恋心
物心つく頃から、学校へ行くのは苦ではない。なんなら、毎朝が楽しみである。そんな利也は、毎朝目覚ましの鳴る少し前に起きてしまう。寝る前にこの時間に起きる、と思ったらその時間に起きることのできる体質はちょっとした自慢でもある。
それでも、目覚ましをセットするのは寝坊しないための保険か。
歯を磨き、制服に着替えてから、家族四人で食卓を囲む頃には鶏のモーニングコールも落ち着いている。
「母さん、おかわり」
目の前の女性、母に空っぽの茶碗を差し出し、母はそれを受け取る。
「はいはい分かったよ。そういや、あんた今日は普通なんやね。昨日なんて、バタバタ降りてきたと思ったら、制服はヨレヨレやし、えらい興奮しとってな。おかわりしたと思ったら号泣するわで、てんやわんややったよ」
「んなことするわけが……。だいたい昨日は、明音が早めに来たから急いで飯食って学校行ったろ。なんをいよるん」
唇に人差し指を当て、可愛らしさを強調しながら、記憶を模索する母。
ーー尤も、歳を重ねた母から滲み出るのは可愛らしさではなく痛々しさだけなのだが。
「確かに昨日は明音ちゃんが迎えに来たねぇ。そういやあんた! あの様子やと、明音に絶対迷惑かけたやろ! そんな弱々しいところばっかり見せてるからいつまで経っても……。はぁ」
「いらんお世話じゃ!」
唇に当てた人差し指をそのまま、額に持って行き、次は悩むポーズ。いちいちアクションを起こす母をうざったらしく思う。それを振り払うように、利也は乱暴に席から立った。
「なんを勘違いしとるん!!俺と明音にはなんも無かっていよるやんか!」
「へぇ〜」とニヤニヤしながらこちらを見つめる母。うざいったらありゃしない。いつもこうなのだ。元気すぎる母、それに匹敵する元気を持つ幼馴染み。毎日がうるさくて仕方ない。
と、落ち着きを取り戻し朝食のおかわりした白ご飯を頬張る。数度、咀嚼し豪快に飲み込む動作を繰り返す。最後の一口を口に入れようとした瞬間ーー。
「とっしやー!!迎えに来たよ。おばちゃん入るね、お邪魔しまーす!」
音を立てて扉がスライドされ、ハツラツとした声が鼓膜を揺らした。
「明音ちゃん、いらっしゃいー。ほら、利也急がんね。迎えにこらしたやろ!」
「はいはい」と身体を伸ばし、最後の一口を飲み込み急いで玄関へと向かう。玄関へ着く前に洗面台に寄り、鏡の前で変わりようのない短い前髪を指でセットする。そして、
「おっす。明音今日も迎えに来たんか。悪いな」
と、変わらない高さの目線が交わり、高鳴る鼓動とは裏腹にそっけないあいさつをして外へ出た。
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秋も顔を見せ始め、朝は少し肌寒い。長袖の制服に身を包んだ男女が二人、通学路を楽しそうに歩いていた。
「ねぇねぇ、利也。試験までさぁ、あと十日な訳じゃないですか。それでですね、それでですね。大変言いにくいんですがぁ」
少し前かがみになって、こちらを見上げる明音は朝日に照らされてキラキラしている。
ーーこいつはもっと自分の可愛さを自覚したほうが良い。そろそろ犠牲者が出る頃だ。
「ふぅー、分かってる。ノートだろ?もう高校生活半分過ぎてんだぞ。そろそろ自分で勉強しやがれ」
「確かに勉強もするけど、今はバレーしたいんだっ!試験終わったら新人戦も始まるし、キャプテンとしての責任果たさなきゃ」
呆れた風で利也は返事を返すが、明音の夢の手伝いをできている気がして悪い気はしていないのだ。なんの夢もない自分と比べて、バレーの話をする明音はキラキラしている。
「それにだ、テストまで後11日だぞ。テストの日にちくらい把握しとかないと、ペース配分できないだろ?ノートは貸してやる。上位を取ってくれとは言わないけど、留年とかだけはするなよ。もう、オリンピック候補の話は出てるんだろ?」
そうだ。明音は、高校を卒業すればオリンピック強化選手として、招集され厳しくも輝く未来への道を約束されている。明音自身もそれを望んでいるし、利也も望んでいることだ。
「いや、後10日ですし!利也の方が間違ってるよ?昨日もおかしかったし、勉強のし過ぎじゃない?ふふふ。あんまり机に座りつづけるのも良くないんじゃない?」
柔らかな笑みがこそばゆい。なぜだか話がかみ合わないのも微笑ましい。落ち着く距離感がもどかしい。
「それに、後一年とちょっとでここともお別れなんだよねぇ。永遠ってわけじゃないけど寂しいものがあるかなぁ。
……ねぇ、利也」
少しうつむきかけていた利也は、いきなり名前を呼ばれとっさに顔を上げる。すると、整った顔が同じ高さでこちらを見ていて、恥ずかしさで赤みを帯びた頬を隠すために、すぐに顔を背けた。
「んーん。やっぱ、なんもないや!」
「全く、なんなんだよ」
ーー俺も、明音の未来を応援してる。きっと、心の底から。
* * * * * * * * * * * * * *
ーー非常事態だ。
通算二度目となる不思議体験との邂逅。
数日前の朧げな夢が今ははっきりと思い出せる。
一人暮らしの筈が、寂しい朝食の筈が、母と思われる女性と、一人の女の子との賑やかで煌めいたものとなっている。
「母さん、おかわり」
二度目となれば動揺も少なく、至って落ち着いて『この利也』を演じることができた。初日はかなり不審な動きをした記憶があるが、それと同じ失敗をしてはならぬと伊藤は思う。
もしかするとこれは、昨日見た映画と同じ状況ではないのか。信じられないが、もしそうならばあまり目立つような事をしては怪しまれる。
この町に何かしらのアクションが起こるとも思えない。ならば伊藤は利也に成りきり、入れ替わりの日々を静かに過ごしきることが吉だと判断した。
「明音、今日は一段と早いな。しかも朝ごはん食べてないのか?」
「そんなこと言わないの。いつだっておばちゃんも馬鹿息子も大歓迎だからね!明音ちゃん」
前回と今回の入れ替わりによって二人との大体の関係は思い出された。自然に接する。頭をフル回転させながら言葉を選び、二人と接することがそう言えるのかは分からないが、はたから見れば、ただのほんのちょっぴり羨ましい食卓に見えることだろう。
色んな事がこの体を通じて分かる。色んな事がこの二人を通じて分かる。
ーー利也が明音を好きだって事も。
この体は覚えている、その事実を。明音を見れば瞳は釘付けになるし、明音と話せば頬が熱くなる。 明音を思えば胸が高鳴り、明音が笑えばなぜか嬉しくなる。
伊藤自身の意思とは無関係にドキドキする心臓はまるで自分の体ではないように思える。その通りでこの体は自分の体ではないのだが。
「それじゃ、行ってきます」
「おばちゃん、ありがとうございました!お邪魔しました」
懐かしい制服に身を包み、この美少女と共に登校する優越感。青春を終えてから分かるものもあるのだとしみじみ思う。
学校に着くのはいつもより遅かった。と言うのも、一回目の入れ替わりは動揺し過ぎて感じなかった、この久しぶりの青春があまりにもキラキラしていてそれを堪能していたからである。
ーー美少女が眉間にしわを寄せて「遅刻しちゃうよ!」なんて言ったから、天邪鬼が働いたわけでない。決して。
教室に入るため、オンボロの扉をスライドさせるのでさえ、新鮮に感じる。過ぎていった青春と言う季節は、あの頃に生きていた自分にもっと全力で過ごせていればと後悔させるには充分だった。
そして、教室へ足を踏み入れた瞬間、
「おっ、おはよう。今日も一緒に登校かい、お熱いねぇ。羨ましいくらいだねぇ。俺と変わりやがれ、このやろう!」
と、一人の男子クラスメートに囃されそれを華麗に受け流す明音を見ていつもの光景なのだなと把握する。
「はいはい、おはようおはよう。今日もお前ら元気だなぁ」
伊藤もうまくそれを躱すことにした。
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HRが終わって授業が始まるが、何しろ二十年も昔の事を覚えているわけもなく……。
十数分もすると、伊藤は机に突っ伏し寝ていた。昔はよく勉強に打ち込んだものだが、今では全く意味のわからない数式を並べられ説明されても、理解どころか起きておくことすらも大変難しい。
授業終わりの号令の挨拶が意識の遠くで聞こえて、のっそりと起き上がる。
「利也が寝るなんて珍しいな。テスト前って言ってもまだ一週間以上もあるんだぜ。根を詰めて夜更かしても授業寝るなら意味ないんじゃね?」
と、朝冷やかしをしてきた人物と同じ人物がそう心配してくれている。
なぜか、鈴木に似た感情を覚えて安心する。ああ、これが友情なのかと軽い笑みが零れたのを伊藤は気付くがそれを抑えようとしない。
「人が心配してやってるのに、なににやけてるんだよ。夢で明音ちゃんのことでも考えてたのかよ?全く全くけしからん」
「そんな俺の心配するくらいなら自分の成績の心配しろよ。まぁ、ありがとうな」
「うっせーよ! 俺はやればできる子だからやるべき時に頑張ればいいの。それより次は体育だぞー、早く着替えて行こうぜ」
今度から寝ないようにしなければと、心に決める伊藤。「ああ」と返事して気付く。
ーー次の時間は体育だと!?
四十目前のおっさんが若者に混じってどれだけ動けるのか、そんな心配をするが、この体は十代なのだ!と、淡い希望も同時に抱く。
利也が昨日のうちに今日の準備をする性格だったため、体操服などの心配はいらなかった。懐かしい制服から、懐かしい体操服に着替えて外へ出る。
ーー久しぶりに頑張っちゃいますか!
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現在、伊藤は汗だくになり大の字に体を広げて空を見ている。なぜ、こんな状況になったのかを知るには数十分前に遡らなければならない。
その日の体育はサッカーだった。割と動けることが分かり、十代の体で助かったと心底思う。
準備体操をしっかりし、体を温め、イメージ以上に活発に動く手足に感動を覚え、ボールに触る。
二人組のパスを終え、今から試合形式でゲームが行われるようである。
ーーこの時、伊藤は完全に調子に乗っていた。
「ヘイ!パスパス」
「おりゃあぁぉぁぁっぁあっ!!」
「スライディングっ!」
何せ動いても動いてもなかなか疲れないのだ。こんなに走ったのは何十年も前のために、調子付くのも仕方ない。
爽やかな汗をかき、心地よい疲れが体に募る。
「利也、今日はすげえ動くな!授業寝て体力回復してたってか」
「まぁ、そんな感じだよ。それにしてもサッカー楽しいな!!」
そして、終盤コーナーキック。弧を描き宙を飛ぶボールが丁度良い高さで伊藤のところへ。
ーー行けるっ!!
刹那、片足で飛び体を反らしてパワーを溜める。完璧なタイミングである。そのまま、溜めたパワーをボールへインパクト。ボールは右のポストにかすって、ゴールネットを揺らすのを伊藤の目は見た。
華麗なシュートを決めて、ガッツポーズを……できなかった。
着地した瞬間、右足が内側に捻られた。スローモーションで動く世界を横目に、乱暴に地面に叩きつけられ、激痛が走る。
ーーああ、痛え。
大の字に体を広げて、ジンジンと痛む右足に耐え、そういえばと空を見つめる。
「向こうの俺は上手くやってるのかなぁ。俺は調子に乗りすぎたみたいだ」
体は十代でも、頭の中はおじさんだった、利也 in 伊藤さんであった。