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03 愛は面影の中に

 時々、幼いころの夢を見るときがある。


 内容は単純。


 六歳になる年の梅雨の時期の話だ。


「綾乃ちゃん、どうして喧嘩何してしたんだ?」


 車に揺れられながら、伯父さんが少し怒気の孕んだ声で問う。決まってアタシは「……」と、しばらく口を閉じるんだ。


 ずーっと打ち付ける雨と、スピーカーから流れる音楽だけが車を満たしていた。渋滞に引っかかっているから二、三分に一回10メートル進めばいい方。前の車がブレーキランプを消すたびに伯父さんもクラッチを使って車を動かし、そして数メートル先でまたブレーキペダルを踏む。


 渋滞に腹を立てたのか、それともアタシが口を開かったことが原因か。分からないけど、伯父さんはハンドルに額をくっつけて、うつむいたと思ったら「うーん」と唸る。夢を見るたびにその表情は変わるけど、大体は悩んだ表情をしていた。


 窓の外で叩きつける雨をずっと見ていた。『何メートル先が』とかは分からないけど霧がかかる街中で、まるで星のように光る街灯とか遠くに見える車のライトが綺麗で、喧嘩しちゃったことを慰めてくれているかのようだったんだ。


 その時のアタシの格好はひどいもんだった。生まれつき栗色の髪は引っ張られてぼっさぼさになって、幼稚園の制服もめちゃくちゃになっていた。


「……朱里ちゃんたちが、花ちゃんをいじめていた」


 何を考えていたかは忘れたけど、アタシがいつもここで唐突に切り出す。すると伯父さんは顔を上げて、アタシのほうを向くんだ。もちろんこのとき、アタシは伯父さんの顔をはっきり見ていたわけじゃない。相変わらず視線は外に投げていた。


「……そうかい」


 どこか滲んだトーンの伯父さんの声。


「……」


「……答えたくなかったら、答えなくてもいいんだけど」


 無言になりそうだったアタシたちの間に、伯父さんは間髪入れず言葉を綴る。


「……なに?」


「綾乃ちゃんは、どうして朱里ちゃんたちを叩こうと思ったの?」


 嫌な質問だ。だけどこのときのアタシには、ちゃんと答えないといけないって義務感がどこかで沸いてきていた。


「……だって、いじめることは悪いことでしょ?」


 だから、ちゃんと答えた。アタシが人を初めて殴った理由を。


 幼稚園生のときのアタシから見てもひどいもんだった。今はどこにいるかもわからない朱里って子は五人がかりで、タンポポ組一おとなしい花ちゃんを囲んで殴っていた。理由は覚えてない。でも大したことじゃなかった気がする。花ちゃんが助けを求めたけど、男子は誰も動かなかったし、先生もその場にいなかった。気がつけばアタシの拳は自然と、朱里の顎めがけて飛んでいた。そこから五対一の喧嘩になって、そうしているうちに飛んできた先生たちがアタシたちを制止した。あの時朱里はなんて言っていたっけ。「おかあさんにいいつけてやるんだから」だったっけ。はっきりとは覚えてないや。


 ここからだ。アタシの歯車が狂い始めたのは。別にこのときの自分がやったことに後悔はしていない。だけど、できることなら、やり直したいところでもある。殴るんじゃなくてまずは「止めなよ」っていうとか、先生を呼んでくるとか。方法はいくらでもあったんだ。


 伯父さんはしばらく黙り込んだんだ。多分物事の整理をつけていたんだと思う。


「……僕は先生から『綾乃ちゃんが急に朱里ちゃんたちを打った』って聞かされたんだ。それは違うんだよね?」


「……うん」


 先生たちに問い詰められたとき、アタシは何も言わなかった。言わなくてもわかってくれるって思ったんだ。でも口でものを言わなきゃ伝わらないってことを、六歳目前にして学んだ。


「……うん。じゃあ、綾乃ちゃんの言うことを信じて、今度僕が先生たちに伝えておくよ」


 そのときの伯父さんの言っていたことは、意味がよく分からなかった。今になって思うことは、そのあと先生たちが喧嘩したことに何も言わなかったことは、伯父さんのおかげだったんだと思う。


「綾乃ちゃん」


「……」


「僕は、綾乃ちゃんは正しいことをしたと思うよ」


「……ほんと?」


「うん。本当」


 その一言でも、アタシは救われた。このとき、ようやく伯父さんの顔をはっきりと見た。さっきまで感じられた怒気とか混乱気味とかそんなのはなくていつものように、いや、いつも以上にやさしい表情をしてくれていた。


「けど、やり方はだめだったね」


「……うん」


 それは自分でも知っていた。今までも、多分これからもそれは後悔し続けるんだと思う。


「だから、綾乃ちゃん。まずは我慢することだよ。我慢して、我慢して。それでもだめだったら、相手が手を出してきたら、綾乃ちゃんも自分の身を守るんだよ」


 伯父さんはそう言った。


 アタシは何も言わなかった。けど、多分顔にはちゃんと出ていたんだと思う。伯父さんがアタシの顔をみて、柔和に微笑んだんだ。


 そのときだった。


『The first time ever I saw your face――――』


 搭載されたスピーカーから、今までに聞いたことのない、世界一綺麗な声が聞こえてきたのは。意味なんて分からなかった。けど多分、いわゆるラブソングだってのは感じていた。


 驚いた表情を作ったのか、伯父さんは「ロバータ・フラックだよ」と口にした。


「ロバータ・フラック?」


「うん。この曲を歌っている女の人の名前。曲名は『愛は面影の中に…』っていうんだ。いい曲だろう?」


 『面影』って言葉の意味は知らなくても、これがいい曲だってことに首を縦に振る。そのままうっとりと聞き入って、気づいたら車を打ちつける雨の音すら気にならなくなっていた。


「綾乃ちゃん、家に帰ったらMDプレイヤーをあげるよ」


「MD?」


 『面影』と同じくらい聞きなれない単語だった。


「うん。CDよりもっと小さいCDでね、この曲が入ったものがあるから、後でゆっくり聴いたらいいよ」


「ほんと?」


「ほんと。だから、僕がさっき言ったこと、守れるよね?」


「うん!」


 今まで沈んでいた感情が怒涛のように沸いてきたんだと思う。自分でも意識できるくらいに、明るい表情をしていたんだ。でも、ちょっと視界が涙でぼやけていた。


 ゆっくりと一定のテンポで流れ続けるラブソングに合わせて、アタシは体を右に左にゆっくりと揺らしていた。


「じゃあ、約束の拳を交わそっか」


「?」


「ほら、右手を握って」


 言われたとおりに右手を握りしめた。すると伯父さんは大きな左拳をアタシの右拳に軽くこつんとぶつけた。伯父さんの硬い拳の感触が伝わってくる。ごつごつしていて、そしてとっても暖かかった。


 気がつけば雨は止んでいて、霧も晴れてきていた。


◆ ◆ ◆

 寝てみる夢ってのは、必ず醒めるもんだ。


 醒めない時は死ぬ時くらい。


 瞼の向こうに暖かな光を感じて、アタシは目を覚ました。ぼやけた視界は時間が進むにつれてはっきりと澄み渡ってゆく。


 見慣れない白の天井。開いている窓から入ってくる風が、白いカーテンを揺らしている。白い部屋はとっぷりと緋に満たされていて、今現在が夕暮れって時計なしでも分かった。


 けど、状況がよく分からない。


 アタシは死んだはずだ。雷に撃たれて、多分全身が焼き焦げて、そのまま死んだはずなんだ。死後の世界でアタシは夢でも見てるんだろうか。


 ……こういう時は自分の体を刺激することが一番いいらしい。夢なら痛みは感じないし、現実なら痛みが襲ってくるはずだ。実際、これで夢かどうか確認する人もいるらしいし。


 そーっと頬に手を伸ばして。


 全力で抓った。


「いだだだだ!」


 痛い。


 爪が食い込んで、超痛い。


 ものすごく痛い。


 うん。まだ状況が飲み込めたわけじゃないけど、確かなことがただ一つ。


 アタシは生きている。呼吸、血の流れ、見えるもの聞こえるものその他全て。雷に撃たれる前の感覚全部が、そのまま残っていた。ベッドから降りたら、素足からクリアブルーのタイル床からひんやりとした感覚が走ってきた。うん。やっぱり、これもいつもと変わらない。


 あれは夢だったのかな。


「……ってなんだこれ」


 一瞬そう思ったけど、やっぱり夢じゃなかった。アタシはドラマとかで見るような、クリアグリーンに近い色をした患者服を着せられていた。つまり、ここは病院とかそういう医療施設に間違いない。けど、どうしてこんな場所にいる? まあ多分、あの後誰かがアタシを見つけて救急車を呼んでくれたに違いない。それで運び込まれて……。


「でも」


 あの時、確かに全身が焼き焦げた感覚があった。肉を焼いたときに出る臭いが体。やけていく視界で体から上がる煙を見たし、鼻で肉が焼けたにおいを確かに感じていた。今でも鼻に残っている気さえする。だから、アタシを病院に運んだところで死ぬのが普通のはず。でも、今アタシが見ているアタシは、いつもと何の変りもない肌をして、何にも変わらない顔を――


「あ」


 窓に映った自分の顔は、『いつも』とは大きく違っていた。


 アタシの瞳は生まれつき黒色だったのに、蒼く染まっていた。空のような、海のような。吸い込まれそうなくらいに蒼い。それと、頭にはニット帽みたいなものが被せられていた。今まで気づかなかったけど、触れてみたら確かにそこに帽子はあった。


 そうすると疑問が二つくらい出てきたんだ。


 まず、なんで帽子を被せられているか。それは……焼けちゃったんだろう。また伸びるかは知らないけど、多分病院の人が気を利かせて被せてくれたに違いない。ん。この疑問は解決。


 じゃあ瞳の色が変わった理由は?


 ……よく分からない。瞳の色が変わるなんて話は、伯母さんの友達の、その旦那さんが感情で色が変わる瞳を先天的(・・・)に持っていたってのは聞いたことがある。でもアタシみたいに後天的に変わったなんて聞いたことはない。デヴィッド・ボウイは瞳の色が後天的に変わったらしいけど、その目の視力はほとんど無くなったらしい。写真を見たら瞳孔が開きっぱなしだったから、多分その機能が抜け落ちてしまったんだ。でもアタシはいつもみたいに、窓の外に広がる景色を眺めることが出来ていた。遠くに見える公園で帰ろうとしている子供たちにその親御さん、帰宅途中の車の列にその他もろもろ。うん。しっかりと見れている。


 ……これは直感だけど。


 もしかしたら多分、誰も知らないんじゃないか。そもそも『人が雷に撃たれた』なんてニュースは今のご時世あんまり聞かないし、視力はそのままで目の色が変わってしまったなんてのはなおさらだった。


 不思議だ。本当に、色々と。


 そんでもって、それを冷静に分析している自分がいたことにも驚いた。こんなに頭が冴えわたったことなんて今までになかったし、こんなに落ち着いたことなんてなかったんだ。


 なんか、どこかがおかしい。


 けど、一言で『絶対にこれ!』ってフレーズは思いつかなかった。逆におかしいことがありすぎて、一言で纏めることすら難しい。


 自分のふがいなさにため息をついていると、病室のドアが開く音がした。


「……あや姉?」


 か細いけどすごくエネルギッシュな声。秋の声だ。なんかずっと聴いていなかったような、懐かしい気がする。


 振り返って「おっす、秋」と、いつものように挨拶。のつもりだった。


 始め秋は茫然として、しばらく口を開けていた。でもアタシが立っているって分かったからか、その両目に涙を浮かべて無言で飛び掛かってきた。


「おおっと」


 倒れてしまわないようにどうにかバランスをとって、従妹の体を抱きしめた。秋は泣きそうになったとき、いつもアタシに飛びつく。アタシと身長が同じになってきても、これだけは昔から変わらなかった。


 言葉にならないすすり泣き。


「……あや姉」


「ん。どうした」


「なに雷に撃たれてんだよぉ! 死んじゃったかと思ったじゃん!」


 可愛い顔は瞼が赤くなって、頬にはまだ乾ききらない涙の跡。


「ご、ごめん」


「馬鹿馬鹿馬鹿ぁっ!」


 震える拳を何度も胸に打ち付けて、そしてまたアタシの体に抱き着いて泣き始めた。ここまで秋が泣くのは久しぶりに見た。それくらいアタシは秋に――いや、家族に心配かけたんだろう。


「……秋」


「ん゛」


「その、心配かけてごめんな」


 心の底から出た言葉は、自然とこの手を従妹の背中に回していた。

本文《》の英語部分はロバータ・フラックの『愛は面影の中に』より引用。

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