02 世界の果てまで
そんで、アタシは心を入れ替えて、勉強漬けになっていた。学校の授業には出席するし、必要な教科書は毎日持ち帰って、そして最低各教科三十問くらいは解くようになっていた。
「じゃあ問題です。三角形の合同条件をすべて答えなさい」
「……えっと?」
「確か、三辺がそれぞれ等しい。二辺とその間の角がそれぞれ等しい。一辺とその両端の角が等しい、だよな?」
「うん。正解です」
苦手だった数学の公式を覚えたし、見たくもなかった理科の化学式やら物質名を暗記したり……。ともかく達也の手を借りて、何とか手取り足取り着くようになっていた。こいつはあの日以来、アタシが呼んだときは嫌な顔一つせず付き合ってくれた。感謝してもしきれなかった。もちろん見返りとして、アタシは英語を教えた。「綾乃は英語の発音うまいね」と言ってくれたことが嬉しかった。
そんなことを十二月まで続けていた。その間にアタシは十五歳になったし、達也に迷惑を何度もかけた、オバサンにドつかれたこともある、如月に呼び出されたこともあった。いろいろあったけれど不思議なことに、あれ以来喧嘩を売ってくる奴はいなくなっていた。嬉しいことだったね、ほんと。
年も開けたら、幼稚園のころから狂い始めた歯車がだんだん正常運行してきているのを感じた。『不良』から『普通』になって来たと思う。友達は相変わらずいなかったけれど、それでもよかった。今は家族と達也がいてくれるだけで、よかったんだ。ちなみに、伯母さん曰く『高校に上がればそんなもんほぼ一からやり直しだから気にしないで』。つまり、アタシが高校に無事入学できればアタシにもそういうチャンスがあるということ。
こんな希望を胸に、アタシは二月下旬の試験に向けてラストスパートをかけていた。
◆ ◆ ◆
試験一週間前を切ると、アタシは臆病風に吹かれていた。
原因?
特定は……しづらい。例えるならあと少しでゴールってところで、今までの自分の努力を疑い始めてキリがなくなってくるマラソン……って言えばいいのかな。ともかくそんな感じ。
そんなアタシを励ます、ってわけじゃないけれどこの学校では試験まで一週間をきると壮行会が行われる。内容はというと、集められた三年生全員で色とりどりの料理を楽しみつつ、ゆっくりと英気を養うって会なんだけど。ちなみにラストは、校長のありがたい言葉で〆られる(これが通例らしい)。
もちろんアタシもこれに参加したんだけど、こんな壮行会で緊張はほぐれなかった。
だって勉強と喧嘩は似ているけれど違うもんだから。
アタシにとって喧嘩は、いつも結果が見えているモノだった。どこを殴ったら相手がふらついてくれるか、どこを蹴れば相手が倒れてくれるか。全部が全部分かっていた。だからほぼ負けたことは無かった。
でも、勉強はそうじゃない。たとえ公式とか表現方法を覚えていても、忘れてしまうことがある。勉強の攻略方法っていうのは、いかに取りこぼしをしないかって所にあるんだろう。
要は、勉強は理性的で喧嘩は本能的っていう違いがあるってこと(『理性的』も『本能的』も勉強してから知った意味なんだけど)。
アタシは人よりも本能で動いてきた人だから、そういう『理性的』なことは苦手ってことだ。
うん。これが緊張のほぐれなかった理由だな。きっとね。
そんなアタシは、コンビニで伯父さんの到着を待っていた。いつもなら山道を歩いて帰っているところなんだけれど、朝家を出る前に「今日は迎えに行くから、コンビニで待っておいて」と言われた。
一体なんだろう。
最近仕事も忙しいらしいのに、どうしたのやら……
考えても仕方がない。伯父さんが車でアタシはMDプレイヤーで音楽を楽しむことにした。昨日から入れっぱなしの『マキシマムミックスγ』。再生された場面は、ちょうど少年の物語も佳境に入ったころだった。こいつは全力で音楽。アタシは全力で勉強。方向は違ったけれど、なんかいつも以上に親近感を覚えていた。
一曲、また一曲と終わっていって、最後の曲に差し掛かったとき、伯父さんの車が到着した。後部座席に乗り込もうとしたけれど、中から伯父さんが『前、前』と指さしたから、アタシは助手席に腰かけた。
アタシがシートベルトをしたのを見計らって、伯父さんは車を出発させた。始めはゆっくり、次第に速く。伯父さんの馴れたハンドルさばきと足運びは、まるで一匹の馬のように車を操る。
「綾乃、今日も一日お疲れさん」
「う、うん」
唐突に伯父さんが声を発した。いつもならアタシが喧嘩したときだけ、伯父さんは真剣な面持ちで声をかけてくる。今も真剣な表情で声をかけてきた(もちろん運転しながらだから、こっちを向いているわけじゃないけど)。でも、どことなくいつもみたいな柔和な笑みがどこかに溶け込んでいる。多分、この表情は運転しているからなのかもね。
「……そろそろ試験日だけど、緊張はしている?」
「うっ、うん。一応」
「そうか」
そっけないような、そんな返答にアタシはちょっとだけムッとした。
「『そうか』ってなんだよ、伯父さん」
「いやね。喧嘩で負け知らずの綾乃が、テストは怖がるんだって思うと、なんか感慨深くて」
「いやいやいやいや、誰だってテストは恐ろしいものでしょ?」
「そうかもしれないけど――」
ちょうど信号が赤に変わり、車が止まった。
「――綾乃」
伯父さんは、アタシと面を向かい合わせた。さっきまでの真剣な表情はどこか崩れていた。そう、いつもみる伯父さんの顔。だけど、どこか違う。
「六月の終わりに綾乃は『伯父さん、高校に行かせてください』って頭を下げに、わざわざ僕の部屋まで来ただろう?」
「うん」
当たり前の行動。でも今までにこんなことをやったことは、覚えている限りで一度もない。だからこそ今まで伯父さんに迷惑をかけた分、頭を下げでもしないと、アタシはアタシのことが嫌いになりそうだった。
「僕ね、その時すごく嬉しかったんだよ」
「……アタシが頭を下げたことが?」
「それもあるかもしれないけど、一番の理由は綾乃がちゃんと自分の口で僕を頼ってくれたことだよ」
「……?」
「綾乃は今まで喧嘩した時、僕や詠美に謝ったことってあんまりないだろう?」
うっ。
「……うん」
「綾乃が怪我をしてないか心配だったけど、それもよりも怖かったのは、綾乃が誰も頼らなくなってしまってないかってことだったんだ」
初めて聞いた、伯父さんの本音。
言われて初めてアタシは気づいた。もしかしたら今までのアタシは、人に頼らないように過ごそうとしていたのかもしれない。本当は伯父さんや伯母さんに頼りきりなのに二人を、特に伯父さんを『退屈』だって決めつけていたかもしれない。
とても馬鹿なことをしてきたんだ。
思わず、伯父さんから視線をそらしてしまった。
「あ、そんな重いことを言っているんじゃないよ。だからこっち向いて」
大量の石を担がされたみたいに体が重い。でもどうにかゆっくりと頭を上げて――
「あ、伯父さん。信号青だよ」
「えっ。あ、本当だ」
伯父さんはまた前を向いて、車を走らせた。
なんだか拍子抜けてしまって、気が付けばアタシの体も軽くなっていた。
「……で、話を戻すけど」
五百メートルくらい車を走らせてから、伯父さんはまた言葉を連ねる。
「綾乃は僕に約束したよね」
「うん」
「覚えてる?」
もちろん。アタシだってそこまで馬鹿じゃない
「『これからは喧嘩しないです。絶対に迷惑をかけるようなことはしないので、お願いします』」
一字一句が正確とはいえないかもしれないけど、アタシなりの誠意は確かに伯父さんへ伝えた。
「『高校に行きたいです』って言ってきた最初はね、ちょっと疑っちゃったんだよ、綾乃のこと」
そりゃそうだ。逆の立場だったら、アタシだって疑うに違いない。
「でもね、綾乃がちゃんとそういうことを言ったから、僕は信じようと思ったんだ」
思わずこっちが耳を疑った。
「そんなことで?」
「そんなことで」
伯父さんの横顔には、嘘偽りなんてない。
「……どうしてさ?」
「だって、僕ら家族だろ?」
即答。本当に迷うことなく、伯父さんは答えた。
「それだけ?」
「それ以上、何か理由がいるかい?」
ちょうど家が見えてきた。車のスピードを落として、ゆっくりとバックギアを入れる。車はすっぽりと駐車場に収まって、伯父さんはエンジンを切る。
伯父さんはすぐには車を出ようとしなかった。アタシもそうだった。
しばらく無言の間がアタシたちの間に流れる。
『それ以上、何か理由がいるかい?』伯父さんの言葉が、頭の中で何度もリフレインする。アタシの答えは一つだった。
「伯父さん」
「ん?」
「他に、理由はいらないや」
「……うん」
平坦な声だったけど、嬉しそうだった。表情を見てみると、笑みが零れていた。見ているこっちも嬉しくなるくらいの微笑みだった。
「じゃあ伯父さん。そろそろ家に入ろうか」
アタシは車から出ようと、荷物をまとめた。とはいっても、カバンを持つくらいなんだけど。
「綾乃」
ドアノブに手をかけたとき、伯父さんがもう一度声をかけてきた。
「何?」
もう一度、その真剣な表情と面向かいあう。でも、気まずさとかそういうのはなかった。
「この数か月、やることは全部やったんだよな?」
「……やった、と思う」
「だったら明後日からの試験は大丈夫。絶対うまくいくさ」
堅い表情を崩したと思ったら、伯父さんは拳を突き出した。思い出せないくらい前にやったっきりの、約束を守る合図。アタシも拳を突き出して、お互いにこつんと軽くぶつけ合う。
「じゃ、家に入ろうか」
「そうだね」
外の空気は冷えていた。それこそずっと車の中で喋り続けていたほうがましに思えてくるほどに。伯父さんが「うう寒む寒む」と体を震わせながら玄関に急ぐ。アタシも遅れないようについてゆく。
「あ、伯父さん」
家に鍵が刺さったとき、アタシはふと思い出して声をかけた。
「ん?」
「年寄りになった時にオレオレ詐欺とかに引っかからないでよ」
「あはは、注意しておくよ」
そうやって、アタシたちは「ただいま」って、ドアを開けた。
◆ ◆ ◆
昨日下見に来たとはいえ、やっぱり稲穂高校はデカかった。校門に入ってすぐ左に見える駐車場は日の出高校のグラウンド二つ分くらいはあるし、校舎だって五倍くらいデカく見える。高校というよりは大学っていったほうがいい規模だ。
本当にここ、高校?
「おっす綾乃」
「お。おっす、達也」
ようやくお出ましの幼馴染は、いつも通りだった。落ち着いた具合や恰好とか、全部がいつも通り。
「よく寝れた?」
「そっちこそ。目の下が黒いぞー」
「あはは。これ、生まれつきって知っているでしょ」
「まあな」
「ふぅ」と溜まった息を吐くと、達也は時計に目をやった。「……8時23分か」。ぽつりとつぶやき、周りをきょろきょろと見回す。
「なんかあるのか?」
「うん。ちょっと友達がね」
友達、か。なんか気まずくなりそうだな。
「達也」
「ん?」
「アタシはもう行くからな」
「え、なんで?」
んー、なんて言えばいいんだ。んー、んー。
「……早めに行って精神統一だよ」
途端に、達也は目を丸くした。引きつったような笑みを浮かべて、「あ、綾乃にそんなことが出来るの?」と突っかかったように言う。少しカチンときたが、でも、まあ、なんか許せた。実際今までそういうことをやったことがないのは事実だったんだし。
「できる。つーかやる」
「わ、分かった! じゃあ、また後でね!」
お互いに手を振って、アタシは校舎に向けて歩を進めた。目の前には何人もの受験生が、アタシと同じように歩いている。灰色に舗装された道を彩るのは色とりどりの制服。一秒ごとに姿を変えるから、なんだかモザイク画を見ている気分になった。
アタシもその中で受験会場となる教室を目指す。その途中で何人かとぶつかって、内心「こいつらをぶっ飛ばしながら進んだほうがいいのか?」と思い始めていた。もちろんそうすることはなかったけど。
五分くらい経って、ようやくアタシは教室についた。自分の番号の席に深く腰掛けて、ちょっと周りをぐるっと見回してみた。本当の最終確認のために参考書を開く人、自分を落ち着かせようと努力している人……などなど、真面目な人ばかりだった。
アタシはアタシなりのことをすればいいんだ。こういうテストの時に周りに流されちゃダメ。伯母さんがそう教えてくれた。と、いうわけで。バッグの中から筆記用具を取り出して、腕時計と一緒に机の上に置いた。最後に受験票を置いて、後は……。
あれ。
自分の目と手を疑った。いやいや。昨日ちゃんと入れて、今日も出るときに確認したんだ。そんなことあるはずがない。もう一度バッグの中をのぞいて、ありたっけのポケットを探る。
でも、アタシの目の前の現実は揺らがなかった。
受験票がない。
一大事とかいう話じゃない。この日のためにやってきた努力とかいろんなものが間違いなく吹き飛ぶ。それに受験できなくなったら……伯父さん伯母さんに一生顔向けできなくなる。
……人ごみの中でぶつかったときに落としたのか?
多分それが、一番可能性が高い。それなら多分誰かが拾ってくれているはずだ。
ダメもとでもいい。ともかく、会場本部に行くしかない。
アタシは教室を駆け出た。
歩いている暇なんてない。
ここが廊下?
知ったこっちゃない!
駆けて
走って
会場本部に転がり込んだ。
「す、すみません! 受験票の落とし物とかありませんか!?」
大人たちが向ける目はなかなかきょとんとしていて、そんでもってなぜか男子学生がそこに一人いた。かなりの高身長で、髪が目にかかっている。人ごみの中にあった制服を着ているから、こいつも受験生で間違いない。
「あ、もしかして宮里綾乃さんですか?」
「え、あ、はい」
「あの……これ、落ちていました」
差し出されたのは、一枚の受験票。踏みつけられていたりして、折れ曲がったり汚れたりしている。けど不機嫌そうな表情を浮かべているアタシの顔写真が、べったりと糊付けされている。間違いなくアタシの受験票だった。
「あ、あ、ありがとうございます」
多分人生で初めて腰を九十度以上曲げて人に感謝したと思う。正直、気持ちはそれ以上だったけれど、今のアタシにはこれ以外に思いつく方法がなかった。
顔を上げると彼はどこか困ったように笑っていた。
「あのー君たち。あと七分で集合時間になるから、早く行きなさい」
後ろにいた先生の警告で、アタシたちはお互い、急いで本部室を出た。アタシはそのまま廊下を走ったけれど、彼は隣にあった階段を駆け下りていった。
名も知らない彼に感謝しながら、アタシは走った。
◆ ◆ ◆
そんなこんながあったけど、無事試験を終えることが出来た。そんでその後には息もつかせぬように、卒業式に向けて準備しなくちゃならなかった。
なんで試験が終わった五日後に卒業式をするんだよ。もっとスケジュール考えとけよ。
なーんて文句をよそに、アタシはちゃんと卒業式に出た。名前を呼ばれたとき、会場のどこからか『あいつって卒業出来るくらいの成績あったの?』とかなんやら言われたが、気にしなかった。校長から卒業証書を受け取って、階段を下りるときに伯母さんの本っ当に嬉しそうな顔に伯父さんの誇らしげな表情、在校生の席に座っていた従妹の星野 秋の笑った顔を見れたからね。
卒業式が終わって、アタシを見送ってくれる友達はいなかった。まあ、慣れていたし知っていたことだから、別段寂しくはなかった。
けれど、帰りは家族と帰った。車の中で珍しく馬鹿みたいに騒ぎ合って、楽しんで……それでよかった。
問題は、これから三日後だ。三日を過ぎたあたりから星都の公立高校は順次合格発表を行っていくんだけど、稲穂高校は毎年最速で発表している。
やり切るだけやったけれど、やっぱり不安は残っている。成績の面では確かにひどいもんだから、なおさらだった。でも、悩んでいる間に気が付けば二日過ぎていた。今日は発表の日。昨日まで何をしていたかも覚えてない。まあ、大したことはしてないさ。
制服に身を包んで、稲穂高校の前にいた。合格発表が張り出される大きな掲示板の前はもう人で埋め尽くされていて、アタシが入り込めそうな余地はなかった。ため息をついていたら「もしかして、宮里さんですか?」と声をかけられた。
「はい、宮里ですが?」
振り返った先にいたのは、すっごく綺麗な黒髪をした、アタシと同じ制服を着ている少女だった。こんなメガネ美人同じ学校にいたっけ? いたらどことなく覚えているはずなんだけど……。
「えっと、同じ日ノ出中学校の赤峰 美智です。よ、よろしくお願いします」
手を差し出してきた。多分、挨拶の握手なんだろう。こういうのは久しぶりだったから、ちょっとタジタジになりつつ「宮里綾乃です、よろしく」って言って手を取った。
お互いの手の感触が伝わる。
「おおっ」
「『おお』?」
「あ、いや。赤峰さんの手、ってその、柔らかいなーって」
「あはは、ありがとうございます」
柔和に微笑む姿は、どっかで聞いた大和撫子ってやつを思わせる。手を離しても、まだあの柔らかい感覚が残っていた。
「それにしても。硬いんですね、宮里さんの手」
「そう?」
「ええ」
やっぱり、アタシの手は硬いのか。喧嘩し続けていたからかな?
「でも、素敵なことだと思いますよ。硬い手は、自分の意思を貫けることの表れだそうです」
「ん、ありがとう」
どことなくフォローが上手くて、アタシは赤峰さんが良い奴だと確信した。と、言うよりはアタシとは真反対な感じがする。多分、アタシがマイナスで、赤峰さんはプラス。だから初対面でも、アタシは抵抗感なく受け入れきれた気がする。
「お互い、合格していたらいいですね」
「そうだね」
やっぱり、良い奴だ。
「……そういえばさ、赤峰さん」
「はい」
「赤峰さんは、なんでアタシに話しかけたのかな?」
そう。すごく気になっていたことだ。周りを見ればぽつぽつと同じ日ノ出中学校の同級生はいるわけだし、そっちに声をかけてきたほうがよかったんじゃないかなと思えるんだ。
「それはですね……」
言葉をそのまま続けることなく、一旦黙り込んだ。理由を探しているのかなと思ったけど、すぐに柔らかな笑顔で答えた。
「宮里さんが、憧れの人だからです」
「へっ?」
間の抜けた声を出してしまった。だってアタシ、そういうこと一度も言われたことなかった。それに、こんなことを考えてくれる人に出会ったことがなかったからだ。
「あの……なんていうのでしょうか。その、宮里さん、かっこよくて……本当に、私とは正反対で、ともかくカッコいいからです!」
多分言いたいことはたくさんあったんだろう。けど、赤峰さんはそこで顔をそらしてしまった。妙に頬が赤くなってきている横顔は、アタシの目からしても美人さん。
「え、っと……」
お互い黙り込んで、ちょっと気まずくなる。
「変、でしたか、やっぱり?」
「いや。そんなことはないよ! その……ありがとう。アタシ、今までこういうこと言われたことなかったからさ、とても嬉しいよ」
「本当ですか!?」
ぱあっと顔を明るくして、アタシの両手をぎゅっと握ってきた。
「私も嬉しいです宮里さん!」
「あ、あの」
「何でしょう」
「綾乃でいいよ。『宮里さん』はなんか慣れないんだ」
「えっと……じゃあ、綾乃さん」
「『さん』もいらないって」
「す、すみません。でも私が『さん』を付けないと喋りにくくて……」
「あ、そうなの」
「はい」
そこのところはなんか変な娘だなって思いながら、アタシは赤峰さんと何気ない会話を続けた。好きな音楽は何だとか、好きなブランドは何だとか(ここら辺は全く知らない。色々情報を集めておかないと)。そんな会話を続けているうちに、「よっす、二人とも」って後ろから声をかけられた。
「あ、前田さん」
「お。うっす、達也。お前にしては遅かったな」
「んーそれが寝坊しちゃってさ。昨日緊張で全然眠れなくて」
「えっ。大丈夫ですか!?」
「うん。大丈夫だよ赤峰。むしろいつもよりいいかも」
ん?
「二人は知り合いなの?」
「ええ、そうです」
「中二くらいだっけ? それくらいから赤峰とは友達だよ」
へー。知らなかった。
「そういや綾乃―。もうそろそろで合格発表だけど、緊張してる?」
「もちろん。緊張しているさ」
飄々と言ったとは思うけど、内心はすごく緊張気味。正直人生で経験したことがないくらいには緊張している。
「大丈夫ですよ、綾乃さん。きっと合格しています!」
「そうだよ綾乃。あんなに頑張ったんだから、きっと合格しているさ」
二人の激励は、純粋に嬉しかった。こうやって励まされたことは家族以外じゃ今までなかったし、あったとしてもずっと前の話だ。はっきりとした記憶はない。
「……うん。二人ともありがとう」
赤峰さんと達也が「にっ」と笑う。
アタシもつられて、頬が緩んでいたと思う。
直後、「わああああっ!」って何重にも重なった声が周りに爆散した。その方を見てみると、掲示板の前にいた人々がいろんな感情を爆発させていたんだ。狂喜や歓声、悲鳴に落胆、本当に色々。
「見に行こうぜ、二人とも」
達也に後押しされて、掲示板へと歩を進める。赤峰さんはどこか強張った表情をしているけど、達也の顔にそんなものはなかった。アタシの顔は……多分ガチガチだったんだろうな。実際、一歩一歩近づくにつれてアタシの足が重くなっていたんだ。それでもどうにか辿りついて、自分の番号を探した。
二人はすぐに見つけて、お互いに抱き合っていた。そんなのを横目にしつつ、アタシは自分の番号を探す。二、三回ほどぐるりと見回して、ようやく自分の番号の列を見つけた。
一つ、そして一つと確認。
そのたびに全身から汗が噴き出そうだった。
でも、多分、今人生で一番繊細に動いているかも。
ようやく三桁目と二桁目が一致する欄を見つけた。
丁寧に、そして繊細に。アタシの目線はゆっくりと下に降りてゆく。そして――
「あっ……」
アタシの番号はあった。
それからどうしたか?
よくは覚えていないけど、ただ右腕を強く振り上げて、叫んでいたことだけは確かだよ。あ、めちゃくちゃ叫んでもいたはず。
アタシ、宮里綾乃は間違いなく、そして確実に、稲穂高校に合格したんだ。
◆ ◆ ◆
そっからアタシの一日はめまぐるしく動いた。
まず、合格したことを公衆電話から伝えたら伯母さんの叫び声が聞こえて、耳にキンキン来たと思ったら、今度は秋が「あや姉おめでとおおおおおっ!」って。立ちくらみしそうになったところで十円切れになったから、アタシの耳は無事で済んだ。あれ以上電話し続けたら死んでたかも。
で、そのあとは入学資料を貰って、その他色々。細かくは覚えてられなかった。でも家族と馬鹿みたいに騒いで、色々食べたのは何となく覚えてる。
翌々日には居ても立っても居られなくて、アタシは必要な資料を纏めた。昨日の内で色々と済ませたから、そのままバッグに資料を突っ込んで、バス停で104番のバスを待っていた。『雷山市―北日ノ出町』を結んでいる104番のバスは、雷山区の中でも有数の優良企業『東雷海バス』が運営している。大体の車内は綺麗だし、なかなか近未来的な設備を備えている(電子マネーでの支払いが可能とか、各席に小型のテレビが配置されているとか)。まあ、アタシは流れてゆく景色を見ながら音楽を楽しむのが好きなんだけどね。
バスに揺られて、学校について、書類を提出した。滞りなく受け取ってもらって、アタシは事務員の人に礼を言ってから、バス停に戻った。やることも特になかったし、雷山市を見回るのも高校に入ってからでいいかなと思っていたからね。
バス停に近づくと見覚えのある後ろ姿が見えた。アタシと同じくらいの身長に、ちょっと猫背の姿。間違いない。
「うっす達也」
「おっ、よう綾乃」
一瞬驚きの表情を作ったけど、すぐにいつもみたいな顔に戻った。うん。いつも通りの柔和な笑みだ。
「ここにいる……ってことは、綾乃も今日書類を出したの?」
「おう。『善は急げ』って、よく言うだろ?」
「あはは。綾乃が『善』って言葉使うんだ」
「何がおかしいんだよ」
「だって、つい一年前くらいまでは普通に喧嘩していたんだよ。そんな綾乃が『善』なんて言葉を使うって……なんかおかしくて」
「うっせえ。アタシが変わったの、お前も見ていただろうが」
「まあね。ごめん、悪かった」
「ん。許すよ」
別に、この程度のからかいはいつものことだった。だから別に怒る気もしなかったし、あっちも遠慮しなかった。
しばらくの間続く無言。これも普通、よくあること。別に気まずくなるとか、そんなのもない。
ただし、今までは。
アタシの心臓はもの凄く速く動いていた。原因ならはっきりしている。心臓麻痺ってやつに間違いない。女子なら、好きな男が隣にいたときにドキドキしないわけがないさ。今なら『心拍数世界大会』で優勝できる自信がある。
この半年近くを世話になったし、募るばかりだった思いが「なあ、達也」って言葉になって、自然と口から出てきていた。
「ん?」
「お前、明日の夜は暇か?」
「んー、ちょっと予定があるなー」
「じゃあ、明後日の夜は?」
「うん、そこだったら開いているよ」
「じゃあ、八時に日ノ出公園に来てくれないか?」
「うん。いいよ。でも、なんで夜なんだい?」
「別にいいじゃんか、夜でも」
「分かったよ。じゃあ明後日の八時に、日ノ出公園に行くね。場所は展望台でいいよね?」
「うん。そこでお願い」
「おっけー」
やった!
約束を取り付けた。顔には出さなかったけれど嬉しすぎて、内心ずっと叫んでいた。
「綾乃、なんか嬉しいことでもあった?」
「あ? いや、そんなことはないぞ」
「にやけてるから、なんかあったのかなって思ったけど……」
前言撤回。
顔に思いっきり出ていたらしい。
◆ ◆ ◆
眠れない夜を過ごして二日経って、気が付けば陽が沈んでいた。外もそれなりに冷えてきていて、けど空にはいつも通り、幾億もの星が輝いていた。星都の由来は、どれだけ発展して光が地上を埋め尽くしても、ずっと変わらず星を眺めることが出来るかららしい。あくまで諸説の一つだけど。でも実際星都、特に星山区には二つくらい天文観測所があるらしい。まあ今のアタシには関係ない話か。
自分の脚よりも少し長い黒のジーンズに黒のインナー、そして最後に蒼いジーンズジャケットへと袖を通す。ポーチにMDプレイヤーを入れれば、アタシなりの勝負衣装が完成。これを着ていて今まで負けたことはなかった。……喧嘩だけだけど。
行き先をどうにかはぐらかして、アタシは家を出た。まだ冷えてる三月の風が体を撫でるけど、『寒い』とは感じなかった。それよりもこれからの勝負のことで頭がいっぱいだし、その先のことを考えていたら冬の寒さなんて忘れていた。ほら、心頭滅却すれば火もまた涼しってやつだよ。全く反対の状況だけど。
日ノ出公園へと続く道はそんなに遠くない。歩いて十五分そこらで行ける。けどなんだか遠くて、でも近い気もした。人の感覚って不思議だなぁ、と思いつつも歩を進める。時々小走りになって、時たま軽いステップ。アタシを少しでも知っている人が今の動きを見たら、多分二度見するかも。それくらいアタシには似合わないことをしていたって自覚できた。けど、こんなにワクワクすることに、人の目なんて気にしていられるかい?
気が付けば公園の展望台へと続く階段の前まで来ていた。「よっ、ほっ」と階段を一段とばしながら登ってゆく。うーん、アタシに似つかわしくない行動。でも多分一般的女子の行動のはず。
展望台には幸い誰もいなかった。普段ならこの時間帯、若いカップルがベンチに座っていちゃついていることが多い。けど、今日は誰も来る気にならなかったらしい。
「ふぅ」
奥側にあるベンチに腰掛けて、アタシははるか彼方に見える雷山市とそこに繋がる街々を見下ろした。空に瞬いているのが自然の星なら、今アタシが見ているのは人が作り上げた星々。人々が息づく黄色に街灯の赤、信号が放つ青、そして大きな都市に向かう道はまるで天の川のようだ。いろんな光が混ざって輝いて、それこそ自然の光に勝るとも劣らずに綺麗だ。
MDプレイヤーを取り出して、ちょっとだけ後悔した。三枚のMDは持ってきたけど、どれも全部伯父さんのオリジナルミックス。『ジギー・スターダスト』を持ってくるんだった。こんなに星が瞬いているんだから。
気を取り直して、MDプレイヤーに『マキシマムミックスα』を入れた。シカゴの『Baby What A Big Surprise』から始まってロバータ・フラックの『The First Time Ever I Saw Your Face』で終わるこのミックスのコンセプトは『少女の恋物語』。収録されている曲から考えて、ハッピーエンド。うん。今のアタシに合っているミックスだ。
イヤホンを掛けて、再生ボタンを――――
「うっす綾乃」
「わっ!」
押せなかった。それどころかMDプレイヤーを落としそうになって少し焦る。
「だ、大丈夫?」
「だ、大丈夫」
安心したのか、達也はアタシの隣に腰を下ろした。星々の光に照らされた達也の顔はいつものように柔和な笑みを浮かべていた。ちょっと幼めの顔で、でも凛としたかっこよさがある。アタシの好きな人はそこにいた。ずっと見ていたかったけど、こっちを向いたとき、思わず視線をそらした。
「何? どうしたの?」
「う、うっせ!」
もちろん、素直にもの言えないアタシもここにいた。
しばらく、お互い黙り込んだ。いつものことだけど、これは気まずかった。少なくともアタシにとっては。
「――綾乃」
「お、おう」
「あのさ、今日はどうして僕を呼んだのかな?」
「うっ。えっと、その……」
いきなり本題。これは困った。こんな場面だし、ごまかしとか一切きかない。と、いうか言えない。そんなことはアタシの本心が許さなかった。
「……達也」
「うん」
「アタシがさ、不器用な奴ってのは知ってるよな」
「うん、そうだね」
「今いろんな言葉を探しているけど、よく分かんないんだ」
「……どういうこと?」
「……あのな」
そこで一旦止めた。このまま続けたら、なんかいけない気がしたからだ。心を落ち着かせて、深呼吸をして――
「達也」
「はい」
「好きだ。付き合ってくれ」
これだけしか言えなかった。でもアタシにとって、これが精いっぱいだった。
達也は心の底から驚いた表情を作って、そしてなんて言おうか迷っているのか、アタシの辞書に載っている言葉では表現できないくらい難しい顔をした。
心臓の鼓動と風の声、それに遠くから時たま聞こえる車の音だけが、しばらくお互いの間を行き来していた。
「……綾乃」
「おう」
「綾乃の気持ちは、凄く嬉しい」
嫌なくらい達也の声は真っすぐだった。分かってる。こいつがこういう時は大抵すごく動揺してるって。
でも、何に迷っている?
「……おう」
「でもゴメン。それに答えることはできない」
「……」
「その……僕、今、付き合っている人がいるんだ。だから綾乃の気持ちは嬉しいけど、その人のためにも受け入れることはできない」
「……分かった」
「……その、ごめんね」
「いいよ、気にするなよ」
「……本当に、ゴメン」
それだけを残して、達也は去っていった。
それから、どれくらい経ったんだろう。
アタシはずっと音楽を聴き続けていた。
どのミックスMDをいれたっけ。
何の感慨もなく。
何の感動もなく。
目に飛び込んでくるのは無情に輝き続ける星々だけ。
聴こえるのはイヤホンから流れる音だけ。
『アタシはフラれた』
別に、達也が恨めしいとかそんなのはなかった。
ただ、起こった事実を受け入れられない自分が可笑しかった。
今まで自分がやってきたことは肯定否定するなり、受け入れてきたつもりだ。
でも、今のアタシには、それすらもできない。
《――Why does the sun go on shining?》
ふと耳に飛び込んできた、何度も何度も聞いたフレーズ。
美しくて、切なげで、そして大嫌いな歌。
皮肉だ。
けど、そんなものが今のアタシに一番似合っている。
ふと、アタシの手のひらに一滴の雨粒が落ちてきた。冷たくて、身に凍みる。
最初はぽつぽつと。
次第に土砂降りになっていた。
でも、アタシは動かなかった。
動けなかった。
動きたくなかった。
ここで動いてしまったら、ようやく止めることができた嫌な歯車が回りだしそうで。
「……はは」
気が付けば、アタシは笑っていた。
理由は知らない。
けど、雨に紛れて涙を流していた。
涙の温かい感触は、確かにアタシの頬を流れ落ちて、そして雨に紛れた。
……もう帰ろうよ。
終わったことだ。
頼りない足でどうにか立ち上がった。
寒さからか、それとも別の理由か。足取りはひどく震えていて、でもどうにか入り口を目指していた。
階段が見えた。ここを下りたら、家へと続く道に繋がっている。
でも、すぐには帰りたくなくなかった
もう一度、展望台から街を見た。
やっぱり星々のように輝いていて、そしてアタシに語り掛けることはない。
そんな星々にアタシは声を上げようとして――
「……なんだ、これ?」
たった今目の前で起こっている現象に目を見開いた。
映画のスローシーンでも見ているように、雨粒が見える形でゆっくりと落ちていた。いや、正確には静止している?
それに地面も妙に輝いて見えた。そう、そこに星が――違う、プラズマが、雷が地面からまるで何本もの糸のように宙に向かって伸びていた。アタシを取り囲むようにゆらゆらと揺れている。
ふと空を見上げた。
家を出たときには星々を着飾っていた空は、まるで世界の終わりが来たように薄暗く輝く青い雲で覆われていた。ちょうど真上の雲はまるで太陽のように、でも青白く輝いている。
アタシは気づいた。
逃げなきゃいけない。
でも思ったときには遅かった。
目で見るよりも
耳で聞くよりも
多分人間が知覚出来る以上のスピードで、アタシは雷に撃たれた。
直後、全身の神経が焼き切れるような痛みが襲い掛かってきた。
悲鳴を上げたかった。
でも喉から出たのは、空気が擦れるような音だけだった。
アタシが今どうなっているのか、アタシには分からない。
起こった事実を受け入れる余裕なんてなかった。
焼き焦げた素肌に、三月の冷雨が打ちつける。
一秒ごとに痛みは鋭くなってきて。
アタシの意識ははっきりしていて、段々鈍くなっていくのが分かった。
視界がぼやける。
もしかしたら、本当に世界に終わりがきて、アタシは皆よりも先に一足先に地獄に行くのかも。
少なくとも天国とか、約束の地とかにはいけないだろうって確信はあった。
でも、雷に撃たれて死ぬなんて、人生の幕切れには少し派手すぎだと思う。
本文《》の英語部分はスキーター・デイヴィス『世界の果てまで』より引用。