別れー決意
少しでも夏美の負担を軽くしたいと、良太なりに考えて、
琴美の面倒を見る事を申し出た。
良太は、琴美を連れて、近所の小川へ向かった。
足元を泳ぐ魚を掴もうと、良太と琴美は、ずぶ濡れになって
水と戯れていた。
琴美はキャッキャッと声をあげて大喜びしていた。
そこへ夏美がやって来た。
「私だって、たまには息抜き!」そう言うと夏美も
ずぶ濡れになって、水遊びを始めた。
楽しかった。楽しすぎた。
夏美は弾ける様な笑顔を見せてくれた。
良太は心底、嬉しかった。
その日の夜中だった。
夏美のお母さんと、夏美が、部屋の中をバタバタ走りまわるのが聞こえた。
夏美は医者を呼んでくると言って、真っ暗な外へ飛び出して行った。
ただならぬ雰囲気に、良太も起きて、おろおろしていた。
どうやら、離れの良一兄さんの容態が悪化したらしい。
良太は咄嗟に「救急車」と思ったが、当然、この時代にはない。
何もできる事はなさそうだ。
離れに近づくなと言われているので、琴美の寝床の横で、
ただ ただ、良一兄さんが助かることを願っていた。
ふと気がつくと、着物姿の男の人が良太の真横に立っていた。
男の人は言った。
「驚かせて すまないね。でも、どうしても君に会って話して
おかなくちゃならないと思って」
「あなたは誰ですか?」良太が聞いた。
「僕は山下良一。夏美達の兄です。初めまして」
「良一兄さん⁉︎」良太は驚いた。
「良一兄さんなら今、離れにいて……その……」
良一が言った。「驚くのも無理は無いよ。正直、僕自身が一番驚いているんだから……
ところで良太君、君には帰らなければならない場所がある。そうだろう?
僕は残念ながら、もうこの身体とは お別れしなければならないらしい。
本当は、もっと勉強して教師になるのが目標だったんだが、叶いそうも無いな……」
「夏美ちゃんも教師になりたいって言ってました。でも、うちは貧乏だから
無理だって……
夏美ちゃん、諦めてばかりの人生で、この上
お兄さんまで亡くしたら、そしたら、そんなのダメです!
夏美ちゃん、かわいそうすぎます……」良太が泣きながら言った。
再び良一が言った。
「良太君、夏美の事を心配してくれてありがとう。でも よく聞いて。
この病では、どのみち僕は助からない。夏美は大丈夫。あの子は
強い子だ。僕がいなくなった後も、きっと、きちんと生きていくよ。
でも、君はこのままじゃいけない。君は自分のいた所へ戻って、その世界で
ちゃんと生きるんだ。
僕や夏美が手に入れられなかった未来を、ちゃんと手に入れて欲しいんだ。
いいかい?僕が死んだら7日後に
君がこの世界へ来た時と同じ場所へ行きなさい。
午前12時ちょうどに。
そこにトンネルが現れるはずだから、そっちへ向かって歩くんだ。
与えられたその命、大切に使うんだよ」
そこまで話すと、良一兄さんはスッと消えてしまった。
ほぼ同時に、離れから「良一‼︎」という叫び声が聞こえた。
夏美の嗚咽も聞こえた。
良太も、眠っている琴美の横で泣いた。
この辺りの風習で通夜や葬式は家でやるのだそうだ。
近所の人が総出で手伝っていた。
良太は部外者なので、別室で琴美の相手をしていた。
「7日後」の事を考えていた。
夏美に何て説明しようか……
夏美は気丈に振る舞っていたけれど、時々ボーっとして
何も手につかない様子だった。
「大丈夫?じゃないよね……」良太が言った。
「覚悟はしてたんだけどね。こんなに早く逝っちゃうなんて……」夏美が泣いた。
良太には 、やっぱり慰めの言葉は思いつかなかった。
代わりに言った。
「僕、教師になろうと思う」
「え?」夏美が驚いた。でも、とても喜んでくれた。
「すごいよ良太君!たくさん勉強して、ちゃんとその夢叶えて。
私の代わりに……約束だよ」
良太は黙って頷いた。
「あとさ、こんな時に何なんだけど僕、おばあちゃんの所へ行ってみようと思って」
「そう…… 手紙の返事もなかなか来ないしね。寂しくなるね」
夏美の声が震えていた。
「手紙書くから、住所教えてよ」夏美に言われた。
「僕が書くから、それまで待ってて」良太が言った。
それは叶わないこと。分かり切ってる。
平成で書いた手紙が、時代を超えて 昭和に届くことは絶対にない。
良太は夏美に手紙を書いた。
『山下夏美様へ
急に居なくなって、びっくりしたよね。ごめんね。
突然現れた僕を、優しく迎え入れてくれて、何日も泊めてくれて、
本当に、ありがとうございました。
感謝しても しても しきれない気持ちでいっぱいです。
ここで過ごした楽しかった事も、すごく頑張ってる夏美ちゃんの姿も
僕は一生忘れません。
僕と同じ年なのに、僕より ずっと大人びて見えた夏美ちゃん……
僕は、夏美ちゃんを尊敬しています。
僕達は、きっとまた会えると思っています。
何か、他人の気がしないから……
僕は夏美ちゃんとの約束、果たせるように頑張る。
夏美ちゃんは頑張りすぎないでね。
ありがとう……
良太より』
今夜、良一兄さんの言っていた7日目の夜。
いつも通り、その日を過ごし、いつも通り、夏美に「おやすみ」を言った。
良太は眠らないのだけど……
午後11:30分。夏美の枕元に
書いた手紙をそっと置いた。
琴美の頭を優しく撫でた。
そっと玄関を出た良太は、夏美の家に向かって深々と頭を下げた。
「お世話になりました……」良太の目から涙がこぼれた。
奥歯をグッと噛み締めて、山下家に背を向け、あの錆びたバス停の所へ向かった。
何も持たずにやって来たから、何も持たずにバス停に立っていた。
ただ、その心の中には、ズッシリと重い沢山の荷物が詰まっていた。
ここで過ごした沢山の大切な時間と、みんなから貰った優しさという荷物が……
午前12時ちょうど、良太の目の前に真っ暗な穴がポッカリと口を開けた。
「ここがトンネルの入り口?」
不安を抱きながら、歩を進める良太。
あっという間に良太はトンネルの中に吸い込まれ、とんでもない速度で
その中を飛んでいた。
「ちゃんと生きる」「与えられた命」
良一兄さんの言った言葉が、頭の中で こだましていた。
何かがキラッと光った。出口だ。そう思った瞬間、
良太は意識を失なった。
再び目を開けた良太。彼は病院のベッドの上だった。
「夏美……」良太の第一声だった。
良太の母親が、血相を変えて廊下に向かって叫んでいる。
ドタバタと、先生や看護師が入ってきた。
「もう大丈夫。山は越しましたよ」先生が言った。
母親が号泣していた。
「あんた、3日間も意識不明だったのよ。もう助からないかもって……
親に心配かけてばっかりで、もう ‼︎」
「たった3日⁉︎そんなはずないじゃん!」良太が言った。
「間違いないわよ。事故起こしてから今日で3日目」
「……」良太は考え込んでいた。
海外旅行すると時差とか発生するよな。
あれと同じ様なことかな?
良太は1人で納得した。
外傷自体は大した事がなかったので、5日間程で退院できた。
久々の我が家で、久々の母親の作った食事。
「ああ。やっぱ、お母さんの作ったご飯最高‼︎ 僕、生きてて良かった!」
良太は心の底から言った。
良太の母親はキッチンで良太に背を向けたまま涙を拭った。
「そういえばさ、僕、将来 教師を目指そうと思うんだけど、どう思う?」
唐突に良太が言った。
「はあ⁉︎あんたの成績で?」母親は呆れていた。
「うん。でも約束したんだよね、夏美ちゃんと……」良太が言った。
「そういえば意識が戻った時、第一声、『夏美』だったわよね。
誰それ?」母親が聞いた。
「僕が夢の中で会った子。同じ年なのに、すごくしっかりしてて、
頑張ってて、その子ね、本当は教師になりたいのに無理だったんだ。
だから僕がなるって約束したんだ」
良太の話に母は、
「へえ…… なんだかリアルな夢ね。夏美か……
どっかで聞いた事ある名前だな……」
母は何か思いついた様に
屋根裏の物置きを、何やらガサガサ探し始めた。
30分位探していただろうか。
「あった!」と母が叫んだ。
一冊の、古い黄ばんだノートを持って、屋根裏から
降りてきた。
表紙の下の方に『山下夏美』と小さく書いてあった。
良太は驚いた。
「ちょっと貸して!」良太は、そのノートを母親の手から奪い取った。
ノートには、良太が居なくなった後の事が綴られていた。
自分が、教師への夢を、諦めきれずにいる事。
良太が、その夢を担って努力している事を願っている事。
わずか17才で、ろくに顔も知らない相手の所へ、嫁がなければ
ならなくなった事……
良太は泣きながら読んだ。
そこには良太への手紙も綴られていた。
『中山良太様
手紙をくれると言った日から、随分月日が経ちますが、
未だに我が家へ手紙は届きません。
もう、私の事は忘れてしまったのでしょうか……
良太君が私の代わりに教師になると言ってくれた日の事、
今でも覚えています。本当に嬉しかった。
その勉強が忙しくて、私に手紙なんて書いている暇は
ないのかもしれませんね。
あなたと過ごせた日々は私にとって宝物です。
兄が亡くなった時、近くに居てくれただけで心丈夫でした。
なぜでしょうね。初めて会った時から、あなたの事は
他人の様な気がしなくて……
あなたに会えて本当に良かった。
ありがとう……
山下夏美 』
宛てどころのない手紙を、彼女は ここにしたためていたのだ。
裏表紙から何かがハラリと落ちた。 これは……
良太が最後の夜に夏美に宛てて書いたあの手紙だ。
随分、色が変わってしまっているけど、間違いない。
良太はノートを、そっと抱きしめた。
母の話によると、山下夏美は 良太の曽祖母に当たる人だそうだ。
他人の気がしないはずだ。
母が言った。
「ウチは歴代、女家系でしょう?おばあちゃんも、母も、女の子
しか生まなかったから、私に男の子が出来たら、是非、良太って
名前にしてくれって、おばあちゃんに言われてたのよ。
で、あんたは良太になったわけ。
あんたが赤ちゃんの時、一度だけ会ってるのよ。
おばあちゃん、喜んでたなぁ……」
そっか…… そうだったんだ。
「ねえ、夏美ちゃん……じゃなくて、ひいおばあちゃんは今どうしてるの?」
良太が聞いた。
「もう今年100才になるんだけどね、M県の老人ホームにいるらしいわよ。
ただ、認知症がひどい上に、ベッドから起き上がる事も出来ないみたい。」
母はそう言った。
「おばあちゃんに会いに行こう!今すぐ連れて行って!今じゃなきゃダメなんだ!」
良太は母親に必死に頼んだ。
母は根負けして、良太と一緒にM県へ飛んだ。
ホームの部屋の前に立った良太は、入り口で名前を確認した。
『木下夏美』と書かれたネームプレートが掲げられていた。
嫁ぎ先の姓は木下だったんだ。
思い切って入り口のドアを引いた。
ベッドの中に小さな老人が眠っていた。
良太の頭の中を、
夏美と一緒に過ごした時間が、走馬灯の様に流れていた。
勝手に涙が溢れて止まらなかった。
良太の涙が、夏美おばあちゃんの顔に 一つ、また一つと落ちて、
夏美おばあちゃんも泣いているみたいに見えた。
「遅くなってごめんね。手紙、書けなくて ごめんね……」良太が言った。
夏美おばあちゃんが目を開けた。
「良太……君?」
そう問いかけてきた夏美おばあちゃんは、14才の夏美に見えた。
あの日見た、強い眼差しが良太を捉えていた。
良太は、うん うん と頷きながら涙を拭った。
「ちゃんと夏美ちゃんの夢、僕が叶えるから、安心して。」
良太が そう言うと、
「来てくれて、ありがとう。会えると思って、ずっと待ってたよ。
必ずよ、約束、私との約束守ってね……」
それだけ言うと、夏美は再び目を閉じた。
夏美おばあちゃんは、その翌日、この世を去った。
それからの良太は、人が変わった様に勉強した。
塾もサボらずに行った。
挫けそうになったら、夏美の頑張っている姿を思い出して……
甲斐あって、N市一番の進学校へ入学した。
周りは、あまりの変わり様に、ただ ただ驚いた。
この頃、良太は一通の手紙を書いた。
『山下夏美様
手紙、ありがとう。ずっと返事を書けなくて、ごめんね。
昭和5年、14才の夏美ちゃん達と過ごせた時間は、僕に
とっても宝物です。
そして君が抱いていた夢は、今、僕にとっての宝物。
夏美ちゃんとの約束、守ってみせるよ。
与えられた大切な命を、ちゃんと生きるよ。
本当に ありがとう。
中山良太』
宛てどころのない手紙を、良太は そっと引き出しにしまった。
ゴールはまだまだ遠い。でも良太は決意していた。
当たり前の事なんて、一つもない事を良太は知ったから……
学べる事。未来を選択できる事。自分が生きていられる事。
良一兄さんの思いと、夏美の思いを胸に、
今日も 良太は元気に学校へ出掛ける。
良太は胸いっぱいに外の空気を吸い込んだ。
良太の未来への一歩は、今、踏み出されたばかりだ。