2 夜の来客
ふだん来客などほとんどない丈のアパートだが、その日は、夜になってドアが乱暴にノックされた。チャイムがついているにもかかわらず、ゴンゴンと嫌がらせのように響くノックの音に、丈は眉を寄せる。宅配便で荷物が届く心当たりはないし、もしそうなら普通にチャイムを押しそうなものだ。借金はしていないから借金取りも来ないはず。もしや某国営放送の集金だろうか。うちにテレビはないぞ、と丈はニュース番組を見ながら白々しく呟いた。
あまりにしつこいので、丈は渋々玄関に向かう。ドアスコープをのぞいてみると、見知った顔があって、慌ててドアを開けた。
「遅いぞ。早く開けんか」
「早く開けてほしいなら、チャイムを鳴らして静かに待っててくれ」
立っていたのは、桐島家三番目の姉、三恵だった。現在大学三年生の三恵は、学業よりも怪しげなサークル活動に精を出している。そのせいで、去年はいくつか単位を落とし、現在二年生に交じって再履修の憂き目を見ているらしい。
三恵はずかずかと弟の部屋に上り込み、勝手に冷蔵庫を開けて麦茶をグラスに注いだ。
「どうしたんだ、急に。三恵姉が来るなんて珍しい」
「実家が退屈でな。はじめ姉様は飲み会からの麻雀で今夜は帰ってこない。双美姉様は大学時代の友人の家に泊まりに行った。四葉は受験勉強で部屋に引きこもっておる。遊びたい盛りの大学生に、静かな部屋は面白くないのだ」
「遊びたい盛りって……そんな悠長なこと言ってていいのかよ、再履修勢」
「安心せい。勉強道具も持ってきておる。お前も手伝ってよいぞ」
「なんで俺が大学の勉強の手伝いをしなきゃならないんだ」
「将来役に立つだろうよ。それに、大学の勉強といっても、お前に任せるつもりの英語の課題は、高校生でも十分できる。では頼んだ」
「三恵姉」
「では頼んだ」
二度繰り返されてしまえば、丈は断りきれない。末っ子とはこういうものなのだ。
三恵から押し付けられた課題は、与えられた議題に対して賛成か反対、いずれかの立場のエッセーを書くこと。「難しい単語や文法は使わず、高校生レベルでいいから学術的な作文をすること」というのが三恵のアドバイスであった。
仕方なしに電子辞書を傍らに、適当な意見をでっち上げて英文をちまちまと書いていく。ふと、顔を上げると、三恵は丈の布団を勝手に敷いて寝そべりながら本を読んでいた。これはさすがに納得がいかない。
「何やってんだ」
「見て解らんか? 読書だ」
「弟に課題押しつけて何読んでんだよ」
「『青い花』」
「なんだそりゃ」
「お前は知らなくていい」
いつもはだいたい饒舌な三恵だが、文学専攻なだけあって読書が好きだ。本を読んでいるときは、声をかけても、あからさまに不機嫌そうな声で言葉少なに返すだけになる。今もまさに、「話しかけんな」と言わんばかりに、右から左へページを繰る。
丈は黙ってカリカリとペンを動かし、三恵もまた黙ってぺらぺらとページをめくる。「静かな部屋は面白くない」という理由でやってきた三恵だが、結局ここも静かな部屋である。
やがて、三恵は腹が減ったらしく、本を閉じてテーブルの上に置き、またしても勝手に冷蔵庫を開けた。
「では、課題を頑張っている弟のために晩餐の用意でも……」
「いや、それだけはやめてくれ」
三恵は凝り性だ。彼女が作る料理は時間も金もかかりすぎる。つつましい一人暮らしをしている丈の冷蔵庫の中身を使って三恵が本領発揮をしたら、明日から丈の部屋の冷蔵庫は空っぽになってしまう。
丁度、三恵から押し付けられた課題はひと段落ついたところだったので、丈は三恵をキッチンスペースから追い出した。不服そうな三恵だったが、大人しく引き下がって、部屋のテレビを勝手につけてザッピングを始めた。
丈がありあわせの材料で適当にチャーハンでも作ろうとフライパンを引っ張り出していると、三恵が不意に振り返って、「そういえば」と言った。
「お前、そろそろ文化祭じゃなかったか?」
「ああ、覚えてたのか。来週の金曜、土曜の二日間。一般公開は二日目だけ」
「来週か。その日は予定が空いている。行ってやろう」
「別に、わざわざ来なくたって。別に俺が特別何かするわけじゃないし」
「出し物なんぞに興味はない。私の興味があるのは、お前が阿澄嬢といかように文化祭を楽しむか、その一点に尽きる」
「はぁ?」
「何を頓狂な声をあげておる。どうせ、阿澄嬢と約束をしたのであろう?」
確かに、今日の帰り道に、白雪が乱入したせいで出ばなをくじかれたようではあったものの、別れ際に阿澄は丈の金曜日の予定をおさえて行った。部活は忙しくないのかと心配したのだが、製菓部がオリエンテーリングを開催するのは土曜日だけらしく、金曜日は暇らしい。
「暇人同士、一緒に文化祭回ろうか」
というのが阿澄の提案であった。断る理由はないので、丈は了承した。
それについては異論はないのだが、話してもいないことを三恵に見透かされているのは、なんとなく面白くない。
「まあ、お前たちは昔から仲の良い幼馴染だったからな。私ももう一人妹ができたようで、見ていて微笑ましかった。来週も、楽しませてもらうぞ」
「俺も阿澄も、見世物じゃないんだがな」
「そう言うな。楽しみ楽しみ」
「……困った姉だ」
そう言いながらも、丈はさして困っていないような顔をしていた。




