始まりの朝
おっさんの名前は伊藤。現在37歳、職業は平々凡々なサラリーマン。特技と言われて思い起こすものは……ない。
そんな冴えないサラリーマンの朝はそこそこに早い。今日もまた、目覚まし時計が音を鳴らし出す。
「ヂリヂリヂリヂリヂリ」
「んぁ。あぁ。ふぅー。もう朝かよぉ。もう少しだけ寝させろよぉう」
昨日、おっさん自身がセットしたはずの目覚まし時計は、いつもよりうるさく感じた。
ぼんやりとした頭で時計を見ると、いつもの起床時間よりも15分だけ早い目覚めだった。
「まだ早いじゃんかぁ。ふわぁあっぷ。もうちょい布団の中にいよっと」
と、僅かな時間を自堕落な自分のために浪費する。外は朝日が昇り鶏が鳴いている。
そう、鶏が鳴いている。
鶏が……鳴いている……?
乱暴に体を布団から飛び立たせ、ジャッとカーテンを乱暴に開く。
朝日が目にしみる。薄眼を開けて、視界に映る景色はいつもとは違う景色だった。
周りを見渡せば、見覚えのない部屋。頭が混乱して、訳が分からない。
おっさん(仮)はこの現象を「夢か」と判断。そして、思考を止め再び布団に潜った。
「全く、不思議な夢もあるもんだよなぁ」
そして、瞼を閉じ二度目の夢と現の狭間に揺られる心地よさを味わおうとした瞬間に、激しくドアが開き、
「ほら、遅刻するよ!はよ起きんね!」
と、1人の女性によって完全な現実へと戻ってくることになった。
……まじでなんなんだよぉ。これぇ。
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目覚ましが起床を告げる前に伊藤は目を覚ました。
「ヂリヂリヂリヂリヂリ」
布団から這い出て、いつものように手を伸ばして鬱陶しほどに朝を告げ続ける目覚まし時計を止める。
そのまま伊藤は洗面台へと向かい歯磨きを済ませ、朝ご飯を食べる。もう十数年と繰り返してきた一連の動きだ。
「しっかし、なんか変な夢見てたきがするんだよなぁ。妙にリアルで。男の子になってた気がする。でも、よく思い出せないんだよなぁ。不思議だよなぁ」
冷蔵庫から出したお惣菜を口に含み、眉を寄せ、不確かな記憶を探る。元々味気のない惣菜が、考え事をしているためかいつもよりさらに味気ないように感じる。
一人で考え事などすると寂しい朝食がさらに孤独感を際立たせたのか、伊藤は音を欲してテレビをつけた。
小さい頃から「ご飯中はご飯に集中しなさい」と口うるさく母親に言われ続けた結果、普段はテレビを見ながら食事などしないのだが、今日だけはごめんっ。と故郷の母に向かい謝り、肘をついてテレビを見ながら箸を進める。
「さて、次のニュースです。『貴方の名前は。』ですが、九月二十一日に公開されてから、三日が経ちました。なんとすでに観客動員数ーー万人。興行収入ーー億円を突破しました」
「ほう、前から見たかった映画じゃんか。もう公開されてたんだねぇ。残業なければ見に行くかぁ」
ーー今日の楽しみを一つだけ見つけた。
伊藤は大きく背伸びし、気怠い一日を憂う。お惣菜はすでに胃の中に消え、よしっと一声。気持ちを切り替え席を立ち、ネクタイを締めてそこそこのマンションから、会社に向けて一歩を踏み出した。
東京の夏は一際暑い。人の熱が溢れかえり、アスファルトが鉄板のように熱される。ジワジワと汗が出てきて、満員電車を乗り越えた頃にはシャツは汗に溺れているみたいにベトベトである。
だからこそ、会社のオフィスのクーラーは格別であるのだが。「あー、暑い。クッソ暑い」と、現在涼しい環境にいるはずなのに汗をタオルで拭き取り、愚痴を漏らす伊藤。
伊藤が指定の位置についてから、数分後、ちょうどおっさんの汗が止まったころに部下であり、未だ新入社員感が拭えない男。鈴木がオフィスに入ってきた。
「ちーす、先輩お疲れ様でーす」
「あぁ、鈴木か。お疲れさん。そういやこの前の案件どうなった?もう時間ないぞ」
「それならちゃんと昨日先輩に渡したじゃないですか。そ・れ・よ・り!今日はきちんとネクタイ締めてきてるんですね。くふふふふ」
口を押さえて笑い出す鈴木。口を押さえるときは、普通笑いを我慢する時だと伊藤は思うのだが、我慢する様子は微塵もなく、ただただ馬鹿にしするような笑い方をしている。
「デタラメなことを言うな。俺は貰ってないからな。それともっと先輩を敬いなさい!一応冴えないおっさんでもお前の上司だからな。全く…」
「そんな僕の上司さんなのに、昨日は敬語使ってきたりしてきたのは先輩なんですけどねっ!パソコンのパスワードって分かりますか……?とか最高に可愛かったですよ」
「なっ、そんな記憶なんて微塵もないぞ!てか待て、お前俺のパスワード知ってんのか!?お前ぇぇぇえ」
ふと、ゴホンゴホンという咳払いが伊藤たちの鼓膜に届き、自分たちがかなりの声量で空気を乱していたことを理解した。
お前のせいだとか、いや先輩のせいじゃないですかっ!とか、意味の成さない責任のなすりつけ合いを小声で済まし、席に着く。
ーーさてさて、今日も労働労働。頑張るか。
* * * * * * * * * * * *
ーー浅い眠りから覚めると、憧れ続けた街にいた。
少年の名前は、利也。歳は17歳。青春真っ只中の高校生で、華のセブンティーンである。
にもかかわらず、利也は心底自分の生活に悩んでいた。人間と同じくらい町に住み着く鶏。田んぼとビニールハウスしか見当たらない通学路。人間のほとんどが顔見知りという人間関係。それらが嫌いな訳ではないが、とにかく東京に憧れていた。
ーー東京とはどんなところなのだろうと。
そんな利也の目の前に、今、東京のビル群がそびえ立っている。風の音、車の音、スズメの音、人の音。全てが新鮮で、輝いて見える。
「不思議な……、夢やなぁ。でも……、でも、これが。これが東京の景色かぁ!」
子供の頃からの夢が叶った時のような、そんな感激が利也の世界を支配し、時間を遅める。
「ピロピロピロリン、ピロピロピロリン」
うっとりとした空間を引き裂いたのは一本の電話だった。
うわっと、一瞬驚く利也。しかし、夢だと信じて疑わない、疑う余地もない。だから、ケータイを手に取り、電話に出た。
「先輩、何やってるんですか。一時間も遅刻してますよ?何かあったんですか?それならそれで、連絡してくれないとこっちとしても困ります。心配もしますし」
「えっと、その。ごめんなさい。今から行きますね」
「んっ、先輩ですよね?反省してるのはいいですけど、寝ぼけてないでしっかり来てくださいね!今日は先輩に見てもらわなきゃいけない案件があるんで、早めにお願いしますよ?」
ーーあっ、切れちゃった。
ブツリ、という音が聞こえ回線は閉じる。履歴からさっき電話してきた人は鈴木と言うらしい。
「鈴木さんは、早く会社に来いって……」
と、とりあえずスーツだよな。と、制服とはまた違った着心地を体に感じ、またもや心が踊りだす。
ーー夢見た経験ばっかりだ!
キラキラした瞳だけがおっさんの体の中で唯一、利也のものとなっていた。
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ポケットにあった名刺から会社を割り出し、GPSを使いなんとか目的地に着いた。
それでも時間は、電話からかなり時間が経ち時刻はもうすぐ正午を回ろうとしている。
それでも、とりあえず行かなければ。社会人は学生ほど甘くはないのだから。と、ゴクリと生唾を飲み込み、自動ドアの前に立ち、招かれるままに、建物の中へと歩を進める。
「あ、やっと来た来た。せんぱーい。何してるんですか。電話して三時間も経ってやっと来たかと思えば、ネクタイも結ばれてないし。本当真面目な先輩が一体どうしたんです」
ーーネクタイを締めれなかったのは仕方ない。と言うか、自分では締めれてたと思ってたのに。
「寝坊しちゃって、家出たあとは道にも迷うし、でも楽しかったです!はい、本当に!」
「何言ってるんですか、今まで何千往復してる道のりだと思ってるんです。それを迷うって」
ブツブツと何かを言っている。先輩らしくないとか、何をやってるんですか、とかそんな言葉ばっかり聞こえるけど心配してくれていたのは分かる。きっと、この伊藤さんは好かれてるんだなぁ。とも思った。
元々パソコンは好きだったことから、仕事自体はそれなりにできたと思う。上司に怒鳴られたりなどはしたが、それは仕方のない事だと諦めた。
帰りの電車の中から見える、夕暮れに照らされた街並みが、映画のワンシーンを彷彿させた。朝と同じ景色なのに全く別の顔を覗かせている。
そういえば、と利也はふと思い出す。
「こんな夕暮れの時間を黄昏時なんて言うのだっけ。確か、別名は片割れ時」
文学の先生が言ってた言葉がかすかに蘇る。
「彼は誰時、これが、黄昏時の語源です。一部の地方では片割れ時なんて言うらしいです。人の輪郭がぼやける時間。人ならざるものと出会うかもしれない時間」
こんなことを言っていた気がする。
俺には好きな人がいるから、なんとなく覚えてたのか。あの時聞いた短歌が妙に頭に残っている。
慣れない道のりをGPSたよりに戻っていたら、家に着いた時にはとっくに陽は落ちていた。
「今日は、慣れないこと続きで疲れたわ。それにしてもいい夢やった。東京、キラキラしてたなぁ。ふぁあぁ。」
と、一人思考に耽っている間に利也はいつの間にかひっそりと眠りについていた。