩く。僕も4年間の東京での大学生活を終えたころには、その習慣が身についていた。今流行りのポップミュージックが僕の頭を巡っているのは、意図して僕が東京での生活を忘れないようにしているためかもしれない。
時に、僕は好きなミュージシャンがいた。世の中を風刺しすぎる独特な歌詞とありきたりなメロディーがどことなく安っぽい感じがして、あまり人気ではなかった。僕は逆にそういうところが好きだったが。そのミュージシャンは、2か月前、他界した。一切ワイドショーなどでその話題が出なかったところに、そのミュージシャンの不人気ぶりが歴然だが、僕としては彼の新曲を聞けなくなるのは、少し寂しい気持ちになる。
普通、僕の地元に東京から帰る際には、飛行機を使うのが一般的だが、こうして倍の時間をかけて鉄路で帰宅したのは、彼の思い出の曲をゆっくり聞きながら帰りたかったという理由があったからだ。おかげで、時間こそ倍かかったが、交通費は半分で済んだ。
新幹線、汽車、バスを乗り継ぎ、地元の町に着いた時にはもう日が暮れるころだった。すっかり赤みを帯びた太陽が西の地平線に堕ちようとしていた。真上にはどす黒い雲に覆われているが、東京で見たきりの久々の太陽には、これまでの長い距離を移動したということを感じさせない、いじらしさがあった。
大学生活の間、実家にはたった二度を除いて戻らなかった。一度は親父の葬式。もう一度は、就職活動の面接だった。得に用があるわけでもないのに、忙しいからと言ってどちらもすぐ東京に戻ってしまった。
だから、しっかり町を散策するのはこの町を出た4年ぶりだった。小さい頃に通った駄菓子屋は閉まっている。意地の悪かったおばあは元気にしているのだろうか。中学の頃に籠っていた古本屋は、すっかり改装してレンタルビデオのチェーン店になっていた。ひねくれものの店主のおじいさんはどうしたんだろう。
思いを馳せてもあの頃に戻れるわけもなく、少し寂しい気持ちを抱えながら、僕は自分の家まで向かっていった。
「おーーい! ゆーきじーー!」
家まであと歩いて五分というところだった。聞きなれた低くて明るい声が聞こえた。
「おい、雪路だろ! 久しぶりだな!」
「純一! ああ久しぶり!」
声の主は中学の同級生、大島純一だった。中学の間だけだったが、親友と呼べる友人だ。今回、僕が地元に帰ることを家族以外で唯一打ち明けていた。
昔は野球しか頭にない脳筋野郎だった。部員が5人しかいない野球部で毎日部活に勤しむバカな奴だと思っていた。そんな奴が、いっちょ前に普通車を乗り回してるんだから違和感すら覚える。運転席の純一は22という年齢もあってか、さすがに落ち着いた大人の雰囲気が感じられた。
「待ってたぜ、雪路!お前、今日帰ってくるとだけ言って全然時間も教えてくれないじゃないか!空港で待とうかと思ったけど、お前、全然電話でないからさ!」
「ああ、悪い。マナーモードにしてた。今日は汽車で帰ってきたんだよ」
「そうなのか。それはまあいいよ。それより早く帰っておふくろさんに顔見せてやれ!」
「いや、今日は夜遅くに帰るようにおふくろには言ってあるんだよ。純一、今日はどこか呑みに行かないか」
相変わらずのマシンガントークに、だんだん自分の心が解れていくのを感じた。この町の風景を見ていると、心の底からどこか真黒な気持ちがこみあげてくるのに、耐えられそうになかった。だからこそ、親友の言葉に救われた。こういったことが、中学のころから何回もあった。
「おうよ、そうと決まれば俺の行きつけの店に連れてってやる!荷物は後部座席に乗せてけよ!」
そういうと、純一は僕を助手席に乗せて、僕の家とは反対方向に向かっていった。
入った店は古民家のような居酒屋だった。子供のころから店自体はあったようだが、自分には関係ない店だと思って入ったことがなかった。中はそう広くなく、カウンターが数席と座敷が二つあるだけだった。僕たちはそのうちの座席の一つの席に座った。
純一は「生でいいよな?俺、ここの常連だからここの飯のチョイスは任せとけ!」と言ってアルバイトらしき女の子にひょいひょいと注文していた。
純一はその女の子とも気さくに話していた。「ああ、高校の後輩なんだ。よろしくしてやってくれよ」その言葉は、この町では至って普通の会話、代わり映えのない話。しかし、僕の中ではこの田舎特有の世間の狭さに寒気を感じざるを得なかった。自然と僕の口角が下がる。純一はそれを察したのか、話題を変えてくれた。
東京での生活はどうだった。やっぱり人は多いのか。うまい飯は食べられるのか。可愛い彼女の一人でもできたのか。仕事はどんななんだ。
すごく他愛もない話だった。深い話からしょうもない話までいろんな話をした。その時間はとても楽しく過ぎ去った。2時間くらいしゃべっただろうか。異様に時間が過ぎるのが早く感じた。
「雪路ってさ、なんで帰ってきたんだ?俺はもう戻ってこないと思ってたぞ」
純一はどこか優しく、気を使いながら、でもどこかホッとしたように言った。
もう9時を過ぎたころだった。他のお客さんも皆いなくなってしまい、カウンター越しにさっきの女の子が皿洗いをしていた。僕はその子がこっちを見ていないのを確認して純一に話した。
「ああ、特に理由はないよ。東京での就職活動に失敗しただけさ」
それは本心ではなかった。純一もそれが本心ではないことに気が付いていただろうが、それ以上深くは聞いてこなかった。
「そうか、それなら良かったんだ」
「悪いな、純一には世話ばかりかけて」
そう、世話ばかりかけてきた。心配ばかりかけてきた。そしてこれからもきっと心配ばかりかける。
「全然いいんだぜ。俺は…」
自然と会話が消滅していった。今日はその場でお開きになった。
「橘雪路です。よろしくお願いします」
4月1日。エイプリルフールがどうとかは今年だけは関係ない。初めての職場。初めての経験。社会人研修。怒涛の一日のうち、瞬く間に半日が過ぎていった。
そんなに大きくない会社だ。社員は10人くらい。地域の農作物の輸送や販売などをコンサルティング的に行う会社だ。農作物の輸送に限らず、適切な販売価格や供給量の調整、食材を必要とするレストランなどの業者とのマッチングなども請け負う。農業が基幹産業となっているこの町では欠かせない仕事だ。
一見、大変そうな仕事に思えるが、人との対話が基本なので特別なスキルが不要な仕事でもある。そういったところと、田舎だとは思えないそこそこの収入に惹かれて、僕はこの仕事を選んだ。
「三峰優希です。これから一緒に仕事をしていくので、よろしくね」
昼を過ぎ、会社に帰ってきて、隣の席の社員に話しかけられた。
冷たい挨拶が聞こえた方を振り向くと、スーツ姿の綺麗な女性が立っていた。
「は、はい……」
「返事ははっきりしなさい。あなたの仕事を説明するので、ついてきてください」
三峰さんはそう言って事務所のことを教えてくれた。最初は冷たい印象だったが、メールの使い方やコピー機の使い方等細かいところも教えてくれる優しい先輩だった。僕と話しているときはピクリとも笑わなかったが。
「はい、今日はここまでです。最後に業務日報を書いて退社してください。明日はこの書類とこの資料のチェック、昼からは大森産業さんとの打ち合わせに同行してもらって、そのあとは現地検査です。服装は今日渡した作業着で来てください。残業はしないこと。お疲れさまでした」
僕にそう告げるとそそくさと自分のパソコンに向かって作業を始めた。なんというか、この田舎とは思えないほど仕事ができる人だった。
「ユキちゃん。すごい子でしょ」
慣れない業務日報を書いていると後ろから、40代くらいの女性社員に話しかけられた。確か名前は……
「斉藤です。よろしくね」
「あ、はい。橘です。よろしくお願いします」
「やあねえ、そんな硬くならなくていいのよ」
三峰さんと違ってすごく物腰の柔らかい人だった。
「初めての出社は大変だったでしょ。特にユキちゃんと一緒だからねえ」
「はい……でも、ちょっと楽しかったです。明日からも頑張ります」
確かに大変だったのだが、テキパキと仕事を熟していく三峰さんを横目で見ているのは楽しかったというのも本心だ。
「うふふ、楽しみねぇ。大卒組の二人には期待してるからね!」
「ん?二人?」
「あら、知らなかったの?ユキちゃんも東京の大学を出てウチに入ってくれたのよ。確かIターンとかそういうやつよね!」
「そうなんですね…」
三峰さんの席を振り向くと、三峰さんも同じタイミングでこっちを向いた。
「橘君、定時過ぎてますから、早く業務日報を書いて帰ってください。斉藤さんも、早く帰らないとスーパーのタイムセール終わっちゃいますよ」
「あらあら、そうだった。今日はコロッケなのよ。ウチのガキんちょはコロッケに目がなくてねぇ。それじゃあ、また明日ねぇ」
「お疲れさまでしたー」
三峰さんにこれ以上小言を言われるのも嫌なので、急いで僕も日報を提出して帰宅した。
「ただいま」
ガラガラと音を立てて実家の古い引き戸を引いた。「おかえり」と優しげなおふくろの声が聞こえて、最近はどこか安心するようになった。
「今日の晩飯は何?」
「今日はコロッケよ。スーパーで安かったからつい買っちゃった」
「そうか、うまそうだな」
僕が食べるにはちょうどいい少し大きめなコロッケが2つ、テーブルに並べられていた。おふくろは嬉しそうにご飯とみそ汁を注いでいる。
最近、近所の人からおふくろが明るくなったと聞いた。きっと雪路君が帰ってきてくれたからだねぇと言われたが、その本心はおふくろにしかわからない。親父が死んで、ずっと一人にしてしまった申し訳なさは感じていたが、その話を聞いて少しほっとした。
「いただきます」
向かい合わせにおふくろとご飯を食べることに、最近は違和感もだんだん無くなってきた。最初は2人で何を話していいのかわからなくて無言の時間が続いていたが、最近はちゃんと話ができるようになってきた。
「今日は、仕事どうだった?」
「ああ、なんとかやっていけそうだよ」
僕はコロッケを頬張りながら言った。なるほど、確かにうまい。セールになるとみんなが飛びつく理由がわかる気がする。
「純一くんは元気そう?」
「ああ、あいつ、今農家やってるんだって?今度仕事でも会いに行ってくるんだ。なんかあいつが真面目に仕事やってるのが想像つかないよ」
「そうかいそうかい、それは良かったねぇ」
明るくなったのはきっとおふくろだけじゃない。僕も、この町に帰ってきて口数が多くなった気がする。それはきっと純一やおふくろのおかげだ。
「私は、あんたがこの町に帰ってきてくれるなんて思ってもなかったから、嬉しいよ」
「……まあ、な」
おふくろも、純一と同じような顔をしていた。優し気に、でも気を使いながら、そして、少し後悔を抱えながらの顔を。
「あ、そういや、おふくろ。町中にあったおじいさんの古本屋ってもう閉店したのか?」
俺は半ば無理やり話を変えた。
「ああ、あの古本屋かい。今は寺沢に場所を変えてまだやってるよ」
「そうなのか、あのじいさん、まだ元気だったか、よかったよ」
「あんた……また会いに行ってあげな」
「そうか…そうだよな。うん、今度の休みに行ってくるよ」
おふくろが心配したのは、古本屋のおじいさんに会いに行くことじゃない。僕が寺沢に行くことを心配したのだろう。
そう、寺沢には、母校の中学校があるのだ。
五月。ゴールデンウイークに入った。
東北の春は長い。雪解け水が山から流れて川は潤い、草木は元気に緑で生い茂っている。最近納車された軽自動車を走らせること、10分。寺沢地区に入った。
母校の中学校は3年前に閉校になった。それを象徴するように寺沢の中心にある商店街の店は軒並みシャッターが下ろされていた。
そのシャッター街の一つに、不気味さすら感じられる古本屋が1軒空いていた。
不用心なことに、中に入っても誰も出てこなかった。それは中学の時から変わらない。店主のおじいさんの口癖だった。「どうせわしも死ねばこの本たちも一緒に燃やされるんじゃ。そうなるくらいなら、万引きの一つや二つしてもらったほうが、最後にこの本たちも天寿をまっとうできるってもんじゃろ」
中には昔の中学生が好きそうなSFやファンタジーの小説から、勉強の参考書までいろんな本がそろっていた。しかし、今日の目的はその本じゃなかった。
「おーい、おじいさーん。いないのかー」
店の奥に声をかけたが、返事がない。
「心優しくて近藤真彦みたいにイケメンなおじいさーん、いませんかー?」
昔はこういうと、「近藤真彦なんかよりもよっぽどイケメンじゃわい」と笑いながら店の奥から出てきたが、返事は依然帰って来ない。
「おい、クソジジイ! いねえのか!」
最後の手段だったが、いよいよ返事が帰って来なかった。店を開けたままさすがに外に出るとは考えにくかったが、そうなるとこの真っ昼間から寝てるのだろうか。
「まあ、いいか」
今日のところは出直すことにした。
ゴールデンウィークなのに人っ子一人商店街には見当たらない。不気味さも感じられる中、俺はその古本屋を去った。
商店街を抜けると、そこには巨大な廃屋が建っていた。
かつて、僕が通っていた中学校だ。ところどころ窓ガラスが割れ、校庭には草が生い茂っている。世の中の廃墟マニアにとっては絶好のスポットだろうが、どうしても僕には恐怖心しか感じなかった。そこは確かに三年間通っていた中学校なのだ。しかし、もうすでにそこに生活感はなく、生徒がいる気配は一切ない。廃墟としての恐怖心は更にもう一つの恐怖心として僕を襲ってきた。正門からかすかに見える体育館、あの裏が恐怖心の震源地だ。あの裏には大きな池があって、その場所で、僕は何度も何度も……
僕は逃げるようにその廃屋を去った。
そこからは、かつての通学路を通って帰宅した。
正直、道の選択は失敗した。中学生の時の記憶が何度もフラッシュバックする。ハンドルを握る僕の手は震えていた。細い道にはあるまじき速いスピードで駆け抜けた。
家の近くに帰るころにはさすがに震えは収まっていた。吐き気さえも伴う危険なドライブはいったん終えた。
家に戻る前に、僕は少し寄り道をした。
一つ通りから入った道を行くと、一軒家が見えてくる…はずだった。
「うーん、このあたりだと思ったんだけど……え?」
目的地の一軒家、のはずの場所には、ただの空き地が広がっていた。
端っこの方に寂れた「売土地」と書かれた看板が斜めに刺さっている。
その場所は、小さい頃からの幼馴染、青波桜子が住んでいるはずの家だった。
『……お前、もう寺沢に行っても大丈夫なのか?』
「うん……ちょっと大丈夫じゃなかったけど、もう昔ほどじゃないよ」
『まあ、それなら良かったんだけどよ』
僕はその夜、純一と電話していた。飯に誘っても良かったが、純一にはもう家族がいるらしく、そう簡単に気軽に誘えなくなっていた。奥さんは高校の時の同級生らしく、2年前に結婚したんだとか。
「それよりさ、桜子って今何してるかわかるか?」
『ん? 桜子?』
「うん、今日家まで行ってみたんだが、もう家ごと無くなってしまっててさ」
『あ、ああ。この町にはもういないぜ』
珍しく、純一の声が濁ったのを感じた。こっちに帰ってきてから、純一の言葉が濁ることはなかった。わざとらしく、僕はつづけた。
「じゃあ、どこにいるのか知ってるか?」
『ええと、高校出た後、大学に行ったっていうのは聞いてたけど、どこの大学に行ったかはわからねえな』
純一の力強い口調は戻ってきた。一瞬、純一の言葉が濁ったのがすごく気になった。それもきっと、僕を心配してくれてのものだろう。
「そうなのか、ありがとう。……もう心配しなくてもいいよ」
『おいおい、もうビビらせるんじゃねえぞ。明日も早いんだろ、早く寝ろ、新人!』
「ああ、お休み」
もう心配しなくていい。もう僕は桜子のことを気にしていない。もう大丈夫。純一に説得するように、強く、強く、自分に向けて、心の中で説得していた。
10年前。それはまだ小学生の時。
遠い遠い、昔の記憶。
セミがやかましくなるのを記憶に、鮮明に覚えさせている。駄菓子屋さんのおばちゃんからアイスを買って二人で並んで歩いていた。
「雪路!私この町つまんない!」
「ええ?どうしたの…桜子ちゃん……」
歩道のブロックの上を歩きながら、女の子は言う。
「だってさ!駄菓子屋のおばちゃんはケチだし、服だって近所のお姉ちゃんのおさがりしかもらえないんだもん!」
「え、そ、それはそうだけど……、ほら、この前僕新しい本屋さん見つけたよ!」
「あの本屋さんもつまんないよ!雑誌とか漫画とかないじゃない!」
「そ、そうだね……」
「それよりもさ、雪路は東京行きたくない!?」
「え?東京!?」
人が多いところが苦手な僕は目をそらした。
「大丈夫だよ! 私、雪路と一緒なら東京行きたい!」
歩道のブロックから飛び降りた少女は手を差し出す。
「さあ、行こう!一緒に!」
僕はその時、どんな返事をしたのか覚えてない。でも、その時、僕は彼女と一緒なら、なんでもできるような気がしていた。
「雪路くんってさ、やっぱりすごいんだねぇ」
六月。いつものように昼休憩で弁当を食べていると、斉藤さんに話しかけられた。
「斉藤さん……、いえいえ、まだまだ分からないことだらけです」
「いやいや、しっかりユキちゃんについて行けてるのがすごいよ」
斉藤さんは僕の隣の席で自分の弁当を広げた。
「そうなんですか? やっぱり、僕はこの仕事楽しいです」
「あらあら、立派ねぇ。おばちゃん感動しちゃうわ! 去年も一昨年も2か月も持たなかったからねぇ」
「え? 何がですか?」
斉藤さんはアハハと大声で笑っている。僕がキョトンとしていると逆側から三峰さんに話しかけられた。
「橘くん、今夜空いてる?」
いつものキリッとした三峰さんじゃなくて優しそうな顔をしていた。
「今夜ですか? 予定は入ってないです」
「じゃあ、よかったら2人で飲みに行かない?」
「え、あ、え? 僕ですか?」
意外なことで驚いてしまった。三峰さんとは仕事で一緒に活動はしているが、プライベートでは、一切かかわりがなかった。
「あらあらやだやだ! ユキちゃんが雪路くんを誘ったわよ!」
なぜが僕たちではなくて、隣で聞いていた斉藤さんがはしゃぎだした。
「雪路くん! 行ってきなさいよ! 社長と違ってユキちゃんはアルハラなんてしないからさぁ!」
「斉藤さん、聞こえておるよ」
社長の席から参ったような社長の声が聞こえてきた。社内は笑い声で包まれていた。
かくして、僕は三峰さんと食事に行くことになった。
「いらっしゃいませー、あ! ユキさん! いらっしゃい!」
「あかりちゃん、来たわよ」
場所は純一に連れて行ってもらったところだった。この町の居酒屋ってもしかしてここしかないのではないだろうか?
「あれ、この前純一と一緒に来てくれた人じゃない?」
「あ、ああ。あの時はありがとうね」
アルバイトのあかりちゃん(?)は僕のことを覚えてくれていたらしく、元気に挨拶してくれた。
「ええっ!もしかしてユキさんの新しい彼氏ですか!?」
「あかりちゃん、私が男をとっかえひっかえしてるみたいに言うのやめてくれる?」
「あっはー、そうでした! ここ何年彼氏いないんでしたっけ~?」
「あかりちゃん、生二つと唐揚げと……」
「え~、ちょっと待ってよ!」
三峰さんは淡々と注文をつけていく。チョイスが純一とほとんど同じだったのが面白く感じた。三峰さんが言うには「この店って、これら以外微妙なのよね」らしい。三峰さんとあかりちゃんの掛け合いが面白くてつい聞き入ってしまっていた。
「あ、もしかしてお兄さん、ユキさんの新しい下僕ですか!?」
「あかりちゃん!下僕って何よ!」
「ユキさん、自分の部下に対しては下僕みたいな扱いするじゃないですか」
「それは、私のこれまでの部下が不甲斐なかっただけじゃない!」
下僕、と言われてどこか少し納得してしまった。たまに実現不可能に近い要求をされることがある。そのたびに関係業者に説明しに行って、了承を取って、というようなことが何度もあった。
「あー、まあでも僕も楽しんでやってるんで大丈夫ですよ」
「え、お兄さんってM系ですか? ユキさんぱっと見は綺麗ですけど、私生活ズボラなんで狙うならやめといたほうがいいですよ。それより私どうですかぁ? 私今フリーですよ!」
「あかりちゃん、余計なこと言わないの。ハイボール一つ」
「は~い」
なかなかグイグイくる子だった。働きながら実はお酒が入ってるのかもしれない。
「あの子も、橘くんと同じで私の部下だったのよ。高卒だったけどね。入って一ヵ月で辞めたの」
なるほど、だから下僕なんて言ってたのか。
「この町って狭いでしょ。だからどれだけあの子が私のことを嫌っても、私とはこれからも付き合っていかなきゃいけない。いやな町よね」
三峰さんは届いたばかりのハイボールをグイグイと飲んでいく。
「橘くんさ、なんでこの町に帰ってきたの?」
「え……?」
三峰さんのいつもの白い肌がだんだん赤く染まっていくのがわかる。僕は半ば、三峰山の話に集中して無かったが、一気に引き戻されたように感じた。
「私も感じてるの。橘くんってすごく優秀よ。この町に留まっておくのはもったいないくらい。だから、あの会社で働いているのが不思議に思っちゃって」
「………」
僕は何も言えなかった。何を答えるのが適切なのかわからなかった。この人にすべて話すのは、少しだけまだ早いような気がしていた。
「…答えたくないなら、別に無理にとは言わないわ」
三峰さんは優しい人だった。4月の新人で何もわからない時からそうだった。それはお酒を飲んでいても全く変わらない。
「……すいません」
「別に謝らなくてもいいわよ。言いたくないことの一つや二つくらいあって当然でしょ」
三峰さんは都会な人の考え方だった。逆に僕にとっては懐かしい気がした。
「それを聞くために誘ったんですか?」
三峰さんはハイボールを飲み干すと、ぐっと体を近づけて耳打ちした。
「……若い女が男を飲みに誘ってるのに、それだけのわけがないでしょ」
「え、それって……」
「あ!もしかして、橘くんって童貞!?」
「あ、あの……」
三峰さんの勢いに押し切られてる。僕はビールを飲むふりをしてごまかした。
「うふふ、じゃあいつか橘くんがこの町で働く理由を教えてくれたら、お姉さんといいコトしよっか~」
その場は収まった。三峰さんはさらにハイボールを注文する。僕はそのあとウーロン茶しか飲めなかった。
三峰さんは笑っていた。僕はどの顔が三峰さんの本当の姿なのかわからなかった。
「斉藤さん、三峰さんって酒癖悪いんですか?」
「ええ?」
翌日、こっそり斉藤さんに昨夜のことを聞いてみた。
「ユキちゃん?全然そんなことないと思うけど、むしろお酒飲んでもおとなしくてどうすればいいのか困っちゃうくらい」
「橘くん、今から新規案件の打ち合わせに行くので準備して」
「あ、はい」
すぐに三峰さんに気付かれてしまった。ほんとは次の打ち合わせまで30分もあるからまだ準備するのには早すぎるだのが、無理やり僕と斉藤さんの会話を断ち切った形だった。三峰さんの目は昨日の優しそうな目ではなく、いつもの冷たい目だった。
移動の車の中では会話はなかった。けれど、信号待ちの途中で一言つぶやいた「私、お酒は強いから昨日言ったこと全部覚えてるよ」とだけ言われたことが、僕の背筋を凍らせた。
今回の新規案件は、新しく農業の始めようと考えている人向けの住宅支援事業に関する打ち合わせだった。役場の人と、不動産関係の人と三者で打ち合わせる。この三か月で不動産関係の人と仕事をするのは初めてで、三峰さんも初めて会う人という。
「電話口では、私たちくらい若い人が担当者だと思うわよ」
事前にそう伝えられてた。相手が若い人ならと、今回の案件は僕が一人で回せると三峰さんは考えているようで、今回、三峰さんはあいさつに同行することになった。
———瞬間、背筋が凍り付くのが分かった。
動けない。体が動こうとしていない。
目を見開いたまま、筋肉が、皮膚が、脳がだんだん力が入らなくなっていく。
ああ、このままじゃだめだ。誰か…誰か……
「松山不動産、愛崎礼二です。よろしくお願いします」
「あ…ああ……」
「————……酒田農業支援センターの三峰です」
「あ、え。同じく橘です」
固まっている僕を見て異変を感じた三峰さんが先に名刺を交換していた。そこから先は記憶がない。帰社してから愛崎礼二と書かれた名刺が、胸ポケットの中に入っていた。
愛崎礼二。忘れようがない。忘れられない名前だ。
『———。……僕の制服返せよ…!』
いやな記憶が全て蘇ってくる。あれは、中学二年の冬だったか。雪が膝丈くらいまで積もったとても寒い日だった。
『ハハハ、雪路! お前服着てない方が似合ってるぜ!』
衣類を全部脱がされ、四人の男子生徒に囲まれている姿を、よく覚えている。
『お前にはこんなの必要ねえだろ!』
『返してほしけりゃ自分で取りに行けよ!』
自分の服は学校裏の池に捨てられていた。寒くて、凍えて、死んでしまいそうだ。
『ハハハ!こんな寒いのによく裸で池に入れるよな!』
『それ!』
『うわぁぁああ!』
『ほら、せっかく池入るんなら肩まで入れよ!』
『うっわーさむそー!』
必死になって池で服を探していると、後ろから押し倒された。全身に冷たい水があたり、急激に体温が奪われていき、やがてだんだん視界もぼやけてくる。
『——————こらあああああ! 愛崎ぃぃぃいいいいいい!!』
そう、その主犯の名前は愛崎、愛崎礼二。中学のころから髪を赤く染めている問題児。あの笑い声が、甲高い笑い声だけはよく覚えている。
『雪路! あんなのに負けちゃだめだよ!』
そう、僕はあんなのに負けちゃいけない。負けちゃいけない。あいつらを許すわけにはいかない。でも……でも……
『桜子……』
『雪路に何かあったら、私が助けてあげる!!』
桜子と呼ばれた女の子の声が響いた。
『雪路が……!雪路……!雪路くん! 雪路くん!!!」
顔を上げると、そこにいたのは、桜子ではなく、三峰さんだった。
「もう!やっと顔を上げてくれた! 一体どうしたのよ!」
「え、あ」
「あ、じゃないわよ! どうしたのよ、急に固まっちゃって!」
僕はきちんと答えることができずにいた。
「……わかったわ。今日は帰りなさい。もういい時間なんだから」
「え、あ、はい」
「その代わり!明日にはしっかり気分取り戻すのよ!いいわね!」
「はい!」
三峰さんはきつく言い放って僕を事務所から追い出した。それが彼女なりの優しさだったことには僕も気づいていた。
僕はまだ軽く放心状態になりながらも、その日は帰宅した。
その日、僕はある人にLINEでメッセージを送っていた。返信はその日、3時間ほど経ってもなかった。
今度は、電話番号にかけてみた。この番号は現在、使われておりません。という言葉が何度もリピートされた。
青波桜子の行方は、僕には完全にわからなくなっていた。
「おはよう、橘くん」
「おはようございます!三峰さん! 昨日はすいませんでした!」
いつも朝は定時の30分前には三峰さんは会社に来ていた。それを知っていたので、今日はそれに合わせて出社してきた。
「昨日何があったのかは聞かないわ。でも、仕事をする以上はベストのパフォーマンスを発揮できるように日々準備はしてなさい! いいわね!」
「はい!」
「よし! じゃあ今日の業務はこれ!」
そういって、三峰さんは大量の書類を預けてきた。まるで昨日の分をそのまま渡してきたようだった。
「あ、あの、三峰さん……」
「どうしたのよ」
「……ありがとうございます」
それは何に対してかわからないありがとうは、ただ誰もいない会社に響くだけだった。
「申し訳ございません!」
あの日から3週間が経った。それは3度目の松山不動産との打ち合わせだった。
「いやいや、あのね。これは完全にそちらの確認ミスだよね。それをなんでわが社が費用を負担しないといけないわけ?」
移住の受け入れ費用のうちの数十万円分が足りてない状態のまま計上されていた。確かに、この件は僕たちの、さらに踏み込むと僕のミスだった。
「すみません……なにぶん、不動産の業界は不慣れなもので、不必要なものとして0円計上するつもりでして……」
「そんなわけないだろう。ここには必要だからこちらの書類にもちゃんと値段を書き込んでいたんじゃないか。それに、不動産業界に不慣れと言ったって、もう何度も打ち合わせを重ねてきたじゃないか!」
この件は、僕の想像以上に重大なことらしく、先ほどから先方の代表が愛崎の隣で怒鳴り声をあげている。
「そういうことだから! わが社は一切責任を負わんぞ! 失礼する!」
松山不動産の代表はそう言って応接室を去っていった。僕の気分は完全に落ち込んでいたが、さらにそこには愛崎と二人の空間であるということが、更に気分を落ち込ませるのに拍車をかけていた。
「ということなので、次は書類の整備をしてから次の機会にしましょう」
気色の悪い赤髪が、気色の悪い敬語を使いながら言った。
「……はい」
「つかぬことを聞きたいんですが……」
愛崎は丁寧な質問口調でつづけた。
「橘さんって、松山中の雪路?」
その時の愛崎の顔は覚えていない。真面目に仕事する愛崎か、いじめをするのを心から楽しんでいた愛崎か。僕はその顔を見ようとしていなかった。
「すいません、次の予定があるので失礼します!!」
僕は急いでその場を後にした。車の中で、自分の呼吸が乱れているのがわかった。それがとても気持ちが悪かった。
「ふーん、それで、失敗をして帰ってきたと」
「はい……」
「なんでこんな失敗をしてしまったの?」
帰ってから、三峰さんに説教されていた。鬼のような形相を浮かべているが、愛崎との二人きりの時間に比べれば、些細なことだった。
「それは……僕がよく業界のことをしらなかったからです」
「それは言い訳。じゃあ先方の愛崎さんに細かく指示をもらえばよかったでしょ」
「……はい…」
「橘くん、この3週間、愛崎さんとは何回連絡をした?」
「…………」
「———やっぱり、あなた愛崎さんと何かあるんでしょ」
「………」
「橘くん、今夜空いてる?」
「……え?」
「お説教の続きするから、黙ってついて来なさい」
その日は三峰さんに、無理やり車に乗せられて、会社を去った。
町に一軒しかないコンビニに寄ったかと思うと大量の酒を購入した。
「さすがに一人じゃ支払い大変だから半分は後でちょうだいね」
と一言言われただけで、とても二人で飲む量とは思えないほどの酒の量だった。
向かったのは少し小さめの民家だった。表札はなく、ボロボロの二階建ての建物だった。
「ああ、ここ私の家」
三峰さんは慣れた手つきで細い駐車場に車を止めると、大きな音を立てて鍵を開けて、中に入った。
「し、失礼します」
「あいどうぞ~」
中はあの職場での三峰さんとは思えないほど生活感にあふれていた。生活感があると言えば聞こえはいいが、はっきり言って……汚かった。
「あ、今、汚いって思ったでしょ」
「え、そんなことないですよ!」
「いや、今、目が汚いものを見る目だった」
だんだんと三峰さんの表情があの居酒屋にいた時の表情になっていった。
ビールの空き缶が並べられているテーブルから空き缶をしまうと、コンビニで買ってきたものを取り出した。そして……
「かんぱーい!」
三峰さんは缶ビールをそのまま一気に流し込んだ。ここまでの一連の行動の速さにびっくりしている。服はスーツの着のまま、スーパーやコンビニの袋であふれた部屋で豪快にビールを飲む三峰さんの姿が、今まで知っていた三峰さんの姿と違って見えた。
「橘くん、あんまりジロジロ部屋を見ちゃだめよ。運が悪いと私の下着が目に映るわよ」
「え、下着も放ったらかしなんですか……?」
「もし見たらその見た記憶を消すまで飲ませるから」
いつもの冷たい目線の三峰さんなら本気とも取れそうな語気だった。
最初は三峰さんが、気を使ってくれていたのか、他愛もない話ばかりだった。最近親御さんは元気なのか、三峰さんが通っていた大学がどうとか、三峰さんの地元はどうとか。それはほとんどが、三峰さんがこれまでひみつにしていた話で、それはまるで、「私も言ったんだからお前も話す準備をしておけよ」と暗示しているようだった。
そして、その時が来た。
「……そろそろ、愛崎の話を聞いてもいいか?」
三峰さんは愛崎のことを「愛崎さん」と普段呼んでいたが、今だけは「愛崎」だった。三峰さんはかなり酔っているはずなのに、僕の目線を一切離さずに見ていた。
僕は覚悟して、すべて話すことにした。
中学2年に入ったころだった。
当時の僕は町で見つけた古本屋に行くのに夢中になっていた。店構えは中学生が入りそうにない古びた店だが、品ぞろえは大好きだったファンタジーやSF小説がたくさん並んでいたため、すぐに夢中になった。
当時から人と話すことが苦手だった僕は、友達があまり多くなく、いたのは当時野球部で頑張っていた純一と小学生のころから付き合いがあった桜子のみで、いつも学校でも本ばかり読んでいた。
そこに話しかけてきたのは、愛崎だった。
「おまえさ、いっつも何読んでんの?」
「え、えっと……」
「ちょっとその本貸せよ! 今度返すからさ!」
そう言って読んでいる途中だった本を取り上げられた。
最初はただ強引な奴だなぁと思っていただけだったが、だんだん貸している期間が長くなった。契機は、ある秋ごろだった。
「ねえ、愛崎くん。この前貸した本だけどさ」
「あ? なんのことだ?」
愛崎は、最初は本当に何のことかわかっていなかった。
「春に本を貸したじゃないか! 今度返すからって言っただろ!」
「あー……」
愛崎は悪びれもせずに続けた。
「あの本ならもう捨てたよ」
「え……」
僕はあっけにとられた。何を言ってるのか理解できなかった。僕は続きを読むのを楽しみにしていた本だった。それを、捨てられただと?
「ていうかさ、あの本全然面白くないじゃん」
「あんな本読むくらいならもっといい金の使い道があるだろうがよ」
「雪路さ、お前実は金いっぱい持ってんだろ。あんな本買うくらいなんだからよ」
「ほら、今いくら持ってんだよ。俺がちゃんとしたオトナな金の使い方を教えてやるからよ!」
そういって、愛崎は僕から有り金を全部奪っていった。それから、愛崎の恐喝が度々起こるようになった。やがて冬頃になるとだんだんエスカレートしていき、毎日のように体育館裏に呼び出されては金を要求された。
最初は断るようにしていたが、だんだん払えなくなると暴力を加えてくるようになった。
「おい、礼二! 雪路から金取るのやめろよ!」
「なんだよ、純一。お前そのガリ勉の味方かよ。証拠はあるのかよ」
「雪路が取られたって言ってるんじゃないか!今までの分も返せよ!」
「そいつが嘘ついてるだけじゃねえか。なんだよ、純一、お前もやるのか?」
愛崎はケンカがからっきし強かった。純一も野球をやっていてガタイが良いやつだったが、愛崎と小学校から一緒だった純一は、愛崎にはケンカで勝てないことが分かっていた。
「行こうぜ、雪路」
純一が一緒にいてくれる時は、心強かった。けれど、野球部で忙しかった純一はだんだんと僕の傍にいてくれる時間が減っていった。
そして、とある雪の日。
「愛崎くん……僕の制服返せよ…!」
雪が膝丈くらいまで積もったとても寒い日だった。その日は全国的な寒波が押し寄せた日だった。
「ハハハ、雪路! お前服着てない方が似合ってるぜ!」
衣類を全部脱がされ、愛崎をはじめ、四人の男子生徒に囲まれている。
「お前にはこんなの必要ねえだろ!」
「返してほしけりゃ自分で取りに行けよ!」
自分の服は学校裏の池に捨てられていた。寒くて、凍えて、死んでしまいそうだ。
「ハハハ!こんな寒いのによく裸で池に入れるよな!」
「それ!」
「うわぁぁああ!」
「ほら、せっかく池入るんなら肩まで入れよ!」
「うっわーさむそー!」
必死になって池で服を探していると、後ろから押し倒された。全身に冷たい水があたり、急激に体温が奪われていき、やがてだんだん視界もぼやけてくる。
「こらああああああ! 愛崎いいいいいいい!!!!」
虚ろな意識の中、聞こえてきたのは桜子の声だった。
「げぇ! 青波だ!」
「逃げろ逃げろ!」
愛崎たちは四散した。なんとか服を池の中から取り出した全裸の僕の前に桜子が現れた。
「大丈夫!? 雪路!」
——————それ以来、僕はその中学に行かなくなった。学年が上がるときに隣町の中学に転校し、そのまま隣町の高校に進学した。
「————ということがあったんです」
まっすぐと僕の方を見つめていたはずの三峰さんの目には大粒の涙が浮かんでいた。
「うううううっ、そんなことがあったのねぇぇ」
話し終わると三峰さんは何度も涙をぬぐっていた。
「ええっと、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないわよ! ごめんねぇ、つらいことを思い出させちゃって……」
すると、急に正面にいた三峰さんは隣に来て僕の頭を撫でてきた。
「雪路くんはいい子だねぇ、よしよし、お姉さんがついてるからねぇ!」
三峰さんはおんおん泣いていた。
「あの…、もう大丈夫ですよ? 三峰さん?」
「大丈夫じゃないって言ってるでしょ!」
今度は急に泣き止んだ。すると今度はおもむろにゴミのような衣類のような山の中からノートパソコンを取り出した。
「あの……何してるんですか?」
「何って決まってるでしょ!!」
心地よいタイピングでロックを解除すると、仕事のデータがいくつも画面に映し出された。
「お姉さんとイイコト(おしごと)するのよ!!」
『ぎゃはははは! そんなことがあったのか! 面白い先輩だなぁ!』
「だろ? そこからもすごくてさ、酒飲んでるとは思えないくらい資料さばいていくんだよ」
『その人、超人かなにかなんじゃないか? ひー、おもしれぇ』
僕はその日の出来事を、純一と電話で話していた。
『それにしても、あの愛崎と仕事することになるとはな』
「ああ、世の中ってやっぱ狭いんだな」
『この町が極端に田舎すぎるんだよ、———なあ、雪路はもうどこにも行かねぇよな』
わずかな沈黙があった。純一の言葉が、今の僕にはとても重くのしかかった。
「————うん。今はさ、おふくろとも一緒に暮らせてて、おふくろにも喜んでもらえてるんだ。それに今の仕事も楽しいしさ、面白い先輩もいるし。—————今度は、逃げたりしないよ」
『逃げることが絶対悪じゃないぜ。いやなことあったらいつでもうちの農場で雇ってやるからな!』
純一は、いつも明るく接してくれる。それには何度も、何度も励まされた。そう、助けられたんじゃない。励まされたんだ。
「ああ、ありがとう。でも、あいにく、お前の下に着くのはごめんだぜ」
『おいおい、そいつは困ったなぁ。アハハハハ……』
電話越しでもわかるくらい、純一のその独特な笑い声が聞こえてきた。
「そういやさ、やっぱり僕、もう一度桜子に会いたいんだけど、純一ほんとに何にも知らないか?」
『————悪いが、それは言えない。少なくとも俺の口からは』
純一は明らかに何かを知っていた。そして、僕にそのことを強く強く、言わないようにしている。
「あ、ああ。わかった。また積もる話でもしようぜ」
『ああ、楽しみにしてるぜ、じゃあな!』
少なくとも、俺の口からは。じゃあ、純一の口からじゃなければいいんだな。
僕はSNSを開いた。Twitterを本名で登録してる人は少ないだろうから……、やるとしたらフェイスブックかな……
青波桜子、と検索すると、1件ヒットした。楽しそうな何人組かでディズニーランドに行っている時の写真のようだ。背景の景色と特徴的な被り物をしていた。その中に、見知った幼馴染の顔があった。
思い切ってメッセージを送ってみようと思ったが、1年前の8月ころから、パタリと投稿が止まっていた。SNSだとそういった突然ログインを辞めるということは何度もある。そういった経験は僕にもある。
その日は、メッセージは送らなかった。わかったのは、桜子の在住が確かに東京になっているということだけだった。
「橘くん、松山不動産の件、1週間後にアポが取れたわ」
7月に入ってから、三峰さんと僕は残業お構いなしにひたすらに仕事をしていた。それはただ松山不動産との商談を成功させるためだけでなく、愛崎との決別、あいつのことを見返してやるんだという気持ちをもって仕事をしていた。
「三峰さん、不動産管理の資料できました!」
「ありがとう、次は移住希望者リストの確認と、顧客の移住計画の確認連絡をお願い!」
「ユキちゃんも、雪路くんも、あんまり無理しないでね」
ここ最近、毎日斉藤さんに体調を気遣われている。確かにここ数日は家に帰るのが深夜になってしまっている。
「はい、ありがとうございます。でも大丈夫です。今やってる仕事、すごく楽しいんで!」
そう、楽しいのだ。自分の力で誰かが幸せになるとか、社会が僕らのおかげで動いてるとか、そういうのもあるけど、一番は三峰さんと二人で必死に仕事に取り掛かれていることが幸せなんだ。
気づけば、その日の仕事も午後8時を超えていた。職場には僕と三峰さんしかいなくなっていた。
三峰さんは、依然、パソコンに向かいながら、僕に言った。
「ごめんね、橘くん。私謝らなきゃいけないことがあるの」
「……どうしたんですか、急に」
「私ね、自分が後輩の育成に向いてないと思う」
「なんですか、そんなのずっと前からわかってましたよ」
少し冗談交じりで三峰さんに返した。けれども、三峰さんは表情を変えない。
「それに、私、この仕事やってて、少しも楽しいと思ったことなかった」
三峰さんの家で飲んだ時、三峰さんの過去について少しだけ聞いていた。小さい頃から農業に関わる仕事がしたかった。農業自体は力仕事だから、女の自分にでもできる農業支援の仕事が自分には合ってると思って、大学でも一心不乱に学んできた。そしてこの仕事を始めた。けれども、やっててつらいことやどうしてもうまくいかないことがたくさん多かった。そんな話だった。
「でもね、あなたが来てからそう思わなくなった」
三峰さんは依然、表情を変えない。
「あなたが必死で仕事を覚えようとしてくれて、必死でこの町のことを考えていてくれて、その姿に私は心を打たれた気がした。私がしたかった仕事は、あなたがやってるように、キラキラとして一生懸命になることなんだって」
僕は自分のパソコンから目線が動かせなくなった。今、三峰さんの方を見ることは僕にはできなかった。
「私、何より怖かったのは、あなたがいつか、あかりのようにこの仕事をやめるんじゃないかってこと。こんなに一生懸命な子なのに、いつか私のせいでこの仕事が嫌いになるんじゃないかって、私おびえてた」
三峰さんは続ける。
「ほんとはね、最初、あのお店に飲みに誘ったとき、私の彼氏かセフレになってもらおうって思ってた。私、一応自分の外見には自信あったからさ。そうすれば、橘くんはこの会社から逃げられなくなるって思ってた」
「でもね、無理だった。私には、あなたのことをすべて受け止めることができなかった。私はあなたの彼女になる資格なんてないし、あなたは私がセフレになることを求めてない」
「……僕は…」
僕は、の後に続く言葉が見つからなかった。
「私は、橘くんなら最高の仕事のパートナーになれると思う。あなたとやってるとき、すごく仕事が楽しく感じた。だから、これからも、ずっと私と一緒にこの仕事をしてほしい」
三峰さんの手も止まった。
「……三峰さん、———いや、ユキさん」
三峰さんはゆっくりとこっちを振り向いた。
「もちろん、僕も同じ気持ちです。あなたは最高のパートナーです」
僕は微笑んだ。三峰さん、ユキさんの疲れ切った口角も上がったような気がした。
「あと、ユキさんって……」
僕は、最後にユキさんに向かって気になっていたこと、気づいていたことを打ち明けた。
「実は、処女ですよね」
「————————バカ」
その日、僕とユキさんは、晴れて同じ立場になったのだった。
僕は過去のことを頻繁に思い出すようになっていた。
「ねえ、雪路さ、最近愛崎と一緒にいること多くない?」
「え? そ、そんなことないよ」
桜子から数日、ずっとそんな話をずっと言われていた。確かに最近は愛崎とずっとつるんでる。というより最近ずっと……本当のことを言えるわけがない。言ってしまうときっと……
「あ、そうそう、雪路! 今日の夕方、酒田まで行かない?」
「え? なんで?」
「なんか、新しいカラオケができるんだって! 私カラオケって行ったことないからさ、雪路と二人で行こうと思って!」
「え、いいよ。僕は、女の子の友達と行ってきなよ」
「そうなの!聞いてよ! 絵美ったら私彼氏ができたから桜子とは行けないの~だってさ! もう、どう思う!? 私楽しみにしてたのに!」
「———おい、雪路。ちょっと来いよ」
「あ、愛崎くん……ごめん桜子、この後用があるんだ。じゃあな」
それはどす黒い過去の時の中で、僕を救い出してくれたかもしれない一つの未来。
いよいよ松山不動産との打ち合わせまで1日になった。
「資料は完璧ね!」
「はい!」
「やり残したことはないね!」
「はい!」
「明日のアポは何時!?」
「10時です!」
「よろしい! では今日は早めに解散! しっかり心の準備をしてきなさい!」
「はい!!!」
号令をかけるように僕とユキさんは話していた。今日は19時には解散となった。実はこの後純一と飲みに行く約束にしている。
明日は愛崎との決戦の日、その前に純一と話がしたかった。
というのもあるのだが、純一からも今日飯に行かないかと連絡が来たのだ。
「おう、雪路。久しぶりだな」
「ああ、純一、久しぶり」
電話こそ頻繁にやり取りしているが、実際に会うのは数か月なかった。最近は仕事でも会う機会があまりなかった。
「雪路、聞きたいことがある。———桜子に会いたいか?」
純一はあかりちゃんに「いつもの」と頼んで、いきなり話の本題に入った。
「あ、ああ。会いたいかと言われれば、会いたいよ」
「今のお前が、桜子に会って、何の話をするんだ」
純一の眼は真剣そのものだった。
「純一、何か知ってるんだな」
僕はその眼に対して、負けないように力強く返した。
「ああ。だが、お前が、ハンパな覚悟なら、俺は教えない」
今まで桜子に関して濁った返事しかしなかった純一からは、覚悟が感じられた。僕は、それに負けるわけにいかなかった。
「覚悟なら、ある」
僕は再び力強く、答えた。
「僕は、確かにあの時、中学の時、愛崎から逃げるように学校を変えた。でもそれは愛崎から逃げるだけじゃなくて、桜子からも逃げるようにしてた。あいつは明るくてみんなの人気者でお洒落で、未来志向だった。楽しいことをいつも考えてるような奴であいつの周りにはそういう楽しいことを考えるような人ばかりが集まってた。だから僕みたいな根暗で陰気臭い奴とは関わらない方がいい存在だとも思ってたんだ」
生とハイボールです~。とあかりちゃんの声に遮られた。しかし、僕らはそれに口をつけずに話を続けた。
「でも、そうじゃなかったんだろ」
「ああ、そうじゃなかった。あの雪の日、みすぼらしい姿だった僕に向かって桜子は確かに言ったんだ。『雪路に何かあったら、私が助けてあげる』って」
純一はハイボールを一口、口に含んだ。
「あの後のことも、最近、鮮明に思い出した————
「雪路に何かあったら、私が助けてあげる!!」
寒空の下、雪が舞うなか、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、桜子は叫んでいた。
「———じゃあお前に何ができるんだよ!!!!」
桜子の叫び声が小さく感じられるくらい大きな声で、桜子に向かって怒鳴りつけていた。
最低だ。本当に最低だ。そんなこと、当時からわかっていた。わかっていたけれど、止めることができなかった。
「じゃあ助けてって言ってたら助けてくれてたのかよ!!」
「そ、それは……」
「今だって、こんな死にそうな思いしてるんだぞ!!! もうたくさんだよ!!!!!」
僕は残っていた力を振り絞って叫んだ。誰かに聞かれていたかもしれない。大量の雪が降る中、全裸でずぶ濡れの僕が幼馴染の子にむかって、叫んでいるさまを。
「ゆき…じ……」
「もういい……お前なんか…お前なんか」
「ゆきじ…もう、もうやめよ、ね?」
「お前なんか!!!大っ嫌いだ!!!!!」
僕はそういうしかなかった。そう言うことでしか、精神を保つことができなかった。そうしないと、そうしないと———
「———そうしないと、また桜子に甘えてしまうことになるから」
僕が話し終わるころには、純一は持っていたハイボールをすべて飲み切ってしまった。
「———、なあ雪路。俺たちは、ダチだよな」
「……ああ、僕は、純一がずっと友達でいてくれるなら、友達でいたい」
「———じゃあ、そういう覚悟もできているんだな。———歯ぁ、食いしばれよ!」
「————っ!」
バシィィィン
大きな平手の音が店の中に広がった。遠くからあかりちゃんの「お客さーん、ケンカならよそでやってよー」という気持ちのこもってない声が聞こえてきた。建前上、そうでも言ってないと他の客からの目もあるからだろう。
危うく、口の中を切って血が出そうになったが、純一の歯を食いしばれよの声で覚悟ができていた分、ケガにはならなかった。
解っている。この叩かれた痛みが、桜子が負ってきた痛みに比べれば、造作もないことくらい。
「じゃあ、そのあとの桜子のことを話していくぜ」
純一は、中学3年になってから今までの桜子の動向を話してくれた。
「なあ、桜子。お前さ、雪路が転校してからあいつ元気にしてるか知ってるか?」
「————知らない……」
桜子はその時からすっかり性格が変わってしまった。よくツルんでた女の子たちとも全然一緒に遊ばなくなったんだよ。
その頃、丁度中学3年だったから、進路の話になったんだ。よくわからねぇが、あいつ、相当進路で揉めたらしいぜ。俺らが進学予定の町の高校も、お前が行ってた隣町の高校もどっちも行きたくないって。もちろん、そんなの桜子の親父さんとおふくろさんが許さなくてさ、結局俺らと同じ高校に行くことになったんだ。そっから先は俺よりも俺の奥さんの話だ。そこからは奥さんの方が詳しかったから。
高校に入ってから桜子は、中学の卒業前とおんなじで全然口きかなかったらしいぜ。でも高校生のある時、桜子が急に勉強に熱心に取り組むようになったんだ。どうやら大学に進学したくなったらしいんだ。それもこのあたりじゃなくて東京の。元気がなかった桜子を見てた親父さんとおふくろさんのことだからよ、桜子が一生懸命勉強してるのを応援したくて、酒田の進学塾にも行かせるようにしてたらしいぜ。だからもうそこから全然、うちの高校での話は聞かなくなったんだ。
僕はすっかり泡が消えてなくなってしまったビールに口をつけた。
味なんて全然感じられなかった。
「大学に進学したらしいってのは聞いてたんだ。でもそこからの動向は全然つかめなかったんだ。でも俺の奥さんが言うには、相当黒いことやってたみたいだ」
「———黒い事?」
「——いわゆる風俗ってやつだよ。ほら、桜子って割と美人だったじゃん。だからそういう夜職になったって噂が町中に少しずつ流れてきてよ」
「東京での動向がこんな田舎まで伝わってくるのかよ」
「俺も最初は信じてなかったよ。でもな、悪い噂って根拠がなくても広がるもんなんだ。特にこんな狭い世間ではなおさら。んで、その噂が桜子の両親にも届いたんだよ」
「———それで、桜子んちのおじさんとおばさんはどうなったんだ?」
「…噂が出始めてすぐ後に引っ越しちまった。もうこの町にはいられなくなったんだろうな」
「……でも、あの桜子がそんな夜職に就くわけないと思うんだがな……」
「話、戻すぜ。俺も当然それを信じてる。でもな、つい最近、桜子の動向がつかめたんだよ」
「え、そうなのか! じゃあ教えてくれよ」
ここまでひそひそとした声で話していたが、つい僕は大きな声を出してしまった。
「———最後にもう一度確認して聞くが、お前は桜子にあってどうする?」
「何度でも言うよ。僕はあの日のことを謝りたい。謝って、謝ってもう一度……」
僕は言葉に詰まってしまった。そう、謝ったところで、あの日々が帰ってくることはもうない。
「謝ってもう一度、どうするんだよ」
「そ、それは……」
「もう、あの日に戻れないことはわかってるんだな」
先ほどから、さらに強く厳しい目で純一は僕を見つめる。
「——————ああ。戻れなくていい。ただ一言、ごめんって謝りたいんだ」
「そうか、じゃあ覚悟して見ろよ」
見せられた純一のスマホの画面に映っているのは、とあるTwitterアカウントだった。
名前は、長谷川サクラ。全然桜子の名前とは違っていた。
少し画面をスクロールさせると、僕の思考は止まった。
『SODクリエイト所属。新人AV女優。デビュー作今日発売』
そこに映っていたのは淫らな下着を纏い、艶やかなポーズを決めた桜子だった。
そしてトップツイートに目が付く。
『幼馴染を想い続ける一途な少女が 巨乳を揺らして処女喪失:本日発売
デビューイベント、明日10時から池袋にて開催!』
僕は飲み込んだはずのビールがもう一度口から出そうなのを感じた。
急いでお手洗いに向かう。腹の底の気持ち悪さは何度もせりあがってきて、いよいよ耐えられなかった。
「お前の幼馴染はな。お前がずっと謝りたかった相手はな。今日、AV女優としてデビューしたんだよ」
席に戻ると鬼気を収めた純一が優しく言った。
「純一、悪い。今日の埋め合わせは必ずするから!」
「おい、雪路。どうするっていうんだよ」
「決まってるだろ! 明日のデビューイベントとやらに行ってくる!」
「バカ!明日は大事な商談があるんだろ!!」
純一の声は届かなかった。大事な商談がある、そう。愛崎との決着の時。
そんなの構ってられない。
意外に頭は冷静だった。
この先、走れば20分ほどで駅に着く。駅からは深夜バスが出ていて明日の朝には東京に着く。走りながらバスの予約を検索し、空席があることを確認した。
走りながら、いろんな人に連絡した。
「おふくろ!!」
『どうしたんだい、息を切らして……』
「おふくろ、今までほんとにありがとうな! 僕、おふくろと一緒に暮らせてて最高に楽しいよ!」
『そうかいそうかい、それは良かった』
「それでな、おふくろ。僕、どうしてもやらなきゃいけないことができたんだ。どうしてもやり切らなきゃいけないことがあるんだ!」
『うんうん。雪路、もう何も言わんでいい。———お前はいい子に育ったなあ』
「———ありがとよ、おふくろ。誰かさんの育て方がよかったみたいだな!」
「ユキさん!」
『どうしたのー?こんな夜中に?』
「ごめん、明日の商談どうしてもいけなくなった……」
『———理由、あるんでしょうね』
「ああ、どうしても愛崎との決着よりも大事なことなんだ」
『———若いのに、そんないっちょ前な口利いちゃって』
「ユキさん、僕、ユキさんがパートナーで良かったよ!」
『—————私もね、雪路くんは私の最高のパートナーよ!』
「ありがとう、ユキさん」
『明日の商談は任せなさい!! お前は自分のやることをやれ! 雪路!』
「夜分、失礼いたします。橘です。松山不動産の愛崎様でしょうか」
『はい、愛崎です。どうしたんですか? 明日の商談の件ですか?』
「———もう、敬語はやめようか!」
『やっぱり、お前、あの時の雪路なんだな!!』
「ああ、この前は逃げ出して悪かったな……」
『いいんだよ……それより、俺、ちゃんとお前に謝らないとって思ってたんだ……』
「—————」
『許してもらえるとは思ってねぇよ。でも本当に、俺は申し訳ないことをした……。本当に、————済まなかった———』
「———いいんだよ、もう。それより、明日の件なんだけどさ、僕、どうしても行けなくなってしまったんだ」
『———さっきさ、数年ぶりに純一から連絡が来たよ。全部わかってる。お前は、お前のやることをやってこい』
「———ありがとうございます!!! 今後ともごひいきに!!!!!!」
「純一!!」
『お前!!! 今いったいどこにいるんだよ!』
「今、余目駅に向かってる! あそこからなら深夜バスが出てて東京に向かえる!」
『こんなアホ見たことねえよ……。お前、ほんとに本気なんだな』
「———ああ、本気だ」
『くううう、じゃあ仕方ねえな! 今お前のLINEにリンクを送った! そのリンクは俺が買った長谷川サクラの! 青波桜子のデビュー動画だ! 見るのも見ないのも自由だ! 好きに使え!』
「純一……。お前、最高のダチだよ! ———ありがとうな……、あ、あと愛崎のことも」
『さっすが、大卒エリートはすでに愛崎氏への連絡は終わってたかぁ。まあ、———頑張れよ』
駅に着いたのは、バスが来る丁度5分前だった。着の身着のままにしてしまったが、大丈夫。財布とスマホは持っている。充電が心もとないが、明日東京で買いたせばいい。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。何度言い聞かせても、心が落ち着かない。
「ねえ、ゆきじ! 一緒に公園で遊ぼうよ!」
「ねえねえゆきじ? アリさんってなんでこんなに歩くの早いのかなぁ?」
「そうなんだ!ゆきじはものしりさんだね!」
僕と桜子は小学校に上がる前から一緒だった。
「お化け屋敷怖いよぉ!!」
「うん……ゆきじと一緒じゃなきゃヤダぁ」
「ぎゃああああああ!ゆきじ助けてぇぇぇぇぇぇ!!」
家族同士で仲が良かった。小さい頃は一緒に遊園地に連れて行ってもらった。
「ゆきじ、ランドセルにあってなーい!」
「ええ!私もー?」
「ゆきじ、頭いいから私、ゆきじにたくさん勉強教えてもらうもん!」
小学校も毎日一緒に登校した。
「ねえねえ、ゆきじ。わたしたちって『つきあってる』のかな?」
「よくわかんないの。ゆうこちゃんたちが言ってたの」
「そうなんだ! じゃあ大人になったら『つきあおう』ね!」
登校はもちろん、下校の時も一緒だった。
「ねえ、雪路。私、セーラー服似合ってないよね?」
「そっかぁ、雪路が良いって言うならいいのかな……」
僕は、桜子の気持ちに気づいてやれなかった。
「ええ!眼鏡かけてる女の子ってかわいく見えるの?」
「じゃあ、私も眼鏡かけてみようかな、伊達メガネ! 雪路は眼鏡好き?」
いや、本当は気づいていたのかもしれない。気づいていても気づかないふりをしていただけだ。
「雪路ってさ、いつか結婚したいって思ってるの?」
「うーん、私は……まだ先のころだからわかんないな!」
桜子はあのときどんな気持ちだったのか……それは、……でも。
僕は、桜子のことが————————
『それじゃカメラ回しまーす。緊張しなくていいからね』
『はーい、よろしくお願いします』
『サクラちゃんは、どうしてAV女優になろうと思ったの?』
『はい、えーと、実はちっちゃいころから一緒だった幼馴染がいるんですけど……、その幼馴染と喧嘩別れしちゃって……それでいつかまた再会したいなって思ってるんですけど、でも全然居場所わかんなくて。東京にいるのはわかってるんですけど……。だから私が有名になっていつか気付いてもらおうと思って、それにエッチなことも嫌いじゃないのでビデオに出ることにしました!』
『へ~、その幼馴染って男の子?』
『はい♪ そうです!』
『じゃあ、AV出てるなんてバレたら幻滅するんじゃないの?』
『う~ん、どうなんでしょうね!』
『ほんとは、ただエッチなことが好きなだけじゃないの~?』
『あははー、実はそうかもしれません!』
『あぁっ!はあぅ…!へぁっ…!!』
『あぁ…だめっ…おかしくなっちゃう……っ!あぁ…!」
夜、深夜バスの片隅の、イヤホンから流れる嬌声は大きくなるにつれ、スマホの画面は濡れていた。
ご閲覧いただきありがとうございました。
さて、みなさんは年末年始いかがお過ごしでしょうか。
私、はるはるの式部はきっすいのアホウでございます。
アホウですので、私は来る12月31日の朝、こう言いだすわけです。
「よし、年を越すまでに1作作ろう!」
そうしてプロットを描きだした私は、あろうことか長々つらつらと物語を広げるわけです。
アホウが必死で書き上げた今作、推敲はほとんど手を入れておりません。
最後は完全に駆け足です。
最後の最後は納得のいく出来にはなりませんでしたが、2021年を無事これにて締めくくれると思います。
今回、残した伏線があまりに多ございますので、第6弾ぐらいまでは構想として練っておりますので、いつかみなさんのお目にかかればいいなと思います。
みなさん、よいお年を!
2021年12月31日 午後11時26分 はるはるの式部
twitter:@haruharu18saku / @haruharu17saku