説明
俺はナースコールで来た看護師に、医者に会いたい旨を伝えた所、診察室まで連れて来られた。パニック気味なのを見てとったのだろう。迅速な対応で助かる。
挨拶もそこそこに、俺は本題を切り出した。
「俺は記憶喪失なのか?」
医者はほう、と感心するように俺を見た。
「早いね、早い。こんなに早く認識出来るなんて」
医者は朗らかに笑うと、俺に紅茶を勧めた。紙コップを受け取り、そこに注がれた赤茶色の液体をすする。
「原因はもう自覚しているのかな?」
口の中に湯気と共に広がる甘い香りを楽しみながら、俺は答えた。
「これだろ?」
俺は頭に巻かれた包帯を指差す。
「不正解」
だが、俺の予想に反して医者は首を振った。
「高月君はもっと前に俺と会っているでしょう? その時一応、説明したんだけどな」
医者は難しそうな顔をしてはペンを額に当て、言葉を探しているようだ。
説明した? どういう事だ?
はっ、まさか俺はこいつのせいで……。
「俺が記憶喪失になったのはアンタの差し金かっ!」
「退行と投影の傾向あり、……しかも退行はだいぶ痛い方向に進行中っと」
「……いや、サラッと流すなよ」
医者は紙にペンを走らせながら、
「高月君は防衛機制という言葉を知っているかい?」
そう真剣な眼差しで聞いてきた。こざっぱりとした青年といった風貌に、動物が身構えるような線の強張りが加わる。
「簡単に言えば、脳が適応しがたい不満を感じた時に、それを発散するために起こる心理的な変化や行動の事なんだけど」
全然簡単じゃなかったが、なんとなく授業でそんな事を習った気がするので、俺は頷いた。
要はストレス発散するために、ものに八つ当たりしたりとか、代わりのもので満足したりとか、ストレスを避けるため言い訳したりする事だ。そういう行動を、心理学的に分けたのが確か防衛機制だったっけか。
「高月君はそれが今強烈に現れているんだ。脳がこれ以上の負担を減らすために」
医者は舌で唇を湿して、続けた。
「高月君は雷に打たれて、脳にダメージを負った。小さな頃の記憶がなくなる程の」
え、と俺は声と吐息の中間ぐらいの、驚愕がそのまま出させた音を漏らした。
「幸い体に酷い損傷がなく、また君のご両親が強く希望された事もあって退院できたけど、君は二つの制限を負う事になった」
「①中学以前の記憶の喪失。しかしこれは絶対戻らないという訳じゃない。それが明日か一年後か死ぬ直前かは分からないが、何かがトリガーになって一部あるいは全ての記憶が戻る可能性は充分ある」
「②過大なストレスを負った場合の一時的な記憶障害。高月君の脳は過大なストレスを処理する機能を一時的に失った。だから当面は、一定以上のストレスを受けると、脳がパニックを起こした後、その記憶自体を封印する可能性がある」
「それ以下のストレスにも過敏になっていて、高月君は無意識に防衛機制で処理をしている。子供のように振る舞う『退行』、自分に都合よく言い訳してしまう『投影』、それらでも抑えられないと何かを壊したりする『攻撃』なんかも現れる兆候があるね」
医者の言葉がすぐには飲み込めず、飲み込んでも信じ切れず、俺は医者に尋ねた。震える声で。
「じゃあどうしてアンタ、俺が退院するまでに教えてくれなかったんだよっ!?」
「教えたさ」
そんな馬鹿な、そんな事があったなんて、俺は『記憶にない』……っ!?
「まさか」
「そう、高月君はその事実に耐え切れなくて忘れてしまった。パニックになってね。今日の説明も、下手をすると覚えてはいられないかもしれない」
俺は頭を抱えたくなった。それでも落ち着いてこの話を聞き終えた俺は、最後に挨拶代わりと聞いてみた。
「この説明、今日で何度目だ?」
「前回と違って冷静だね…………三度目だよ。前入院してた時と今日と、」
俺はこの時、予想通り過ぎる言葉に耳を疑いたくなるという、稀有な体験をした。
「昨日だ」