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第101話 希望

 アストレは視界に入ったコーヒーのカップをぼうっと眺める。

 部屋は薄暗いが照明は一切つけられていない。机の上には細かい文字が書かれた書類がバラバラに積み重なっており、その上にはキャップもされていない万年筆が転がっている。

 書類の文章も途中で途切れてしまっていた。

「……」

 しばらくして、コーヒーカップが自分に向かって差し出されたものだということに気が付きゆっくりと手を伸ばし受け取る。

「……」

 時間が経ち冷えてしまった液体を口に含むと飲み込む。

 ふと、見上げると黒いローブの上から白衣を纏った人影が目に入る。四角い眼鏡の奥の緑色の瞳には冷たさは見られない。

「……兄さん」

 ソピアーを手に無言でカストは、壁にもたれかかって座るアストレを見下ろす。

「……いつからいたの?」

「……はぁ。少なくとも、そのコーヒーが湯気をたてているころからは。……アストレ……いえ、浩二。食事と睡眠くらいはちゃんと取りなさいと、何度言ったらわかるのですか?」

「……ごめん、なさい」

「いいですか、あなたも、彼女も全力を出した結果です。悔いるなら次へ向かって反省しなさい。ですが、そう、ですね。……よく、がんばったな」

 頭にのせられた手にアストレはただ俯いていた。




「……」

 ガラス張りの窓のように一面透明の遮断膜に遮られた総司令室奥の奥に位置する窓。

 そこからどこまでも広がる宇宙を見て結城は目を閉じる。

 結城には追い続けてきた夢があった。そしてそれは実現する一歩手前まで来ていた。

 だが。

 その夢が、本当に実行してよいものなのか。それを実現させるためならば、自らの命を懸けることさえいとわない。そうまで思っていたそれは今回の大旅団発足や《使徒》との闘いの中で意味を変えてきていた。

 理想郷ユートピア

 夢の実現はそうとさえ思っていた。

 しかし、彼女の死というものを受けて。やはり。その意味は変わりつつあった。

 彼女は結城の理想に共感してくれる人だった。『あのこと』は話していないが、きっと根幹は同じだ。

 右手が動き卓上の手帳を閉じる。

「結城、お前にとってソレは今どんな意味を持つ?」

「……ラースか」

 かかった声に目を開くと遮断膜にうっすらと彼の姿が反射して映り込んでいた。

「……さてな。……以前は単純な興味と渇望だったかね。今は、わからんな。……だからこそ、こうしてアレは隔離しているのではないか」

 結城は白衣のポケットの中で四角い記録媒体を握りしめる。

 己の夢が詰まった結晶を。

「私はあの時から人の死というものに影響されたことはなかった。いや、……そもそもの始まりが命だったのかもしれんがな。故に、固い決意が芽生えていたとも。……しかし、どうだろうか。私は今、影響を受けている。……願わくば、ラース。君は私を見守っていてくれ」

「無論だ、結城。……だが、その道の先で貴方が後悔する姿は見たくない」

「……そうだな。そうならないよう気をつけるとしよう」




 目を開く。

 歪んだ視界に目をこすると頭の下敷きになってしびれていた手を大きく動かす。ピリピリとした刺激が手のひらをかけた。

 アラキアは軽く息を吐くと立ち上がる。

 照明は暗めに設定され、完全防音されたこの部屋はほとんど存在を知られていない。

 本部の地下にひっそりと設けられており、アルクス同様、このフロアも立ち入りが制限されている。

 理由は単純だ。

 死を意識させないため。

 使われることがないことを願った設計者たちの思いもある。

「……」

 失ってからその大切さがわかる、とはよくできた言葉だ。

 優しい白で統一された部屋の中央奥に置かれている台に横たえられた人影を見る。

 点滴や人工呼吸器は取り外されすっきりとしている。眠っているだけかのように穏やかな顔には血の気がない。

 アストレに頼んで一人ここに残らせてもらった。

 アラキア自身は気が付いていないが、丸1日以上いる。食事もしていないことなど気が付いていなかった。

 泣き疲れ、いつの間にか椅子に座ったまま寝てしまったのだろう。時刻を示すものはないためどれほど寝ていたのかも不明だ。

 喉はカラカラだが、ここから動くという気力もなければ考えることもできない。自分の思考が鈍化していることにさえ気づいていなかった。

 恐らく、彼の声が聞こえなければ。

「アラキア」

 自らの名を呼んだ声にゆっくりと振り向くとそこにはラースが立っていた。

 ラース、と呟いた声は小さくかすれていた。

「無礼な物言い許してもらいたいが。……貴方は、ずっとここにいるつもりか。まるで貴方もここで……ともに眠ることを望んでいるようにさえ見えてしまう」

「……あながち……間違いでもないかもな。……一気に感覚が消え去った。何か感覚があるのはわかるけど、それが何なのかを理解できない。今、……何をしゃべっているのかも半分以上は……理解できていないだろうな」

「そうか。そう、だろうな。……私にも親友がいたが。……貴方達のほどの関係ではなかったがな。だが、彼と刃を交えたときの気持ちはいつまでも忘れない。……その、死にざまも」

「……親友?」

「……教皇さ。おかしな話だろう? 表向きでは相反し、剣を交えた相手が私の無二の親友だったとは。唯一の友だったとは。私には彼という存在しかいなかった」

 語るラースの表情は懐かしんでいた。

「彼が死んだ原因は私だ。私が、アルティレナスを無理やりおこしてしまったから。喪失の……君のその感覚はわかる気がする」

 複雑な感情が湧き上がってくるがそれが何なのか理解できない。

 唯一、悲しみという感情は理解できたが、もう涙は流れない。

「……」

 自分が何を言いたいのか分からなくて拳を握りしめる。

 そんな様子を見ていたラースは静かに語りかけた。

「……会いたいか?」

 その言葉に思考が完全に停止する。

「もし、……彼女に、……アルマに会えるのならば。もう一度、会いたいか?」

「……」

 やがてラースの言葉を理解し始め、アラキアは目を見開く。

「……会い、たい」

「それが、たとえ禁忌だとしても? 呪われるとしてもか?」

「……ああ」

 もはや、自分のことを考えているような余裕は消え去っていた。もたらされるかもしれない奇跡を必死につかもうとしていた。

「……アラキア、よく考えてから答えるんだ。私が提示しているのはあくまで可能性であって、しかも限りなく実現不能に近い。言うなれば失敗する可能性が高いものだ。いや、方法も、結果も、推測でしかない。……しかし、その代償はどちらにしろ跳ね返ってくる」

「代償……?」

「間違いなく、貴方は呪われるだろう。そして彼女も。……最悪、貴方も死ぬ。成功したとしても、貴方は、彼女から恨まれる可能性さえ大いにある。彼女を苦しませる可能性も」

「アルマを……」

「そんな自分勝手で、極めて危険なものを……君は背負うことができるのか。その覚悟はあるのか?」

 場合によっては、アルティレナスを超える災厄を生み出す可能性さえある。

 そう続けラースは言葉を切る。

「……」

 やがて、ラースを見たアラキアはしっかりとした声で答える。

 その瞳には強い光が浮かんでいた。

「それでも、可能性があるのなら。それでもいい。僕のわがままでもいい。……方法を教えてくれ、ラース」





 とても心地が良い空間。

 まるで横たわってぬるま湯につかり眠っているような。

「……」

 風を感じて目を開くと、オレンジ色の光が目に飛び込んでくる。

 身を起こすとそこは海岸だった。

 なぜそのような場所にいるのか思い出せなくてしばらく打ち寄せる波を眺めていたが、水面にうつる自らの姿を見て少しずつ思い出す。

 青い髪に赤い瞳。とがった耳を触った手には紺色の指ぬきグローブ。身にまとうのは白い騎士装に赤いマント。

 私は手を下すとため息をつく。

 なぜ、この姿なのだろう。

 防具を解いて紺の指ぬきグローブも外す。服の上からそっと左胸に触れるがそこに傷はない。続いて腕も見てみるがなんの痕もついていない。記憶にある自分より白い肌には傷1つついていなかった。

 ブーツを脱いで足を砂浜につけてみるがさらさらとした砂の感触はあるのに、肌に汚れが付くことはない。心地いいと感じる感覚のみが増幅されている。

 死んだ。

 そう、私は死んだはずなのに、何故こんな感覚があるのか。

 そしてここはどこなのだろうか。

 よく三途の川だとか、彼岸だとか、冥途だとか、そういう死後に関する単語はたくさん聞いていたが、ここはそんなイメージとはかけ離れている。

 川ではなく海。しかも私以外誰もいない。なにより、これからどうすればいいのかわからない。普通は道しるべくらいありそうなものを。

 天国だとか地獄だとか極楽浄土だとか。ここがなんなのか。

「……もしかしてボク?」

 幽霊は死後に道に迷った魂だとかと言われることもあるが、私も道を失ったのだろうか。

 それは困る。

 いくら景色がきれいで居心地がよくとも、いつまでもここにいるのだと思うとぞっとする。それとも飽きたらまた違う場所にうつるのだろうか。

 それならば、どこか山の中がいい。そちらのほうが好きだから。

 装備をことごとく外して騎士装の一番下の白いワンピースだけになると波打ち際に歩み寄る。

 足に触れる水は冷たくなく心地よい。

 しばらくそうして地平線に沈む夕日を眺めていたが、ふと、あることに気が付く。

 右手のほうの地平線に見える夕日は今にも沈みそうなのに一向に動かないのだ。左手側の空に広がる星も同じ。いつまでもオレンジと黒のグラデーションは位置を変えることはない。

 いつもならこのことに不安を覚えただろう。

 しかし、一切不安はない。先ほど迷ったのではと思った時もそうだ。

 死とは眠りと同じようなものだと思っていた。何もかも消え去るのだと。もう何も感じることがないのだと。

 しかし、違ったのかもしれない。

 苦しみのない世界。

 これが現実なはずはない。なら、ここはそうなのだろうか。

「……」

 ずっとここで一人なのだろうか。

 右手を横に伸ばすと手を丸める。

 双氷剣やクロノスをイメージしてみるが、クレアレアの収束する光は起きない。ただ空をつかむだけだ。

 せめて傷つくのか、ここでも死があるのかだけでも確認しようとしたのだが。

 左手も伸ばしてみるが同じだった。

 何かが、足りない。

 そう感じて手を握りしめる。

(……そうか)

 美しくおだやかで心地がいい場所だが、彼がいないのだ。

 最期まで手を握っていてくれた彼が。

 この世界もそこまでは優しくないらしい。

「……アラキア」

 ぽつりと呟いた声は風に流され消えてゆく。

 この世界で、私は本当に独りぼっちだった。



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